第69話
朝、ゾフィーの部屋へ行くと、窓際の椅子に見慣れない厚手の掛け布が畳まれていた。庭では落ち葉を集める音がする。数日前までは朝の廊下もさほど冷えなかったのに、今朝は外套を脱ぐ前に扉を閉めたくなるような空気だった。
ゾフィーは寝台に背を預け、侍女から何かを受け取っているところだった。子どもは傍らの籠で眠っている。
「おはよう。具合はどう?」
「昨日より楽です。今、母に手紙を書こうと思っていたところなんです」
侍女が持っていたのは便箋だった。机にはまだ筆も置かれていない。
「体を起こしていて大丈夫?」
「少しなら。昨夜もよく休めましたし、長い手紙にはしません」
「それなら、俺の方からもよろしく伝えておいて」
「自分で書かないんですか?」
「出生の知らせは、今日の便に載せるよ。けど、あれは俺の近況報告という感じじゃないから」
ゾフィーは便箋を膝に置いて頷いた。
「では、父にも母にも、ユリウスのことを書きます。まだ顔を見せてあげられないのが残念です」
「会いに来てくれたら、きっと喜ぶだろうね」
「その前に、あなたも少しは慣れてくださいね」
何に、とは聞かなかった。昨夜、布に包まれた息子を受け取ろうとして、また産婆に手の位置を直されたばかりだ。
「抱くのはだいぶ上達したと思うんだけど」
「立ったまま抱こうとするたびに、座るよう言われていますよね」
「……それはそう」
ゾフィーは筆を受け取った。俺は邪魔にならないよう少し離れ、寝台の横の籠を覗いた。息子は顔を半分ほど布に埋めている。赤かった頬は生まれた日より落ち着いたように見えるが、日ごとに変わるものなのか、単に俺の目が慣れたのかは分からない。
奥の扉が開き、湯を入れた器を運ぶ者が入ってきた。別の侍女が布を替え、湯の温度を確かめてから魔法で少し温めた。産婆は湯の具合を見て頷き、使うものを手元へ並べた。ここ数日、部屋の仕事は途切れない。それでも、誰も慌ててはいなかった。
「午後も寄れる?」
ゾフィーが便箋から顔を上げた。
「寄るよ。母上に話したいことがあるから、その帰りになるかな」
「お義母様に?」
「うん。マティルデの将来のことを、少し」
ゾフィーは筆を置いた。
「何かお話があったんですか」
「いや。こっちから相談したいことがあって。まだ母上にも話してない」
「そうですか。……マティルデなら、自分の考えもちゃんと話すと思います」
「そうだろうね。そこは俺より頼もしいかもしれない」
彼女は何か言い返しかけて、結局、便箋へ目を戻した。俺もそのまま部屋を出た。手紙は書き上がり次第、侍女が預かってくれるだろう。
執務室では、出生を知らせる文書が宛先ごとに分けられていた。国内の主要な諸侯、親族、近隣の王家。昨夜までに文面の確認は済んでおり、あとは署名と封印を終えたものから送り出すだけだった。
「リューネンベルクへの便はどうなっている?」
俺が尋ねると、担当の官吏は文書束の端を示した。
「ほかの親族宛てとともに、本日出発いたします」
「分かった。予定どおり頼む」
仕分けの済んだ文書を1枚ずつ改めた。息子ユリウスの出生と、母子が出生後の診察を終えて休んでいること。簡潔な知らせだ。喜びを書き連ねたくなるのは私事であって、王家から出す通知はこれでよい。
書類を戻すと、ルーカスが次の予定を開いて見せた。
「昼前にグライフェンからの処理報告がございます。そのあと、ご母堂へ伺う時間を取っております」
「ありがとう。少し長くなるかもしれない。午後の面会は後ろにずらせる?」
「午後の面会先には、時刻を変更できるか確認いたします。ご母堂には、妹君の今後についてご相談があるとだけお伝えしております」
「……それだけ?」
「はい。具体的な内容までは伺っておりませんので」
「それならいい」
ルーカスは予定表を閉じ、報告書の束を机に置いた。
グライフェンの報告は、旧来の貨物証明を扱う役所と現地の商人との照合についてだった。買い手に渡す予定の荷がある一方、徴収権を主張する側の文書が揃わない案件も残っている。すでに処理が進んだ分と、判断を待つ分を分けて確認し、いくつかは現地へ追加資料を求めた。
戦争が終わっても、紙の上で争うことは山ほどある。むろん紙だけで済んでいるうちは、その方がいい。
昼近く、文書を運ぶ者が廊下を行き来し始めた。出生通知を入れた文書箱が運び出されるのを窓から見届け、俺も席を立った。
母上の居室では、暖炉にまだ火が入っていなかった。日が出ている間は暖かいが、夕方には必要になるかもしれない。母上は窓際の机で何かを読んでいた。
「わざわざ時間を取っていただいて、すみません」
「珍しい入り方ね。レオンが改まって相談というから、何事かと思ったわ」
母上は文書を伏せ、俺に向かいの椅子を勧めた。
「マティルデのことです」
「ええ。ルーカスから聞いたわ。あの子が何かしたの?」
「いえ、そうじゃなくて。そろそろ婚姻の候補を、具体的に考えてもいい頃かと思って」
母上は驚きもしなかった。
「その話なら、いずれあなたとしなければと思っていたところよ。マティルデも、もう子どもではないもの」
「候補に心当たりはありますか」
「家柄だけを並べれば、いくつもあるでしょう。でも、今日はあなたの考えを先に聞きたいわ」
母上に先を読まれたようで、少し姿勢を直した。
「セレーンのヨハン王太子はどうでしょう」
「ヨハン殿下?」
「はい。祝宴でマティルデと話していたでしょう。馬の話で、ずいぶん楽しそうだった」
「覚えているわ。けれど、それだけで決めるつもりではないのでしょうね」
「もちろん。王太子の立場もあるし、向こうがどう考えているかも分かりません」
そこで母上は、すぐには答えなかった。机の端に置いた紙を揃え、ようやく口を開いた。
「セレーンを考えるのは、隣国だから?」
「それもあります。戦後の関係を、できるだけ落ち着いたものにしておきたい」
「ヴァルデンハイムとのことも?」
「ええ」
アマーリエは講和に署名した。それで終わりだとは、本人も思っていなかった。別れ際に言われたことを、俺も忘れてはいない。ただ、何か仕掛けてくると決まったわけでもない。ならばこちらも、隣国との関係を整える努力は続けておきたい。
母上は少し考えるように俺を見た。
「レオン。マティルデがセレーンへ嫁ぐなら、暮らすのは向こうよ。あなたが隣国と親しくなって嬉しい、だけでは済まないわ」
「分かっています。だから本人に聞きたいんです。話を進めてから、決めたことを知らせるのは嫌ですから」
「それなら、あの子を呼びましょう。今日の午後は部屋にいるはずよ」
母上は侍女に声をかけた。俺が着いてから呼び出すより、先に話をしておいた方がよかったかもしれない。とはいえ、本人がどんな反応をするか、見当はつかなかった。
待つ間、母上は書棚から1冊の薄い本を出してきた。王家の婚姻と親族の訪問について、昔の記録をまとめたものらしい。
「いきなり縁談をまとめなくても、行き来を始めることはできるわ。先方にも事情があるでしょうし」
「はい。まずは意向を聞くつもりです」
「ただ、返事をもらう前に、あなたの方で娘の行き先を決めないこと」
強く言われたので頷いた。母上は俺の顔を見て、ようやく本を閉じた。
ほどなくしてマティルデが入ってきた。髪は外出用のまま結われていて、手には薄い革の手袋を持っている。
「母上、兄上。何かご用ですか」
「乗馬の途中だった?」
「厩舎まで行ってきたところよ。今日は馬には乗らなかったけど。……私の話って、何?」
母上が俺を見た。俺が話を始めることになっているらしい。
「婚姻のことだよ。今後の相手の候補として、セレーン王太子のヨハン殿下を考えている」
マティルデは手袋を膝に置いた。ひと呼吸置いてから、俺と母上を見比べる。
「……あの、婚礼でお話しした方?」
「そう。そのとき馬の話をしていたでしょう」
「覚えてるわ。旅の途中に見た馬のことも、少し話したもの」
それから少し首を傾げた。
「ヨハン殿下は、私との婚姻を望んでいらっしゃるの?」
「そこはまだ聞いていない。まず君がどう考えるかを聞きたかった」
「私の話が先なのね」
「うん」
マティルデは小さく息をついた。
「結婚の話はいずれあると思っていたけど、急に名前が出ると驚くわ。ヨハン殿下とは、あの夜にお話ししただけよ」
「それは俺も分かってる」
「優しい方だったとは思うけれど、式の席と、普段にお話しするのとでは違うでしょう?」
「そうね」と母上が言った。「そこを確かめずに決めてしまう話ではないわ」
マティルデは少し安心したように肩の力を抜いた。けれど、すぐ別のことが気になったらしい。
「もしお嫁に行くなら、ずっとセレーンに暮らすのよね。帰ってくることはできるの?」
「行き来はできると思う。でも、どれくらいかは向こうでの立場や都合による。気軽に約束していいことじゃないね」
「そうよね。私、まだ行ったこともない国だもの」
母上は机の本を開いて、マティルデの前へ置いた。
「まずは相手の王家がどう考えるか。実際に会う機会が持てるなら、暮らしぶりも見てきたらいいわ」
「見てきていいの?」
「先方が招いてくだされば、という話よ。あなたが何を知りたいかは、今から考えておけばいいでしょう」
マティルデは本には手を伸ばさず、しばらく母上の顔を見ていた。
「私は、改めてお話ししてみたいわ。ヨハン殿下が、どんな方なのか。前にお会いしたときは、ほかにもたくさん人がいたし」
「分かった」と俺は言った。「じゃあ、その気持ちも含めて、まずセレーン側へ話をしてみるよ」
「兄上」
「何?」
「もしお会いすることになったら、最初からお嫁に行くと決めて来たと思われたりしない?」
もっともな心配だった。王家の訪問に意味がないふりをしても、先方は婚姻の可能性を考えるだろう。
「そのあたりも先に相談しておく。互いに話してみる機会として受けてもらえるかどうか、だね」
「だったら、会ってみたい」
マティルデはそう言った。
「でも、お返事を聞いたら、私にもすぐ教えてね。お二人だけで話を進めないで」
「もちろん」
母上が頷くと、マティルデはようやく本を引き寄せた。頁をめくりながら、セレーンの王都の名前を確かめている。俺が立とうとすると、すぐ顔を上げた。
「兄上は、午後もお仕事?」
「まだ少しあるよ」
「そう。私、これをお借りしていくわ。母上、いいでしょう?」
「ええ。戻すのはいつでもいいわよ」
マティルデは本を抱えて部屋を出ていった。
翌朝、厩舎へ向かう頃には空気がずいぶん冷えていた。運動場の端では昨夜の湿り気が残っており、厩務員が地面を確かめている。速い運動には別の場所を使うというので、今日は馬房の近くで報告を聞くことにした。
エアリアルは戸口から首を伸ばし、厩務員が持ってきた餌を待っている。俺が近寄るとちらりとこちらを見て、すぐ桶へ鼻を戻した。
「元気そうだね」
「今朝もよく食べております。先日からは、ほかの馬と走る練習の後でも落ち着いております」
騎乗する男が、これまでの運動の記録を見せてくれた。ほかの馬を先に走らせる日もあれば、エアリアルを先頭にして後ろから追わせる日もある。馬同士を近づけすぎないよう間隔を変え、その都度騎乗者の合図にどれくらい応じるかを見てきたという。
「前に見たときは、後ろがずいぶん気になっているようだった」
「今も耳は向けます。ただ、以前ほど首を動かさず、合図で走る線を保てる日が増えました。無理に追わせなければ、運動の後も疲れを残しません」
「なるほど。それなら、そろそろ競走へ出す話を進めたいな」
男は頷いたが、厩舎を預かる者が口を挟んだ。
「その件で、候補が1つございます。王都の近くで、冬が明けてから小規模な競走を開く相談があるそうです。主催する家から、まだ詳しい条件が届いておりませんが」
「参加できそう?」
「距離や騎乗者の条件を見なければ申し上げられません。ほかにどんな馬が集まるかも、確かめたいところです」
「その話なら、今のうちに聞いておこうよ。向こうが条件を決める前に、参加を考えていると伝えられるなら伝えたい」
厩舎の者は、王宮の担当を通じて問い合わせる用意ができると答えた。
「この冬の間に、もう少し一緒に走る練習も続けておきます。馬が変われば反応も違いますので」
「うん。無理はさせないで。騎乗する人のことも含めて、分かったら教えてほしい」
俺はエアリアルの背を軽く撫でた。ここへ来るたび、走るところを早く見たくなる。王都に戻ってから、報告書を受け取っては後回しにしていたのも確かだった。馬の調子が悪いわけでもないのに、季節が一つ過ぎ、また一つ過ぎた。
早く出したい。でも、慌てて嫌な経験をさせるのはもっと嫌だ。そんなことを考えて、結局これまで自分で決めなかった。今回は主催側にも聞いてみよう。条件を確かめれば、少なくとも次に何をするか決められる。
厩舎を出る前に、俺はルーカスへ参加の意向と条件を尋ねる書状を手配するよう頼んだ。王宮へ戻る頃には、担当の者が宛先の確認に動いていた。
セレーンへの書状は、その翌日に文案が上がってきた。
執務机には出生通知の控えがすでに収められ、外交担当の官吏が新しい文案を広げていた。宛先はエドヴァルト国王だ。文面は丁寧だったが、少し遠回しにも見えた。
「これだと、ただ王家の行き来を増やしたいだけにも読めるね」
担当者は俺が示した箇所を見た。
「いきなり婚姻の話を出しますと、正式な求婚の意向と受け取られるおそれがございますので」
「それは避けたい。でも、何のために打診したのか分からなければ、先方も答えようがないでしょう」
俺は文案を読み返した。マティルデとヨハンの名を並べることには、それなりの重さがある。だが、隠したまま訪問だけ頼むのも変な話だ。
「将来の婚姻候補として考える余地があるか、内々に意向を伺いたい。それは書こう。双方の本人が改めて会って話す機会も持てるならありがたい、と」
「先方の王家にも、王太子殿下のご意向をお確かめいただく形ですね」
「そう。こちらだけで話を決めるつもりはない。それが伝わればいい」
官吏は文案を引き取り、午後、修正した書状を持ってきた。俺は目を通してから、官吏へ顔を上げた。
「これで進めてください」
「承知いたしました。内々の使者として、通常の国書とは別に扱います」
俺は必要な署名をした。官吏が封印と送付の手続きを進め、夕方の出発に間に合うよう使者へ渡すという。
馬の方の問い合わせも、同じ日には整った。こちらは競走を取り仕切る家へ、開催の見込みと参加の条件を尋ねるだけの書状だ。国王の名があればかえって相手が困るかもしれないので、エアリアルの馬主として参加を考えていることが分かるようにしてもらった。
夕方、ルーカスから両方の書状が発送されたと報告を受けた。セレーンへは使者が国境を越えて向かい、競走の問い合わせは王都近郊へ送られる。返事がいつ届くかは、それぞれ違うだろう。
廊下に出ると、窓の外はもう薄暗かった。壁際では使用人が灯りを整え、下の庭では落ち葉を掃く者が最後の籠を運び出している。午前はまだ暖かいと思っていたのに、今日は日が落ちるのが早い。
階段の踊り場で、マティルデと行き合った。母上から借りた本を腕に抱えている。
「兄上。セレーンへのお手紙、どうなった?」
「今日、出したよ。ヨハン殿下との話を進められるか、まずは向こうの考えを聞くことにした」
「そう。……お返事が来るまでは、私がすることはあまりないわね」
「気になることなら、考えておけばいいんじゃないかな。会えたら何を聞きたいとか」
「もう少し考えてるわ。馬のことばかり聞くつもりじゃないのよ」
「俺は、馬の話でもいいと思うけど」
「兄上はそうでしょうね」
マティルデは軽く手を振り、母上の部屋の方へ歩いていった。俺はその背を見送ってから、ゾフィーの部屋へ向かった。




