㉔妹
長い夢を見ていた。
中学3年の最後の大会。その1つ前の大会で人生で1番の成果を挙げた僕に親が、親戚が、チームメイトが、友達が、みんなが期待していた。
みんなの期待、天気は快晴、体調もコンディションも万全、全てが最高。
―――だったのに、結局、入賞どころか今までの大会の中でも最低の結果を出した。
心のどこかに溜まったモヤモヤが決壊したのかもしれない。
今まではスタートラインに立てば他のものには目に入らないくらい集中出来た。
応援の声もしっかり耳に届き、ライバルに勝つというよりとにかく自分のベストを尽くそうと思い走っていた。
走りながら視界の端にライバルが映り込んでも焦らず、フォームを崩さず冷静に対処出来た。
でも、その日はいつもと違った。
試合会場に着いてから続々と刺さる視線、聞こえてくる僕の名前、「絶対お前なら出来る」と肩を叩くコーチやチームメイトの声、観客席の最前列の母の顔―――
失敗は許されない場面、今までの努力や苦労は全てこの時のためだ。平日も休日も、人の何倍もトラックを走って、走って、走って。
全て、全て、この瞬間のためだったのに―――
スタートラインに立った時、いつもとは違う感覚に心臓がバクバクと破裂しそうなくらい高鳴った。走る前なのに呼吸が乱れ汗が頬を伝った。頭がグラグラして視界が真っ白に染まる。
バンッ。
無気質なスターターの合図。
聞き慣れた音なのにビクッと体が震え、感覚だけで走り出した。
いつもと景色がちがう―――
ライバル達の背を追いかけながら、前に前にと足を動かした。
足がもつれそうになる。手の振り方が乱れる。視界も段々狭まってライバルの姿が消え自分の走るラインだけしか見えなくなる。
僕はなんのために走り続けて来たのだろう。
大事な場面の最中に余計な考えが頭を掠めた。
ゴールラインを抜けて顔を上げる。
そして僕の活躍を期待してくれていた『みんな』の方を向き―――
※
ピピピピピピピピッッッ―――
目を開ける。
首を横に傾けるとカーテンの隙間から差し込んでくる陽の光が目に入ってギュッと再び目を閉じた。
こんな気持ち悪い目の覚め方をしたのは久しぶりだった。
たまに見るこの夢はいつも同じ所から始まって、同じ所で終わる。
そして、起きてからその夢の続きを思い出す。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。
胸に手を当て心の中で何度も自分に言い聞かせる。嫌な気分になったとき、泣きそうになったとき、心が折れそうになったとき―――そんなときにはいつもこうしていた。
『大丈夫』と小さい時、頭を撫でてくれた大きな手を思い出すから。
嫌な思い出を頭から振り払いベッドから降りる。
タンスを開け1番上の服を適当に取り出してからもうあと少しで12月だというのに汗でビッショリと濡れたスウェットと肌着を脱ぐ。
ヒヤリとした空気が肌を撫でクシュンとくしゃみをした。
服を着て階段を降りリビングに入る。
ダイニングテーブルの上には『いつも通り』1000円札が2枚置かれていた。
母が置いて行った食費だ。
今日も朝早くに出勤して行ったらしい。妹も恐らくは塾だろう。キッチンのシンク横には昨晩はなかった2人分の食器が仲良く並んでいた。
母とはずっと折り合いが悪い。顔を合わせば会話はするもののそれも週に数分程度、必要に駆られてだ。
『どうしてあんたはいつも、いつも――ッ!!』
ズグンッと心臓が鳴り、溢れそうになる嫌な気持ちを唇を噛んで押し込めた。強く噛みすぎたのか血の味がした。
バッと急ぐ必要も無いのに小走りで洗面所に向かいバシャバシャと顔に冷たい水をかける。水の冷たさで顔や手がジンジンと痛んだ。「ふー」と息を吐き出しようやく心臓が穏やかに一定のリズムを刻み始めた。
「よし」
意味もなく1人そう呟きキッチンに戻った。
BGM代わりのテレビを付け適当なチャンネルに合わせた。時刻は午前9時45分。
朝ご飯には少し遅いが少しだけ食べておこうと茶碗片手に炊飯器を開けた。
※
適当に朝ご飯を食べ、ソファでうつらうつらとしているとガチャッと玄関の扉が開く音が聞こえた。
しまった。
もう2人は出て行ったのだからと油断していた。
普段ならここに留まることはしないのに。
自室に戻ろうと思っても上へと続く階段は玄関の目の前、顔を全く合わさずにいることはどうやっても出来ない。
緊張で体が強ばった。
そうこうしている間にリビングの扉も開けられる。
土曜日だというのに学校指定の黒のセーラー服を着たそいつはソファにいる僕の姿を見つけ
「いたんだ」
と表情を変えないまま淡々と言った。
近所では評判の良い整った顔、誰もを虜にする笑顔もここしばらくは僕の前では見せない。
キュッと唇を引き結んだまま妹、押川莉愛は鞄をソファの端に投げた。
だいぶ荷物が詰まっていたようでバタっと鞄が倒れ、中から教科書や筆箱が零れ落ちる。
「そのままでいいから」
僕が拾う前に素っ気なく莉愛はそう言い、キッチンで手を洗い、シンクからグラスを取る。冷蔵庫から麦茶ボトルを取り出してコポコポ注いだ。
ゴクッと1口飲み莉愛は息を吐き出した。
気まずい空気が流れる。
僕は外に出る事も出来ずテレビを見るフリをしてやり過ごしていた。
先程のニュース番組はとっくに終わって朝の再放送らしい朝ドラが流れていた。
「お兄ちゃん」
一瞬反応出来なかった。
そう呼ばれるのが随分久しぶりすぎて。
首だけ横に傾けてキッチンで台に置いたグラスを握ったまま立つ莉愛を見る。
ジッと莉愛は僕を捉えていてその瞳に吸い込まれそうな感覚になる。
「あたし、青高、行くから」
唐突にそう宣言した。
青高―――青島高校はこの県どころかこの地方で最高峰の進学校だ。僕が、中学の時に母に勧められ続けていた高校でもある。
母の期待を、願いを叶えられなかった僕の代わりに母は莉愛に賭けた。それまでも様々な方面で出来の良い莉愛なら、と。莉愛が塾を変えたのもそれからだ。
『行きたい』でも、『志望する』でもなく『行く』。
そして莉愛は宣言した以上『必ず実現する』。
大事な場面で何も残せなかった僕とは違って。
僕が叶えるはずだった母の願いを、重みを、僕が出来なかったために莉愛が請け負っている。
何も言えずにいると莉愛はダンっと勢いよく飲み干したグラスを置き蛇口を捻って水を出し、洗い始める。
作業をしながら莉愛が口を開いた。
「お昼食べてまた出る。食べるなら一緒に作るけど」
時計を見ると11時30分過ぎだ。早めに食べておかないと珍しく今日は予定がある。
「食べる。手伝うことあるか?」
「別に。1人でやった方が早い」
さいですか。
ムスッとした顔のまま冷蔵庫から食材を取り出す妹を横目に僕は落ち着かない気分のままテレビのチャンネルをカチャカチャ変えた。




