第57話
~アマーリエside~
北部から届いた報告には、レーデンブリュックの守備隊が武装解除に応じたとあった。
要塞から最後に届いていた文書は、もっと前の日付だった。食料の搬入が絶たれ、負傷者を収容する場所にも困っていると記されている。援軍を送る道が塞がれたという知らせを受けたときから、こうなる可能性は考えていた。
それでも、報告書の「降伏」という文字を見つめたまま、しばらく手が動かなかった。
「守備隊の名簿は、まだですか」
「届いておりません。降伏前に退いた者もおり、捕虜となった兵の氏名は現地で照合中とのことです」
軍務担当者はそう答え、続きの書類を机に置いた。
「家族への連絡は、確認できた人から始めてください。問い合わせを受ける者も決めておきましょう」
「承知いたしました」
北部要塞を失った。北から中央へ通じる街道を、ファルケンマルク軍が使えるようになったということでもある。
地図の上では、レーデンブリュックからハーゲンフェルトまで一本の線がつながっている。その線の途中には村があり、倉があり、兵だけでなく商人や農民が行き来する道がある。
「中央の野戦軍は、敵主力との対決を避けられませんか」
「後退すればハーゲンフェルトへの道を譲ることになります。現地指揮官は、北から来る敵軍を中央の高地で迎える構えです。南からの増援も一部は合流しております」
「まだ間に合う兵は」
「出発した部隊はございます。ただ、中央まで到着したとの報告は揃っておりません」
私は地図の南側に目を移した。増援を急がせれば、疲れた馬や補給の遅れまで一緒に前線へ送り込むことになる。それでも、ここでファルケンマルク軍を止めなければ、グライフェン地方を失いかねない。
「現地の判断で後退できる権限は残してありますね」
「はい。現地指揮官が必要と判断すれば、部隊を下げられます」
担当者が退出した後も地図を閉じられずにいると、扉の向こうから近侍が来客を告げた。外交担当者だった。
ヴェリスラヴ使節団は、航行条件についてこちらの修正案を検討するという。しかし、関税と国境軍事施設に関する回答は依然として本国待ちだった。
「先方から、いつ頃まで待ってほしいという話はありましたか」
「正式な日数は示されておりません。軍事施設の修正は本国の判断を要するとのことです」
ザルヴァ川の対岸に集められた兵がそのままである以上、東方の守備隊を西へ動かすわけにはいかない。レーデンブリュックを失った日に、東方の国境については商船の通航をめぐる返事を待っている。
「本国へ送るべき条件を、先方がすべて受け取ったか確かめてください。こちらの案に不明なところがあるなら、今のうちに答えます」
外交担当者が頭を下げた。
私は彼を引き止めかけ、やめた。急いでほしいと言っても、ミロヴェツまでの道が短くなるわけではない。
夜中、扉を叩く音で目が覚めた。
寝間着の上に上衣を羽織って執務室へ行くと、軍務担当者が2人待っていた。いつもは落ち着いて話す年長の担当者が、私を見るなり椅子から立ち上がった。
「中央方面から、緊急信号が入りました。大規模な交戦が起き、味方部隊が後退しております」
「後退……どこまでですか」
「信号では分かりません。詳しい文書はまだ届いておりません」
「野戦軍の指揮官からは?」
「一部の連絡はございますが、全軍の状況は確認できておりません」
机の上には、先ほどまで何も書かれていなかった紙がある。武力衝突、後退、至急報告。短い符号の写しだった。
「後退したというのは、戦いが終わったからですか。それとも、今も戦っているのですか」
「現時点では、そこも申し上げられません」
思わず唇を噛んだ。どこで負けたのかも、誰が無事なのかも分からない。質問を重ねれば、目の前の人が知らない答えを持っているような気がした。
「ハーゲンフェルトの守備について、直近の報告を見せてください。中央軍が退いた場合に、市の指揮を誰が取るのかも確認したいのです」
「現地の既定指揮系統はございます。ただ、どの将校と連絡がついているかは、改めて確認する必要があります」
軍務担当者が机の上へ地図を開く。紙の端が折れ曲がり、そこを押さえる彼の指が白かった。
「南から出した軍を、今夜のうちに全部北へ向けることはできますか」
「先行させられる部隊はございます。しかし、すべての兵を同じ道へ入れれば馬と荷車が詰まります。それに、敗走軍を受け入れる場所も確保しなければなりません」
「分かりました。先に出せる兵と、退いてくる兵を受け入れる準備を。現地がまだ戦っているなら、そこへ細かな布陣を命じることはしません」
担当者は急いで書き留めた。私は、その横に置かれた北部要塞の降伏報告へ目を戻した。
あそこでも、最後まで持ちこたえると思っていた。中央の野戦軍まで負けるなんて、考えたくなかった。
2人がまた地図へ向かうのを見ていた。私は椅子に腰を下ろした。今、眠りに戻れるはずはなかった。
詳しい敗報は、数日かけて別々に届いた。
最初に来たのは、中央軍の一部が南へ退き、別の隊は連絡がつかなくなったという報告だった。その翌日には、砲を置き去りにした部隊があると分かった。さらに後から、敵に囲まれて武装を解いた者が相当数いるらしいと伝わってきた。
文書の作成日も、報告者のいた場所も違っていた。同じ兵が2つの報告に現れ、同じ戦死者の名前が別の隊の名簿にも記されている。現地で数を揃えられるのは、もっと先になる。
それでも、被害が大きいことは十分に分かった。
「中央から戻った将校の証言です」
軍務担当者が差し出した紙には、筆圧の違う文字が並んでいた。現地で聞き取った内容を、別の者が書き留めたのだという。
味方左翼は、敵の右翼を押していた。
最初の報告を読んだとき、私は思わず顔を上げた。
「こちらが押していたのですか」
「この将校のいた正面では、そう見えたとのことです」
味方の攻撃に合わせ、ファルケンマルク軍の右翼が下がった。前にいた将兵は、敵が押し負けていると思った。高地の部隊からも兵が動き、前へ出た隊を支えた。
ところが、その高地へ敵の中央部隊が攻めかかった。
「こちらが左翼で勝っている間に、中央を破られたということですか」
「その可能性がございます。ただし、別の部隊は、最初から敵が意図して退いたと考えているようです。今の報告だけで決めつけるのは危険かと」
「分かっています。続けて」
中央が崩れた後、西へ進んでいた隊が戻ろうとすると、敵騎兵が側面から妨害した。退く道に先回りされたという者もいれば、伝令を失って戻る命令が届かなかったという者もいる。その間に、敵の中央部隊がさらに南へ進み、前へ出ていた味方の退路を脅かした。
最後の数行を読むと、喉の奥が詰まった。
前進していた部隊の一部は、ほかの隊と合流する前に武器を置いたという。
「この将校は、どの隊にいたのですか」
軍務担当者が位置を指した。戦場の西寄りだった。中央高地を突破された瞬間を、その目で見たわけではない。
「ほかの証言も見ます」
次の文書には、中央の兵が高地へ戻ろうとした際、すでに敵の旗が見えたとある。その次には、味方の砲兵が移動を始める前に、退路へ兵が押し寄せてきたと書かれていた。
どれも全部を知っている者の報告ではない。それでも、地図の上へ1つずつ位置を置いていくと、私の知らない形が現れた。
「……最初の後退は、本当に敗走だったのでしょうか」
「敵右翼の後退ですか」
「ええ。こちらが追ってきたところで中央を攻めたのなら、偶然にしては……」
軍務担当者は、すぐには答えなかった。
「敵があの動きを誘っていた可能性はあります。そうでなくとも、中央が薄くなった時機を逃さず攻めています。高地への攻勢には、相応の兵力をまとめて投入したようです」
私はもう1度、地図の敵右翼に置かれた駒を見た。
レオンの顔が浮かんだ。
以前、彼と話したときのことを思い出す。言葉を急がず、相手の話をきちんと聞いてから答える人だった。あの慎重さを、私は好ましく思っていた。
敵の動きもまた、相手がどう出るかを見てから、必要な場所へ力を集中させたものなのだろうか。
敵軍の誰があの動きを命じたのか、レオン自身がどこまで関わったのかは、私には分からない。けれど、彼が率いる軍がこちらを大敗させたことだけは変わらなかった。
「捕虜になった兵たちは、今どうしていますか」
「敵が収容しているとの報告はあります。全員の名簿はまだ届いておりません。負傷者の手当てについても、確認を求めています」
紙の中には、「帰還せず」と書かれた隊があった。
どこかに生きている者もいるのだろう。捕虜となっている者、道に迷っている者、負傷して動けない者。死んだ者も。
私は報告書を閉じた。前に座る軍務担当者は、まだ続きの紙を手に持っていた。
「損害の人数がまだ揃わなくても、敗北したことは人々に伝えられますか」
「公表できる範囲は限られます。ですが、敗北を伏せたままでは地方の協力も得にくくなります」
「では、分かっていることを伝えましょう。大きな敗北を喫したことも、捕虜や行方の分からない人が多いことも。数だけは、まだ確定した数字として使わないでください」
彼は頭を下げた。
私は彼が下がるのを待ち、ようやく椅子の背に身を預けた。
胃がむかついた。冷めた茶を一口飲んでも治まらない。
この戦いを避ける道は、本当になかったのだろうか。
レオンの要求を受け入れれば、彼は軍を動かさなかったかもしれない。けれど、あの人が求めたのは、国境のわずかな土地ではない。レーデンブリュックもハーゲンフェルトも、さらに西の産業を支える土地まで含まれていた。
拒否した理由は、今も分かっている。
それなのに、戦死者の報告を前にすると、自分の返事によって誰かが死んだのではないかという考えを止められなかった。
父なら、どう答えただろう。
そんなことを思ってから、父がこの机の向こう側に座る姿を想像した。続きを聞こうと顔を上げても、そこには誰もいなかった。
その後も、ファルケンマルク軍は止まらなかった。
会戦から数日が過ぎた頃、敵の先遣隊がハーゲンフェルト北方の街道へ進み、後続の砲と荷車も北部から南へ移動しているとの報告が届いた。自軍の残存部隊はその進路で抵抗を試みたが、中央高地での敗北によって隊列も砲も足りない。
「敵主力は休んでいるのではなかったのですか」
私が尋ねると、軍務担当者は首を振った。
「会戦直後には負傷者の収容や捕虜の移送で、いったん進みが遅くなったようです。しかし、それが済んだ部隊から前へ出ています。北部要塞を通る補給も継続しております」
「こちらの兵は、まだ揃わないのに」
「敗れた隊を戻すには、将校と兵を確認し、武器と食料を配り直さなければなりません。南からの増援も、到着したその日に戦列へ入れるわけにはまいりません」
私は報告の頁をめくった。敗走軍から戻った兵の一部は、所属隊を失ったまま別の指揮官のもとへ集められている。負傷して帰された者の中には、歩くことさえ難しい兵もいた。
「ハーゲンフェルトの守備隊には、何を伝えていますか」
「現地の指揮権は維持し、野戦軍の再編を待つよう命じております。市内の備蓄と避難についても報告を求めています」
「待つだけでは足りません。敵が市へ迫っているのなら、いつまで守れるか、何を失えば退かざるを得ないかを聞いてください。無理な死守命令は出しません。ただ、彼らにも分からないまま待たせたくないのです」
軍務担当者は一瞬、私を見た。
「市を明け渡す可能性も、お認めになるのですか」
「認めたいわけではありません。でも、兵が全滅するまで門を開くなと命じるのであれば、私もその理由を説明できなければなりません」
彼は深く頭を下げ、文書を持って退出した。
私は椅子を離れ、窓の側へ歩いた。ヴィーネンの広場には、露店の屋根が並んでいる。荷車の脇で、少年が重そうな水桶を持ち上げようとしていた。やがて近くの大人が手を貸し、2人で桶を荷台へ載せた。
ハーゲンフェルトにも、ああいう街がある。昼食を用意する家があり、市場へ荷物を運ぶ人がいる。今、そこへ敵の軍が向かっている。
戦場の地図を見ているときは、誰が何人動けるかばかり数えてしまう。でも、その先にいる人々は、今日の市場へ買い物に出るかどうかも、自分で決められなくなっているのだ。
戸を叩く音がした。
近侍が盆を持って立っている。昼食の時間だと聞いて、私は初めて空腹だったことに気づいた。
「ここへ置いておいてください」
「冷めてしまいますが」
「分かっています。少ししたら食べます」
そう答えたものの、近侍はすぐに出ていかなかった。
「今朝も、ほとんど召し上がっておられませんでした」
「……そうでしたね」
「温かいうちに、少しだけでも」
彼女が皿の覆いを取った。いつもの食事だった。香草の匂いがして、腹の奥がぎゅっと縮んだ。
一口目はなかなか喉を通らなかった。近侍は黙って水を注ぎ、私がもう一口食べるまで皿を下げなかった。
ハーゲンフェルトからの報告が、悪くなり始めた。
北側の防御位置が失われ、敵兵が市へ近づいたという。市内へ逃れてきた兵と住民で通りが混み、避難させたい人々の荷が門を塞いでいる。軍の荷車を通すために、市の役人と守備隊が順番を決めているとのことだった。
その報告を読んだ日、私は南部からの増援に関する責任者と長く話した。彼らの用意した兵はまだ十分ではなかったが、送れる部隊を早く出したいという意見には賛成した。
ただし、到着する見込みのない援軍を約束することだけは避けた。
数日後、ハーゲンフェルト守備隊から新しい文書が届いた。敵が周辺の街道を押さえ、外からの補給が難しくなっている。救援の見込みが立たなければ、市街戦によって住民と倉庫に大きな被害が出るという。
「降伏の相談ですか」
「守備をいつまで続けるか、判断を求めております。現地には、敵が市へ入った場合に負傷兵と住民をどう扱うかという問題も生じています」
軍務担当者の目は、私ではなく文書へ向いていた。
「現地には何人の兵が残っていますか」
「報告時点では把握しておりますが、後退した隊が加わっているため、現在の確定数とは申し上げられません」
「彼らがもう1度野戦を挑めば、勝てますか」
「……それをお勧めすることはできません」
私は言葉を返せなかった。
ハーゲンフェルトは、グライフェン中央の大きな都市だ。ここを失えば、レオン軍は北部の要塞だけでなく、街道と市場と行政の中心を手に入れる。西へも南へも進めるようになる。
譲るつもりのない土地だった。ついこの前までは、地図にその名前があるのは当然のことだった。
「現地へ伝えてください。守備の継続が可能なら支援します。ですが、援軍が到達できないと分かった後まで、住民を巻き込んで戦うことを命じません。負傷者と撤退できる兵の扱いは、敵側と確かめてください」
「よろしいのですか。敵が市を得れば、こちらの立場はさらに厳しくなります」
「分かっています!」
思ったより大きな声が出た。
相手は口を閉じた。室内にいた書記まで顔を上げる。
私は机の縁に置いていた手を引いた。指先が冷たい。
「……申し訳ありません。あなたには分かっていることを、私が答えさせてしまいました」
「いいえ、殿下」
「もう少し、考える時間をください」
担当者が退出した後、私は立ったまま、机の上に広げられた地図を見つめた。
ハーゲンフェルトの周囲には、小さな村の印がいくつもある。そのどれも私の国の土地だった。父が生きていた頃も、私がまだ政治の話を途中で聞くことしかできなかった頃も。
目を閉じた。
次に顔を上げたとき、近侍が扉の側にいた。私の様子を見て、すぐには近づいてこない。
「もうお下がりになっていましたか」
「いえ。外でお待ちしておりました」
私は頷こうとしたが、うまくできなかった。
「少しだけ、一人にしてください」
扉が閉まる音を聞いてから、ようやく机へ両手をついた。
レオン。
手紙であの人の名を書いたとき、こんなことになると考えただろうか。
あの人は私の事情を知っている。父を失ったことも、国内に難しい問題があることも。それでも、譲れないと言った土地を、軍を使って取りに来た。
一度握りしめた手を開き、また握った。レオンが何も考えずに兵を動かしたのだとも思えない。あの戦場の報告を読んでしまった後では、なおさらだった。
私は書棚の前まで歩き、そこで足を止めた。父の残した書類が並んでいる。その上段に、まだ彼が読んでいたままの資料がある。手を伸ばせば届くのに、取り出す気にはならなかった。
少し前には、何か困ったことがあれば父へ話せた。その父がいない。
こんなにも腹が立って、こんなにも怖いのに、私は誰にそれを言えばいいのだろう。
涙が出たのは、怒っているせいなのか、悲しいせいなのか、自分でも分からなかった。
外の足音が遠ざかる。私はしばらくそこに立っていた。
やがて顔を拭い、軍務担当者を呼び戻すよう頼んだ。
「現地へ送る文面を、もう1度見せてください」
声がかすれたので、咳払いをした。
「住民と負傷者を守ることを、まず書きたいのです」
ハーゲンフェルトが敵に引き渡されたという報告は、その後に届いた。
敵軍の接近と補給路の遮断が続き、守備隊と市当局は、これ以上市内で戦えば住民と負傷者の被害が増えると判断した。武装解除や残る兵の扱いについて敵側と交渉した末、町の主要な門と倉庫の管理を渡したという。
私は何度か読み返した。
「市内で戦闘は」
「散発的な抵抗はあったようですが、詳しい損害はまだ分かりません。敵側は主要施設の引き渡しを受けたとのことです」
「退いた兵の行方は」
「南へ向かえた部隊がございます。残る兵の処遇は確認を急がせております」
「そうですか」
その先の言葉が見つからない。
レーデンブリュックを失い、中央の軍が敗れ、ハーゲンフェルトまで失った。敵はもう、国境の向こうからこちらを窺っているだけではない。都市の門をくぐり、倉を調べ、人々へ新しい命令を出せる場所にいる。
軍務担当者が、地図の中央へ新しい印を置いた。
私はそれを見ていた。つい先日まで味方の色だった場所に、敵の印が重なる。
「西部のエルツハイムへ続く街道は、まだこちらの管理下でしょうか」
「全区間については申し上げられません。敵の先遣部隊が西へ動き始めております。西部の守備隊は準備を進めていますが、中央との連絡が不安定です」
「レオンは……今度は、あそこを狙っているのですね」
「敵が西へ進む意図は強いと考えられます。鉱山と金属加工の中心地ですから」
私が断ったのは、まさにそこまで含む割譲要求だった。彼は手紙に書いたとおりに軍を動かしている。少しも違わない。
「南方軍の集結状況を、また確認してください。西の守備に必要な兵と、中央で退いてきた兵を、いつ一緒に動かせるか知りたいのです」
「準備しております。ただ、すでに届いた増援も、傷んだ部隊の補充に回っております」
「東方から兵を呼ぶことは、まだできませんか」
担当者は首を振った。
「ザルヴァ川対岸の軍は、なお前進した配置を続けております。東方守備を大幅に減らすことは勧められません」
「……分かりました」
私は机の端に置かれた外交文書を手に取った。何度も読み直した、ヴェリスラヴとの条件案だ。
東方で軍を動かせるようになるまで待っている間にも、西では町を失っている。もうひと月ほど待てば何とかなるという話ではない。
「外交担当者を呼んでください。ヴェリスラヴの使節に、改めて会います」
ヴェリスラヴの使節は、私が以前より早く会談を求めた理由を察しているようだった。
父への弔意を改めて述べた後、彼は机上の文書へ目を落とした。
「殿下の西方でのご苦労は承知しております。ただ、国境の軍を動かすことは、私どもの一存ではお約束できません」
「承知しています。本国への照会は、既に進めていただいているのでしょう」
「はい。軍事施設の相互制限と、係争地の扱いを含めて回答を求めています」
「傍系への支援を行わないことも、条件に含まれていますか」
「その点も送っております。ただし、本国がどこまで受け入れるかは、まだ申し上げられません」
彼は少し言葉を区切った。
「殿下。西方の戦況を理由に、すぐさま兵を下げるよう求められても、我が国には我が国の安全がございます」
「その通りでしょう。だからこそ、こちらも実際に譲歩するつもりで来ました」
私は外交担当者へ目を向けた。用意してきた文書が卓に載せられる。
商船の航行条件を改善し、一部の河川関税を下げる。係争中洲の利用は、これまでより相手側に有利な形を受け入れる。国境の軍事施設についても、新しい増強を双方が抑える。
前なら、ここまでまとめて差し出そうとはしなかっただろう。
「ただし、その代わりに必要なのは、ヴェリスラヴ軍の集結を解くことです。通常の国境守備まで失くせとは申しません。けれど、今のような兵力を川岸へ寄せたままにされては、こちらの守備隊を動かせません」
使節は私の顔をじっと見た。
「殿下は、我が国の軍を下げるために、これらの権益を差し出されるのですね」
「そうです」
「では、貴国が軍を西へ向けた後も、ザルヴァ川の通航と国境の守備は維持されるのでしょうか。西方の戦争で取り決めが覆されては困ります」
「国境守備は残します。合意した航行条件を変えるつもりもありません。私が兵を必要としているのは、すでに始まっている西方の戦争です」
彼の目が、私の手元の文書へ移った。
「商業上の譲歩を受け取る側としても、戦争で条件が覆されるのは困ります。実施する時期と、双方が守るべき制限は明記する必要があります」
「それは受け入れます。ただ、私の国が先に譲った後で、軍の配置が何も変わらないという協定には署名できません」
「分かりました。その点も確認いたしましょう」
話している間、膝の上で手を握りしめていた。使節の前では気づかれたくなかったけれど、指の爪が掌に食い込んで痛い。
私は、彼に急いでほしい。けれど、この人は私のために外交をしているのではない。こちらが苦しいからといって、国の利益を放棄する義務はない。
それが分かっていることが、今日はひどく腹立たしかった。
会談の帰り道、同行した外交担当者が、いつもより歩幅を合わせてゆっくり歩いていた。
「かなり譲ることになります」
「ええ」
「河川の収入が減り、国境施設にも制限が生じます。国内での説明も必要です」
「その分、東方から動かせる兵がいるのでしょう。今は、その兵が欲しいのです」
「ただ、署名までの時間は……」
「分かっています」
思わず言葉を遮ってしまい、私は立ち止まった。
「ごめんなさい。あなたも、私と同じことを心配しているのですね。先方が回答を待つ間に、こちらが実施できる準備だけを進めてください」
担当者が頷くのを見届けて、廊下の先へ歩き出した。
その夜も、西方から新しい報告が来た。エルツハイムへ通じる道の周辺で敵の斥候が確認され、市の守備隊が鉱山から運び出す荷を制限し始めたという。
あの街を失えば、鉱山も工房も、そこで暮らす人々も敵の支配下に置かれる。
手紙を畳んで、私はもう1度机を見た。父なら何と言うだろう、という考えが浮かびかけた。けれど、今夜はそれを最後まで考えなかった。
父の答えを聞きたいのは、本当だった。けれど、今日この条件を選んだのは私だ。
本国への照会が始まってから幾週も過ぎて、ようやく回答が届いた。
その間、西方の状況が静かになることはなかった。ハーゲンフェルトの近くでは敵が補給拠点を整え、そこから西へ進む部隊と、占領した都市に残る部隊とを分けているという報告が届いた。私の軍も南と西で態勢を立て直し、街道の一部では敵の前進を遅らせた。しかし、それによって失った中央都市が戻るわけではなかった。
エルツハイムの守備側から届く書簡には、敵が周辺の街道へ兵を進め、町の外で何度も交戦しているとあった。守る側も退くばかりではなかったが、敵の先遣隊を押し返しても、次にはもっと多くの兵が現れる。援軍を求める文言は、書簡が届くたびに切迫していった。
そんな折、外交担当者がヴェリスラヴ使節団からの連絡を持ってきた。
「本国の回答が届いたそうです。使節団は、軍事施設の相互制限と指定した係争地の扱いを条件に、川岸の集結軍を後退させることを協定で約束できるとのことです。傍系の請求者へ国家として軍や資金を与えないことも認められています」
私は立ち上がった。
「いつ、軍が動くのですか」
「協定発効後、双方の最初の措置が実施されたことを確認してからです。実際の後退命令はヴェリスラヴ側の軍令系統が発するとの説明です」
「待てる日数を決めなければなりません」
「その点は、使節団との最終協議で調整できます」
私はその場で会談を求めた。
次の会談では、通航・関税・係争地の利用と国境軍事施設に関する、これまでの譲歩を確認した。ヴェリスラヴが大規模渡河を行わず、川岸の集結軍を後方へ戻し、国内の傍系請求者へ国家として軍や資金を与えないことも、協定の条件に残った。
使節は、軍を下げる命令が現地へ届くまでの時間を求めた。私は、こちらの措置だけが進み、後退がいつまでも始まらない条件では署名できないと伝えた。双方で日程を詰め、最初の措置の確認から後退を始めるまでの期限を協定に記した。
後退の開始を両国の国境当局が確認し、その後の措置も段階的に実施することで合意した。
文書が整えられたとき、私は1度だけ、署名欄の上にある空白を見た。
この協定で、私の国は何も失わずに済むわけではない。河川から入る金は減るし、国境の施設も自由には増やせなくなる。以前ならもっと良い条件を得られたのではないかと思うかもしれない。
けれど、今その時間をかけて交渉を続ける間にも、エルツハイムでは兵が守備位置を変え、住民が荷物をまとめている。
私は名前を書いた。
使節が立ち上がり、丁寧に一礼した。
「アレクセイ陛下には、殿下のご決断をお伝えいたします」
「私からも、陛下のご決断に感謝するとお伝えください」
私は礼を返した。使節が部屋を出た後も、しばらくその場に残った。
外交担当者は、すでに写しの発送と各地への通知を指示している。廊下では書記たちが忙しく行き来し始めていた。
私の手は、まだ少し震えていた。
協定の写しが国境へ届き、双方の最初の措置が実施され、ヴェリスラヴ側から後退の通知が来るまで、私は部隊の配置を変える命令を控えた。
最初に届いたのは、河岸の兵の動きが変わったという短い緊急信号だった。続く文書には、前進して集まっていた軍の一部が後方へ移動し、対岸の荷車も以前より減っているとあった。通常の国境守備は残されている。
「少なくとも、前進集結の縮小が始まったことは確かめられました」
軍務担当者の言葉を聞いて、私は地図の東側へ目を向けた。
「国境の守備は、必要なだけ残してください。そのうえで西へ向けられる部隊を、実際の装備と馬の状態で選んでほしいのです」
「候補となる兵は数千人規模です。ただ、砲や荷車を伴って全員が同時に動けるわけではありません。中央の受入れ先も調整が必要です」
「お願いします。急いでいます。でも、途中で食料も馬も足りなくなってしまっては、あの人たちを動かす意味がありませんから」
「承知いたしました」
そのとき、扉の外から別の足音が聞こえた。
軍務担当者の後ろで待っていた書記が、入ってきた使者から封書を受け取る。西方からの報告だった。
エルツハイムの周辺では、敵軍が街道に兵を増やし、こちらは守備兵と南部からの増援で町への接近を防ごうとしている。中央方面との連絡は不安定で、守備側の糧食と馬の不足が深刻になっているという。
私は紙を読み終え、軍務担当者へ渡した。
「今、西へ出せる兵のうち、準備が早く整う部隊はどれでしょう」
「まず、東方の後備を差し引いたうえで、歩兵とそれを支える輸送から選ぶことになります。詳細は今夜までにお持ちできます」
「分かりました。西の指揮官へは、兵を送る準備が始まったと伝えてください。到着の日取りは、決まってからにしましょう」
彼が出ていった後、机の上には2つの報告が残った。東方の兵が退き始めたという知らせと、西方で敵がなお前進しているという知らせだった。
窓の外では、夕方の鐘が鳴り始めている。
近侍が夕食の用意を尋ねに来た。私は何が出るのか聞いてから、温かいスープがあると分かると、それを先に運んでもらうよう頼んだ。
「食堂へおいでになりますか」
「ええ。今夜はそちらで食べます」
立ち上がろうとすると、袖口に墨が付いているのが見えた。署名をしたときのものか、さっきの報告を読んだときのものか分からない。近侍が布を取りに行こうとしたので、私は首を振った。
「あとで着替えます。先に食べましょう」
彼女が扉を開けた。廊下の先から、使者の靴音と書記たちの話し声が聞こえてきた。
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