第04話
4歳になってから、できることはずいぶん増えた。
自分の足で歩ける距離は長くなったし、言いたいこともだいたい口にできる。
本はまだ好きなようには読めない。魔法についても、結局よく分からないままだった。
そんな中で、別の楽しみができた。
父上と、ゾンネンフェルトの王室牧場へ行く。
その話を聞いた日から、俺は何度も同じことを考えていた。
馬だ。
前世でも馬は好きだった。競馬場へ行くこともあったし、走る馬を何時間も眺め、血統や過去の成績を調べるのも好きだった。
今世でも、馬車を引く馬なら見ている。けれど、幼い俺が勝手に近づけるものではない。まして牧場で飼われている馬をゆっくり見るのは初めてだった。
「レオン、またその話?」
母上が笑った。
「だって、あしただよ」
「ええ。昨日もそう言っていたわね」
最近の母上は、立ったり座ったりする動作が前よりゆっくりしている。服の上からでも腹が大きくなっているのが分かった。
そこに赤ん坊がいる。
俺の弟か妹になる子だ。
「母上もいく?」
「今回は父上と行っていらっしゃい。帰ってきたら、どんな馬がいたか教えてちょうだい」
「いっぱいはなす」
「楽しみにしているわ」
俺はうなずいた。
翌朝は、いつもより早く目が覚めた。
着替えも朝食も急いだ。急いだところで出発が早くなるわけではない。それくらい分かっている。
それでも急いだ。
父上が来るまで、何度も窓を見た。
空は晴れている。
馬車に乗って牧場へ行く。馬を見る。近くで見る。触らせてもらえるかもしれない。
どんな馬がいるのだろう。
考え始めると止まらなかった。
やがて扉が開いた。
「父上!」
駆け寄りかけて、俺は止まった。
父上は出かける格好をしていなかった。
「レオン。話がある」
嫌な予感がした。
「きょう、いかないの?」
父上が一度だけ目を閉じた。
「すまない。今日は行けなくなった」
胸の奥が急に重くなった。
「なんで?」
「今日中に決めなくてはいけない仕事ができた。私がいないと進められない」
意味は分かった。
父上は王だ。父上にしか決められないことが今日中にあるなら、牧場へ出かけている場合ではない。遊びたくなくなったわけでも、約束を忘れたわけでもない。
それでも、
「やだ」
口から出た。
父上は黙って俺を見ていた。何か言おうとしたように口が動いたが、すぐには声が出なかった。
「きょういく」
「きょうっていった」
俺が嫌だと言ったところで仕事は消えないし、今日行けるようにもならない。
頭では分かっている。でも、心が年齢に引っ張られる。
昨日からずっと楽しみにしていた。朝も早く起きた。もう行くつもりだった。
「ぼく、ずっとまってた」
喉が詰まった。
目が熱くなり、涙が出た。
父上が悪くないのに、目の前に父上がいるから腹が立った。
父上は俺の前にしゃがんだ。困ったように眉を寄せたまま、少しだけ声を落とす。
「ごめん」
「おしごとでしょ」
「ああ」
「じゃあ、しかたないでしょ」
父上はすぐには答えなかった。
「でも、やだ」
「うん」
それだけ言って、父上は待った。
「きょう、うま、みたかった。さわりたかった」
「そうだな」
父上の手が俺の頭へ伸びてきた。今は触られたくなくて顔をそむけると、その手は追ってこなかった。
でも、少しくらい困ってほしかった。父上を見ると、十分困っているようにも見えた。
俺は横を向いた。
「つぎは?」
しばらくして聞いた。
「今度は、できるだけ大丈夫な日にしよう」
「また、いけなくなる?」
父上はすぐには答えなかった。俺の顔を見たまま、少し考えてから口を開く。
「そうならないようにする。でも、絶対とは言えない」
「……わかった」
俺はそう言ったが、悲しいのは残った。
父上はしばらく俺と同じ高さにしゃがんでいた。俺がもう何も言わなくなってから、ようやく立ち上がった。
「レオン。すまなかった」
さっきより小さな声だった。
俺は返事をしなかった。
扉が閉じた。
朝から楽しみにしていた時間が、そのままなくなった。
本を眺めることも、庭へ出ることもできた。けれど何もしたくなかった。
今日は馬を見に行く日だったのだ。
しばらくして母上が来た。
俺の隣へ座った。
「残念だったわね」
「うん」
「楽しみにしていたものね」
「うん」
母上も、父上の仕事なら仕方がないとは言わなかった。
それは、もう分かっている。
俺は母上の腕に少し寄りかかった。
涙は止まっていたが、悲しいのは昼になっても残った。
夕方、父上が顔を見せた時も、俺はまだ少し不機嫌だった。
父上は部屋へ入るなり俺を見たが、朝のことにはすぐ触れなかった。
「仕事、おわった?」
「ああ。今日の分は終わった」
「ぼくといくより、ながかった?」
「たぶん、牧場へ行くより長かったな」
それは少し気の毒だった。
俺は考えてから、父上のそばに近づいた。
「つぎ、ちゃんといってね」
父上の顔が少し緩んだ。
「ああ。今度こそ行こう」
父上が差し出した手を、今度は握った。
次の日になっても、牧場へ行けなかったことを思い出せばまだ残念だった。ただ、父上を見ても腹は立たなくなっていた。
それから何日かして、父上が新しい日を教えてくれた。
「今度は行けそうだ」
父上は前より少し慎重な言い方をした。
俺はすぐ椅子から立ち上がった。
「ほんと? いつ?」
父上が笑って、日を教えてくれた。
今度は前ほど数えないようにしようと思った。
そう思っただけだった。
翌日から毎朝数えた。
そして、その日はちゃんと来た。
父上は朝から出かける格好をしていた。
「父上、いく?」
「行く」
「いま?」
「朝食を食べてからだ」
「もうたべた」
「私はまだだ」
それは待つしかない。
前回と違って、待った先に牧場がある。
出発前、母上が見送りに来た。
「気をつけて行ってらっしゃい。馬に近づく時は、父上や牧場の人の言うことを聞くのよ」
「わかってる」
「帰ったら話を聞かせてね」
「うん。母上と、あかちゃんにいっぱいはなす」
母上は自分の腹へ手を添えて笑った。
俺は父上と馬車に乗った。
王都を離れるにつれ、建物が減り、畑や草地が増えていった。
俺は何度も窓の外を見ていた。
「まだ?」
「まだだ」
しばらくして、また聞いた。
「まだ?」
「まだだ」
三度目には父上が先に言った。
「まだだぞ」
「まだきいてない」
「顔に書いてある」
俺は窓に映った自分の顔を見た。
「ないよ」
「そういう意味じゃない」
父上が笑った。
俺も笑った。
やがて、遠くに囲いが見えた。
その中で何かが動いていた。
近づくにつれて形が分かった。
馬だった。
一頭ではない。
何頭もいる。
「父上、いっぱいいる!」
父上は窓の外を見て笑った。
「ああ。やっと着いたな」
当たり前だった。それでも声に出したかった。
馬車が止まると、すぐ降りようとして父上に肩を押さえられた。
「待て。足元を見ろ」
「うん」
今度はちゃんと待った。
地面へ降りると、最初に匂いが来た。
草と土、乾いた藁、それから馬の匂い。厩舎の方からは糞の匂いもした。
きれいな匂いではない。
でも嫌ではなかった。
馬がいる場所の匂いだった。
牧場の者たちが父上に挨拶し、俺にも頭を下げた。
「殿下、本日はようこそお越しくださいました」
「うん」
返事をしながら、その向こうの馬を見た。
父上が肩へ軽く手を置いた。
「レオン、まず挨拶だ」
言われて、ようやく牧場の者の方をきちんと向いた。
夢中になりすぎていた。
「ごめんなさい。よろしくおねがいします」
そう言ってから、もう一度馬の方を見た。
「ちかくでみたい」
「では、まず大人しい馬からにいたしましょう」
柵の近くへ行くと、遠くに見えていた馬が急に大きくなった。
分かっていたはずなのに、足が止まる。
大きい。
目の前に胴があり、長い脚があり、首がある。頭だけでも俺にはずいぶん大きく見えた。
馬が鼻を鳴らした。
「こわいか?」
父上が聞いた。
「ちょっと」
「怖いなら、無理に近づかなくてもいいぞ」
笑われるかと思ったが、父上は笑わなかった。
「でも、さわりたい」
牧場の者が馬のそばにつき、近づき方を教えてくれた。
馬の後ろには回らない。急に手を出さない。
言われた通りに近づくと、馬の耳が動いた。
大きな目が俺を見ていた。
鼻先が寄ってきた。
ふ、と息が手に当たる。
温かい。
「さわっていい?」
「はい。ゆっくりと」
首へ手を当てた。
毛は柔らかいだけではなかった。短い毛の下に、しっかりした体がある。
そして温かい。
生きている。
当たり前のことだった。
だが、触るとその当たり前が急に大きくなった。
馬が一歩動いた。
俺は反射的に手を引いた。
蹄が土を踏む音がした。たった一歩なのに重い。
「びっくりした」
父上は馬と俺を見比べた。
「向こうもレオンを見ているぞ。知らない子が来たから気になるんだろう」
俺はもう一度馬を見た。
馬もこちらを見ていた。
次の馬も見た。
同じように見えて、顔つきも体つきも違う。すぐこちらを見る馬もいれば、あまり興味を示さない馬もいる。
一頭が走り出すと、別の馬もつられて動いた。
地面を叩く音が連なった。
俺は柵へ近づきすぎて、父上に服の後ろをつかまれた。
「そこまで」
「もっと、ちかくにいく」
だが、抵抗むなしく引き戻された。
厩舎では、人が馬の体をブラシでこすっていた。別のところでは汚れた藁を運び、水や餌を確かめ、馬具を手入れしていた。
「まいにち、これするの?」
「毎日です、殿下」
「まいにち?」
「はい。食べますし、飲みますし、汚しますから」
その言い方が少しおかしくて、俺は笑った。
父上も笑った。
「馬が勝手にきれいなままでいてくれると思ったか?」
「おもってない」
前世でも厩務の仕事は知識として知っていた。
だが、一頭の馬がここで暮らすために、毎日これだけ人の手が必要になることを、目の前で見るのは違った。
寝る場所を整え、食べさせ、水を飲ませ、体を見て、蹄も確かめる。
走っている時間の外側にあるものが、ここには全部あった。
「やってみたいか?」
父上が、ブラシを見ている俺に聞いた。
「いいの?」
大人しい馬なら、と牧場の者が言った。
父上とその人がすぐそばにつき、俺は教えられた通りにブラシを動かした。
一度。
もう一度。
腕がすぐ疲れる。
「たいへん」
「さっき毎日だと聞いただろう」
「きいた」
「じゃあ、明日からここで働くか?」
「まいにちはいや」
即答すると、父上が声を上げて笑った。
俺も笑った。
それから外へ戻り、若い馬のいる方へ案内された。
さっきまでの馬より落ち着かないものが多かった。
近づく俺たちを見て首を上げ、離れ、また寄ってくる馬もいた。
その中に、少し小さく見える一頭がいた。
特に目立つ馬ではない。ただ、俺たちから少し離れたところで、耳をこちらへ向けたまま様子を見ていた。
「この子は?」
「ゴルデネ・ライゼです」
牧場の者が答えた。
「ゴルデネ・ライゼ」
俺は名前を繰り返した。
「ちいさい?」
「今のところは少し。ただ、丈夫ですよ。賢い反面、少々気難しい馬です」
気難しい。
言われてみれば、こちらへ興味はありそうなのに、素直には近づいてこない。
「さわれる?」
「急がない方がよろしいでしょう」
俺は止まった。
牧場の者が先に様子を見た。
ゴルデネ・ライゼは少し首を振ったが、逃げはしなかった。
「ここからでいい?」
「はい。そのままで」
俺は手を出した。
まだ届かない。
しばらく待った。
別の馬の蹄音がした。
風が草を動かした。
腕が少し疲れたころ、ゴルデネ・ライゼが一歩だけ近づいた。
もう一歩。
鼻先が手に届いた。
息がかかった。
短くこちらを嗅ぐと、すぐに顔を引いた。
「いった」
一度手を嗅いで離れただけだ。嫌われたのかどうかなんて、まだ分からない。
しばらくすると、ゴルデネ・ライゼはまたこちらを見た。
今度は手を伸ばさずに待った。
牧場の者が大丈夫だと言ったので、少しだけ近づいた。
馬は逃げなかった。
俺は首の横へそっと触れた。
ほんの短い時間だった。
馬が動いたので、すぐに手を離す。
それで終わりだった。
それでも名前は覚えた。
ゴルデネ・ライゼ。
「また、あえる?」
俺が聞くと、父上が若馬の方を見た。
「この牧場にいる間なら、次に来た時も会えるだろう」
「つぎ、くる?」
「もう次に来る話か」
「まだみてないところある。うまも、もっとみたい」
父上は笑った。
俺はもう一度、若い馬たちを見た。
ゴルデネ・ライゼは少し離れ、別の馬の方へ向いている。
俺が触ったことなど、もう気にしていないようにも見えた。
俺の方は気になっている。
また見たい。
でも、あの馬だけではない。
他の馬も見たい。走るところも、世話をするところももっと見たい。
牧場そのものが面白かった。
帰ると言われると、やっぱり帰りたくなかった。
「もう?」
「もうだ」
「まだみたい」
「朝からずっと見ているのにか?」
「まだみる」
「……帰るのが遅くなると母上が心配するぞ」
俺は少し黙った。
「……かえる」
それでも馬車へ戻る途中、何度も振り返った。
父上が俺の服を見た。
「ずいぶん汚れたな」
「父上も」
父上は自分の袖を見て笑った。
「私はレオンほどではない」
俺は袖を鼻へ近づけた。
「においする」
「それはお互い様だ」
馬と藁の匂いがついていた。
少し嬉しかった。
帰りの馬車では、すぐ眠くなった。
「眠いなら寝ろ」
「ねむくない」
言った直後にあくびが出た。
父上が笑った。
「笑わないで」
「すまん」
全然すまなそうではなかった。
俺は父上の腕に寄りかかった。
窓の外をもう少し見ようと思っていたのに、気づいた時には王都へ戻っていた。
牧場で見たものは残っていた。
手に当たった息。
短い毛の下の温かさ。
蹄が土を踏む重い音。
ブラシを動かした時の腕の疲れ。
そして、少し離れたところからこちらを見ていたゴルデネ・ライゼ。
宮殿へ戻ると、母上が待っていた。
「おかえりなさい」
「母上!」
走りかけて、途中で速度を落とした。
母上の腹が大きいことを思い出したからだ。
近くまで行く。
「うま、いっぱいいた。おおきかった。あと、あったかい」
「触れたの?」
「うん。ブラシもした」
「まあ」
「でも、ずっとするのはたいへん」
父上が後ろから言った。
「明日から働くかと聞いたら断ったぞ」
「父上!」
母上が笑った。
俺はすぐ母上へ向き直った。
「ゴルデネ・ライゼっていうのもいた」
「それが一番気に入ったの?」
俺は少し考えた。
「きになる。でも、ほかのもすき」
「そう」
「またいきたい」
今度は父上を見た。
父上はすぐには約束せず、少し考えてからうなずいた。
「また行こう。すぐとは約束できないけどな」
「こんどは、いける日にしてね」
言うと、父上は少し困った顔で笑った。
「そうだな。今度はそうしたい」
前に行けなかった日のことも思い出した。でも今日は、ちゃんと父上と牧場へ行けた。
「またいこう、父上」
「ああ」
今日はもう眠かった。
服にはまだ少し、馬の匂いが残っていた。




