第63話
~アマーリエside~
講和条約の写しを机に置くと、ようやく肩の力が抜けた。
一晩眠れば、少しは気分が変わるかもしれないと思っていた。けれど、目が覚めても、何一つ気分は変わらなかった。
窓の外では、ヴィーネンの街がいつもどおり動いている。荷車の音がして、人が行き交い、遠くで教会の鐘が鳴った。
扉を叩く音がした。
「どうぞ」
外交担当者と軍務担当者が、封印する前の命令書を抱えて入ってきた。
「前線への講和通知と、捕虜の返還手続に関する指示です。殿下の確認をお願いいたします」
私は椅子を引き寄せた。
「軍には、条約が成立したことを最初に知らせてください。攻撃を再開してはなりません。ただし、相手方の前線部隊にも命令が届き、その受領を確かめるまでは、こちらも警戒を解かせないでください」
「現地に残る部隊の配置は、これまでの司令官に判断させますか」
「はい。現地の配置は、引き続き司令官に任せます。ただし、条約で定めた撤収と引渡しの順序は守らせてください。必要な警備と負傷者の後送は続け、独断で陣地を動かして争いを起こさないように」
軍務担当者が頷き、書面に短く書き足した。
机の端には、捕虜に関する報告が積まれていた。名簿の文字がかすれ、氏名を確認できない兵。同じ姓の兵が別の収容地にいるという連絡。負傷のため、まだ馬車に乗せられない者。
「この名簿に載った人たちは、いつ戻れますか」
「移送できる者から順に手配します。相手国との照合が終わっていない者は、もう少しかかる見込みです」
「ご家族への連絡は?」
「所在が確かめられた者については、地方の役所へ知らせる準備をしております」
私は紙に並ぶ名前を目で追った。どれも私の知らない人たちだった。
「準備だけではなく、確認できた順に知らせてください。全員が揃うまで待つ必要はありません。まだ分からない人については、そのまま分からないと伝えればいいのです」
「はい」
「それと、負傷した捕虜の治療は、返還の日が決まらなくても続けるように。こちらが預かっている人も、向こうにいる私たちの兵も、まずは生きて帰ってもらわなければ」
条約で費用の扱いは決めた。だからといって、傷が治るわけではない。
担当者は書面を整え、署名する箇所を示した。私は1通ずつ内容を確かめ、名前を書き、封印した。
最後の紙を渡すと、軍務担当者がためらいがちに言った。
「これで戦争は終わったのですね」
「条約は結びました」
そう答えてから、少しだけ考えた。
「前線の兵たちが家へ戻り、家族がそれを確かめられるまでは、終わったと感じられない人も多いでしょう。私たちには、まだ仕事があります」
彼らは礼をして出ていった。
机には次の封書が残っていた。今度は、帝国内の世襲領に関するものだった。
私はヴィーネンにいる間に、済ませておきたい仕事がまだあった。
アイヒェンベルク伯領について、ディートリヒ・フォン・ケルンブルクから続いている請求だ。
帝国内の法を扱う担当者が、古い記録を机に広げた。父上の時代から確認が続いていた文書も混じっている。
「戦時中、ディートリヒ殿は対外防衛に協力されました。そのことを、今回の審理ではどう扱いましょうか」
「戦時の協力は、感謝すべき功績として記録してください。ただし、伯領の請求が正しいかどうかは別です。協力したことを、請求を認める根拠にも退ける根拠にもせず、提出された文書と適用される法で審理します」
「承知しました。請求は引き続き審理に付し、軍事協力とは区別して記録します」
「はい。ただ、争っているのはアイヒェンベルク伯領です。ほかの世襲領まで話を広げないでください」
担当者は記録の端に指を置いた。
「この文書は、まだ真偽の確認が終わっていません。先方からは、審理中の権利保全についても問い合わせが来ています」
「文書を確かめる間に、その土地の暮らしを止めるわけにはいきません。今の役人には通常の仕事を続けてもらいましょう。ただし、係争中の権利を勝手に処分させないようにしてください」
「分かりました。先方へもその方針を知らせます」
「和解について話し合う用意があることも伝えてください。私の領土全部を争うのではないと、あちらも初めから示しているのですから」
戦争の間、別々の考えを持つ人たちが、同じ敵へ向かって兵を出した。だからといって、誰もが同じ望みを持つようになったわけではない。
私はディートリヒの請求を快く思っているわけではなかった。父上が残してくれた領土に、まだ争いのあることを考えると、胸の奥が重くなる。
それでも、レオンに奪われたものと、国内の人々が法に従って求めているものを、同じように扱いたくはなかった。
「皇帝陛下の側へ送る書面も、審理の範囲を明記してください」
「はい。再授封の確認が必要な領域についても、別の文書にまとめます」
私は頷いた。
ヴィーネンの宮廷は、もう父上の宮廷ではない。
廊下を歩く人たちも、扉の外で待つ使節も、以前と同じ顔ばかりではなかった。それでも、ここで行われている審理がなくなるわけではない。皇帝の冠が別の家へ渡っても、帝国の決まりは続く。
私には、その決まりの中で守るべき領地がまだある。
仕事を終えた担当者が引き下がると、私は帰国の準備を命じた。レーヴェンブルクからも、早く戻ってほしいという報告が来ていた。
ヴィーネンを出てから、何日も馬車に揺られた。
途中の宿駅では、先に着いていた手紙を受け取った。使者を送り出したあとで届く報告もあった。私が旅をしている間にも、前線の兵は食事をし、負傷者は運ばれ、地方の役人たちは仕事を続けている。
窓の外を眺めながら、その当たり前のことが、時折ひどくありがたく思えた。
レーヴェンブルクの街並みが見えたときには、日も傾いていた。
城門を抜けると、道端に立ち止まる人たちがいた。礼をする人もいれば、ただ馬車を見送る人もいた。誰かが声を上げたけれど、荷車の音に紛れて、言葉までは聞き取れなかった。
私は窓に手を掛けた。
この街も、いつもどおり動いている。けれど、そのいつもどおりを維持するために、これからどれだけのことをしなければならないのだろう。
宮殿では、すでに政務担当者たちが待っていた。
着替える間も惜しい、とは言いたかった。でも、旅の埃をつけたまま会議を始めても、相手を落ち着かなくさせるだけだろう。水を使って顔を洗い、衣服を替えてから執務室へ向かった。
「お帰りなさいませ、殿下」
最初に出迎えた担当者の顔には、疲れが出ていた。
「留守の間、ご苦労をおかけしました。まず、急いで決めなければならないことから聞かせてください」
差し出されたのは、戦時支出の一覧だった。
軍へ渡した食糧、補充した馬、雇い上げた荷車。すでに支払った金と、まだ支払っていない金が分けて記されている。別の紙には、戦時に借り入れた金と、返済の期日が並んでいた。
「グライフェンを失った今、未払金を一度に支払える見通しはありますか」
「今年の収入見込みを修正しております。グライフェンの割譲地域を含めた従来の数字は、もう使えません。通常の宮廷費と地方行政費を差し引きますと、軍への未払分まで一度に支払うことは難しい状況です」
「では、支払う順番を決めなければなりませんね」
「はい。ただ、地方の身分会からは、戦時の特別負担をいつまで続けるつもりなのかという問い合わせも来ています」
紙をめくる手が止まった。
戦争が終わったから、金が元に戻る。そんな都合のよい話はない。
「特別負担を、そのまま平時の税にしてはいけません。必要な支出と返済を整理して、地方へ説明する案を作ってください」
「減らせる支出を先に探しますか」
「それも必要です。でも、兵に約束した給金や、使った荷車の代金まで、なかったことにはできません」
担当者は深く頷いた。
「すでに支払われた分と、まだ支払われていない分を、地方ごとに確かめます」
「請求が重なっているものも調べてください。払うための帳簿で、同じものを2度払ってしまったら困ります」
少しだけ、相手の口元が緩んだ。
「そうならないように努めます」
私は改めて、書面の数字を見た。
多くの領土を失っても、残った人たちの生活まで止めるわけにはいかない。費用を削ることも、借りることも、地方へ協力を求めることもできる。けれど、どの方法にも、その先で負担する人がいる。
父上なら、どこから手を付けただろう。
ふとそう思った。
答えを聞くことは、もうできない。それでも、目の前の書類がなくなるわけではない。私は帳簿を閉じ、未払金の内訳を翌朝までに確かめるよう頼んだ。旅の疲れが出て、今夜はもう書類に目を通す気力も残っていなかった。
翌朝、執務室へ運ばれてきたのは、馬と荷車の返還を求める地方からの書状だった。
「戦時中に提供した荷車を、収穫物の運搬に使わせてほしいとのことです」と軍務担当者が説明した。「馬も戻してほしいそうですが、いま残している守備隊の輸送には必要です」
「すべて返せば、兵の食糧が運べなくなるのですね」
「はい。ですが、全部を軍が持ち続ければ、地方の農作業と商売に支障が出ます」
書状には、荷車を預けた日と、元の持ち主の名前が書かれていた。
戦争に協力してほしいと頼んだのは、こちらだ。だからといって、その人たちがいつまでも車を使わずに暮らせるわけではない。
「返還できる車の数は、もう調べていますか」
「各部隊から集計中です。必要な補給を維持した場合、すぐ戻せるものがどれだけあるかは、まだ揃っておりません」
「では、戻せる分から返してください。残す車は、いつまで必要かを一緒に報告させます」
「返還が遅れる持ち主への補償はどういたしましょう」
「それも記録してください。払えると決まっていないのに約束だけ増やすつもりはありませんが、遅らせている理由も金額も、分からないままにはしたくありません」
軍務担当者は、1枚の書状を手に取った。
「こちらは、守備隊が引き続き使う馬についての請求です。返してしまえば、交代の部隊へ知らせる使者も不足する可能性があります」
「守備隊に必要な馬は残します。その代わり、ほかへ回せる馬を探してください。地方に1頭も返さないという話にはしたくありません」
「承知いたしました」
そこで、しばらく黙っていた財政担当者が口を開いた。
「殿下。必要な馬と車を残すことに異存はありません。ただ、返還が遅れるものすべてに追加の補償を認めれば、国庫では支えきれません。請求を確かめる基準が必要です」
「そうですね。徴発したときの取り決めと、実際に使った期間を確かめてください。補償すべきものを区別して、その上で支払う時期を地方と相談しましょう」
「承知しました。軍務側の使用記録と、地方からの請求を照合いたします」
私は2人の顔を見た。
「軍務だけで期限を決めないでください。財政担当と地方の窓口にも確認を取り、返すもの、残すもの、補償するものを分けた一覧を持ってきてください」
軍務担当者が紙を手元へ引き寄せ、項目を書き直した。
「では、前線の部隊へも同じ形式で報告させます」
「お願いします。次の報告が届いたら、まだ残してよい馬と車なのか、改めて確認しましょう」
2人が退出したあと、机の上には地方からの書状が残された。
書状に記された持ち主のもとへ荷車が戻り、また畑の収穫物を運ぶ。そんな様子を思い浮かべると、少しだけ気持ちが軽くなった。
その日の午後、軍務担当者たちと改めて協議を開いた。
戦時中は、前線からの報告が遅れれば、どの部隊がどこにいるのかさえ分からなくなることがあった。軍を動かすために馬が要り、馬のために飼料が要り、飼料を運ぶために車が要る。どれか1つが足りなければ、命令しただけでは兵は動かない。
「戦時に限って出した臨時命令は、もう必要のないものから順に解除します」と私は告げた。「ただ、部隊の人数や馬の状況を報告する仕組みまで、元に戻す必要はありません」
年配の軍務担当者が資料をめくった。
「現在の報告は、戦時の司令部へ集めるために急いで整えたものです。平時も同じ頻度で続けますか」
「同じ頻度でなくても構いません。定期的に知らせてもらう内容を決めてください。人数、傷病者、馬と車、使える装備……何が足りないか分かる報告にしたいのです」
「地方の軍役については、従来の取り決めがございます」
「もちろん、それを無視して増員を命じるつもりはありません。次に兵が必要になったとき、どこへ相談し、どこに集まり、何日ほどで動けるのか。それを平時に確かめておくことはできるでしょう」
「各領域の承認を得ながらであれば、準備できることはあります」
「では、その案を作ってください」
新しい軍を一夜で用意できるわけではない。
私には、今回の戦争で見てしまったものがある。前線に兵を送ろうとしても、馬が足りず、荷車が戻らず、必要な連絡が別々の場所で止まっていた。そこへレオンの軍が来た。こちらも戦った。兵たちは何度も踏みとどまった。それでも、守れなかった土地がある。
「報告の仕組みを続けるにも費用がかかります。馬や装備の補充を増やすなら、ほかの支出をどうするかも考えなければなりません」と財政担当者が言った。
「ええ。今すぐ軍を増強するための予算を決めるつもりはありません。まず、現在の兵や馬を維持するのに必要な費用と、装備を整え直す費用を分けて見積もってください」
「返せる馬まで軍に置いておいては、地方も困ります。必要な数が分かってから、何を優先するか決めましょう」
「承知しました。軍務側と必要数を確かめます」
「国の借入についても、返済先と期限をまとめた帳簿を継続してください。借りたお金を、担当者が替わっただけで誰にも分からなくしたくありません」
軍務担当者と財政担当者が顔を見合わせた。
「仕事は増えますね」と私は言った。
先に笑ってしまったのは、私の方だった。
「ですが、戦争中に何度も確認し直したことです。次は、慌てなくても分かるようにしておきたいのです」
会議が終わる頃には、窓の外が暗くなり始めていた。
最後に、地方からの報告を1つ受け取った。戦死者や帰還しない兵の家族が、所在を確かめられる窓口を求めているという。
私は、捕虜名簿と負傷者の記録を担当する者へ、その問い合わせを届けるよう命じた。分からないことは分からないと伝える。確認したことは遅らせず知らせる。その仕事を、家族が何度も別の役所へ尋ねて回らずに済むようにしたかった。
執務室に一人になると、急に静かになった。
机には、明日も読むことになる書類が残されている。
帰してほしい馬の数を書いた手紙。負傷者の名簿。返済日が並んだ帳簿。父上が亡くなってから、私はこうした書類を何度も受け取り、決め、署名してきた。
けれど今日は、紙を手に取るたびに、失ったものの大きさを思い知らされた。
グライフェンの領土。父上の家が長く保ってきた皇帝の冠。そして、戦争で帰らなかった人たち。
領土を明け渡す文書に、自分で名前を書いた。書くしかなかったのではない。ほかの道があることも知っていて、それでも私は、残された国を守るために講和を選んだ。
正しかったのだと思う。
けれど、それで悔しさが消えるはずもなかった。
レオンの顔が浮かんだ。
父上を亡くして間もない私の事情を、彼は知っていた。それでも、自分の国のために攻めてきた。彼を知らなければ、もっと簡単に憎めたのかもしれない。
私は椅子から立ち、窓のそばへ行った。
外にはレーヴェンブルクの灯りが見える。帰ってきてよかったと思う。ここにいる人たちの生活を、私はまだ守れる。
今日、決めたことは小さな仕事ばかりだ。馬を何頭返せるかを調べること。借りた金を記録すること。帰らない兵の家族へ知らせること。明日になれば、また別の問題が届くだろう。
でも、そうやって一つずつ変えていくしかない。
兵が必要なときに動ける国にする。人々が安心して働き、暮らせる国にする。支払うべきものを支払い、無理な負担をかけたなら、きちんと向き合える国にする。
父上から受け継いだこの国は、まだここにある。
私は、二度と同じように奪われたくない。
レオン。今回は、あなたに負けた。
けれど、これで終わりにはしない。
この国を、今よりずっと強くする。
そしていつか、必ず、あなたを越えてみせる。
第4章はこれ終わりです。
この小説の主人公はレオンです。この章だとすごくアマーリエが主人公っぽいですが、、
ただ、国を強くするのに侵略戦争は避けて通れないと思ったので、こんな展開になりました。
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