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努力する彼女と努力をやめた僕  作者: 成浅 シナ
1年生編
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35/87

㉛古傷

ドアの取っ手を持ったまま僕は硬直していた。




放課後に直樹と話をし、軽くなった気持ちで調子に乗って自習室で課題を一気に片付けた。


いつもならただただウザったいレインコートの蒸し暑さも、防ぎきれずに中に入り込んでくる雨粒もさほど気にしないくらいふわついた気分で自転車を駐輪スペースに停め、いつも通りエントランスからエレベーターはあえて避けて階段で4階に上がる。1番突き当たりが我が家だ。


時間と共に激しさを増す雨をすり抜け冷たい風が肌に刺さる。


両手で腕をさすりリュックサックの外側のポケットから鍵を取りだし差し込んだ。



ん?



カチャッと鍵の内側が回る音がしない。


今更のように左手に付けた時計を確認すると6時を少し回ったところだった。

いつもならこの1時間前には帰宅し誰もいないうちに自室に引きこもっている時間。


ツゥーと水滴が額から顎に流れる。それが雨なのか冷汗なのかは分からなかった。


急激にバクバクと暴れだした心音を感じながらドアを引き―――今に至る。




目の前には同じく顔を上げたまま硬直している母親がいた。


ヒールに足を突っ込みそのストラップを摘んでいる所から察するにこれから外に出るのかちょうど帰ってきたかのどちらかだろう。



体から急速に温度が抜けていくような感覚を感じながらも顔が引き攣りそうになるのを奥歯をグッと噛んで抑えなるべく平然を装う。

普段必要以上に言葉を交わすことはないがこの場で何も言わない訳にはいかないだろう。


「...ただいま」



「おかえりなさい」



母は淡々とそう言いパチンと足首でストラップを留め立ち上がった。


「今日夜勤だから戸締りよろしく。莉愛は塾で帰りは10時。ご飯は作っておいたから」


「うん。ありがと」


用件だけを端的に言って母は視線を合わせないまま傘を手に外に出る。


「いってきます」


「うん」


エレベーターの奥に消える母の背を見送りようやく一息ついた。





中に入り奥のリビングへの扉を開け、キッチンに向かう。冷蔵庫にはラップのかかったサラダとシチューが2つ並んでいた。


既に洗い終わった母の食器と鍋が水切り籠に置かれている。



部屋に戻って着替えて時間を潰し、7時過ぎにシチューをレンジでチンして深皿に盛った米にぶっかけて食べた。


久しぶりに食べた母の料理は泣きたくなる程美味かった。





夕飯を食べた後、普段ならそのまま風呂に入って自室に籠る所だが、何となく家にいたくなかった。


モヤモヤした気持ちを跳ね飛ばすようにふと久しぶりに込み上げてくる衝動に任せ、ほぼ半年ぶりに自室のタンスの1番下を開けて余計なことを考える前にサッと1番上にあった半袖と短パンを取り出して着替えた。

雨よけのウインドブレーカーを羽織ると同じようにしまい込んだ懐かしいランニングシューズを箱から出す。


外に出て小雨になっていることを確認しながらエントランスを抜け学校とは反対方向に歩いて行く。1分ほど歩けば川沿いの土手に着いた。


ホコリ被った防水加工のスポーツウォッチの電源を入れ問題なく作動することを確認してから端の方で準備運動とストレッチをした。


パキパキと凝り固まった関節から音が鳴った。


目を閉じて深呼吸を数回する。




思ったより鼓動は安定している。




時間の流れってすごいなと他人事のように思った。





走るのを辞めてからずっと怖かった。


『あの大会』後、今までの習慣で早朝に今日のようにトレーニングウェアを着てここに来た時、足を前に踏み出せないことに気づいた。


部活で使っていた道具を見るのも嫌になって目につかないところにしまい込んだ。



それが1年近く前。



フードをピッと引っ張って1歩踏み出す。


ゆっくり、ゆっくりと足を出す。



最後に走ったときは今日とは正反対の満点の星空だった。キラキラした星を眺めながら澄んだ気持ちで走っていたのを思い出す。



今日のマラソンの授業より少し早いくらいのペースだが日頃自転車と体育の授業のときしか体を動かさないためだいぶ早い段階で息が上がる。



呼吸が苦しくなって何も考えられなくなってくる。


走り続けたときのこの疲労感が好きだった。毎日早朝と夜更けに1人走るこの時間が好きだった。自分1人の力でどこまでも行けると思えるような高揚感が好きだった。





そう。好きだった。





余計な事を考えそうになり無理やりさらにスピードを上げた。


この傷もいずれは思い出へと変わっていく。逃げたままでいたこの1年がそれを証明してくれた。




明日から、夜のランニングだけ再開するのも悪くない。


やっぱり、どうやっても好きみたいだ、走るの。


風でフードが外れ、目の端に当たった雨はそのまま頬を伝って流れた。

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