第08話
魔法の練習をした日から、何日か経った。
腕のだるさも、頭の奥が重いような感じも、もう残っていない。もう1度あの光を出してみたい気持ちはまだ強かったが、今日の予定は魔法ではなかった。
朝から、いつもより少しだけ人の出入りが多い。
着替えを手伝っていた年配の近侍が、最後に襟元を確かめてから1歩下がった。その後ろに、見慣れない少年が立っている。
俺よりずっと背は高いが、大人ではない。濃い栗色の髪を短く整え、服にも乱れがない。細身の体をまっすぐにして、こちらを見すぎないようにしているらしい視線だけが、少し固かった。
「殿下。本日より、王子付きの従者見習いとしてお側に上がります。ルーカス・ヘルマンです」
年配の近侍が言うと、少年はすぐに深く頭を下げた。
「ルーカス・ヘルマンと申します。殿下のお役に立てますよう、務めてまいります」
声まできちんとしていた。
15歳くらいに見える。俺から見れば十分に大きいが、身体や顔つきにはまだ少年らしさが残っていた。
「今日から、ずっといっしょ?」
俺が聞くと、ルーカスは年配の近侍へ目を向けてから顔を上げた。
「はい。授業へのお供や、教材のお取り扱い、殿下のご予定の確認などを、先任の方々に教わりながら務めます」
「外に行くときも?」
「必要な折には、その支度も学びます」
なるほど。俺個人について動く仕事を覚えるための見習いらしい。
王子付きの従者という言葉だけなら、前から何となく想像はできた。だが、実際に自分より10歳ほど上の少年が、今日から俺の予定や持ち物を覚えると言われると、少し妙な感じがする。
前世なら15歳は生徒だった。
教室で出席番号を呼ばれる側の年齢だ。それがこちらでは、5歳児の俺に頭を下げている。
もちろん、こちらの世界で15歳がどういう立場なのかを、前世の感覚だけで決めるわけにはいかない。それでも、目の前の光景に慣れているかと言われれば、まったく慣れていなかった。
「よろしく、ルーカス」
「はい、殿下。よろしくお願いいたします」
今度はさっきより少し早く返事が来た。
年配の近侍が扉の方へ視線をやる。
「そろそろお時間です」
今日は、学問の先生との最初の本格的な授業だった。
俺は椅子から降りた。ルーカスがすぐ横へ来る。ただし近づきすぎず、年配の近侍より半歩ほど後ろに位置を取った。
その距離の取り方にも、覚えるべき決まりがあるのだろう。
廊下へ出ると、ルーカスは俺の歩幅に合わせて進んだ。年配の近侍が合わせて歩くと、ときどき妙にゆっくり見えるのに、ルーカスはそこまで不自然ではない。まだ大人ほど体が大きくないせいだろうか。
「ルーカスも、授業を聞くの?」
歩きながら聞く。
「お邪魔にならない場所で控えます。必要なものがあれば、すぐにお出しできるようにいたします」
「じゃあ、勉強するわけじゃないんだ」
「私の勉強にはなると思います」
俺には、その返事の方が分かりやすかった。
「ぼくも、今日から勉強」
「はい」
それだけ答えた声は、さっきより固くなかった。
王子教育に使うという部屋は、俺の居室からそう遠くなかった。
中へ入って最初に目についたのは、机ではなく地図だった。
机の上には、大きな文字を書いた薄い板が何枚か重ねてある。それでも先に目を奪われたのは、壁際の台にほとんど垂直に立てられた大きな地図だった。俺の背丈なら、近くへ行くと上の方まで首を反らさないと見えないほど大きい。
いくつもの色に塗り分けられた土地。その間を走る線。川らしい青い筋。山地を示しているのだろう、細かな記号が連なる場所。太さの違う道も何本か描かれている。
そして、文字。
読めない。
知っている形に似た字が混じっているようにも見えるが、正式に習っていない以上、地図の上ではただの記号の列だった。
文字を読めないというのは、こういうときに特に不便だ。
前世では地図があれば、まず地名を追った。国名、都市名、河川名。文字から情報を拾い、その後に色や線を見る。それが今は逆で、見えているのに名前が分からない。
「地図がお好きですか」
声をかけられて、そちらを見る。
細身で、父上よりかなり年上に見える男が立っていた。暗い褐色の短い髪には白いものが混じっている。目元と頬には皺があり、立ち姿は不思議なくらい崩れない。
ヨアヒム・ライヒェルト。
これから俺の学問を担当する先生だ。
「好き。だけど、字が読めない」
「それはこれから覚えていただきます。本日は、読めなくても分かるところから始めましょう」
ヨアヒムはそう言って、地図の前へ立った。
「改めまして、ヨアヒム・ライヒェルトと申します。これから、この国やほかの国のこと、昔のこと、言葉や文字、それから王さまが知っておくべき決まりごとをお教えします」
俺も姿勢を直した。
「よろしくお願いします、先生」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。殿下」
そのやり取りの間に、ルーカスは部屋の端へ移っていた。必要ならすぐ動ける位置で、静かに控えている。さっきまで俺の横を歩いていたのに、授業が始まると急に存在感を薄くした。
ヨアヒムは細い指示棒を地図へ向けた。
「まず、今いる場所から始めましょう。ここがヴァイスブルクです」
棒の先が、小さな印を示す。
王都ヴァイスブルク。
自分が暮らしている場所だ。
「そして、こちらを流れているのがレーデン川。さらにこちらがホーエンヴァルト山地です」
教えられた名前が、地図の上の場所と結びついていく。
レーデン川の線を目で追い、山地の記号を見る。ヴァイスブルクは、地図全体からすれば驚くほど小さな印だった。
当たり前だ。
城も町も、地図の上では点になる。
ヨアヒムはヴァイスブルクの周囲を、指示棒でゆっくり囲むように示した。
「ここが、ファルケンマルクの東の領地です。王都も、陛下がお仕事をされる王宮も、この東側にあります。東部本領と呼びます」
俺は色の境目を見る。
東部本領は1つのまとまりとして塗られていた。周囲には別の色が並び、境界線がいくつも走っている。
そのまま地図の西側へ目を動かした。
少し離れたところに、同じような色で示された場所がある。
間には別の色が何枚も挟まっていた。
「あれも同じ色」
俺が指さすと、ヨアヒムはすぐにそちらへ棒を移した。
「よくお気づきになりました。こちらも、アルテンフェルス家が治める土地です」
「でも、離れてる」
「はい」
棒が東部と西部の間を横切る。
「はい。東と西の土地はつながっていません。こちらは西部旧領といって、アルテンフェルス家が昔から治めてきた土地です」
俺は地図へ近づいた。
同じ色。
だが、間には他の領地がある。
飛び地という言葉が頭に浮かんだが、単純な飛び地と呼んでよいのかはまだ分からない。しかも地図の色分けは、今の俺には何を基準にしているのか分からない。
「ここから、あそこまで行くときは、ほかの人の土地を通るの?」
「そうです。西へ行くには、途中でほかの人が治める土地をいくつも通ります」
「その人たちも王さま?」
「王さまもいますが、王さまではない人もいます。帝国の中で、それぞれ自分の土地を治めている人たちです。そうした人たちを、まとめて帝国諸侯と呼びます」
ヨアヒムの棒が、西部旧領の周りをゆっくり動いた。
「そして、東と西にはもう1つ違いがあります。殿下が今いる東の土地は、ヘルヴァルト神聖帝国の外です。こちらの西の土地は、帝国の中です」
俺は東を見て、西を見る。
「同じ父上の土地なのに?」
「はい。同じ陛下の土地でも、東と西では従う決まりが同じではありません」
そこでヨアヒムは1度棒を下ろした。
「殿下は、陛下がファルケンマルク王であられることはご存じですね」
「うん。父上は王さま」
「東では、陛下はファルケンマルクの王として国を治めます。西では、帝国の中であの土地を治める立場も持っています。そういう立場の君主を、領邦君主と呼びます」
同じ父上に、別の地位がある。
「王さまと、領邦君主は、ちがうもの?」
「違います。東で王としてできることと、西の領邦君主としてできることは、まったく同じではありません」
「なにがちがうの?」
「たとえば、兵を集めることや税を集めること、どの決まりを使うか、ほかの領主と何を約束するかです。できることと、しなければならないことが、それぞれの地位にあります。少し難しい言葉では、それを権利と義務と呼びます」
なるほど。
同じ人間に肩書が2つあること自体は難しくない。厄介なのは、その肩書ごとに権利と義務の相手が変わることだ。
前世で役職を兼任する程度なら、責任の範囲が増えるという理解で済む場合も多かった。だが、こちらは地図の上で土地そのものが離れ、周囲に別の支配者がいて、そのうえ法的な所属まで違う。
東では王。
西では帝国内の領邦君主。
どちらも父上だが、父上が何を根拠に命じるのかまで同じではない。
俺はもう1度、西部旧領を見た。
「帝国の中で一番偉いのはだれ?」
「帝国でいちばん高い地位にいる方は皇帝になります。でも、帝国中のことを何でも1人で決めるわけではありません」
指示棒が西部の周囲にある色分けをいくつか順に示す。
「帝国の中には、いろいろな君主が治める土地や、自分たちで多くのことを決める都市があります。皇帝が決めることもあれば、それぞれの土地で決めることもあります」
「みんな、皇帝の言うことを聞くんじゃないの?」
「何でも、ではありません。皇帝の命令に従うこともありますが、自分の土地のことは自分で決められることも多いのです」
言葉は簡単だったが、中身は単純ではない。
単純な中央集権国家ではない。
前世の世界史で見慣れた、権利と身分と土地と慣行が重なった政治秩序に近いのだろう。ただし、似ているから同じだと思うのは危険だ。この世界の帝国法も、成立の歴史も、諸侯の権利も、俺は何も知らない。
知っているのは、複雑な仕組みが存在し得るということだけだ。
中身はこれから覚えるしかない。
「先生」
「はい、殿下」
「父上も、その諸侯なの?」
「西の土地を治める立場では、そうです。それから、その西の地位には特別な権利が1つあります」
ヨアヒムの棒が、西部旧領の中央あたりで止まった。
「新しい皇帝を選ぶとき、『この人がよい』と1票を入れられます。その権利を選帝権と呼びます」
俺は少し考えた。
「父上が、皇帝を選ぶの?」
「陛下だけで決めるのではありません。皇帝を選ぶ票を持つ人がほかにもいて、陛下はそのうちの1人です」
「王だから?」
「いいえ。王だからではありません。西の地位に、その1票が付いているからです」
それは重要な違いだった。
俺は地図の東と西を交互に見る。
父上が皇帝選挙に加わるのは、王だからではなく、西部の地位に付いた権利があるからだ。東西で肩書が違うだけでなく、その肩書に結びつく権利まで違う。
「じゃあ、父上が王じゃなくても、その西の地位を持ってたら、1票ある?」
ヨアヒムの眉が上がった。
「はい。西の地位を正しく受け継いでいれば、王でなくてもその1票を持ちます。王位とは別の権利です。ただし、誰がその地位を受け継げるかには決まりがあります」
「そっちは、あとで?」
「はい。家の継ぎ方や帝国の決まりを習うときにお話しします」
「わかった」
質問への答えははっきりしていた。その先に別の話があるなら、今はそこまででいい。
ヨアヒムは今度は、東西の間にある土地へ棒を動かした。
「先ほど殿下は、西部へ行くには他の方の土地を通るのか、とお尋ねになりました」
「うん」
「ここから西へ行く道は、何人もの帝国諸侯の土地を通ります」
「勝手に通っていいの?」
「誰でも好きに通ってよい、ということではありません。アルテンフェルス家には、昔から『この道を通ってよい』と認められている権利があります。古い約束や帝国の決まりで守られているものです」
「それがなくなったら、行けない?」
「道によっては、とても困ります。遠回りをしなければならなかったり、あらためて相手と話し合ったりすることになります」
ヨアヒムは、東と西の間を棒で示した。
「ですから、西の土地を持つなら、途中の領主との関係や、道を使うための約束も大切なのです」
俺は色の違う領地を目で追った。
地図の上では、東部から西部まで指1本でたどれる。
現実には、その指の下にいくつもの領主がいて、それぞれの法があり、街道があり、通行の権利がある。
軍を動かすときはどうなる。
税を西から東へ運ぶなら。
役人や使者の往来は。
裁判で争いが起きたら、どの法が優先される。
聞きたいことが一気に増えた。
口を開きかけて、やめる。
5歳の口から全部出したら、さすがに質問の形がおかしい。それに、本当に聞くべきことかどうかもまだ分からない。まずはこの世界の基本を知らなければ、前世の知識から作った問い自体がずれている可能性がある。
「どうなさいました」
ヨアヒムに聞かれた。
俺は少し考えてから、一番簡単なところだけ口にした。
「西の土地を治めるの、大変そう」
「ええ。離れた土地を治めるには、近くの土地だけを治めるのとは違う難しさがあります」
「父上が、ぜんぶ決めるの?」
「いいえ。西の土地にも、そこで仕事をする役人や家臣がいます。陛下がヴァイスブルクから1つずつ全部を決めるわけではありません」
ヨアヒムは西部を指した。
「ただ、誰に任せるのか、どんな約束や権利を守らせるのかは、陛下が考えなければならない大事な仕事です」
それはそうだ。
国王が税の一件一件に自分で帳簿をつけるわけではない。
前世の国家と同じではないにしても、大きな支配領域を1人の手だけで動かせない点は変わらないだろう。
むしろ、連絡手段が限られるこの世界で、離れた領地を抱える面倒は大きいはずだ。
地図を見ているだけなのに、急に西部が遠く感じた。
「殿下」
ヨアヒムの声で顔を上げる。
「今お話しした東と西は、どちらも今は陛下が治めています」
「うん」
「そして殿下がこうして勉強を始めるのは、いずれ陛下のお仕事を受け継ぐためでもあります」
声の調子は変わらない。
だが、俺は何となく次を予想した。
ヨアヒムは東部本領を示し、それから西部旧領へ棒を移した。
「王の仕事だけではありません。西の土地を治める立場も、その1票も、殿下が学んでいくものです」
分かっていたはずの話だった。
俺は王子だ。
父上が国王なら、その後を継ぐ可能性があることくらい、前から理解している。
それでも、今までの「王子」という言葉は、王宮の中で呼ばれる自分の身分に近かった。
食事を運ばれる。近侍がつく。父上と母上が王と王妃で、自分はその子どもだ。
地図の前で言われると、意味が違った。
この色のついた土地。
離れた西部。
その間にある別の諸侯領。
王位と、帝国内の領邦君主位。
皇帝選挙の1票。
俺が将来継ぐというのは、呼び名が変わるだけではない。
「ぼくも、王さまになるの?」
外に出せる言葉にすると、ひどく単純になった。
ヨアヒムは笑わなかった。
「将来そうなる場合に備えて、殿下は今から勉強するのです」
断言の仕方が少し違う。
将来を決めつけるのではなく、今の立場を説明している。
「西のも?」
「はい。王の仕事だけでなく、西の土地をどう治めるかも学びます」
「1票も?」
「はい。あの1票をどう使うものなのかも、いずれ学びます」
俺は地図を見上げた。
妙な感覚だった。
前世では、こういう地図を外から見ていた。
どの王朝がどこの領地を持った。どの君主が複数の称号を兼ねた。どの法的関係が後の争いにつながった。授業なら、板書して、色を分けて、生徒に説明する側だった。
地図上の複雑な境界は、理解する対象だった。
今は違う。
まだ5歳なのに、その境界の中へ自分の名前が入っている。
正確には、地図に俺の名前が書いてあるわけではない。そもそも書いてあっても読めない。
だが、父上の後を継ぐ側だと言われた瞬間から、ただの教材だった色分けが、自分に関係するものになった。
怖い、というほどではなかった。
実感も、まだ薄い。
それより先に、知りたいと思った。
なぜ東部は帝国の外で、西部だけが中に残っているのか。
いつからこうなったのか。
西部の選帝権は、どういう経緯でアルテンフェルス家に付いたのか。
皇帝は誰が選ばれ、どの諸侯が票を持ち、その票はどんな意味を持つのか。
聞けば聞くほど、知らないことが増える。
それが嫌ではない。
むしろ、目の前に大きな本の最初のページだけが開かれたような気分だった。
問題は、その本を俺がまだ読めないことだ。
俺は地図の西部に並んだ文字を見た。
「先生」
「はい」
「ここ、なんて書いてあるの?」
ヨアヒムは、俺が指した場所を確認してから地名を読んでくれた。
聞いたことのない名前だった。
音を頭に入れようとして、もう1度文字を見る。
当然ながら、形と音はまだ結びつかない。
「字を覚えたら、自分で読める?」
「はい。そのために、今日は地図と一緒に文字も始めるつもりでした」
「今日から?」
「もちろんです。では、文字の練習をしていきましょう」
ヨアヒムは机の方へ俺を促した。
それからしばらく、文字の読み方や書き方を基本から教わった。見本を見て、声に出し、手を動かす。前世では当たり前にできていたことでも、この世界の文字は知らない。頭の中に意味や音があっても、それだけで読めるようにはならなかった。
最初は新しいことを覚えるのが面白かった。
けれど、続けているうちに、さっきまでなら気にならなかった小さな間違いが増えてきた。同じところをもう1度見直したり、座り直したくなったりする。
ヨアヒムはその様子を見ていたらしい。
「今日はここまでにしましょう」
「まだできる」
「ええ。ですが、最初より集中が続かなくなっています。続きは次にした方が、よく覚えられますよ」
言われてみれば、その通りだった。
もっとやりたい気持ちは残っている。それでも、新しい地名と制度の話を聞いたあとで文字まで始めたのだから、5歳の集中がいつまでも同じではない。
「次は、なんで東と西に分かれたかもやる?」
「はい。少しずつ王家の歴史も始めましょう」
「選挙も、道のことも?」
「どちらも扱います。殿下が今日気になったことは、こちらでも覚えておきます」
そう言って、ヨアヒムは地図の横に置いてあった紙へ何かを書きつけた。
読めないのが腹立たしい。
「それ、ぼくの質問?」
「そうです」
「早く読めるようになりたい」
「でしたら、次も文字を続けましょう」
「うん」
ヨアヒムの目元が少し緩んだ。
「では、本日はここまでにしましょう」
地図の前から離れると、部屋の端に控えていたルーカスがすぐに動いた。先生が使ったものを勝手に片づけるのではなく、年配の近侍がうなずくのを確かめてから、机の上を整える手伝いに入る。
1つ持ち上げるたび、置く場所を見ている。
几帳面というのは、たぶんこういうことなのだろう。
俺がまだ地図を見ていると、ルーカスは少し離れたところで待った。
「殿下、次のご予定へお戻りになります」
年配の近侍に促される。
「うん」
返事をしてから、地図をもう1度見た。
ヴァイスブルク。
レーデン川。
ホーエンヴァルト山地。
まだ自分で読めるわけではない。
けれど、今度この地図を見るときには、今日より少し多く分かるはずだ。
部屋を出ると、ルーカスがまた俺の横より少し後ろにつく。
「ルーカス」
「はい、殿下」
「次もいっしょ?」
「はい。授業への同行を命じられておりますので」
「じゃあ、ぼくが字を読めるようになるのも見るね」
「そうなるかと思います」
「早く読めるようになりたい」
「本日のご様子なら、次の授業も楽しみでいらっしゃるのでしょうね」
「うん」
少し考えてから、ルーカスを見る。
「ルーカスも、まだ覚えることある?」
「たくさんございます。殿下のお側で務めるのは、私も今日からですから」
「じゃあ、ルーカスも勉強だ」
「はい。覚えるものは違いますが」
それなら同じだ。
廊下を進みながら、俺は頭の中でもう1度地図を思い出した。
東と西。
帝国の外と中。
同じ父上が持つ、別の地位。
そのうちの1つに付いた、皇帝を選ぶ1票。
今まで「自分の国」と言われて浮かぶのは、この王宮と、ヴァイスブルクと、父上が王であるという事実くらいだった。
今日見た地図では、その先にまだ知らない土地が広がっていた。
しかも、それは遠い誰かの歴史ではない。
いつか自分が継ぐ側にいる土地だ。
まだ、そこまでの重さは分からない。
だからまず、読めるようになりたいと思った。
地図に書かれている名前を、自分の目で1つずつ拾えるように。




