第62話
アマーリエから渡された書面には、地図には書かれていないことが並んでいた。
北部の村に土地を持ちながら、南部で暮らしている家族。エルツハイムの商人に金を貸している者。収穫の時期だけ山麓へ入る農民や、親族の葬儀で行き来する人たち。通る道が変われば、生活が変わる。そこに新しい国境ができるなら、今の約束はどうなるのか。
俺が求めたのは、北部と中央部、西部の主要地域だった。だが、その線の内側にいる人間が、全員同じ場所に生まれて同じ場所で一生を過ごすわけではない。
「こちらの願いは、すぐに返答できるものだけではありません」とアマーリエが言った。「ですが、主権を移す話をするのであれば、先に確かめておきたいのです」
「分かりました。少なくとも、今ここで土地だけ受け取って、あとは各自で何とかしてくれと言うつもりはありません」
「それなら、この家族についてはどうお考えですか」
彼女が指したのは、同じ家の者が北部と南部に別々の土地を持つ例だった。どちらかへ移り住むとしても、畑や家を売る時間が要る。そもそも土地を持ち続けたい者だっている。
「外国人になったという理由だけで、適法に持っていた土地を取り上げません。売るかどうかも、本人の判断に任せます。ただし、税や裁判に関する上位の権限はファルケンマルクへ移ります。今の領主や都市の権利まで奪うわけではありませんが、何が変わるのかは文書に書いておく必要があります」
「管轄を変えるだけでも、これまでの取り決めが消えてしまうことがあります。領主と結んだ約束、村の共同利用地、都市が認めてきた商人の権利。新しい役人が、それを知らないまま徴税したら?」
「既存の台帳を調べてからでなければ、役人を送っても混乱するでしょうね」
「調べる時間を、いただけますか」
俺は書面へ目を落とした。彼女は最初から、国境の線だけを見ていなかった。
「必要です。ただ、期限もなく現在の制度を続けるわけにはいきません。移管する官吏と、今の台帳を扱える担当者とで、引き継ぎの手順を決めましょう」
アマーリエは頷き、隣の外交担当へ書面を渡した。担当者が該当箇所に印を付ける。皇帝側の仲介担当者も、自分の記録を確かめていた。
そこで彼女は、別の紙を手元へ引き寄せた。
「住民に関する条件は、今のお話を基に続けられると思います。けれど、領土そのものについては、まだ同意しておりません」
「承知しています」
「まず、現在の軍の位置を保ったまま、長期の停戦へ移る案を申し上げます。双方が停戦線へ増援を送らず、住民の往来と商取引を回復する。グライフェンの最終的な帰属は、その間に改めて協議するのです」
今の停戦より、ずっと長い猶予を作る。彼女の側にとっては、それが一番よい案なのだろう。軍を立て直す時間ができ、失った土地の主権も手放さずに済む。
「その案なら、ファルケンマルク軍は占領地に残ったままになります」と俺は答えた。「治安も補給も続けなければならない。そちらも軍を戻せません。いつ終わるか分からない状態を、両国の住民へ長く押しつけることになります」
「占領しているのは、そちらの軍です」
「ええ。だから私にも負担があります」
「負担を避けたいから、土地を明け渡してほしいと?」
アマーリエの声が少し低くなった。
「いいえ。あの地域は、ファルケンマルクが今後の国を支えるために必要です。最初からそのつもりで戦争を始めました。占領したから当然だ、とは申しません。しかし、正式な帰属が定まらない限り、こちらも軍を撤かせるわけにはいかないのです」
「そうですか」
短い返事のあと、アマーリエは書面の端を揃えた。
「では、こちらからも割譲範囲を縮める案を出します。主要都市の帰属についてすぐに結論が出ないとしても、それ以外の地域まで同じように扱う必要はありません」
彼女は地図を動かし、中央部から南へ伸びる色の付いた部分を示した。山地の手前まで線が続いている。
「軍が入っていない場所、今も私の官吏が税と裁判を扱っている場所を含め、もう一度範囲を確かめてください」
その要求には理由があった。こちらの兵が実際に占めている3都市と、俺が条約で求めている地方全体は、同じ広さではない。そこを曖昧にしたまま押し切れるほど、彼女は甘くなかった。
「検討します。ただ、3都市だけを結ぶ細い土地では、こちらが求めた目的を果たせません。道と周辺の行政地域も含めて話し合う必要があります」
「ならば、その必要な範囲を、後で一つずつ説明してください」
俺は頷いた。譲るつもりのない線はある。だからといって、その線の中に何を含めるかまで、俺一人が決めたと言い張るわけにはいかなかった。
会談が終わったあと、公館へ戻った俺たちは、卓上に地図を広げ直した。
赤い線の内側には村も街道もあり、役所や裁判所もある。まだ自軍の兵を置いていない場所も多い。
同行した外交担当が、アマーリエの長期停戦案について意見を求めてきた。
「陛下は、期限付きで一度受け入れるお考えはありますか」
「長期停戦案は、期限付きでも今の条件では受け入れません。占領地の帰属が決まらないまま、軍を何年も置くつもりはありません。ただ、拒否だけを伝えるのではなく、正式講和なら保証できる条件も示しましょう」
彼は、戦線の報告をまとめた紙を俺の前に置いた。ハーゲンフェルトを発つ前の報告だけでなく、ヴィーネンへ来る途中で届いたものも含まれている。いま現地でどこまで変わっているかは、報告だけでは分からない。
「向こうはまだ軍を持っています。こちらが南方で守り切ったからといって、次の戦いまで勝てる保証はありません」と俺は言った。
「こちらにも追加動員の余地はありますが、戦争を続ければ占領地の守備と輸送は重くなります。南の線だけを見ていれば済むわけではありません」
「それはあちらも同じでしょう。部隊を集めるだけならともかく、馬を養い、砲を動かし、弾薬を運ぶ。地方の貴族たちに追加負担を求めるにも、話し合いが要る」
ヴァルデンハイムの国庫が空になったわけではない。国土も人口も、まだこちらより大きい。時間をかければ、もう一度十分な軍を揃えられる可能性がある。
軍を揃える時間を与えれば、アマーリエは失地回復を試みられるかもしれない。こちらがそれを恐れて戦争を続ければ、せっかく得た都市と道路の警備に、ますます兵が要る。双方が次の一手を疑い合う長期停戦は、平和に見えても少しも楽ではない。
「陛下が求める帰属線は、変更されませんか」と外交担当が尋ねた。
「北部、中央部、西部の主要地域は変えません。山地の南へ軍を進めるつもりもない。残す土地は残すと、明確に伝えましょう」
「ヴァルトトーアと山地の峠も、先方に残す方針でよろしいでしょうか」
「ええ。3つの峠を押さえて、その向こうまで欲しいと言えば、向こうが講和を選ぶ理由はなくなります」
地図には、峠を越えた向こうの山や谷も描いてある。そこへ進む軍を用意できるかという問題は別にして、今その土地を取る必要はない。
外交担当は頷いたものの、まだ筆を置かなかった。
「ですが、将来そちらから兵が来れば、国境の守りは難しくなります」
「こちらが有利な線を全部取るまで続けたら、いつ戦争が終わるんですか。必要な線は守る。その先は、条約と軍の備えで考えるしかありません」
言ってしまえば簡単だった。問題は、俺が今求めている線について、アマーリエが何を差し出せるか、何を守ろうとするかだ。
彼女に要求を呑ませるためだけの細かな譲歩なら、見抜かれるだろう。
その夜、俺は会談用の新しい紙に、残余領への追加請求をしないこと、彼女の継承に軍事介入しないこと、傍系請求者を支援しないことを書き込んだ。もともと戦争を広げるつもりはない。だが、こちらの腹積もりと、相手に守れる権利として渡す約束では意味が違う。
隣には、住民と商人の権利の扱いを書いた。アマーリエが見せた書面を読み直しながら、抜けているところへ印を付けていく。
深夜になっても書類は減らなかった。これを全部、俺の机で決着させようというのが無理な話だ。条約で守るべき原則を決め、どこから先を両国の担当者が処理するのか、分けておかなければならない。
次の会談では、アマーリエもこちらの返答を待つだけではなかった。
「残余領の安全について、いただいた文案を拝見しました。追加の領土請求を行わないという条文は評価します。ただ、傍系請求者への不支援は、名目を変えた軍事介入にも及ぶようにしていただきたいのです」
「殿下の継承をめぐる争いに、私が兵を送ることはありません。傍系の請求者を政治的にも軍事的にも支援しないことも、お約束します」
「その2つを別々の約束として書いてください。私の側に不都合な訴えが出た場合、ファルケンマルクが当然にそれを正す役目を負う、という余地を残したくありません」
「分かりました。傍系請求者への不支援と、継承争いへの軍事不介入を別の条項にしてください。帝国内の領地については、皇帝と適法な機関の手続を妨げない、と明記します」
記録を取っていた皇帝側の担当者が、その区別を確認した。ルートヴィヒが仲介しているからといって、アマーリエの家の領地を一括して認めることはできない。帝国内の相続や再授封には、それぞれの法と手続がある。俺の約束は、そこへ勝手に手を出さないという約束だ。
アマーリエは次の紙を出した。
「新しい国境を越える商人と住民の扱いも、今の案では足りません。移住を選ぶ人が土地を売るにも、買い手を探し、税を清算しなければなりません。売らずに持ち続ける人には、その権利を認める必要があります」
「既存の適法な財産権は保護します。国境を越えて所有することも、禁止しません」
「その約束が、村と都市の役人に届くまでの間は?」
「通達が行き渡るまで、新しい徴税や財産の処分を一方的に始めないよう、現地の担当者に命じます。両国で旧来の記録を照合できるようにし、権利に争いがあれば、没収せず窓口で調べさせましょう。税の二重取りも防ぎます」
「そのように書いてください。口頭で納得しても、現場の人間は私たちの会話を聞いていませんから」
まったくだ。アマーリエの言葉に、俺は素直に頷いた。
彼女はさらに、残余領へ向かう家族と、山地の村で使われている道の扱いを指摘した。すべての道を無条件で自由にしろと言っているのではない。通行税、検査、軍用品の運搬を分けたうえで、民間の往来がいきなり止まらない取り決めを求めていた。
「民間の往来は続けられるようにしましょう。通行税と検査の手続きを両国で取り決めます。軍用品の運搬は別に扱う必要があります」と俺は答えた。
「ありがとうございます。病人を連れた家族まで、国境で追い返されることがないよう、通行を認める条件も書いていただきたいのです」
「ええ。必要な手続は担当者に詰めさせましょう」
アマーリエが一度、地図に目を落とした。
「では、領土の話に戻りましょう」
さっきまでの合意とは違い、部屋の空気がまた重くなった。
彼女はグライフェンの南東部と、ホーエンヴァルトの山地を示した。ヴァルトトーアと3つの峠については、ヴァルデンハイムの領域として残すことを明文化させたいと言う。
「そこは私も求めていません」
「国境の実査で、山道の入口や周囲の土地を追加で取るという話にもしたくありません」
「後から担当者が勝手に広げることは認めません。主要な境界は、今ここで双方が確認した地図と既存の行政区分で定めます」
「そうしていただけるなら、実査のための担当者を出せます」
俺も地図を見直した。北部と中央部、そしてエルツハイムを含む西部の主要な行政地域。合わせておよそ6万km²になる範囲だ。厳密な村境までこの席で数え上げた数字ではないが、どの地域を得るかは曖昧にできない。
「こちらの最低線は、この範囲です」
指を離しても、アマーリエは地図から目を上げなかった。
「以前の私なら、もう一度その理由を聞いたと思います」
やがて顔を上げ、彼女は言った。
「今は聞きません。陛下が必要だとお考えなのは、十分承知しましたから」
その言葉のあと、しばらく誰も口を開かなかった。
「ですが、その土地が必要だという陛下のお考えと、そこを渡してよいと私が思うことは、別です」
「はい」
「時間をください。私の軍も国も、まだ戦うことができます。そのことを、忘れないでいただきたいのです」
「忘れてはいません」
アマーリエは書類を閉じた。話し合いを終わらせるためではない。続けるかどうかを、自分で決めるための時間が必要なのだろう。
その後の協議は、同じ机を何度も囲んで進めたわけではない。
双方の担当者が文案を持ち帰り、皇帝側の仲介担当が異なる部分を取りまとめる。合意できる箇所は先に揃え、残った問題を次の会談へ持ってくる。すべての細かな変更に、俺とアマーリエが立ち会う必要はなかった。
公館で確認したのは、前線から届いていた報告と、講和後に何が起きるかだ。
停戦中とはいえ、南方の双方の軍は向かい合ったままだ。兵を故郷へ帰すには、撤収の命令を送り、部隊の配置を替え、使わなくなる陣地や倉庫を片づけなければならない。エルツハイムの外では、降伏していない敵の兵も残っている。条約ができた瞬間、彼らの足元の地面が変わるわけではない。
「署名が済みましたら、軍への通達と現地での引き継ぎを分けます」と外交担当が言った。「帰属の効力と、行政官が実際に執務を始める日は、同じではありません」
「お願いします。こちらの守備隊が明日撤いたところへ、どちらの軍でもない武装集団が入った、ということだけは避けたい」
「現地の部隊には、双方の命令が届くまで停戦規則に従う旨を含めます。軍の移動は合意した順序で行わせます」
俺は頷いた。境界を定める地図には、これまでの行政区分を使える。だが、実際に税や裁判の記録を引き取る作業は、地図だけでは終わらない。
一方、捕虜についての文案は、予想したとおり途中で止まっていた。
双方から出された名簿と所属部隊の記録は、まだ十分に照合できていなかった。負傷者、氏名を確認できない者、戦闘の後に所属が分からなくなった者。こちらの会戦報告で捕虜と数えた兵も、収容先は1か所ではない。
「人数が確定しないうちは、帰すこともできないと言われると困りますね」
「殿下の側も同じことを求めておられます。判明している者から照合し、負傷で動かせない者は治療を続ける案が出ております」
「それで進めてください。行方不明者は調べ続ける。いま名簿が揃わないことを、全員の返還を遅らせる理由にはしません」
別の紙には、給養、警備、治療に使った費用が並んでいた。捕虜を取った側が現場で立て替え、確認できる合理的な実費を所属国へ請求する。
こちらは多くの敵兵を収容している。費用は決して安くない。それでも、請求できる金額を増やすために収容を長引かせれば、こちらの倉庫と警備兵が先に苦しくなる。まして請求の確認が終わるまで、一人も帰さないなどというのは本末転倒だ。
担当者と相談し、双方が負担した実費を突き合わせて相殺し、残りの請求は今回の講和に限って互いに放棄する案を出した。負傷者を送り返すまでに生じる治療や保護の費用も、追加では請求しないことにする。どちらがいくら得をするか、まだ帳簿が揃っていない部分はある。それを承知で、これ以上の国家間請求を残さないようにする。
後日の会談で、アマーリエはその案を確かめた。
「負傷者をすぐに動かせない場合、帰還が遅れても、その費用を新たに請求しないという理解でよろしいでしょうか」
「はい。帰還できるまでに必要な治療と保護を続け、その費用も追加請求しません。移送が可能になりしだい引き渡します」
「では、亡くなった人や所在の分からない人についても、記録を照合し続けると入れてください。帰す人がいないという一言で終わらせたくありません」
「異存ありません」
彼女はその返答を受け、捕虜の条項については担当者へ文案の完成を指示した。
まだ領土の問題が残っている。けれど、彼女が兵を連れ戻す道をひとつずつ確保していることは、見ていて分かった。
講和か、長期停戦か。その結論が出たのは、さらにいくつかの文案を交換したあとだった。
皇帝側から示された最終の争点表には、双方が譲れないものと、すでに合意できたものが分けて書いてあった。
アマーリエは争点表を見てから、俺に声をかけた。
「このまま停戦を長く続けた場合、陛下はいつまで3都市を占領されるおつもりですか」
「帰属について合意できなければ、撤けません。こちらの軍がいる以上、そちらも同じ地域へ軍を戻せないでしょう」
「そして、次に戦争をするかどうかは、互いの軍の準備次第になる」
「そうなります」
「私には、まだ兵を集める余地があります。兵を送り込むことも、補給をやり直すこともできます。次に必ず負けるとは思っていません」
彼女は真っすぐ俺を見た。
「ただ、再び戦うためには、地方の人々へ新たな負担を求めなければなりません。南に残した町や村から馬を集め、畑を離れる人を増やす。そのうえで、取り戻せるのかどうかは、誰にも分からない」
俺は答えず、続きを待った。
「長期停戦を選んでも、グライフェンの税は戻りません。住民の保護について今回まとまりかけた条件も、主権を決めなければ、いつまで認められるか不安定なままです。私の国は、その不確かな状態を抱えて暮らすことになります」
「それを避けるために、正式な講和を求めています」
「陛下にとっては、そうでしょう」
アマーリエは少し間を置いた。
「私は、失った土地を諦めたくありません。けれど、そこに住んでいる人たちと、残る土地で暮らす人たちに、これからも戦争の費用を負わせ続けるべきか、考えなければならないのです」
そこまで言って、彼女は脇に置いたもう一枚の書面を開いた。こちらが出した、残余領への不介入、既存権利の保護、移住や往来に関する改訂案だ。
「これが、署名後にも確実に守られるのであれば」
「条約に書き、私の名で守ります」
「境界の確認を口実に、さらに土地を求めることもありませんか」
「ありません。約束した範囲を越えません」
彼女はすぐには頷かなかった。書面をめくり、隣の担当者と短く言葉を交わしたあと、再び俺を見た。
「分かりました。ヴァルデンハイムは、こちらの修正が反映された条約であれば、グライフェンの帰属変更を受け入れます」
国王として聞きたかった返答だった。
だが、アマーリエの顔を見て喜ぶ気にはなれなかった。彼女は、これほどの領土を失う決断を自分で下したのだ。隣の担当者も、膝の上で組んだ手をほどかずにいた。
皇帝側の仲介担当者が、条件の確認を始めた。
正式に帰属を変更するのは、北部、中央部、西部の主要地域。約6万km²に相当するが、条約では面積の概数だけに頼らず、附属地図と既存の行政区域で対象を定める。南東部、ヴァルトトーア、ホーエンヴァルト山地と3つの峠はヴァルデンハイムに残る。
俺は残余領へ追加の領土要求をしない。傍系の請求者を政治的にも軍事的にも支援せず、彼女の継承をめぐる争いには軍事介入しない。帝国内の相続と封土については、それぞれの正式な法的手続に委ねる。
住民と民間財産、貴族や都市や教会の既存の適法な権利は原則保護する。移住や財産処分、通商や往来には移行期間と担当窓口を置き、関税や検査も勝手に二重取りにならないよう調整する。捕虜は相互返還する。維持実費は照合して相殺し、残額の請求は互いに放棄する。移送可能になるまで治療・保護が必要な捕虜についても、追加費用は請求しない。大規模な戦争賠償は設けない。
そして、主権の移転と、その土地で誰がいつ執務を始めるかは分けて扱う。軍の撤収、収税、台帳、裁判、倉庫の引き継ぎは、附属の日程と両国の文書命令に従って進める。
確認が終わると、アマーリエが口を開いた。
「正式な条約へ移してください。最後に、両方の原本を照合したいと思います」
俺も頷いた。
停戦の期限を過ぎてはいない。話し合いをこれ以上延ばす理由もなかった。実務者たちは最後の文案を清書するため、それぞれの席を立った。
署名の日、会談の部屋には以前より多くの書類が並んでいた。
両国に渡す条約原本と、境界を示す附属地図。封印を確認する道具。実施手順を記した書類は別に重ねられている。皇帝側の仲介担当者が、原本の一致と、双方が本人の権限で署名することを確認した。
細かな条文をもう一度読み上げることはなかった。必要な照合は、その前に済ませている。
アマーリエは先に署名した。筆先が紙の上を動いている間、彼女の表情はほとんど変わらなかった。最後の文字を書き終えると、自分の印章を手元へ引き寄せる。
俺も署名をした。
重ねてきた戦争の命令書と違い、目の前の文書には誰かを攻撃する指示がない。それでも、この署名で動く土地と人間は、戦場で命じた兵の数よりずっと多い。
双方の封印を確認したのち、原本が交換された。
これで、ファルケンマルクとヴァルデンハイムの講和条約が正式に成立した。グライフェン主要部の主権は条約の定めによって移る。前線にいる兵や、村で働く役人がその知らせを聞くのは、これからだ。
皇帝側の担当者が、両国へ祝意ではなく、講和成立の確認を述べた。皇帝が今回の土地を与えたのではない。土地を譲ると決めたのは、アマーリエであり、受け取ると決めたのは俺だった。
各方面へ出す公文書は、すでに用意された案を署名済みの条約に合わせて整え、使者へ託すことになる。命令の到達前に勝手な進軍をするなという連絡も必要だ。停戦中の規則は、現地への新しい命令が届くまで守らせる。
使節たちの間で、引渡しの担当者と附属書類の保管について確認が続いた。
アマーリエも必要な指示を出していた。担当者の質問に答え、足りない記録の確認を命じる。声はいつもどおり落ち着いていた。
用件が済み、仲介担当者が席を外したあと、彼女が俺に目を向けた。
「レオン陛下。少しだけ、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
人払いをするほど大げさなことではなかった。周囲にはまだ両国の随員がいたが、書類を片づけている者たちは、こちらの会話へ割って入らなかった。
「この条約は、守ります」
アマーリエは、いま交換した原本へちらりと目を向けた。
「住民のことも、捕虜のことも、約束していただいたとおりに進めてください」
「必ず」
「それから、ひとつだけ」
彼女は言いかけて、一度口を閉じた。指先が、手に持った手袋を強く握っている。
「私は、あなたを許したわけではありません」
返事を探したが、すぐには出てこなかった。
「私がどんなときに父を失い、何を守ろうとしていたか。陛下は、知っておられましたね」
「はい」
「知らずに攻めてこられたのなら、まだ違う受け止め方ができたかもしれません。でも、あなたはご存じだった。それで、あの土地を求めた」
責める言葉なのに、声は大きくなかった。俺を見たまま、彼女は続けた。
「私は今日のことを忘れません。いつか、陛下にもこの悔しさを思い知っていただきたい。今は、そう思っています」
その目には、前にヴィーネンで会ったときの笑みがなかった。
「……分かりました」
口にしてから、ひどく頼りない答えだと思った。
アマーリエは俺に礼をした。形式を崩さず、同じように礼を返すほかなかった。
彼女が随員とともに部屋を出るまで、俺は何も言えなかった。
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