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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第1章 二度目の少年時代

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第05話

母上の腹は、もうずいぶん大きくなっていた。少し前から十分大きいと思っていたのに、ここしばらくは会うたび、さらに形が変わって見えた。椅子から立つときも、以前のように何気なく立ち上がるのではなく、片手を肘掛けについて、それからゆっくり身体を起こしていた。だから最近は、母上が窓辺の長椅子に座っていると、俺もなんとなく近くで遊ぶことが増えた。


別に、何かあったときに俺が役に立てるわけではない。四歳児にできることなど知れているし、侍女も近くにいる。それでも、母上が立ち上がろうとすると、ついそちらを見てしまう。その日もそうだった。俺が床に広げた木片を並べていると、母上が息をついた。


顔を上げる。苦しそう、というほどではない。けれど、母上は腹の上に手を置いて、しばらく動かなかった。


「母上?」


「大丈夫よ」


すぐに返事が来た。そう言ってから、母上は少し笑った。


「動いたの」


何が、とは聞かなかった。木片をそのままにして立ち上がると、母上は自分の隣を軽く叩いた。


「触ってみる?」


「うん」


長椅子によじ登り、母上の横へ座る。腹に手を置くのは、これが初めてではない。けれど、いつでも動いてくれるわけではなかった。母上に言われたあたりへ手のひらを当てて待つ。


何もない。少し待つ。まだ何もない。


「もう寝た?」


「どうかしら」


母上の声が近くで笑う。その直後、手のひらの下が、内側から押された。


「……あ」


思わず手を引きかけた。痛くはない。ただ、腹の向こう側から触れ返されたような感覚に驚いた。目で見ているだけの大きな腹と、自分の手の下で何かが動くのとでは、まるで違った。もう一度、そっと触る。


今度は動かなかった。


「いた」


「いるわね」


知っている。


母上の腹の中に、赤ん坊がいる。弟か妹になる子だ。妊娠がどういうものかも、前世の知識ならある。それなのに、手のひらへ返ってきた一度の動きだけで、急に赤ん坊の存在が具体的になった。


ここにいる。


もうすぐ、外へ出てくる。


「いつ生まれるの?」


「それは赤ちゃんが決めることね」


「母上にもわからない?」


「だいたいは分かるけれど、ぴったりこの日、とはいかないの」


母上はそう言って、俺の髪を撫でた。


「だから、急に慌ただしくなっても驚かないでね」


「ぼくは、なにをすればいい?」


聞くと、母上は少し考えるように俺を見た。


「レオンは、いつもどおりでいてくれればいいわ」


それは一番簡単そうで、一番何をすればいいのか分からない答えだった。


「なにもしないの?」


「何もしなくていい、とは言っていないわ。ご飯を食べて、眠って、遊んで、父上や周りの人の言うことを聞いて。いつもどおり」


「それだけ?」


「それが大事なの」


俺が納得していない顔をしたのか、母上はまた笑った。


「赤ちゃんが生まれたら、会ってあげて」


「うん」


それなら分かる。


「すぐ?」


「すぐに会えるかは、そのときにならないと分からないわ」


そこだけは、はっきり約束してくれなかった。当然だと思う。出産は母子ともに負担が大きい。無事に生まれることが先で、4歳の兄との対面などその次だ。理解はできる。


でも、すぐ会えないかもしれないのは、少し嫌だった。その気持ちをどう言えばいいか考えているうちに、母上の手が俺の頬を撫でた。


「そんな顔をしなくても、会えるようになったら呼んでもらうわ」


「ほんと?」


「ええ」


「じゃあ、待つ」


今度は素直に言えた。母上の腹へ、もう一度手を置いてみた。赤ん坊は動かなかった。


*


数日後、本当に急に慌ただしくなった。朝から母上に会えなかった。いつもの時間になっても母上の部屋へ通されず、代わりに別の部屋で待つように言われた。廊下では何人もの使用人が行き来している。走っている者はいないのに、普段よりずっと速く見えた。


何かあったのだと、聞く前に分かった。


「母上、赤ちゃん?」


俺が尋ねると、そばにいた侍女は一瞬だけ迷ってから頷いた。


「はい。お生まれになるのが近いようです」


「母上は?」


「皆がお側についております」


大丈夫です、とまでは言わなかった。その言葉がなかったせいか、かえって胸の奥が落ち着かなかった。知識としては分かっている。出産には時間がかかることもある。周りに人が集まり、必要な準備をするのも当然だ。


だから、俺が廊下へ出て母上のところへ行っても邪魔になるだけだ。分かっているので、出なかった。用意された椅子に座って、膝の上へ両手を置く。


何かして待てと言われれば、そのほうがよかった。けれど、遊び道具を持ってきてもらう気にはなれなかったし、食べ物を出されてもすぐには手が伸びなかった。しばらくして、父上が来た。俺を見つけると、父上はまっすぐこちらへ来た。


「レオン」


「父上。母上は?」


父上は俺の前で片膝をついた。


「今、頑張っている」


それだけで、すぐに大丈夫だとは言わない。


「痛い?」


「痛いだろうな」


「ぼく、会いにいかないほうがいい?」


「ああ。今はな」


父上の手が肩に置かれる。大きい手だった。


「ノーラのそばには必要な者がいる。私は様子を見ながら行き来する。レオンはここで待っていてくれるか」


「うん」


返事をすると、父上は少しだけ息を吐いた。俺の返事に安心したように見えた。


「何か欲しいものはあるか?」


首を振る。


「赤ちゃん、生まれたら教えて」


「もちろんだ」


「すぐに」


「できるだけ早く来る」


父上はそう言って、俺の頭を撫でた。立ち上がって扉へ向かう。


「父上」


呼び止めると、振り返った。何を言いたかったのか、自分でもよく分からなかった。母上を頼む、と言うのは変だ。父上だってそのつもりに決まっているし、俺が頼むことでもない。


「……母上に、ぼく待ってるって言って」


父上は一度だけ瞬きをした。


「ああ。伝える」


扉が閉まった。そこからの時間は長かった。腹が減って、結局は少し食べた。


食べたら眠くなった。眠くなった自分に腹が立ったが、四歳の身体はそんなことを気にしてくれない。長椅子に座ったまま何度もあくびをしていると、侍女に横になるよう勧められた。


「寝ない」


「少しお休みになっても、何かございましたらすぐにお起こしいたします」


「でも、生まれたとき寝てたら」


「お起こしいたします」


「ほんとに?」


「はい」


母上と同じようなやり取りになった。それでも、最初は横になるだけのつもりだった。いつの間にか眠っていたらしい。


次に気づいたとき、肩をそっと揺らされていた。


「レオン」


父上の声だった。目を開ける。顔が近い。


頭がまだ重くて、何を待っていたのか思い出すまでにほんの少しかかった。思い出した瞬間、身体を起こす。


「生まれた?」


父上が笑った。いつもの、何か面白いものを見つけたときの笑い方とは違った。目のまわりに疲れが見えるのに、口元だけではなく顔全体がほどけている。


「ああ。生まれた」


「母上は?」


「無事だ」


それを聞いて、先に息が出た。ずっと胸のどこかで止めていたらしい。


「赤ちゃんは?」


「元気だ。女の子だった」


女の子。


妹。


「会える?」


立ち上がろうとして、足が毛布に引っかかった。父上が腕を支えてくれる。


「今すぐ走っていくのは駄目だ」


「走らない」


「本当か?」


「走らないから」


父上は笑いながら毛布を外した。


「もう少しだけ待とう。母上も赤ん坊も、今は休ませてもらっている。会えるようになったら一緒に行こう」


もう少し。


それくらいなら待てる。さっきまで何時間待ったのか分からないのだ。今さら少し増えたところで同じだ。そう思ったのに、今度の待ち時間のほうが長く感じた。


生まれたと分かってしまったからだ。


*


母上の部屋へ入ったとき、最初に見たのは母上の顔だった。いつもより白く見えた。髪もきれいに整えられてはいたが、普段より少し乱れている。寝台に横になったまま、俺と父上が入ると目を開けた。


「レオン」


声は小さかった。それでも笑っている。


「母上」


寝台のそばまで行く。


「だいじょうぶ?」


「ええ。疲れたけれど、大丈夫よ」


父上が俺の後ろから言った。


「無理をして話さなくていい」


「レオンにはちゃんと顔を見せたかったの」


「顔はもう見ている」


「グスト」


母上が少し眉を上げる。父上はそれ以上言わず、寝台の脇へ寄った。二人のやり取りを聞いて、少しだけいつもどおりだと思った。


それから、母上の腕の中にある小さな包みに目がいった。布にくるまれている。顔だけが出ていた。


赤い。最初に思ったのは、それだった。もっと白いものを想像していたわけではない。ただ、思ったより赤くて、顔も小さく皺が寄っている。目は閉じたまま。鼻も口も、全部が妙に小さい。


「……赤ちゃん」


「そうよ」


母上の声が柔らかくなる。


「あなたの妹」


知っていた言葉なのに、目の前のものと結びつくまで少し時間がかかった。


妹。


これが。


「ちいさい」


父上が後ろで笑った。


「レオンも生まれたときは小さかった」


「ぼく、こんなに?」


「もう少し大きく見えた気もするな」


「グスト。たぶん忘れているわ」


「そうかもしれん」


二人の声を聞きながら、俺は包みから目を離せなかった。赤ん坊が口を少し動かした。それだけで驚く。


生きているのだから動くのは当たり前なのに、さっきまで母上の腹の中にいた存在が、今はちゃんと目の前にいる。


「名前は?」


聞くと、母上が答えた。


「マティルデ・アルテンフェルスよ。マティと呼んであげて」


「マティ」


反応はない。少しだけ目を開けたように見えたが、俺を見たのかどうかも分からないまま、また閉じた。


「ぼくのこと、わかる?」


「まだ分からないと思うわ」


母上はそう言った。


「でも、少しずつ声は覚えていくかもしれないわね」


「兄って?」


「それも、まだ知らないでしょうね」


当然だ。


生まれたばかりなのだから、自分に兄がいることも、ここがどこかも分からないだろう。俺だけが先に知っている。


「触ってもいい?」


「手を出してごらんなさい。顔は触らないでね」


言われたとおり、片手を出す。どこに触ればいいのか迷っていると、父上が布の端からマティの手を少しだけ出してくれた。


小さい。


本当に小さい。


指も細くて、爪まである。人差し指を近づけると、マティの指が動いた。触れた。


そのまま、俺の指先を包むように、小さな手が閉じた。


「つかんだ」


思ったより大きな声が出た。母上が笑う。


「ええ」


「ぼくってわかった?」


「それはどうかしら」


「違うと思うぞ。赤ん坊は、手に触れたものを握ることがある」


言われて、少しむっとした。反射なのは分かっている。俺を兄だと認識して握ったわけではない。そんなことは分かっている。でも、幼心はマティが兄と思ってくれて握ったとわくわくしていた。


離そうとすると、弱い力なのに引っかかる。


「取れない」


「ゆっくりでいい」


母上に言われ、そのまま少し待った。やがてマティの手が緩む。指を抜くと、急に自分の手が大きく見えた。


四歳の手なのに。


「どう?」


母上が聞いた。何を答えればいいのか分からない。かわいい、と言えばいいのかもしれない。実際、さっきよりはかわいく見えてきていた。ただ、見た瞬間からかわいいと思ったわけではない。小さいとか、赤いとか、本当にいるとか、そういうものが先に来た。


「……すごく、ちいさい」


結局、同じことを言った。母上は笑った。


「そうね」


否定されなかったので、それでよかったらしい。少しして、マティが顔をしかめた。次の瞬間、泣き声が上がった。


身体の大きさから想像していたより大きい。肩が跳ねた。


「どうしたの?」


「大丈夫よ」


母上がすぐにマティへ顔を向ける。


「お腹が空いたのかもしれないわ」


母上はマティを抱き直す。その動きはゆっくりだったが、迷いがなかった。俺は一歩下がった。


すると父上の手が背中へ触れた。


「今日はもう十分だろう」


まだ見ていたかった。けれど、母上は疲れている。マティも泣いている。


「また来ていい?」


母上がこちらを見た。


「もちろん」


「明日も?」


「ええ」


「マティもいる?」


聞いてから、自分で変な質問だと思った。母上は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「いるわよ」


父上まで笑っている。


「なに?」


「いや何でもないぞ。明日もマティはいる」


「じゃあ、来る」


マティの泣き声を背中で聞きながら、父上と部屋を出た。廊下に出ると、急に静かになった。


「父上」


「ん?」


「ぼく、兄になった?」


父上は足を止めた。


「なったぞ」


「生まれたら、すぐ?」


「ああ」


それなら、もうなっている。何かをしたからではない。うまく抱けたからでも、妹に好かれたからでもない。


マティが生まれて、俺が先に生まれていた。それだけで、兄になったらしい。


「変なの」


「何がだ?」


「まだ、なにもしてないのに」


父上は少し考えてから、俺の頭へ手を置いた。


「父親も似たようなものだ」


「父上も?」


「お前が生まれた日に父親になった。なる前に練習はできなかった」


それはそうだ。


「うまくできた?」


「最初から何でもうまくできたと思うか?」


父上の顔を見る。少し笑っていた。答えなくてもよさそうだった。


「兄も、練習できない?」


「これからすればいい」


何を練習するのかは分からなかった。けれど、明日もマティはいるらしい。なら、急いで決めなくてもいい。


*


翌日、マティは本当にいた。その次の日もいた。当たり前だが、毎回少し安心した。


母上はしばらく寝台で過ごす時間が長く、俺が部屋へ行っても眠っていることがあった。そういうときは起こさずに戻る。マティもほとんど眠っていた。起きていると泣くことが多かった。眠っていても、急に顔をしかめて泣き始める。


腹が空いたとき、濡れて気持ちが悪いとき、抱き方が気に入らないとき。理由が分かることもあれば、周りの大人があれこれ確かめてもすぐには分からないこともある。赤ん坊が泣くのは知っていた。知っていたが、近くで何度も聞くと、知識とは別の問題が出てくる。


「マティ、また泣いてる」


ある昼、母上の部屋へ入る前から声が聞こえた。中へ入ると、侍女がマティを抱いていた。母上は椅子に座り、少し離れたところから見ている。


「ええ。今日はよく泣く日みたい」


母上は前より顔色が戻っていた。まだ立ち上がる動きはゆっくりだが、寝台の上だけで過ごすことは減っている。


「どこか痛い?」


「今のところ、そういう様子ではないそうよ」


「じゃあ、なんで?」


「赤ちゃんだから、かしら」


ずいぶん大きなくくりだった。侍女に抱かれたマティは、顔を真っ赤にして泣いている。俺が近づいても泣き止まない。


「マティ」


呼ぶ。泣いている。


「マティ」


もう一度。やっぱり泣いている。


「聞こえてない?」


「聞こえているかもしれないけれど、今は泣くほうが忙しそうね」


母上が言った。なるほど。それなら仕方がない。


マティの顔をのぞき込むのをやめて、母上の隣へ行った。


「兄が呼んだら、泣きやむものじゃないの?」


半分は冗談だったが、母上は真面目に首を振った。


「そんな便利なことはないわ」


「父上なら?」


「たぶん同じね」


「母上は?」


「私でも駄目なときは駄目」


それを聞いて少し安心した。


「じゃあ、ぼくが下手なんじゃない?」


「何が?」


「兄」


母上が目を丸くした。それから、笑うのではなく、少し困ったような顔をした。


「レオン。マティが泣くたびに、あなたが何か失敗したことにはならないわ」


「でも、兄はこれから練習するって父上が」


「グストがそんなことを言ったの?」


「言った」


母上は目を閉じ、短く息をついた。父上に呆れているように見えた。


「たぶん、兄でいることに慣れていけばいい、というくらいの意味よ」


「練習しないの?」


「してもいいけれど」


母上は泣いているマティを見た。


「まずは、泣いている赤ちゃんを見ても困りすぎない練習かしら」


それは必要かもしれない。しばらくすると、マティは本当に何事もなかったように泣き止んだ。俺は何もしていない。


母上や侍女が何か特別なことをしたようにも見えなかった。いつの間にかマティが静かになると、部屋の声も自然といつもの調子に戻った。赤ん坊のいる生活は、そういうものらしい。


*


マティが生まれて一週間ほどすると、俺は抱かせてもらった。正確には、抱いたというより、俺の腕の上へマティを置いてもらった。椅子へ深く座り、膝の上に厚い布を重ねる。母上がすぐ隣へ座り、父上も手が届く位置にいる。


そこまでされると、少し怖くなった。


「やっぱり、まだいい」


言うと、父上が笑う。


「さっきまで抱きたいと言っていただろう」


「ちょっとだけ」


「やめてもいいのよ」


母上はそう言った。


「無理に抱かなくても、兄でなくなるわけではないもの」


それを言われると、やってみようと思った。


「……抱く」


「では、動かないでね」


「うん」


母上がマティを持ち上げる。毎日見ているのに、自分のほうへ近づいてくると急に存在感が増した。腕へ置かれた瞬間、思ったよりずしりとする。


小さいのに、ちゃんと重い。


「重い」


「ちゃんと支えて」


「動かないで、マティ」


赤ん坊に言っても仕方がない。マティは少し顔を動かした。


「動いた」


「動くわよ」


父上が笑いをこらえている。


「父上、笑わないで」


「すまん」


まったくすまなそうではない。母上の手が、俺の腕とマティの頭の両方を支えている。抱いているのは俺だが、ほとんど母上と一緒だ。マティの顔が近い。


前より赤みが引いている気がする。目を閉じたまま、口だけ小さく動かした。


「寝てる?」


「今はね」


この近さでも、マティは目を閉じたままだった。少し残念だった。でも、分かっていたら分かっていたで緊張する。


マティの手が布の端から出た。小さな指が開いたり閉じたりする。


「手」


「触りたい?」


「ううん。今はいい」


自分が動くのが怖い。そのまま見ていた。ほんの少しすると、腕が疲れてきた。


4歳の身体では当然だった。


「もう、だめかも」


言うと、母上がすぐにマティを持ち上げた。腕から重さが消える。ほっとした。


同時に、少しだけ物足りない。


「短かった」


「最初はそれで十分よ」


父上が俺の腕を軽く揉んだ。


「立派に抱けていた」


「母上が持ってた」


「それでもだ」


マティは母上の腕に戻ると、何も知らない顔で眠っている。


「次は、もっと長くできる」


言ってみる。母上は笑った。


「腕が疲れないくらいでやめましょうね」


「うん」


「落とさないのが一番だからな」


父上が言う。


「わかってる」


少し腹が立ったので、父上の手を押し返した。父上はまた笑った。


*


マティが生まれてから、家の中の時間が少し変わった。家族で食事をしている途中でも、母上が席を外すことがある。父上が俺と話していても、遠くで泣き声がすると一度そちらを見る。


俺の部屋まで声が届く夜もある。最初の何日かは、そのたびに目が覚めた。ある夜、廊下へ出ようとして扉のところで止められた。


「マティ泣いてる」


「はい」


「見にいく」


「今は王妃様のお側におります。殿下はお休みください」


「でも」


眠気で頭がうまく働かない。何を「でも」と言いたかったのか分からなくなった。泣いているなら行くべきな気がしただけだ。


「朝になりましたら、お会いになれます」


それを聞いて、ようやく寝台へ戻った。翌朝、急いで会いに行ったら、マティは眠っていた。


「夜、いっぱい泣いてた」


「そうね」


母上があくびをかみ殺す。俺は母上の顔を見た。


「母上、寝てない?」


「少しは寝たわ」


あまり寝ていない顔だった。


「ぼく、起きたよ」


「知っているわ。廊下へ出ようとしたんでしょう?」


もう伝わっていた。


「マティ、泣いてたから」


「ええ。でも、夜は来なくて大丈夫よ」


「なんで?」


「レオンまで眠れなくなったら、昼間に辛いでしょう?」


「ぼくも手伝える」


「昼間に会ってくれるのも、十分よ」


その言い方では、あまり手伝いになっている気がしない。


「ほかは?」


母上が少し考える。


「では、私がマティを抱いていて動けないときに、近くのものを取ってもらうことがあるかもしれないわね」


「できる」


「届くところだけよ。椅子に登ったりはしないで」


「わかってる」


そこまで先に言われると、信用がないようで不満だった。けれど、その日の午後、本当に母上から布を取ってほしいと言われた。すぐそばの卓上にあったものを持っていくだけだった。


「ありがとう」


「ほかは?」


「今はないわ」


「なんかあったら言って」


「ええ」


少し嬉しかった。やったことは布を一枚運んだだけだ。前世の俺なら、わざわざ手伝ったと意識もしなかったかもしれない。


今は4歳で、母上の腕にはマティがいて、俺に頼まれたのはそれだった。なら、それでいい。


*


日が経つにつれて、マティのいる光景に驚かなくなっていった。部屋へ入って小さな寝台がある。母上の腕に包みがある。


侍女が赤ん坊用の布を運んでいる。どれも、最初は目が止まった。今は、そこにあるものとして見る。


ある午後、俺は床に座って木片を並べていた。以前、母上の腹が動いたときにも遊んでいたものだ。今は母上が椅子に座り、その腕にマティがいる。


父上は少し離れたところで何かに目を通していたが、文字の読めない俺には何の紙なのか分からない。木片を二つ積む。三つ目を乗せる。


崩れる。もう一度。


「マティ、見て」


呼んでから顔を上げる。マティは母上の腕の中で、まったく別の方向を見ていた。


「見てない」


「まだ、それを見るのは難しいわね」


母上が言う。


「いつ見られる?」


「もう少し大きくなったら」


「いつ?」


「少しずつよ」


赤ん坊に対する答えは、だいたいこれだ。


もう少し。


少しずつ。


今すぐできることは驚くほど少ない。一緒に走れない。話せない。


木片も積めない。俺が名前を呼んでも、返事をしない。それでも、呼ぶこと自体はできる。


「マティ」


もう一度呼ぶ。今度は、偶然なのか、マティの顔がこちらを向いた。目が開いている。


見えているのかどうかは分からない。


「こっち見た」


「そうね」


「ぼく見てる?」


母上は少し笑った。


「どうかしら。でも、声のほうを向いたのかもしれないわね」


断言はしなかった。俺も、断言できない。


それでいい。


「これ、三つ積むから」


マティに言って、木片へ戻る。二つ。三つ。


今度は崩れなかった。


「できた」


振り返る。マティはもう目を閉じていた。


「寝た」


「寝たわね」


「見てなかった」


「また今度見てもらえばいいわ」


また今度。


生まれたばかりのころなら、赤ん坊との「また今度」は、ずっと先の話に聞こえたかもしれない。


今は違う。


明日もいる。


たぶん明後日も、同じ部屋のどこかにいる。俺が遊んでいる横で寝て、泣いて、抱かれて、また寝る。そのうち、今より長く目を開けるようになるのだろう。


「レオン」


父上に呼ばれた。


「そろそろ食事だ」


「うん」


立ち上がり、並べた木片を片づける。一つだけ手から逃げて、母上の椅子の下へ転がった。拾おうと近づくと、マティが小さく声を出した。


泣き声ではない。意味のある声でもない。俺は木片を拾ってから、椅子の横で立ち止まった。


「マティもごはん?」


「さっき飲んだところだから、違うと思うわ」


母上が答える。


「じゃあ、なに?」


「何かしらね」


マティはもう一度、小さく声を出した。


「マティ」


呼び返してみる。返事はない。


「行くぞ、レオン」


父上の声がする。


「今いく」


それからマティへ顔を寄せた。


「ぼく、ごはん行ってくる」


言ってから、少し考える。


「あとでね、マティ」


母上の腕の中で、妹は目を閉じていた。聞いているかどうかは分からない。それでも、食事が終わればまた戻ってくる。


俺は木片を箱へ入れ、父上のところへ走らない程度に急いだ。


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