8章 不可視の接触点
8章 不可視の接触点
9時を少し回った頃。
くるみは、言われた通りに歩いていた。
東口を一往復した。
それだけ。
何も起きない。
それが、いちばん落ち着かなかった。
ポケットの中で、くるみのスマホが震えた。
画面には、差出人のない短いメッセージが表示されていた。
『おつかれさま、終わりです。報酬を送ります』
それだけだった。
顔を上げて、辺りを見渡す。
くるみは、前を見たまま立っている。
——見てる! どこからだ。
数秒遅れて、もう一度震える。
今度は、画像が送られてきた。
開く。
上からの視点。
人の流れ。
街灯。
横断歩道。
そして、……くるみ。
その少し後ろに、俺。
はっきりと映っている。
視線を上げると、その先に駅の定点カメラがある。
その向こう側から見ているあいつと、視線が合った気がした。
次のメッセージが来る。
『……そのスマホ、なんで君が持ってる?』
喉が、詰まる。
——見ている。
指先が、わずかに震える。
URLが記載されている。
押すと、返信画面が開く。
何を書くかは、決まっていない。
それでも……打つ。
『話せるか』
間を置かず、返ってくる。
『東口、改札横の売店』
『3分後』
『電話をかける』
視線を上げる。
「……終わり?」
くるみが、こちらを振り返る。
何も知らない顔だった。
「ああ……」
言いながら、視線を逸らす。
「先に戻っていてくれ」
くるみが、少しだけ眉をひそめる。
「……何かあった?」
「大丈夫だ」
それ以上は言わせないように、すぐに言葉を被せた。
くるみは、少し迷ってから頷いた。
「気をつけて」
そう言って、背中を向けて歩いていく。
その姿を、見送る。
——これで、いい。
今、見られているのは俺だ。
くるみは遠ざけた。
彼女のスマホをポケットに押し込んだ。
改札横の売店に向かう。 古びたピンク電話が見えた。
前に立った数秒後、電話のベルが鳴る。
受話器を取るが、何も聞こえない。
数秒の深すぎる無音。
その後に引きずるようなノイズ。
それから、声がした。
『……やあ』
小さい。
けれど、やけに近い。
『君か』
誰かを確認するような言い方だった。
「……ああ」
喉が乾き、声が出にくい。
少しの沈黙。
それから、淡々とした声で、言った。
『この後、僕は逮捕される』
間を置かず、感情のない声で続けた。
『殺人犯になるんだ』
事実を並べるだけの声。
「……それで」
言葉を探す。
だが、先に続けられる。
『君は、助けてくれるかい?』
その問いに、体温は宿っていなかった。
確認でも、命令でもない。
ただ、あの日の屋上と同じ距離で、こちらに委ねてくる。
答えは、用意されていない。
それでも……逃げ場は、なかった。
受話器の向こうで、小さく、息をする音が聞こえた。




