第67話
ゾフィーが朝食の皿を少し脇へ寄せた。
まだ半分ほど残っている。いつもなら俺より先に食べ終わることが多いのに、今日はパンにも手をつけていない。
「食べないの?」
「後で少しいただきます。今はお茶だけで」
そう言って杯を取ったが、飲んだのはほんのひと口だった。
「具合が悪い?」
「朝は少し気分が悪くて。でも、昨日は普通に夕食をいただけましたし、今はもう落ち着いています」
「そうか。今日は午前から人に会う予定だったよね」
「ええ。ただ、先方には少し時間を遅らせてもらいました」
俺が何か言う前に、ゾフィーは手元のパンを小さくちぎった。
「自分でお願いしたんですよ。お相手の方も、昼前なら都合がよいそうです」
「分かった。それなら、朝はゆっくりして」
「レオンも、ちゃんと食べてくださいね」
言われて自分の皿を見る。そういえば、俺も話しながら手を止めていた。
ゾフィーはちぎったパンをひと口食べ、少し考えてから蜂蜜の瓶をこちらへ寄せた。使わないらしい。俺は礼を言って受け取り、残りのパンに薄く塗った。
エアリアルの試走を見に行ってから、ひと月ほどが過ぎていた。王宮の仕事は相変わらずで、朝になれば報告と決裁が待っている。厩舎からは通常の運動の様子が届いているが、競走への参加条件についてはまだ調べているところだった。
このところゾフィーは、朝になると食事が進まない日があった。仕事を休んで寝込むほどではなく、午後には元気そうに話していることも多い。それでも、いつもと違うのは分かる。
「最近、疲れてない?」
「少し。でも、原因はもう相談していますから」
「相談?」
ゾフィーは杯を置いて、俺の顔を見た。
「はい。まだお話ししていないことがあります。今日、どこかで2人でお話しできますか」
改まった言い方だった。
「もちろん。午後なら、時間を取れるよ」
「では、午後に私の部屋へ来てください」
「分かった」
何の相談なのか聞こうかと思ったが、ゾフィーはもうパンへ手を伸ばしていた。今すぐ話したくないのなら、午後に聞けばいい。
朝食のあと、俺は政務室へ向かった。振り返ると、ゾフィーはまだ席にいて、侍女に温かい飲み物を頼んでいた。
午後、約束した時刻にゾフィーの部屋を訪ねた。
侍女が取り次ぎ、扉を開けてくれる。窓のそばの卓には書きかけの手紙と、折りたたんだ布が置かれていた。ゾフィーは椅子から立ち上がったが、俺が近づくと座り直した。
「待たせた?」
「いいえ。ちょうど片づけていたところです」
向かいの椅子へ座る。卓の上の書類は王妃の来客に関するものらしい。ゾフィーがそれを端へ寄せるのを見て、俺も仕事の話はしないことにした。
「朝、相談しているって言ってたよね。具合のこと?」
「はい」
ゾフィーは膝の上で手を重ねた。何か言いかけたが、すぐには続けない。急かさずにいると、こちらへ視線を上げた。
「しばらく前から、月のものが来ていなくて。朝、気分が悪いことも増えたので、医師に診てもらったんです」
「ああ……」
そこまで聞いて、ようやく思い当たった。
「もしかして」
ゾフィーが頷いた。
「子どもができたのかもしれません」
俺は口を開いたまま、しばらく声が出なかった。
子ども。
俺たちの子ども。
いつかは、と思っていた。結婚したときから考えなかったわけじゃない。けれど、こうして本人の口から聞くと、まるで別の言葉みたいだった。
「本当に?」
「まだ、絶対とは言い切れないそうです。最初に診てもらったときは、もう少し様子を見ましょうと言われました。それで、何日かしてから、もう一度相談したんです」
「そうだったのか」
「今の変化が続いているなら、妊娠している可能性が高いと。出産に立ち会ってきた方にも診てもらいました」
ゾフィーはそこでいったん言葉を切った。
「早くお話ししたかったんですけど、何も分からないまま期待させたくなくて」
「うん」
何か気の利いたことを言いたかった。嬉しい、と言えばいいのだろうが、それだけでは足りない気がした。俺は一度息を吐き、それでも結局、最初に浮かんだ言葉を口にした。
「嬉しいよ。すごく」
ゾフィーの肩が少し下がった。
「よかった」
「いや、よかったって……君も嬉しいんだよね?」
「もちろんです」
そう答えると、彼女は笑った。けれど、次には真面目な顔になった。
「ただ、嬉しくても、まだ実感がないんです。朝、いつもの服を選んで、いつもの部屋へ行って。急に何かが変わったようには見えませんから」
「俺もだよ。今聞いたばかりだけど、どうしたらいいのか……」
「まずは、いつもどおり座っていてください」
俺が腰を浮かせかけたのを見て、ゾフィーが言った。
「あ、いや、何か必要なものがあればと思って」
「今は大丈夫です。お茶もありますし」
見ると、卓の隅に2つの杯が用意されていた。俺が来る前から置かれていたものだ。
「そうだね」
座り直すと、ゾフィーが片方を取った。俺も杯を持ったが、口をつけるのを忘れてしまった。
「医師には、これからどうすればいいと言われた?」
「しばらく体調を見て、また診てもらうことになっています。食べられるときに食べて、疲れたら休むこと。それと、いつもと違うことがあったら、すぐに知らせるようにと」
「そうか。必要なら、来客の予定も減らそう」
「減らす日もあると思います。でも、全部やめるつもりはありません。今朝のように、時間を変えてもらえば済むこともありますから」
ゾフィーは自分の杯を置き、卓の上の手紙へ目をやった。
「私ができることは、私が決めていきたいです。そのうえで、困ったら相談します」
「分かった。相談してくれたら、一緒に考える」
「はい」
そこで、ようやく俺の方から手を伸ばした。ゾフィーが手を重ねてくる。いつもと同じ手なのに、触れた途端、また胸の奥が落ち着かなくなった。
「母上には、話そうか」
「そうしたいです。お義母様なら、いろいろご存じでしょうし」
「うん。今日、時間を聞いてみるよ」
「一緒に行っていただけますか」
「もちろん」
ゾフィーは俺の手を握ったまま、少しだけ近くへ身を寄せた。俺はまだ持ったままの杯を、そっと卓へ戻した。
母上には、その日のうちに会うことができた。
夕食前、母上の居室へ2人で向かう。侍女が俺たちを案内すると、母上は卓の上の刺繍を端に置き、こちらを迎えた。
「2人そろってどうしたの。何かあった?」
「うん。少し、話したいことがあって」
母上の視線が俺からゾフィーへ移った。ゾフィーは椅子へ腰を下ろすと、ひと呼吸置いた。
「お義母様。私、子どもを授かったかもしれません」
母上は一瞬、何も言わなかった。
「……そうなの?」
「はい。医師には、可能性が高いと言われています。まだ、もう少し様子を見なければなりませんけれど」
母上がゾフィーの隣へ座り、彼女の手を取った。
「知らせてくれてありがとう。おめでとう、ゾフィー」
「ありがとうございます」
「体の具合はどう?」
「朝に少し気分が悪い日があります。でも、今は落ち着いています」
「そう。診てくれている方は、これからも来てくれるのね」
「はい。また様子を見ていただく約束です」
母上は頷いてから、俺の方を見た。
「レオン、あなたは何か言ったの?」
「もちろん言ったよ。嬉しいって」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど……ほかに何を言えばいいか、まだ分からないんだ」
「それは、そうでしょうね」
母上は俺をからかうでもなく答えた。
「あなたが生まれると分かったとき、私だって何から支度をすればいいのか迷ったわ。周りには経験のある人がたくさんいたのにね」
「母上も?」
「ええ。アウグストは、すぐに私の欲しいものを聞いてくれたけれど、私自身、何が欲しいのかよく分かっていなかったの。あとになって、あのときは一緒に食事をするだけでも嬉しかったと思い出したわ」
聞いているうちに、父上が若い頃どんな顔をしていたのか想像してしまった。俺の知っている父上は、もっと落ち着いていて、何事にも慌てない人だったからだ。
「父上も、落ち着かなかったのかな」
「ええ、たぶん。あなたが生まれる頃には、私より何度も医師に様子を尋ねていたもの」
「……そうなんだ」
母上が笑うと、ゾフィーも顔を上げた。
「私も、今のうちに聞いておきたいことがあります。体調が変わると、どこまで普段の予定を続けてよいのか、判断に迷ってしまって」
「私のときのことなら話せるわ。でも、あなたの具合はあなたと診ている方が一番よく知っているでしょう。困ったときは、遠慮せず私も頼ってちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
そのあと母上は、王宮で暮らすうえで不便なことはないかと尋ね、ゾフィーは朝の食事のことを話した。2人でいくつか言葉を交わすうち、俺は何度か口を挟みかけてやめた。
母上が侍女を呼ぶ前に、ゾフィーがもう1つだけ伝えた。
「しばらくは、家族の中だけでお話ししておきたいと思っています」
「そうね。今日ここで聞いたことは、私から誰かに話したりしないわ」
「ありがとうございます」
母上はもう一度ゾフィーの手を握り、帰り際には俺の腕を軽く叩いた。
「レオン、明日の朝食には遅れないようにね」
「遅れてないよ、最近は」
「だったら、そのまま続けて」
返事をする前に、ゾフィーが横で小さく笑った。
夕食を終えてから、俺はゾフィーの部屋へ戻った。
昼間、卓にあった書きかけの手紙は片づいていて、代わりに明日の予定を書いた紙が置かれていた。ゾフィーはそれを眺めながら、侍女と翌日の来客の順番を確かめているところだった。
俺が入ると、侍女は用件を済ませて下がった。
「忙しかった?」
「いいえ。明日の順番を少し変えただけです」
「何か手伝うことは?」
「今はありません。でも、あそこに置いてある箱を取ってもらえますか」
ゾフィーが指さした棚から、小さな木箱を取って渡した。中には糸巻きと布の切れ端が入っている。母上の居室にあった刺繍を思い出したが、何を作るつもりかまでは聞かなかった。
「ありがとう。まだ、何を縫うか決めていないんです」
「じゃあ、その箱は?」
「前から持っているものです。久しぶりに開けただけ」
「そっか」
ゾフィーは箱を膝に置き、糸巻きを1つ取り出した。少し眺めてから元へ戻す。
「今日、話せてよかったです」
「俺も。知らせてくれて、ありがとう」
「お義母様が、あんなふうに喜んでくださるとは思っていましたけど……実際に聞くと、やっぱり嬉しいですね」
「俺は母上が父上の話をしたのが意外だった。医師に何度も聞いてたなんて」
「レオンも、同じようになりそうですか」
「どうだろう。今でもいろいろ聞きたいことはあるけど」
「では、私に聞いてください。私も分からなければ、診てくださる方に一緒に聞きましょう」
「そうする」
窓の外には、宮殿の庭の灯りが見えた。誰かが通路を歩いていて、遠くで扉の閉まる音がした。王宮はいつもどおりだ。明日も俺には書類が届き、ゾフィーには来客がある。
箱を閉じた彼女が顔を上げた。
「今日は、もうお仕事へ戻られますか」
「まだ少し残ってる。でも、急ぎじゃない」
「でしたら、もう少しここにいてください」
「うん」
俺は隣へ椅子を寄せた。ゾフィーは木箱を卓へ戻し、俺の手を取った。
しばらくそのまま座っていたが、やがて彼女は箱をもう一度開けた。縫うものはまだ決まらないと言いながら、糸巻きを1つずつ取り出して見せる。
俺にはよく似た色にしか見えないものもあった。それでも、どちらがいいか尋ねられるたび、ちゃんと見比べて答えた。
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