第64話
ヴィーネンの公館で帰国の予定を告げると、外交担当者は日程表よりも先に、厚い書類の束を机へ置いた。
「このうち、陛下にご確認いただきたいものです」
「帰ると決めたら、仕事が増えましたね」
俺が言うと、担当者は少しだけ口元を緩めた。
「これでも、現地の担当で処理できるものは除いております」
条約に署名して原本を交換しても、役人の机や兵の持ち場が同時に変わるわけではない。
最初の書面は、グライフェンの行政移管についてだった。旧領の地方官から引き渡される帳簿と、こちらの官吏が受け取るものが列挙されている。税の徴収記録、倉庫の在庫、道路や橋の維持に関する記録。すべてを確かめるには、まだ時間がかかる。
「裁判所の記録も入っていますか」
「はい。ただし、旧来の裁判手続が続いている案件は、書類を移すだけでは引継ぎが終わりません。現地の司法担当が、相手国の担当者と順次照合しております」
「では、当面は現行の手続を守らせてください。新しい国になったからというだけで、訴訟をやり直しにさせたくありません」
「その方針は現地にも伝達済みです。判断が分かれる案件は、王都へ照会する形でよろしいでしょうか」
「ええ。全部をこちらへ送らせるのではなく、権利の所在が変わるような問題を優先してください」
担当者が次の書面を開いた。今度は捕虜に関するものだ。
名簿の交換は始まっているが、所属や名前をまだ確認できない兵がいる。負傷のため移送できない者もいる。相手方が預かるこちらの兵についても、同じように照合を進めていた。
「帰せる者は、順に帰す。治療が必要な者は、引き続き治療を受けてもらう。条約どおりで構いません。家族への連絡も、所在が分かった者からお願いします」
「現地から、送還の護衛に使う馬と車が不足気味だとの報告も来ております」
「軍の補給とぶつかりますか」
「一部の道路では。現地の軍務担当と調整しておりますが、全員を一度に運ぶことはできません」
「それなら、運べる人数を確かめて順番を決めましょう。無理な輸送で傷病者を悪化させては意味がありません」
報告を受けるたび、戦争中に使い続けた馬と荷車のことが頭に浮かんだ。兵を動かすにも食料を運ぶにも、同じ道具と人間を使う。講和になったからといって、疲れた馬が翌日元気になるわけではない。
俺が帝都を離れたあとも、現地を預かる軍の上席指揮官と各分野の担当者が、その仕事を続ける。大きな権限変更や条約の解釈に関わるものは正式に報告させることにした。俺がどこにいても、毎日の荷車の順番まで決めるつもりはない。
最後の書面を閉じると、外交担当者が尋ねた。
「皇帝陛下の側へは、帰国のご挨拶の日程を伝えてよろしいでしょうか」
「お願いします。仲介への礼は、私からもきちんと申し上げたい」
ルートヴィヒには、皇帝選挙の頃から続く駆け引きがある。それでも今回、両国が話し合う場所を整えたのは彼だった。そこを軽く扱いたくはない。
予定が整ってから、窓の外を見た。公館の門前では、帰国の護衛に加わる者たちが荷物を確認していた。出発する人間がいる一方で、ヴィーネンに残る者もいる。
「帰国後の連絡先は、これまでどおり王都の外交担当へお願いします」
「承知いたしました。陛下、どうぞお気をつけて」
俺は頷き、帰国の護衛と出発の支度を確かめに向かった。
翌日、帰国の挨拶のため皇帝宮廷を訪れた。案内された部屋にはルートヴィヒの側近が控えている。皇帝は机から離れ、俺を迎えた。
「レオン陛下。近く帰国されると聞いています」
「はい。出立の前に、今回の仲介について直接お礼を申し上げたく参りました。両国が話し合える場を整えていただき、ありがとうございました」
「礼は受け取りましょう。しかし、条約を結ばれたのは両国です。現地での引渡しをめぐって、また争いが起きないことを望みます」
「私も同じ考えです。軍と行政の引継ぎはまだ続きますが、条約に従って進めます」
ルートヴィヒは頷いた。
「帝国内の商人や諸侯も、今後の通行を気にしています。何か問題が生じれば、これまでどおり公館を通じて知らせてください」
「承知しました」
そのあと帰路の予定を尋ねられ、短く答えて謁見を終えた。帰りの馬車で、公館に残す連絡事項をもう一度確かめた。
ヴィーネンを出た日の朝、馬車が街の門を抜けるまで、思ったより時間がかかった。
大きな荷車が道を塞いでいたわけではない。門の前で旅人と商人が順番を待ち、荷の検査が行われていた。こちらには公用の通行手続があるが、先に並んだ者たちを何もかも追い散らす必要はない。
道端で待つ間、窓の外を見ていると、袋を積んだ荷車の御者が、車輪の金具を足で確かめていた。その後ろには布をかぶせた樽が2つ見える。
「食料かな」
隣に座る随員が目を向けた。
「荷札はここからでは読めませんが、帝国内へ向かう商人のようです」
「ああ、独り言です」
戦時中なら、あの荷物がどこへ行くのか気になっただろう。今も気になると言えば気になる。ただ、王国の軍へ届くかどうかを考えて見つめているわけではなかった。
城門を過ぎ、郊外の家並みが遠ざかると、馬車はようやく速度を上げた。
行きの旅では、停戦の期限と講和交渉ばかりを考えていた。今は、帰ったら何をしようかと考える時間がある。もちろん、王都にも仕事は山ほど残っている。グライフェンの統治を始める以上、財政も軍もこれから忙しくなるだろう。
それでも、いつ王宮の食卓につけるかを考えてよいのは、ありがたかった。
道中、宿駅には公館からの文書が届けられることがあった。現地への引渡し通知を確認した報告や、捕虜名簿の照合が進んだという知らせだ。俺が移動している間も、帝都と前線と王都では、それぞれの担当者が仕事をしている。
ある日の夕方、宿の庭へ出ると、馬を水場へ引いていく御者とすれ違った。
馬の脚に泥がつき、肩には汗が乾いた跡がある。飼葉を入れた桶の前まで行っても、すぐには食べず、しばらく鼻を鳴らしていた。
「今日はよく働いたな」
俺が首筋へ手を伸ばすと、馬は少しだけ頭を動かした。御者が慌てて頭を下げる。
「陛下、こちらで世話をいたします」
「分かっています。すこし馬と触れ合いたかっただけです」
御者が笑ったので、俺も手を引いた。
近くに馬がいれば、つい様子を見てしまう。トラウムライゼなら、この程度の旅のあとでも食欲は残っているだろうか。腹帯を締めるときに腹を膨らませる癖は、相変わらずだろうか。
そして、エアリアルは元気にしているだろうか。
買ってから、競走へ出す暇もないうちに戦争になってしまった。あの牝馬の脚を思い出すと、早く走るところを見たくなる。王都に戻ったら、厩舎の者と相談しよう。
翌日は雨になった。道がぬかるみ、車列の進みが悪くなったので、予定していた宿駅の1つ手前で止まることになった。同行する者たちは馬の状態と翌日の道を確かめ、俺は届いていた報告に目を通した。
晴れた日にはよく進み、雨の日には遅くなる。当たり前の旅だった。
その間にも、宿駅では講和の話を耳にした。商人が宿駅の係に南へ向かう道のことを尋ねていたが、係も正式な通行の知らせが届くまでは分からないと答えていた。
その日の宿で夕食を待っていると、廊下から宿の主人と随員の話し声が聞こえた。
「南へ行く荷も、また増えるのでしょうか」
「講和は成立しましたが、引継ぎの済んでいない道もあります。通行については正式な知らせを確かめていただくことになります」
「承知しました。泊まりに来る商人たちにも、よく聞かれるものでして」
話し声が遠ざかってから、夕食が運ばれてきた。温かい煮込みは特別な料理ではなかった。それでも、翌日の進軍を考えずに食べる夕食は久しぶりだった。
何日か経って、見慣れた王都へ近づく道に入った。
遠くにヴァイスブルクの建物が見えてきたとき、窓から身を乗り出しそうになった。前に帰ってきたときは、もうヴィーネンへ発つ予定を考えていた。今度はしばらく王都にいられる。
馬車が近づくにつれて、見慣れた建物の形がはっきりしてきた。
王宮に着くと、玄関で迎えの者たちが動き始めた。護衛が持ち場に戻り、随員が荷を運び、帰国の報告を受けに来た者が廊下で待っている。
俺は必要な挨拶を済ませ、急ぎの案件だけを確認してから家族のいる方へ向かった。
母上は廊下で俺の顔を見ると、歩みを速めた。
「お帰り、レオン」
「ただいま、母上」
抱きしめられたとき、返す腕に少し力が入った。母上は一歩離れ、俺の顔を確かめるように見た。
「少し痩せた?」
「そうですか? 食事は取っていたつもりですが」
「本人の言う『取っていた』は、あまり当てにならないものよ」
言い返す前に、後ろからマティルデの声がした。
「兄上、もう出かけないんでしょうね」
「しばらくは王都にいるよ」
「しばらく、ってどれくらい?」
「そこまでは約束できないな。国王だから」
「便利な言葉ね、それ」
妹は不満そうに口を尖らせたが、すぐに俺の袖をつかんだ。
「でも、帰ってきてよかった。ずっと落ち着かなかったもの」
「心配してくれてありがとう」
「当たり前でしょう」
以前なら、そのまま腕を引いて厩舎へ連れていこうとしたかもしれない。今のマティルデは、俺の旅装や後ろに控える人々を一度見回してから手を放した。王女として学んだ礼儀を忘れたわけではないらしい。
「馬たちは元気よ。エアリアルも。兄上の馬のこと、何度か聞いたから」
「それは助かった。俺よりよほど見に行ってるんじゃないか?」
「兄上がいないんだから、仕方ないでしょう」
それはもっともだった。
ハインリヒは少し離れたところで待っていた。俺がそちらへ向くと、きちんと礼をしてから近づいてきた。
「お帰りなさい、兄上」
「ただいま。王都はどうだった?」
「大きな混乱はありませんでした。軍務からの報告が届くと、王都でも確認する仕事が増えましたけど」
「お前も見せてもらっていたのか」
「全部ではありません。担当の方が、数字の読み方や文書の整理について教えてくださいました。分からないところも多かったです」
「どこが難しかった?」
「荷車の台数について、軍と財政から別々の報告があったんです。数が違っていて、どちらが正しいのかと思いました」
「それで、どうした?」
「先生に聞きました。軍の方は現に使っている台数、財政の方は支払いが必要な台数を数えていたので、違って当然だと」
「いいところに気づいたね。数が合わなかったら、まず何を数えているかを確かめるといい」
「はい。次は、聞く前にそこを見ます」
ハインリヒは真面目な顔で頷いた。
「あら、帰ってきたばかりなのに、もう仕事の話?」と母上が言った。
「そういえばそうでした」
俺が笑うと、ハインリヒもようやく表情を緩めた。
「兄上に聞いてもらえるなら、今のうちかと思って」
その気持ちはよく分かる。俺も昔、父上が少し手の空いたところを見つけては、いろいろ聞いたものだ。
「明日も王都にいるから、また続きを聞かせてくれ」
「約束ですよ」
今度は弟に念を押された。
そのとき、廊下の奥からゾフィーがやってきた。急いでいたのか、歩く速さが普段より少し速い。俺の前で立ち止まると、ひと息ついて微笑んだ。
「お帰りなさい、レオン」
「ただいま、ゾフィー」
彼女の手を取ると、温かかった。
今度は、いつ出発するかをすぐに話し始めなくてよかった。
夕食は家族と一緒になった。マティルデは食卓でも馬の話を持ち出し、母上に「帰ってきたばかりの兄を休ませなさい」と言われていた。ハインリヒは途中から静かに聞き役に回ったが、俺が王都の出来事を尋ねると、思い出したことを幾つか教えてくれた。
ゾフィーは皆の話を聞きながら、ときどき俺の皿を見ていた。
「少し足りませんか?」
「いや、十分だよ」
「ならよかった。お母様が、いつもの量では足りないのではと気にしていらしたので」
「母上に食事まで監督されるとは」
「帰ってきた初日くらい、監督されていなさい」
母上は涼しい顔でそう言い、マティルデが笑った。
俺も笑いながら、煮込んだ肉をもう一口食べた。
夕食のあと、部屋へ戻って上着を脱ぐと、肩が少し軽くなった。
ゾフィーは窓辺の椅子に座っていた。手元には折りたたんだ手紙があった。俺が向かいへ腰を下ろすと、膝の上に置いた。
「疲れましたか」
「旅の疲れはあるね。でも、王都に着いたら気が抜けた」
「明日は朝から政務でしょう?」
「そうなると思う。溜まっている仕事もあるだろうし」
「では、あまり遅くならない方がよさそうですね」
ゾフィーは膝の手紙をそろえた。
「何を読んでたの?」
「母からの手紙です。領地の行事について書かれていて」
「リューネンベルクから?」
「ええ。母は今年の催しの話を書いてくれるのです。兄も忙しくしているようですが、元気だと」
「それはよかった。俺もお義父上に手紙を書こうと思ってる。帰国したことを知らせたいし」
「父も喜ぶと思います」
「皇帝選挙では別の候補を支持したけど、これからも変わらずお付き合いしたいからね」
「父なら、あれはあれ、これはこれ、と言いそうです」
「言いそうだね」
社交の席で会ったフリードリヒの顔を思い出した。政治上の意見が違っても、親戚になった事実は変わらない。
ゾフィーが膝の手紙へ目を落とした。
「ヴィーネンからの知らせは、届いていました。講和がまとまったと知って、ほっとしました。でも、いつこちらへ出られるのかは、最後まで分からなかったので」
「出発までの仕事が思ったより多かった。書いたとおりに動いてくれればいいんだけど、書類を渡しただけで終わりにはならないから」
「そうでしょうね。こちらへ戻ってこられても、あちらの仕事は続きますもの」
「うん。ただ、今度は俺が現地にいなくてもできる仕事が多い。ちゃんと任せてきたよ」
「そう聞けて安心しました」
彼女は手紙を脇へ置き、しばらく俺を見ていた。
「前にお戻りになったとき、私は、戦況の知らせであなたの名前を聞くのが怖いとお話ししましたね」
「ああ。覚えてる」
「あれからも、手紙が届くたびに、まず無事でいらっしゃるかを探してしまいました。講和になってからもです」
「ごめん。そんな思いをさせた」
「責めているわけではありません」
ゾフィーは首を振った。
「ただ、あなたは、戻ってくればすぐに次のことを考え始めるでしょう。私には何ができるのか、まだよく分からなくて」
「王妃として?」
「それもあります。でも、妻として、です」
すぐには返事ができなかった。
国王の仕事なら、考える材料がある。相手の目的を聞き、必要な金や人員を確かめ、自分が決めるべきことを決める。けれど、妻に心配をかけない方法は、戦場へ行かないこと以外にどれほどあるのだろう。
「俺は、前線にいたときも、君が王都にいると思うと帰りたくなったよ」
言いかけて、なんだか気恥ずかしくなった。
「仕事を投げ出したいって意味じゃないけど」
「それは分かっています」
彼女は少し笑った。
「私が聞きたかったのは、そういうことです。勝ったとか、何日かかったとか、それだけではなくて」
「そうか」
「レオンが何を考えて、どんなふうに過ごしていたのか。あのときもそう言いました」
「ああ。そうだった」
俺は背もたれに体を預けた。どこから話そうか考えていると、ハーゲンフェルトの司令部で食べた固いパンのことがふと浮かんだ。
「戦場にいた間、妙にパンのことが気になった日があったんだ」
「パン、ですか?」
「夕方、報告を聞きながら食べようと思って机に置いたら、次の使者が来て。そのまま忘れて、気づいたときにはすっかり冷たくなってた。食べたけど、ひどく固かった」
ゾフィーは驚いたように目を開いたあと、笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
「それは、誰かに温め直してもらえなかったのですか」
「頼もうと思えばできたんだろうけど、そのときはそんなことまで頭が回らなかった。戦争をしてるのに、後から思い出すのがパンだなんて妙だよね」
「少しも妙ではありません。食べずにいたことの方が心配です」
「ちゃんと食べたよ。固かったけど」
「それでは慰めになりません」
今度は2人とも笑った。
パンの話から、馬が泥道で足を取られたことや、夜に急な報告が入って寝つけなかったことを、思い出すままに話した。ゾフィーは途中で質問を挟み、ときには自分が王都で聞いた話も教えてくれた。
「マティルデ様は、あなたからの知らせを気にしながらも、馬の世話へ行っていらっしゃいました。あの方は、じっと待つ方が苦手なのでしょうね」
「小さい頃からそうだよ。心配なら何かしていたいんだと思う」
「ええ。私も、少し分かる気がしました」
「あなたがいない間、私は王妃としての仕事を教わりながら、何度も考えました。あなたが戻ったら、どんなことを一緒にしたいか」
「何か決まった?」
「一緒に朝食を取ることです」
思わず笑ってしまった。
「ずいぶん簡単な願いだね」
「簡単でしょうか。王宮にいても、あなたは朝からお忙しいことが多いでしょう」
「確かに。それなら、明日は朝食に間に合うようにするよ」
「明日だけではありませんよ」
ゾフィーはいたずらっぽい顔をした。
「毎日とは申しません。でも、できる日は一緒に。先に仕事が入っていたら、教えてください。私も自分の予定を考えますから」
「分かった。そうしよう」
俺が立ち上がると、ゾフィーも席を立った。近づいてきた彼女の手を取り、そっと引き寄せる。肩に顔が触れるほどの距離になってから、彼女が小さな声で言った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
今度は言葉を続けず、しばらくそのままでいた。
翌朝、目を覚ますと、ゾフィーはすでに起きていた。
「おはようございます。今日は朝食に間に合いそうですか」
「もちろん」
昨夜の約束を確かめるように言うので、俺は少し笑った。
朝食の席では、母上が珍しそうに俺たちを見た。
「今日は2人とも早いのね」
「これから、できる日は一緒に食べようということになったんです」
ゾフィーが答えると、母上は嬉しそうに頷いた。マティルデはパンをちぎりながら、俺の方へ身を乗り出した。
「兄上、食べ終わったら少し時間ある?」
「午前の仕事までなら。どうした?」
「エアリアルを見に行かない? 帰ってきたら見たいでしょう」
「よく分かったね」
「兄上のことだから」
横でゾフィーが笑った。
「昨日も、そのお話をされていましたよ」
「なんだ、もう知ってるのか」
「私も一緒に行ってもよいですか」
「もちろん。馬に会うだけなら、何人でも歓迎だ」
ハインリヒは、午前に教わることがあると言って席を立った。俺が「昨日の続きは、今日の夕食のあとに聞かせてくれ」と声をかけると、「はい。兄上こそ、厩舎で時間を忘れないでください」と返された。
弟にまで見抜かれているらしい。
王宮厩舎では、厩務員たちが朝の仕事をしていた。飼葉の匂いがして、馬房の奥で蹄が床を鳴らす音がする。馬具を点検する者もいれば、馬を外へ引き出して歩様を見ている者もいた。
トラウムライゼの馬房へ寄ると、こちらを向いた馬が鼻を鳴らした。
「久しぶりだな」
首に触れると、こちらの袖を確かめるように鼻先を寄せてきた。俺が長いあいだ顔を見せなくても、馬の方は落ち着いている。
「また腹帯を締めるときに膨らませるのか?」
返事の代わりに、トラウムは首を振った。
「兄上、馬に質問しても返事はしないわよ」
「顔を見れば、だいたい分かる」
「それは兄上が分かった気になってるだけでしょう」
マティルデは言いながら、トラウムの額を撫でた。馬の方は素直にその手を受け入れている。
「俺のときと態度が違わない?」
「気のせいよ」
ゾフィーが後ろで笑っていた。
エアリアルは別の馬房にいた。鹿毛の牝馬は、俺たちが近づくとすぐに耳を向けた。厩務員に様子を聞くと、留守の間も普段どおり運動を続け、大きな問題は出ていないという。
馬房から顔を出したエアリアルの鼻先へ、そっと手を伸ばす。俺のことを覚えているかどうかは分からない。だが、元気そうなのを見れば、それで十分嬉しい。
「競走へ出すなら、いつ頃がよさそう?」
「状態は悪くありません。ただ、ほかの馬と一緒に走らせるなら、まず騎乗する者と調子を確かめたいところです。競走の時期については、それからでも」
「そうだね。急いで無理をさせたくはない。調教の予定が決まったら、知らせてほしい」
「承知しました」
「兄上も、早く走るところが見たいんでしょう?」
マティルデが横から言った。
「見たい。かなり見たい」
「正直ね」
「そりゃあ、こんな馬を買ったんだから」
「私も見たいわ。競走の日が決まったら、知らせてね」
「もちろん。まだ決まってないけど」
ゾフィーはエアリアルを眺めながら、俺に尋ねた。
「以前お話ししていた、ほかの馬と速さを競う催しですか」
「うん。今ある競走でも、走れる場はある。まずはどんな相手と走れるか、確かめてみようと思う」
「そのときは、私も見に行きたいです」
「それなら、ぜひ」
俺は少し嬉しくなって、競走では何を見ていると面白いのか話し始めた。先に行く馬に食らいつく走り方や、最後まで脚を使える馬の強さについて話していると、マティルデが途中で遮った。
「兄上、午前の仕事は?」
「あっ」
ゾフィーも俺を見ていた。
「朝食の約束を守れたと思ったら、次は厩舎で遅刻ですか?」
「間に合うよ。今戻るから」
「でしたら、そろそろ行きましょう」
俺は厩務員に礼を言って馬房を離れた。
廊下へ戻る途中、ゾフィーが俺の歩調に合わせて隣へ来た。
「楽しそうでしたね」
「そりゃあね。あの馬がどんな走りをするのか、ずっと気になってたから」
「では、競走の日を楽しみにしています」
「うん。決まったら、最初に知らせるよ」
王宮の政務区へ向かう角で、マティルデは別の廊下へ曲がっていった。ゾフィーも自分の用事があると言って、そこで別れた。
執務室には、昨日のうちに届いた報告が用意されていた。グライフェンの引渡しに関するものが一番上に置かれている。
俺は椅子に座り、封を開いた。
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