第60話
南方へ回す砲と補給車を伴う隊が、朝になってもハーゲンフェルトの門を出ていなかった。
昨夜届くはずだった飼料車が、北から入ってきた負傷兵の車列に道を譲り、到着が遅れたのだ。馬を連れた部隊を空腹のまま送り出すわけにはいかない。
「歩兵だけ先に出せませんか」
俺が聞くと、軍務担当の将校は卓上の地図を少し回した。
「先発の歩兵はすでに南方指揮官の下に入っております。こちらは後から砲と補給車を動かす隊です。護衛だけ先に離しますと、荷が着いたときに運ぶ者が足りません」
「そうでしたか。では、車の方を待ちましょう」
地図の南端には、敵が第一次反攻で奪った前進地点の印がある。あれから敵は兵を引いていない。むしろ斥候の報告には、荷車の数が増えたという記述が何度も出てきた。
新しい報告では、敵の前方に砲の車輪跡らしいものもあった。雨の後の地面が柔らかく、幅の広い跡が残っていたという。砲を見た兵はいない。だが、こちらが見つけられない場所へ動かしている可能性もある。
「敵の騎兵はどう動いていますか」
「街道の先へ繰り返し姿を見せます。こちらが追えば退きますが、見えなくなるだけで、引き揚げたとは確かめられません」
将校が答え終える前に、扉の外で早足の靴音がした。
南からの伝令は、埃を払うこともせず封書を差し出した。敵の隊列が、これまでより北側へ寄っているらしい。南方の指揮官は街道正面だけでなく、西寄りの農地に沿っても警戒を広げたと報告していた。
俺は地図の上で、敵が動いたとされる場所を指でたどった。
「主防御線の前に置いた隊から、連絡は取れていますか」
「はい。退く先も決めております。指揮官からは、敵が大きく動けば陛下の新たな命令を待たずに後退させる、と」
「その方がいいです。見張りの隊を守るために本隊を危険にさらしたくありません」
外では、ようやく飼料を積んだ荷車が着いたらしい。御者が馬を止める声と、積荷を確かめる声が重なった。
予定を一つずらすと、別の予定もずれる。戦争を始める前には、それくらい分かっているつもりだった。
「南へ行きます」
将校が顔を上げた。
「最前列までは出ません。後方の指揮所で、配置ができたところを見てきます。司令部には連絡を残しておいてください」
「護衛と交換馬を手配いたします。南からの急報が来た場合は、街道沿いの中継所へも回すようにいたします」
俺は頷いて、卓上に残った報告書を重ねた。新皇帝への祝意を送った際の控えも、その中にあった。今は南の地図の方が気になって仕方がなかった。
南方の主防御線へ向かう街道は、以前よりずっと傷んでいた。
往来の多い部分では轍が深くなり、荷車がすれ違うたびに片方が農地の端へ寄らなければならない。道の脇では、兵が泥をさらい、横倒しにした板を車輪の下へ差し込んでいた。
途中の集積場所には、下ろされた樽や穀物袋が並んでいた。運び手の1人が、束ねた縄をほどきながら、積み間違えた袋の印を確かめている。足元には、空になった水桶が転がっていた。
「これだけあっても、南へ全部は送れないんだな」
俺が小さく言うと、護衛の士官が前を見たまま答えた。
「こちらで荷を分けております。主防御線へ行く車と、負傷者を迎える車が同じ場所で詰まらぬようにするためです」
主線に近づくと、畑の様子も変わった。
収穫を終えた区画には馬の足跡が残り、農道には土を盛った低い防御位置がある。少し高くなった場所をつないで兵が行き来できるようにしているが、途切れている部分も多い。その間を見張る隊は、姿を隠せる物陰を選んで配置されていた。
南方指揮官は、地図ではなく現地を見てから話したいと言って、俺を街道から外れた低い丘へ案内した。
「正面はあちらです。敵が街道を使えば、先にこの区画へ入ります。ただ、西の畑から回り込まれますと、正面の部隊だけでは受けられません。前方の警戒隊には、そこまで踏みとどまらせないことにしました」
指揮官は、丘の向こうの小さな土手を示した。遠くに数人の兵が見える。草の中に立っているだけのようにも見えたが、こちらへ向けて合図をする者と、南を見張る者に分かれていた。
「退く合図は?」
「街道側と畑側で別に受けます。遠くの隊には光の定型合図と伝令を併用しております。見通しを失った場合は、決めた時間を待たずに後方へ移る権限を与えています」
「いいと思います。退く途中で敵とぶつかったら、どうしますか」
「後方の隊に通路を開けさせます。敵を撃退するためにそこで踏みとどまるのは、状況が許す場合だけです」
指揮官は言い終えて、道の脇で荷を下ろす兵たちに声を掛けた。隊の一部が別の持ち場へ動くところだった。彼は俺の返答を待たずに、出発する順番を変えるよう命じた。
部隊が行ってしまってから、俺はもう一度南を見た。
丘といっても、馬で少し上がれば周囲が見える程度の起伏だ。ここに立っただけで敵が近づけなくなるような場所ではない。砲で土を崩されれば、兵は後ろへ移るしかないだろう。
「砲の位置は、もう決めましたか」
「正面の部隊を支えられる位置と、そこから下げた位置を用意しております。前に出しすぎれば敵の歩兵が迫ったときに動かせません。今朝、工兵と砲兵の者が退路を確かめ直しました」
「砲兵の判断に任せてください。敵がどちらから来るか、まだ決まっていません」
「そのつもりでございます。陛下、中央から転用された兵についてですが、歩兵のうち動ける者は配置を済ませました。後着の馬と補給車は、まだこちらへ入る途中です」
「兵だけ先に置いて、食料が来なくなるのは困りますね」
「今日は南へ出す食料を増やさずに済みます。夜のうちに入った分がありますので。ただ、戦闘が続けば明日以降の便は増やさねばなりません」
近くでは、兵が飯を受け取っていた。まだ温かい鍋の周りで、皿を差し出す順番を譲り合っている。そのうちの1人が、食べ終えた皿を抱えたまま南の空を見上げた。
俺もつられて目を向けた。
遠くで、小さな光が1度だけ上がった。
次に、短い間を置いて2度。
指揮官が立ち上がる。
「あの合図は、畑側の警戒隊です」
俺が何かを聞くより早く、彼は隣の士官へ伝令を出すよう命じた。前方の敵がまとまって動き始めたという知らせだった。
兵たちが食器を置く音が続いた。
最初の報告では、敵はまだ警戒隊の前にいるだけだった。
だが、その後に届いた伝令は違った。街道の正面に敵歩兵が現れ、西寄りの農地にも別の隊が進んでいる。馬に乗った斥候が、その間を行き来しているという。
南方指揮官は机の地図に新しい印を付けた。俺が指揮所へ戻ったときには、前方の隊へ出す命令がすでに書き終えられていた。
「街道側は後ろへ移しました。西の隊はまだ敵の進路を見ていますが、近くの農道を押さえられれば、こちらへ戻れなくなります。伝令を送ったところです」
「後退を命じたのは正しいと思います。敵はどこまで来ていますか」
「正面の土手へ接近しています。兵数はまだ分かりません。敵の先頭だけで判断はできませんが、この動きなら後続もあるでしょう」
そのとき、砲声がした。
壁際に積んであった書類の端が、誰かの肘に引っかかって床へ落ちる。兵が拾おうとしたが、また砲声がして、その手が止まった。
少し時間を置いて、低い振動が届く。近くの土が崩れたのだろうか。ここからでは見えない。
「前方の隊が撃たれています」
伝令を待っていた士官が言った。
俺は窓の外を見た。近くの兵は、防御位置へ走る隊と、逆に後方へ向かう隊に分かれている。どちらも命令を受けて動いているはずなのに、最初は逃げているようにも見えた。
前方から戻った斥候が、呼吸を整えながら地図の場所を指した。
「街道の警戒位置は、敵に取られました。隊は予定どおり退いております。ただ、西の農地へ出ていた者の一部が、まだ戻れておりません」
南方指揮官が立った。
「街道を開けておけ。戻る隊を途中で止めるな。負傷者を運ぶ者は右の農道へ回せ。敵の後続が見えるまで、砲を前へ出すな」
士官たちはそれぞれの仕事に散った。
失ったのは、初めから守りきれないかもしれないと考えていた位置だ。それでも、報告書に敵のものとして書き換えられると腹が立つ。
「西の警戒隊を迎えに出すことはできますか」
「迎える部隊は配置しております。しかし、敵が農道へ入り込んでいるなら、迎えに出た隊まで失うおそれがございます。先に退いた兵が示した敵位置と照らして判断します」
「分かりました。見つけたからといって、全員で追いかけないようにしてください」
指揮官は短く頷いた。
しばらくして、西寄りの農道から兵が戻った。担架を運ぶ列の後ろに、槍を杖にして歩く者がいる。隊列が途切れたあとも、後方を見張る兵はその場に残っていた。
「残った者は?」
「まだ確認中です」
戻ってきた隊の指揮官は、それだけ答えると名簿を受け取りに行った。顔の横を土で汚し、声もかすれていた。
夕方までに、敵は街道と農地の前方警戒位置を押さえた。こちらの主防御線に砲弾が届く場所も増えていた。
暗くなってから、主線の一角で魔法射撃の光が続いた。前方から近づく敵の小部隊と、こちらの見張りが撃ち合っているらしい。南方指揮官は砲兵に位置の変更を命じ、前線へ行っていた士官が戻ると、その場で明朝の配置を考え直した。
俺は報告の順番を待っていた。
負傷者を乗せた荷車が指揮所の横を通っていった。幌の隙間から、誰かの袖がはみ出している。血の染みた布を手にした医官が、車の後ろを歩いていた。
「南から来る便を、中央で受けられますか」
補給担当に確かめると、男は何枚もの札を机へ並べた。
「はい。南から来る負傷者の車は、中央の病院側で受け入れられます。南へ向かう食料車は中央の集積場所で待たせ、負傷者の車が門を通り終えてから出します。負傷者を降ろした車も、馬の状態を見て、折り返せるものだけ南へ戻します」
「医官に次の後送に必要な車を数えてもらい、折り返せる分を先に確保してください。足りない車は明日の予定へ回します」
男は礼を取ったが、札を集め終える前に別の兵から呼ばれた。空の樽をどこへ返すかという話らしい。
俺が外へ出ると、昼間より冷えた風が顔へ当たった。南ではまだ散発的な射撃の光が見える。その向こうにいる敵の数は、誰にも分からないままだった。
翌朝、ハーゲンフェルトから届いた最初の知らせは、西部街道の警戒に関するものだった。
街道のいくつかの区間で敵の小部隊が現れ、護衛兵が通行を一時止めたという。エルツハイムの市内へ敵が戻ってきたわけではない。しかし、城門と工房を守る隊まで街道へ出してしまえば、市に残る兵が足りなくなる。
「コンラートからは、どんな報告が来ていますか」
「定型の緊急報告では、護衛隊の再編と敵の接近が伝わっております。詳しい記録はまだです」
軍務担当が封書の写しを見せた。西部方面の報告をこちらへ送った時刻も記してある。そこから先の敵の動きまでは分からない。
「西部に追加の転用を求めるのは、取りやめます。市外の警戒を優先するように伝えてください」
「すでに現地指揮官は、転用予定の隊を止めております。こちらへ確認を送る一方で、街道を通れる車列をまとめているとのことです」
「それなら、現地の判断で続けてもらいましょう」
西部から兵を抜けないのは痛い。昨日の損害を補うために、南方指揮官は後方の予備をもう少し近づけたいと言っていた。
俺は南方指揮官のもとへ向かった。
指揮所の地図には、前方の警戒地点の印が消され、すぐ北側に小さな線が引かれていた。夜間の偵察で敵の見張りが入ったことを確認し、それ以上近寄らない位置を決めたのだという。
「正面の敵は、夜のうちに砲を動かしました。こちらの砲兵は、昨夜の位置から撃ち続けるのをやめています。砲を隠したと思われる場所を狙っても、相手がそこにいるか分かりませんので」
南方指揮官は、俺の問いを待たずに報告した。
「西の畑へ回っていた敵も、今日は兵を増やしております。このままでは正面だけを守っていても、横から押されます。中央予備のうち、使える隊をこちらへ寄せておきたいと考えております」
「先に動かす隊と、中央へ残す隊はどう分けますか」
「先に南へ動かすのは、休養と給養を終えた歩兵です。中央には、まだ補給車を待つ隊と、西部街道からの急報に備える隊を残していただきたい。ただ、南へ出す隊も、荷を揃えてから動かさねばなりません」
俺は地図の道を確かめた。ハーゲンフェルトからこの位置まで、馬ならば短い。しかし、隊列と荷車が同じ道に入れば、そうはいかない。
「では、支度を終えた歩兵を先に南へ進めます。中央に残す隊には、連絡を受けたら動けるよう待機を命じます。出発する隊の荷と車の手配も確認させましょう」
「承知しました。到着時には、私の方で持ち場を決めます」
指揮官は、地図の一部を使って具体的な配置を部下へ伝え始めた。
その途中、外で大きな音がした。
前日の砲声より近い。
窓から土煙が上がるのが見えた。守備位置の1つが撃たれたらしい。さらに2度、間を置いて砲声が続き、斜面の向こうから魔法射撃の光が上がった。
「正面の隊からの伝令です!」
走り込んできた兵は、息を切らしながら報告した。敵歩兵が砲撃の後に進んできた。こちらは主線の前寄りの土塁で応戦しているが、西側でも別の部隊が押してきているという。
南方指揮官は、同席していた士官たちへ命令を分けた。正面には砲の支援を続けさせ、西寄りの隊には隣との連絡を確かめさせる。荷車が通る農道は空け、負傷者の後送を止めない。
「陛下、失礼いたします。私は前へ出ます。この指揮所からの連絡は副官が続けます」
「お願いします」
俺も同行すると言いかけたが、やめた。彼が今見るべき場所に、俺がついて行って何ができるだろう。
兵の集まる音が遠ざかったあとも、指揮所には報告が入り続けた。砲の位置を移したこと、正面の射撃が続いていること、農道に敵が現れたこと。どれも途中までの情報で、しかも届く順番が実際の出来事と同じとは限らない。
昼を過ぎた頃、正面の守備隊から一部後退の知らせが来た。
敵歩兵が正面の土塁へ取りつき、こちらの防御魔法だけでは砲撃と射撃を受けきれなくなったという。隊は少し後ろの位置へ移ったが、退く途中に負傷者を残したらしい。
「回収に戻れますか」
副官は、前線から来た報告を読み直した。
「その場所は敵が射撃しております。後送の隊を出しましたが、今は近づけないとのことです。日が落ちてからの方が可能性はございます」
「医官へ場所を知らせてください。日が落ちる前に状況が変われば、指揮官の判断で行かせます」
副官は頷いた。俺は椅子から立ち上がったが、座り直した。
負傷した人間がどこにいるか分かっているのに、すぐ行けない。それがどうしようもなく嫌だった。
南方指揮官が戻ったのは、陽が傾き始めた頃だった。
手袋に泥がついている。地図の前へ来ると、それを外さずに一角を指した。
「主線の前寄りの土塁は手放しましたが、後ろの守備位置は維持しています。敵は奪った土塁で止まっています。さらに北へ来るなら、我々の砲の正面を通ることになります」
「西側は?」
「敵の攻撃が続いております。こちらも守備隊を回しましたが、道を空けると正面との連絡が切れます。陛下、予備を一部だけではなく、もう1隊使わせていただきたい」
俺は彼が示した線を見た。予備をそこへ入れれば、西からの進撃を受け止めやすくなる。反対側に敵が回れば、残る兵だけで対処しなければならない。
「必要な隊を使ってください。ただし、全部を最前列に置くのではなく、後退した隊を受け入れる位置も残してください」
「はい。そこを失いますと、正面の隊まで動けなくなりますので」
彼は答えると、すぐ外の伝令を呼んだ。
夕方、予備の隊が農道へ向かうのを見た。兵の歩幅は揃っていない。途中で荷車を避けたり、負傷者を運ぶ人足を通したりしながら進んでいる。前へ向かう兵と後ろへ戻る兵が交わるたびに、士官が声を張り上げて順番を整えた。
俺はその道の脇で立っていた。
「陛下、下がってください」
護衛の士官が言う。
「分かっています。もう戻ります」
言ったものの、しばらく足が動かなかった。南から、また砲声がした。
戦闘はその日で終わらなかった。
敵は正面の前進を止める時間帯を挟みながら、西寄りの守備位置へ何度も圧力をかけた。こちらの予備が到着すると敵の歩兵は一旦離れたが、翌朝にはまた別の農道から近づいてきた。
兵が地面を踏み固め、もともとの畑との境が分からなくなっていた。踏まれた作物の茎が、土の中から何本も突き出ている。
夜明け前、前線から戻った士官が報告した。
「敵は西側の低い斜面を押さえております。その先へ砲を引き上げる動きがありましたが、まだ据え付けるところまでは確認できませんでした。こちらは隣の隊と連絡を保っております」
「敵の砲が上がったら、今の守備位置は撃たれますね」
「はい。工兵が新しく土を盛っておりますが、長く留まるのは難しいかと。南方指揮官からは、必要なら一段下がる許可をいただいております」
「その判断で進めてください」
士官は礼を取り、戻っていった。
俺は冷めた朝食を食べながら、報告を待った。パンを口に入れたところで新しい伝令が来て、水と一緒に慌てて飲み下した。
指揮官が前線を歩いて戻ってくるときには、靴の先まで土まみれだった。彼は地図へ新しい線を引き、敵が取った場所とこちらが守る場所を分けた。
「ここまでは敵へ渡しました。これ以上北へ出るには、側面をこちらへ向けることになります。正面と西側の部隊が、互いに支援できる位置は残っています」
「敵は諦めていますか」
「まだ分かりません。ですが、同じ場所へ再び砲を動かしてきたのは確かです。続けるつもりなのでしょう」
次の攻撃は、昼を少し過ぎてから始まった。
敵の砲撃が続き、守備隊が土の陰へ伏せる。そこへ魔法射撃の光が重なり、正面の隊が応射した。見通しのよい場所へ出た敵兵が倒れるのが見えたが、後続の兵は止まらなかった。
俺がいた指揮所からは、その姿は遠い点でしか見えない。それでも、兵の隊列が一度崩れ、後方から別の隊が進んでくるのは分かった。
「敵が増えています」
俺の横にいた士官が言った。
「正面の隊から、敵の後続部隊が接近するとの報告が来ました。こちらの砲も撃ち続けておりますが、弾薬を前の位置へ運ぶ車が遅れています」
「前線には、あとどれくらい残っているんですか」
「正確な残数は照合中です。すぐに足りなくなると申しているわけではありません。ただ、連続して撃てる余裕は限られます」
南方指揮官が少し黙っていた。
「敵がさらに進めば、正面で耐えている隊の横へ回られます。私は西側の予備で敵の先頭を押し戻したいと思います。ただ、追撃はさせません。その間に傷んだ部隊を後ろへ移します」
「それで主線を保てますか」
「敵の次の隊がどこまで来ているかによります。ですが、今のまま撃たせ続けるよりは、こちらから動いた方がよろしいかと」
俺は一度地図へ目を落とした。敵の正確な配置を待っていたら、その位置が敵に取られるかもしれない。
「お願いします。動かす兵と、退く兵の通路が重ならないようにしてください」
「そこは確認しております」
彼は部下を呼び、短く命令を伝えた。兵が外へ駆けていく。
やがて、前の守備隊から後退の報告が届いた。交替して前へ出た予備が、側面から近づく敵を一旦押し戻したという。土を盛った場所の一部は敵に取られたままだったが、こちらが後ろの防御位置へ移る時間は得られた。
負傷者を運ぶ列も、そこでようやく動いた。
夕方近く、医官が指揮所へやってきた。腕に血の付いた布を掛け、ひどく疲れている。
「陛下、後送先の追加をお願いしたく存じます。今の受入れ場所では、治療を始める前に待たせる兵が出ています。重傷者は先に動かしておりますが、傷口を縛ったまま順番を待っている者が多いのです」
「中央の病院へ回せる人数は分かりますか」
「中央へ送れる状態の者は見分けています。ただ、今夜運べる人数は、使える車の数が分かるまで申し上げられません。補給担当と確認する必要がございます」
「一緒に確認しましょう。車の手配を待つ間に、こちらで治療を続けてください」
医官は首を横に振った。
「待つだけでは済みません。布と水も増やしていただきたいのです。急いで運ぶより、ここで処置を済ませるべき者もおります」
「分かりました。必要な量を書いて、補給担当へ直接渡してください。私からも伝えます」
医官が戻ってから、俺は補給担当を呼んだ。彼は弾薬車の予定も書いた帳面を開き、医官の要望と並べて見せた。
「こちらを先に通せば、南へ向かう弾薬が遅れます。兵を運ぶ車は、帰りに弾薬を積むわけにはまいりません。積替えと車体の手入れが必要でございます」
「弾薬はどこまで前へ運ばなくてはならないんですか」
「主線の後ろの受入れ場所までです。そこから先は砲兵側で運びます。今はその受入れ場所へ着く車が滞っております」
「負傷者の車を先に抜き、弾薬車は次の便で確実に送ってください。すでに前へ置いた分の残りを、砲兵にもう一度確認しましょう」
男は頷いたが、すぐに別の表を開いた。
「それですと、飼料を積む予定だった車が後になります。明朝の騎兵の行動を変える必要があるかもしれません」
俺はしばらく返事ができなかった。
「騎兵の指揮官へ相談して、明朝の偵察に使う馬を決めてもらってください。全部の馬を同じように動かす必要はないでしょう」
「承知いたしました。出られない隊がある場合は、早めに知らせます」
夜になっても、負傷兵を運ぶ車が続いた。幌の陰からうめき声が聞こえる。水を求める者に、道端の兵が杯を差し出していた。
見送るうちに、何か声を掛けなければと思った。
何も浮かばなかった。俺は杯を渡す兵の横へ行き、もう1つ水桶を持ってくるよう頼んだ。
西部の詳しい報告が届いたのは、南方での激しい戦闘が少し収まり始めた頃だった。
エルツハイムの市外で敵の騎兵が護衛隊を襲い、街道の通行を止めた区間があった。コンラートは追いかける代わりに、通行する荷車をまとめ、警備兵を前後へ付け直したという。敵が離れたあとも、斥候を出して安全を確かめるまで車列を動かさなかった。
手紙には、馬が疲れ切っているので休ませたい、とも書かれていた。交換馬を見つけても、街道の各所へ同時に送り込めば元の部隊へ戻せなくなる。西部の指揮官と相談して、必要な場所へ馬を残しているらしい。
俺は報告を読み終え、書きかけの返書を取り出した。
「西部の兵をこれ以上呼べないのは分かった。エルツハイムと道を守ってほしい。こちらの南方は、ひとまず主線を保っている」
そこまで書いて、筆が止まった。
ひとまず、か。
言葉を変えずに続きを書いた。西部で馬が不足するなら、北部からの補給便が運べる範囲で確認してほしい。ただし、レーデンブリュックの橋を守る馬まで取り上げる話にはしない。俺の返事が西へ届くまでには、また時間がかかる。コンラートも現地指揮官も、その間に自分で動いているだろう。
南方の敵は、すでに取った前方警戒位置から少しずつ部隊を動かしていた。こちらへ新しい砲撃が来ることもあったが、前のように歩兵が何度も押し寄せる動きは減っている。
「攻撃をやめたのでしょうか」
俺が聞くと、南方指揮官は首を振った。
「夜間も警戒を続けております。敵が取った場所には見張りが残っていますし、砲の移動も確認されています。ただ、昨日のように続けて攻撃を掛けるための隊は、前へ集まっておりません」
「こちらから押し返せるところはありますか」
「前方の一部には、敵が少数しか残していない場所もございます。ですが、そこへ進めば敵の砲が届きます。こちらの歩兵も休ませねばなりません」
彼は地図の一角を指した。
「それに、今の主線からは互いに支援できますが、前へ出ますと隣の隊との距離が開きます。私は守備位置を整える方を選びます」
俺は頷いた。
あの前進地点を取り戻したい。奪われてからずっとそう思っている。今回、敵がさらに北へ取った場所まで加わったのだから、なおさらだ。
「その判断でお願いします。前へ出るとしても、斥候までにしてください」
「承知いたしました」
その日の午後、敵の砲撃は短くなった。砲を移す音が遠くで聞こえた、と見張りは報告したが、それが後退なのか再配置なのかまでは分からない。
翌日、前方から来た斥候が、敵の荷車が南へ戻るのを見たと伝えた。負傷者を運んでいるように見えた車もあったという。敵が陣地から兵を引き払ったわけではない。砲の近くには新しい歩兵が配置されている。
南方指揮官は、予定していた追撃案を机から外した。
「これ以上は無理に進まない方がいいと判断します。敵は拠点を維持し、こちらは主防御線を守りました。双方、休む時間が要ります」
「こちらの損害は、どこまで分かっていますか」
「負傷者の受入れ名簿と各隊の未帰隊報告は集まっております。ただ、戦闘中に別の隊で保護された者があり、確認が済んでおりません。明日以降も数字は変わると思います」
「今朝になって見つかった兵の名前は、元の隊へもすぐ伝えてください。まだ捜している者がいるはずです」
俺の声が少し硬くなったらしい。指揮官は机から目を離し、こちらを見た。
「承知いたしました。帰還をまだ知らされていない隊へも、順に確認を取らせます」
「お願いします」
俺は、前線で自分が見た兵の顔を思い出そうとした。水を飲んでいた者、後ろへ下がるときに槍を支えにしていた者、戦いが始まる前に飯を受け取っていた者。
どの顔も、名簿のどの行にいるのか分からない。
主防御線は残った。ハーゲンフェルトも、レーデンブリュックも、エルツハイムも、こちらが押さえたままだ。
嬉しくないわけがない。何日も砲声を聞きながら、南の防御線が破れなかったと知って、本当にほっとした。
それでも、地図の上では敵の印が以前より少し北へ寄っている。
「少し、外へ出てきます」
指揮官にそう告げて指揮所を出た。
畑の向こうでは、兵が砲車を押している。別の兵が馬の首を撫で、水を飲ませていた。医官たちは、まだ動かせない負傷者を屋根のある場所へ移そうとしている。
遠くでは敵の見張りの姿が見えるというが、ここからは分からなかった。風に揺れる畑の端が、何度か人影に見えた。
ハーゲンフェルトへ戻ると、机には新しい名簿と、北部からの補給予定表が積まれていた。
主防御線の修理に必要な板、砲の備品、馬の飼料。別の紙には、兵の靴を直すための革が足りないとある。戦闘中に壊れたものは、砲や武具だけではない。
軍務担当の将校が、南方の暫定報告を持ってきた。
「こちらの戦列から外れた者は、負傷・未帰隊を含めて相当数に上っております。ただ、医官と各隊の記録を突き合わせているところです。昨夜まで未帰隊だった兵が、今朝になって別の隊から戻ってきた例もございました」
「敵の損害は?」
「捕虜と前線で確認できた分しか確かではございません。敵が多くの負傷者を後送したことは斥候から聞いておりますが、こちらの推定を確定数にはできません」
「分かりました。追って確認してください」
将校は報告を置いたあと、少し迷うように立ち止まった。
「陛下、勝ったと兵へ知らせますか」
俺は顔を上げた。
「主防御線を守りきったことは伝えて構いません。各隊がよく戦ったことも。ただ、前方で失った場所まで取り戻したようには言わないでください」
「承知いたしました。現地の指揮官へ、そのように伝えます」
勝った、と言ってやりたい。負傷した兵にも、これから治療を受ける者にも。
だが、敵はもう一度兵を集められる。今回だって、いつの間にか前進地点の後ろへ新しい兵が到着していた。捕虜の話には、遠くの国境で勤務していた隊が移ってきたというものもあった。どこから何人来たのかは、確認できない。
俺たちにも再び戦う力はある。けれど、同じ兵を何度も前へ出せば、疲れも傷も消えるわけではない。
その夕方、帝国から緊急の定型信号が届いた。
新皇帝側が戦争当事者に対する仲介の連絡を開始した、という短い報告だった。どんな条件を示すつもりなのかは、信号では分からない。
「ヴィーネンの公館から、文書が来る見込みはありますか」
ケラーに尋ねると、彼は別の日付が付いた報告書を取り出した。
「公館は皇帝側の動きを以前から追っております。選挙後、帝国内の秩序と、帝国外で続いている戦争の扱いについて、関係諸侯への接触が始まったとのことです。正式な申し入れの内容は、現地で受け取る文書を待つ必要がございます」
「こちらへも、もう送っているんでしょうか」
「その可能性はございます。ただ、現時点では発送済みの確認が取れておりません。公館へ照会しております」
「では、今こちらが返事を書く相手は、まだいませんね」
「はい。祝意に対する通常のやり取りと、戦争仲介への回答は分けるのがよろしいかと存じます」
俺は頷いた。ルートヴィヒを支持すると決めたのは俺自身だ。そのことと、こちらの要求を全部認めてくれるかどうかは別の話になる。
南方からは、敵が前進地点に残した隊を交替させているという報告が来た。西部ではコンラートたちが街道を守り続け、エルツハイムの市当局は工房と市場へ通す車の数をまた増やしたいと言っている。
俺はその夜、南へ必要な物資の一覧に目を通し、それから新皇帝への報告書を開いた。仲介を始めるといっても、こちらが今すぐ兵を下げられるわけではない。
数日を経て、ヴィーネンの公館経由で封印された正式文書が届いた。
新皇帝ルートヴィヒは、ヴァルデンハイムとファルケンマルクの間で続く戦争について、双方から使節を受け、交渉の場を設ける意向を示していた。帝国の諸侯としての権利や帝国内の秩序に触れながらも、グライフェンの帰属をどちらかに認める文章はない。
「相手にも同じ申し入れが行くのですね」
「はい。文書には両当事者へ通知する旨がございます。ただ、ヴァルデンハイム側がいつ原本を受け取り、どう回答するかまでは、こちらへ届いておりません」
ケラーの答えを聞きながら、俺は文書を机へ戻した。
使節を出すなら、誰を送り、どこまで条件を示すか決めなければならない。占領した都市の扱いも、通行も、捕虜も。話し合うことはいくらでもある。
だが、俺はまず南方指揮官への返書に署名した。
主防御線の修理を続けること。前方警戒を緩めないこと。負傷兵の後送を優先し、敵が再び大きく動いた場合は現地の判断で配置を変えてよいこと。
封をした返書を伝令へ渡すと、次に皇帝への回答用紙を引き寄せた。
その脇に白紙を置き、使節として送り出せる者の名を書き出した。
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