第68話
ゾフィーが椅子から立ち上がるとき、俺が手を貸そうとするより先に、彼女は肘掛けへ手をついた。
「大丈夫です。立つくらい、自分でできますから」
「まだ何も言ってないよ」
「言おうとしたでしょう」
「……手を貸そうとはした」
「それは分かりました。ありがとう」
礼を言われたので、引っ込めかけた手の置き場に困った。ゾフィーはそんな俺を見て、もう片方の手を差し出してくる。
「歩くときは、お願いします」
手を取って部屋を出た。歩調を合わせるのは、今ではさほど難しくない。彼女が廊下の角で足を緩めれば俺も緩めるし、庭へ出るかどうか迷っている日は、窓辺の椅子に座って話すこともある。
子どもができたかもしれない、と聞かされた日から、8か月近くが過ぎていた。
あの頃は、朝食の席で彼女が皿を残すのを見て、何を心配すればいいのかさえよく分かっていなかった。今は腹がずいぶん大きくなり、椅子の座り方も、階段を使う速さも変わった。それでも、仕事の話になると以前と同じように予定表へ目を通し、都合のよい順番を自分で決めている。
もちろん、以前と同じだけ働けるわけではない。来客の数も減り、遠くへ出かける予定は控えるようになった。だが、どの相手には手紙を出し、どの用事は人に任せるかを決めるのは、いまだにゾフィー自身だった。先日は俺の方が仕事を終えるのが遅く、彼女に夕食を待たせてしまったくらいだ。
「今日は外まで行く?」
「ええ。庭の入口までは。風が強ければ戻りましょう」
廊下の窓が開いていた。庭師が植木鉢を並べ直しているところで、1人が重そうな鉢を両手で抱え、もう1人が台座を据えていた。台座の上へ載せる最後のわずかな位置合わせを、片方の男が魔力で助ける。鉢を置き終えると、土をならし、水をやる仕事へ戻っていった。
ゾフィーはそこに並んだ花を眺め、いくつか名前を教えてくれた。俺は半分も覚えられなかったが、彼女は別に試験をするつもりでもないらしい。
「こちらの鉢は、前よりよく咲いていますね」
「そうだね。俺には違いがあまり分からないけど」
「前は葉ばかりだったんですよ」
「それなら、かなり違うな」
庭の入口まで来ると、ゾフィーは自分から引き返した。いつもより歩いたわけでもない。少し立ち止まって、腹へ手を添えている。
「疲れた?」
「いいえ。今、動いたので」
「子どもが?」
「ええ。触ってみますか」
手のひらを重ねると、しばらく何も起こらなかった。
「さっきまで動いていたのに」
「俺が来ると静かになるのかな」
「そういうものかしら」
彼女が笑い、俺も手を離そうとした。そのとき、内側から小さく押し返されるような感触があった。
「あ」
「分かりました?」
「うん。今のだよね」
「そうです」
もう一度来るかと待ったが、それきりだった。俺は少し名残惜しく手を離し、彼女と一緒に居室へ戻った。
王宮の外でも、この間に仕事は続いていた。グライフェンからは貨物の受領記録だけでなく、旧来の権利をめぐる照会が繰り返し届く。現地で処理できるものは処理され、王都で判断する必要のあるものだけが残った。エアリアルについても厩舎と何度かやり取りをし、参加できそうな既存の競走の条件は少しずつ見えてきた。走らせるかどうかは、まだ馬の調子と騎乗する者の都合を見ながら考えている。
ゾフィーの居室の前で手を離すと、彼女は振り返った。
「今夜は、夕食をご一緒できますか」
「できるよ。もう予定を空けてある」
「それなら、安心です」
「俺も、最近は約束を守ってるだろう」
「ええ。最近は」
そこだけ妙に念を押された。反論するには、以前の自分の行いが少々悪い。
彼女は扉の向こうへ入っていった。侍女が迎え、奥の部屋で何かを整える音がした。俺は少し廊下に立ったあと、執務室へ戻った。
その夜、ゾフィーと食事を取った。彼女はいつもより早く席を立ち、先に休むと言った。医師や出産に立ち会う者たちの話では、そろそろ生まれてもおかしくない時期だという。いつ始まるかまで教えてくれる者はいなかった。
「明日の朝も、具合を聞きに行くよ」
「ええ。でも、寝ていたら起こさないでくださいね」
「分かった」
彼女は俺の手を握り、侍女とともに部屋へ戻った。
そのあとは、いつものように夜の書類を少しだけ読んだ。早く寝た方がいいと思って、予定より早く筆を置いた。
寝室へ戻ったところで、ルーカスが静かに戸を叩いた。
「陛下。王妃陛下のお部屋から、お知らせでございます」
その声の調子だけで、胸が跳ねた。
「ゾフィーが?」
「お痛みが始まったとのことです。すでに産婆と医師へ連絡が行っております」
上着を取って廊下へ出た。
ゾフィーの居室の前では、普段より多くの人が動いていた。寝具を運ぶ者、湯を届ける者、奥の間から出てきて次の用意を伝える侍女。誰も走ってはいないが、立ち止まっている人もいない。
扉の近くにいた侍女が俺を見つけた。
「陛下。奥でお待ちです。こちらへ」
案内された部屋で、ゾフィーは寝台の端へ腰を下ろしていた。顔色は悪くない。ただ、俺が声をかける前に、彼女は腹のあたりへ手をあて、しばらく目を閉じた。
そばの産婆が、その間を見計らって声をかけた。
「今は、波が過ぎるのを待ちましょう。終わってからお話しできます」
ゾフィーは頷いた。やがて肩から力を抜き、こちらへ手を差し出した。
「来てくださったんですね」
「もちろん。どう?」
「少し痛みます。でも、まだ話す余裕はあります」
その言い方が、なんだかゾフィーらしかった。
「いつから?」
「夕食のあとに、少し変だと思って。最初はいつもの張りかと思ったんですけど、間を置いて何度も来るので、診てもらいました」
「そうか」
何か役に立てるだろうかと思い、部屋の中を見た。だが、産婆はすでに必要なものを確認し、医師はゾフィーの状態について短く尋ねている。侍女が清潔な布を手元へそろえ、湯を運んできた者は使う分だけ器へ移した。
俺がやれることは、少なくとも今、この人たちの邪魔をしないことらしい。
「レオン」
ゾフィーに呼ばれて振り返った。
「ここに座っていてください。しばらく」
「うん」
椅子を寄せると、彼女は俺の手を握った。指に力が入る。話したいことがあるかと思って待っていたが、痛みが来ると彼女は目を閉じ、俺の手を強くつかむだけだった。
産婆はそばへ身を寄せ、呼吸の間を見ながら短く声をかけた。痛む腰へ手を添え、魔力を使って負担を和らげることもあった。ゾフィーの握る力が緩むと、布で汗を拭いている。そんなことを何度か繰り返すうち、俺の手のひらにも汗がにじんだ。
「少し休めそうですか」
産婆が尋ねると、ゾフィーは水をひと口飲んでから答えた。
「ええ。今の間なら」
「でしたら、そのまま。次が来たら、またお知らせください」
俺は彼女の肩へ触れた。もう少し楽な姿勢があるかと聞くと、ゾフィーは首を振り、今はこのままがいいと言った。俺はそれ以上動かさなかった。
しばらくすると、母上も来てくれた。扉のところで医師と話し、こちらへ近づいてゾフィーの顔をのぞいた。
「どう、ゾフィー」
「まだ、大丈夫です」
「そう。私は近くにいるから、何かあったら呼んでね」
「ありがとうございます」
母上は長居せず、産婆へ必要な用意が足りているかを聞いてから部屋を出た。引き留めようかと思ったが、ゾフィーがまた目を閉じていたので、俺はそばに残った。
夜は、なかなか進まなかった。
俺が知っている時間は、普通なら時計と仕事の順番で区切られる。書類を読み終える、報告が届く、人と会う。そのどれでもなく、痛みが来て、過ぎて、また来る。それだけで時間を数えるのは初めてだった。
しばらくして医師が診察を終えると、産婆が俺の方へ向いた。
「陛下。これからは、こちらで付き添わせていただきます。お隣のお部屋でお待ちいただけますでしょうか。必要なときにはお呼びいたします」
ゾフィーを見ると、彼女は息を整えながら頷いた。
「行ってください。あとで、来てくださいね」
「分かった。すぐ隣にいる」
手を離すとき、彼女は一度だけ握り返した。
隣室には母上がいた。椅子が用意されていて、卓には水と、手をつけられていない軽食が置かれている。
「ゾフィーは?」
「産婆の方たちが、今は付き添ってくださってる。俺は外で待つように言われたよ」
「そう」
母上が椅子を示した。座ったものの、じきに立ち上がった。歩いて扉のそばまで行き、また戻ってくる。母上は何も言わず、俺の様子を見ていた。
「ずっとこうして待っていたら、朝になりそうだ」
「もう夜更けですもの。朝になるかもしれないわね」
「母上は落ち着いてるね」
「そう見える?」
母上は杯を取ったが、少し持ち上げただけで卓へ戻した。
「何度か様子を見に行こうと思ったの。でも、用もないのに何度も出入りしたら、ゾフィーも落ち着かないでしょう」
「そうだね」
「だからここにいるわ。あなたも、座れるなら座っていた方がいいわよ」
俺は隣の椅子へ戻った。母上はまた扉を見ていた。
扉が開き、侍女が入ってきた。産室で使う布が追加で必要になったという。母上はどこに用意されているかを伝え、侍女はすぐに出ていった。母上が自分で立ち上がりかけたので、俺が尋ねる。
「母上も行く?」
「任せてあるわ。今は待っていましょう」
しばらくしてルーカスが顔を出した。明け方までに返答が必要な用件は今のところないという。執務室でまとめていた書類については、通常どおり担当者が続きを進めているらしい。
「もし急を要するものが来たら、知らせてくれ」
「承知いたしました」
「それと、ゾフィーのところから知らせがあったら……いや、そっちはここにも来るな」
「はい。私も取り次ぎの者と連絡を取っております」
彼はいつものように答えた。俺が落ち着いていないことについては、何も言わなかった。
廊下では夜の仕事が続いていた。湯の入った器を運ぶ者とすれ違い、布を収める棚の前で侍女が足を止める。汚れたものは別の籠へ移され、洗うために運び出された。
俺は戸口を離れた。何度目か分からないが、また室内へ戻って椅子に座る。
母上が軽食の皿を俺の前へ寄せた。
「食べられるときに食べておきなさい」
「今はあんまり腹が減ってないんだ」
「あとで食べたくなったら、ここにあるわ」
皿はそのままにしてくれた。
産室から声が聞こえることはあったが、何を話しているかまでは分からない。俺は聞き耳を立てかけて、やめた。
そのうち空が少しずつ白んだ。窓の外の灯りが、いつの間にか目立たなくなっている。
急に扉が開いた。
「陛下」
立ち上がった俺を見て、侍女が続けた。
「お生まれになりました」
「ゾフィーは?」
「お疲れですが、医師が診ております。お子様も、今は落ち着いていらっしゃいます」
「会える?」
「もう少し整えてから、ご案内いたします」
母上が俺の隣に立った。侍女に礼を言い、今度は2人で待った。
しばらくして、医師本人が来た。
「陛下。王妃陛下はたいへんお疲れですが、今のところ気になる出血はありません。休んでいただきながら、引き続き様子を見ます。お子様も呼吸と体の様子を確かめました」
「よかった。ありがとう。2人に会わせてもらえる?」
「はい。産婆がご案内いたします」
そこでようやく、もう1つ尋ねていないことに気づいた。
「子どもは男の子、それとも女の子?」
「男のお子様です」
男の子。
口の中で言い直してみる。さっきまで分からなかったことが、1つだけ分かった。
部屋に戻ると、寝台のそばには静かな朝の光が差していた。
ゾフィーは枕を少し高くして横になっていた。髪が額にはりついていて、顔には疲れが残っている。俺に気づくと、無理に起き上がろうとはせず、手を伸ばした。
「レオン」
「うん。来たよ」
その手を握る。いつもより熱く感じたが、俺もずっと掌に力が入っていたので、どちらのせいかは分からない。
「お疲れさま。大変だったね」
「ええ。……思っていたより、ずっと」
ゾフィーは少し息をつき、視線を隣へ向けた。産婆が腕に抱いている小さな包みがあった。
「見ました?」
「まだ。男の子だって聞いた」
「そうです」
産婆が顔を見せてくれた。
赤い。思ったより、ずいぶん赤い顔をしていた。目は閉じていて、眉のあたりにしわが寄っている。小さな口が動いたかと思うと、細い声が漏れた。
「……小さいな」
俺が思わず言うと、産婆が微笑んだ。
「生まれたばかりでございますから」
その返事はもっともだった。だが、分かっていたはずの大きさと、目の前の子の大きさは、どうも一致しない。
「抱いてみますか」
そう尋ねられて、すぐに手を出せなかった。
「俺が?」
「はい。お座りいただいて、お支えしますので」
椅子へ腰を下ろす。産婆が腕の位置を教えてくれ、包みをそっと預けた。思ったより軽い。それでも、首を支える手の角度を少し変えただけで怖くなり、結局ほとんど動かずにいた。
小さな指が布の端から出ている。爪まである。当たり前のことなのに、そこばかり見てしまった。顔をのぞこうと首を傾けると、彼の口がまた動いた。今度は泣くのかと思ったが、声は出ない。
「そんなに固くならなくても大丈夫ですよ」
寝台からゾフィーの声がした。
「固くなってる?」
「肩が上がっています」
言われて下げようとしたが、今度は腕まで動きそうになってしまう。
「そのままでいいです」
産婆が落ち着いた声で言った。
俺はそのとおりにした。
ゾフィーが隣から子の顔を見ていた。長い時間をかけて産んだばかりなのに、まだ眠るよりも先に、彼が何をしているのか気になるらしい。
「こちらへ、もう少し寄っていただけますか」
「うん」
椅子の脚を少しずらすと、彼女にもよく見える位置になった。ゾフィーは包みから出た指先へ触れ、その小ささに目を丸くした。
「さっきも見たのに、まだ驚きます」
「俺は今、初めてだから」
「ええ。そうでしたね」
話しているうち、子どもが顔をしかめた。今度ははっきり泣いた。腕の中から急に大きな声が上がり、俺は思わず産婆の方を見る。
「どうしたらいい?」
「お母様のところへお戻ししましょう。まずは、お子様のご様子を見ます」
言われたとおり、包みを渡した。産婆は赤子を落ち着かせながら様子を確かめ、ゾフィーへ何かを短く伝えている。俺にはその細かな言葉までは聞こえなかった。
ゾフィーは腕を差し出し、産婆に支えられながら子どもを受け取った。布の中で小さな手が動く。彼女はその顔を見つめ、しばらく何も言わなかった。
「……ユリウス」
ゾフィーが小さな声で呼んだ。生まれる前から彼女が考えていた名前だ。
「その名前にする?」
「ええ」
「俺もいいと思う。ユリウス」
ゾフィーはようやく少し笑い、子どもの頬へ指先を寄せた。
「……来てくれたんですね」
俺はそばで頷いた。子どもに言ったのだろうが、返事をしたくなった。
産婆が必要な手当てを終えると、医師はもう少し休息が必要だと話した。ゾフィーも頷き、赤子を預けて目を閉じた。疲れが一気に出たのか、俺が何か話す前に眠ってしまった。
俺は寝台の脇でしばらく座っていた。産婆が寝具を整え、別の者が水を取り替える。窓から入る光が少しずつ強くなってきた。
産婆が赤子の籠を寝台の近くへ寄せた。小さな口から息が漏れ、布がかすかに上下する。
椅子を動かす音を立てないように、俺は少し身を乗り出した。子どもが口を小さく開き、すぐに閉じる。まだ目を閉じたままだ。
そのまま見ていると、奥から新しい湯を運ぶ人が入ってきた。産婆は籠の位置を確かめてから道を空けた。俺も椅子を少し引いて通り道を空けた。湯を運ぶ人が通り過ぎると、また子どもの顔へ目を戻した。
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