第03話
あれから数か月たった。
今では、部屋の端から端まで歩くくらいなら、途中で床に手をつくことはほとんどない。廊下もかなり歩ける。急いで曲がろうとすると上体が外へ流れるし、眠くなれば露骨に足がもつれるが、それでも自分で行ける場所は増えた。
言葉も前より出る。
相手の話していることはかなり分かる。口の方はまだ追いつかないが、
「ぼくも、いく」
くらいなら普通に言えるようになった。
頭の中にある文章と、実際に口から出せる言葉の差はまだ大きい。
母上は、それでも俺が自分の要求を言えるようになったのを喜んでいるらしい。
だからといって、いつも俺のそばにいるわけではない。
母上には王妃としての用事があり、その間は侍女や俺の世話を手伝う女たちがつく。
普通であれば、王家の子育てなのだから乳母がつく予定だったが、どうやら母上が自分で育てられるなら人任せにせず育てたいと望み、父上もそれを尊重したらしい。
だからといって、母上一人ですべてをしているわけではない。着替えや食事、部屋の支度には何人もの手が入る。
その日も、母上が窓際で人と話している間、俺は部屋の中を歩き回っていた。
昼寝のあとで身体はよく動く。
窓からの光は残っていたが、部屋の奥は少しずつ暗くなっていた。
やがて使用人が二人入ってきて、灯りの支度を始めた。
一人は炉のそばへ行った。
細い木片に火を移し、それを持って壁際へ向かう。
燃えているものから別のものへ火を移す。
俺は一度そちらを見て、それからもう一人へ目を移した。
女は窓際の燭台を直していた。
蝋燭は三本。どれにもまだ火はついていない。
女は一本目の芯へ手を寄せた。
火を移す木片は持っていない。
火打石らしいものも出していない。
それなのに、芯の先が明るくなった。
小さな炎が立った。
俺は足を止めた。
女は何でもないように二本目へ手を移す。
また火がつく。
今度は見間違えなかった。
何も燃えていないところから、芯に火がついた。
俺は燭台へ近づいた。
急いだせいで最後の一歩だけ身体が前へ流れる。
後ろにいた侍女がすぐ近くまで来た。
「殿下、燭台には触れませんように」
「さわらない」
俺は燭台ではなく女の手を見た。
何もない。
女は俺に見られていることに気づき、少し動きを止めた。
俺は指を差した。
「いま、なにした?」
少し音が崩れたが、意味は通じたらしい。
女は俺と燭台を見比べる。
「火をお点けしました」
それは見れば分かる。
俺は首を振った。
「なにで?」
今度は母上までこちらを見た。
女はすぐに答えた。
「魔法でございます、殿下」
俺は動かなかった。
聞き間違いかと思った。
いや、違う。
知っている単語だった。
前世なら、現実の技術ではなく物語の中にあるものだ。
魔法。
俺はもう一度、蝋燭を見た。
炎は見慣れた色で燃えている。
妙な色でもない。女の周囲に何かが光っているわけでもない。
ただ、火のなかった芯に火がついた。
その過程だけが、俺の知っている常識から抜け落ちている。
「まほう?」
確認すると、母上がこちらへ来た。
俺が燭台へ近づきすぎないよう、肩へ手を置く。
「ええ、魔法よ」
あまりにも当たり前の調子だった。
「ほんと?」
「本当よ」
母上が少し笑う。
使用人の方も、何か特別なことをした様子はなかった。俺が話しかけなければ、そのまま三本目へ火をつけて終わっていただろう。
「もういっかい」
女が母上を見る。
母上がうなずいた。
まだ火のついていない一本へ、女が手を寄せる。
俺は芯を見た。
短い間があった。
火がついた。
派手な音もない。
光が走ったわけでもない。
だが、俺には十分だった。
「……まほう」
口に出す。
母上の手が肩から頭へ移った。
「そんなに不思議?」
俺は強くうなずいた。
「まほう、しらなかった」
母上は一度まばたきをした。
「火を点けるくらいなら、宮中では珍しいことではないわ」
俺はすぐ女を見る。
「みんな?」
「みんなが同じようにできるわけではないわ。得意なことも違うもの」
簡単な答えだった。
それでも、一人だけの奇術ではないことは分かった。
少なくとも母上は、この現象を昔からある普通のものとして扱っている。
「ぼくも?」
口が先に動いた。
母上は少し考えるように俺を見る。
「それは、まだ分からないわね」
「まだ?」
「ええ。今は見るだけにしておきなさい」
俺は燭台を見た。
この身体で下手に燭台に触れれば普通に火傷するかもしれない。
そこは従うしかない。
「みる」
俺が言うと、母上は満足したようだった。
使用人たちは仕事へ戻った。
最初に炉から火を取った方は、相変わらずその火を使っている。女も残りの燭台を整え、誰も魔法そのものを話題にはしなかった。
母上の話から、一人だけの奇術ではないらしいことは分かった。けれど、何ができるのか、誰が何を使えるのか、自分にもできるのかは何一つ分からない。
その日の残り、俺は落ち着かなかった。
落ち着かないからといって、できることが増えるわけではない。2歳半の身体は、興味があるから夜まで調べよう、という要求を受けつけない。
食事をすれば腹がいっぱいになり、そのうち眠くなる。母上の部屋から戻る途中も、一人で歩くと言ったくせに、最後は足が重くなって抱き上げられた。
悔しい。
それでも、魔法という言葉と、何もないところから燭芯へ火がついた光景は、眠るまで頭に残っていた。
翌朝、目が覚めても魔法のことは忘れていなかった。
服を着せてもらう間、俺は侍女の手元を見た。何かしないかと思ったのだ。
侍女は紐を結び、布を整え、留め具を留める。全部、手でやった。
朝食でも皿は人が運び、こぼせば布で拭く。
それから数日、俺は以前より使用人の手元を見るようになった。炉へ薪を足す者、水差しを運ぶ者、燭台を替える者。何かしている人間を見るたび、魔法を使うのではないかと少し期待した。
けれど、目につく仕事の大半は手や道具で片づけられていた。火は火から移し、水は容器で運び、重いものは二人で持つ。
魔法を知ったからといって、それまで見ていた生活まで別物になったわけではないらしい。
それでも、気をつけて見るようになって思った。
以前から魔法は俺の視界に入っていたのかもしれない。
一歳や、それより前の俺では、人が何をして何が起きたのかを最後まで追えなかった。
今なら手元と、その前後を見られる。
そのおかげで、数日後に二度目を見つけた。
朝、顔や手を拭くための湯が運ばれてきた時だった。
母上の部屋で、俺は小さな椅子へ座っていた。
母上は窓際で手紙らしい紙を見ている。
そこへ湯の入った金属の容器が運ばれてきた。
侍女が布を浸し、温度を確かめて眉を寄せた。
「少し冷めていますね」
最初に火をつけた女ではない。
もう一人の侍女が容器へ目をやる。
「取り替えましょうか」
「いえ、このくらいなら」
最初の侍女がそう答え、容器のそばへ手を出した。
俺は反射的に身を乗り出す。
容器は炉から離れている。
火のついたものを持ってくる様子もない。
侍女は手を容器の側面近くへ置いた。
しばらく何も起きない。
俺は椅子から降りた。
その途中で、湯の表面から細い湯気が立った。
さっきより明らかに多い。
侍女が手を離す。
もう一人が布を浸し直した。
「これなら大丈夫です」
二人は、そのまま次の支度へ移ろうとしていた。
俺だけが湯気から目を離せなかった。
「それ」
二人がこちらを見る。
俺は容器を指した。
「それも、まほう?」
侍女は少し目を丸くした。
「はい、殿下。少し温めただけでございます」
やっぱりそうだ。
俺は近づいた。
「さわらない」
止められる前に言っておく。
侍女の一人が笑いをこらえたような顔をした。
俺は気にせず湯気を見る。
火はない。
だが、水は温まった。
最初の女だけが特殊だったわけではない。
母上が言ったとおり、別の人間が別の場面でも魔法を使う。少なくとも宮中では、魔法は珍しい見世物ではなく、仕事の中へ混ざっているものらしい。
母上が紙から顔を上げた。
「また見つけたの?」
少し面白そうな声だった。
「みつけた」
俺は答えた。
「まほう」
「ええ」
「おみず、あったかくした」
「そうね」
俺は湯気を見たまま、一番短い質問を選んだ。
「まほう、いっぱいある?」
母上は少し考える。
「いろいろあるわ」
「いろいろ」
「そう。レオンがもう少し大きくなれば、目にするものも増えるでしょうね」
俺は返事をしなかった。
今すぐ増えてもらっても構わない。
母上は俺の顔を見て笑っただけだった。
侍女が温めた湯で布を絞る。
その布で俺の手も拭かれた。
温かい。
魔法で温めたからといって、触れた時の感覚が別物になるわけではない。
ただの温かい湯だ。
その普通さが、かえって奇妙だった。
前世で魔法を想像する時、俺はもっと特別なものを思い浮かべていた。
今ここにある魔法は、日が落ちれば蝋燭へ火をつけ、湯が冷めれば少し温めるために使われている。
それでも魔法は魔法だった。
俺の前世にはなかった。
その日の午後、廊下を歩きながら窓の外を見た。
中庭の向こうに石造りの建物がある。
屋根も窓も、人々の服も、これまでと同じだ。
何も変わっていない。
俺が知らなかっただけだ。
前世の知識で近世ヨーロッパに似ていると見当をつけたこと自体は、そんなに間違ってないと思う。
建物や衣服が突然別物になったわけではない。だが、似ていることと同じであることは別だった。
同じような燭台を使っていても、この世界の人間はそこへ魔法で火をつける。湯が冷めれば、その場で温めることもある。
どういう仕組みで火がつくのか。
どうやって湯を温めるのか。
使える人と使えない人には何が違うのか。
俺にもできるのか。
数日たっても、その興味は消えなかった。
夕方、父上の部屋で仕事が終わるのを待っていた。
父上は机に向かっていた。
以前と同じように紙があり、黒い文字が並んでいる。
俺は机の近くまで歩き、下から眺めた。
「また紙か?」
父上が聞く。
「うん」
紙そのものより、そこに何が書いてあるかが気になる。
でも、まだ読めない。
俺は少し考えてから父上を見上げた。
「父上」
「なんだ?」
「まほう、ほんにある?」
父上が一度まばたきをした。
「本?」
「うん。まほうの」
父上は部屋の奥の棚へ目をやった。
「ある」
俺は棚を見る。
背の高い本が何冊も並んでいる。
どれがそうなのかは分からない。
題名も読めない。
「よみたい」
口から出た。
父上は俺を見る。
「まず字を覚えないとな」
それは知っている。
俺は少し不満だったが、反論できなかった。
正しいからだ。
「急がなくていい」
またそれだ。
大人はすぐそう言う。
その時、部屋の端で使用人が灯りをつけ始めた。
俺は反射的にそちらを見る。
今度の男は、火を移した細い木片を持っていた。
その火をそのまま燭台へ移している。
魔法ではない。
父上が俺の視線に気づいた。
「どうした?」
「なんでもない」
父上が笑う。
俺は笑われたことは無視して、もう一度灯りを見る。
炎は静かに揺れていた。
魔法でつけた火も、普通に移した火も、燃えてしまえば見た目は同じだった。
その向こうには、本の並ぶ棚がある。
今はまだ読めない。
魔法がどういうものかも分からない。
俺に何ができるのかも分からない。
ただ、前世の世界とは大きく違うことがあることは知った。
俺はしばらく、火と本棚を交互に見ていた。




