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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第4章 二つの継承

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第53話

朝の政務が始まって間もなく、ケラーが短い速報を持ってきた。


「ヴィーネンの公館からです。アマーリエ殿下は割譲要求を拒否され、正式回答を発送したとのことです」


書面には、発信元と中継の確認記録が付いていた。短い符号を受け取った公館が、ファルケンマルク側の連絡路へ流したものだ。


拒否か。


要求を送る前から、その可能性は高いと思っていた。レーデンブリュック、ハーゲンフェルト、エルツハイムを含むグライフェンの主要部を、誰が簡単に譲るものか。ましてアマーリエは、ようやく父の死後の政務を引き受けたばかりなのだ。


「急使の到着見込みは変わっていませんか」


「今朝の時点で、新たな遅延の報告はございません。明日中には到着する見込みです」


「分かりました。届いたらすぐに知らせてください」


ケラーが紙を置いたまま下がると、俺はそれをもう一度見た。


割譲は拒否する。正式回答は発送した。


その先はまだ何も書かれていない。要求書には、受諾か拒否だけでなく、交渉を続けるなら具体的な対案を示してほしいと書いた。彼女が何を返してきたのかは、明日の手紙を待つしかない。


ただ、軍の準備は待ってくれない。


軍務の担当者が来るまでに、昨日の報告を机の上へ戻しておいた。南部の倉庫から出した荷の一部が、国境方面へ向かう主要街道で予定より遅れていた。兵を運ぶ隊列と荷車が同じ区間へ集まったためだという。


入室した将校は、俺が開いている頁を見て、持参した地図をそこへ重ねた。


「遅れている荷について、現地から報告が届きました。先行部隊の装備ではありません。後続が使用する飼料と予備の資材です」


「予定より遅れた原因は解消していますか」


「軍の通行分は整理できました。ただ、街道そのものの幅は変わりません。残りの荷まで同時に前へ出せば、今度は通常の荷車を止めることになります」


地図には、軍の集積場所へ続く街道と、そこから別れていく細い道が描かれていた。先日見た報告よりも、荷車の並ぶ位置が手前に変わっている。


「前線が動き始めたあと、同じ区間を通る部隊はありますか」


「後続の補給隊が通ります。先に物資を詰め込んでしまうと、部隊の通過を妨げるおそれがございます」


「では、残りの荷を無理に前へ送るのはやめましょう。後続が必要とする時期に間に合うよう、軍務側で通行の順序を調整してください」


「承知いたしました。先遣隊の行動には、今の遅延は影響いたしません」


将校は、別の書類を差し出した。準備を進めている常備軍と中央管理戦力の報告だった。馬の交換、休暇中の兵の復帰、予備の装備、前線へ送った封印命令。各担当者が4日前から進めてきた仕事の、今朝までの到達点が記されている。


一つの部隊の馬具に傷みが見つかり、予備品との交換が済んだ。別の部隊では、支給予定の食料が倉庫から出た時点で数量を確認できている。数字と記録がびっしり並ぶ頁の端に、短い注記があった。


「ここはまだ受領確認がないんですね」


俺が指したのは、前線へ先に送った封印命令の一通だった。


「昨夕の時点では未到着でした。今朝、受領先からの符号が届いております。現在、写しの照合を進めています」


「発効の連絡を出す前に、その照合結果を上げてください」


「はい。遅くとも明日の正式回答到着までには、ご報告できる見込みです」


数日前に準備を命じた時点で、開戦はまだ決めていなかった。それでも、軍を実際に動かすことになれば王都から長い命令を書き始めていては間に合わない。だから命令の中身は先に作り、受け取った将校が定められた連絡を待つ形にしてある。


地図の端には、国境の向こうにある橋や街道の結節点も載っていた。そこを守る側が、こちらの動きに気づいていないはずはない。


「グライフェン側に動きはありますか」


「橋と主要街道の警備が増えております。こちらの斥候が確認できた範囲では、守備隊の配置も一部変わりました。大きな増援が到着したとの報告は、まだございません」


「変わった配置で、先行部隊の任務に影響する場所は?」


将校は地図へ指を置いた。最初の目標へ向かう道路の一つに、敵の警戒が増えた地点がある。ただ、その道路だけが使えるわけではない。先行する部隊の指揮官にも現地判断の余地は与えているという。


「そちらの報告は、前線の指揮官にも届いていますか」


「はい。今朝の連絡で伝達を確認しております」


それなら、地図の上から俺が別の道を指定する必要はない。戦場の地形を知っているのも、そこへ兵を連れて行くのも現地の将校だ。


「封印命令の照合だけ、終わり次第知らせてください」


「かしこまりました」


将校が地図を片付ける。卓上から道路と橋が消えると、代わって開いたままの行政書類が目に入った。昨日まで気にしていた期限が、今日になっても延びるわけではない。俺は一番上の書類を取った。




午後、カスパルが来た。


彼は大きな体を椅子へ収めると、厚い帳簿を開いた。最初に差し出されたのは、王国の南部で使われた準備費の一覧だった。


「前回お認めいただいた範囲内で支出しております。新しい契約の支払いが始まるのは、早くても次の支払日からです」


「借入先との話はどうなっていますか」


「短期で引き受ける用意がある商人は複数おります。ただし、支払期日を短くする代わりに条件を良くする案と、期日を延ばして利息を上げる案に分かれました。私どもは、必要な金額を一括して決めず、支払いが確定したものから契約できるようにしております」


俺は一覧の金額を追った。まだ戦争を始めていないのに、馬と車と倉庫を動かすだけで相当な金が出ていく。


「軍の予定が明日変わった場合は、どこまで取り消せますか」


「借りている荷車の一部は返せます。確保した馬と飼料にも、返却や転用が可能な分がございます。ですが、すでに払った運賃や人夫の賃金は戻りません」


「そうですね」


「準備を解いた場合の支出見込みも、別紙に置いてあります」


カスパルは俺が見る前に、その紙を上へ出した。


「今回は使わないと決めた場合に必要な精算です。現在の契約なら、こちらの範囲で収まります」


彼は前へ進む費用だけを持ってきたわけではなかった。兵を戻し、馬を返し、倉庫に物を収め直すまでの金も計算している。


「戦争になった場合は?」


「今の準備費とは別に、前進した兵への補給と、負傷者の輸送が継続します。それに、もし町を占領すれば、そこで必要になる支払いを本国からしばらく運ばなければなりません」


カスパルは古い支出帳を一枚取り出した。王領の地方役人へ渡す給金や、道路を使える状態にしておく費用を示すものだった。


「土地を取得した直後から同じ税収が入るとは限りません。既存の役人をどう扱うかが決まるまでは、徴税より先に警備と行政の維持費がかかる可能性がございます」


俺は帳簿をめくった。収入が一年のどこに偏るかは、王領の帳簿を見ていれば嫌というほど分かる。獲得した土地から翌月には好きなだけ金が取れる、なんて話はない。


「国内の通常支出に影響するのは、どの段階からですか」


「作戦が当初の想定より長引き、補給に追加の借入が必要になった時点でございます。地方官の給金と既に発注した道路工事は、優先して守るつもりです。ただし、新規事業の契約を延ばす判断は必要になるかもしれません」


それなら、今すぐ道路工事を止める必要はない。進軍した部隊を維持できる期間と、追加の支出を決める時期が分かれば、国の仕事を一度に崩さずに済む。


「軍務側の補給見込みが更新されたら、こちらの支払予定にも反映してください。契約を結ぶ前には、改めて数字を見ます」


「承知いたしました」


カスパルは帳簿を閉じたが、すぐには立たなかった。


「陛下。正式回答が明日届くのでしたら、わたしもそれを拝見したいと存じます。通商や資源の条件があるなら、戦費との比較に必要になりますので」


「もちろんです。届いたら軍務と外交にも回します」


カスパルはうなずいて席を立った。扉のところで待っていた書記へ、明日の会議に必要な帳簿を揃えるよう指示してから出ていった。


俺は残った支出一覧を片付けた。朝に届いた拒否の速報は、ほかの外交文書と一緒に保管させた。明日届く正式回答が、そこへ何を付け加えるのか。


その日のうちに答えは来なかった。




翌日、昼を過ぎて少ししたころ、ルーカスが執務室へ来た。


「陛下。ヴィーネンからの急使が到着しました」


外套を脱ぐ暇もなかったのだろう。扉の向こうには、旅の埃を残した使者が待っていた。彼の持参した封筒と受け渡し記録を外交担当者が受け取り、封印を確かめる。俺のところへ運ばれるまでのあいだに、書記が日付と差出人を書き入れた。


「道中で妨害はありませんでしたか」


「ございません。宿駅で馬を替え、一部では次の乗り手へ託して進みました」


「ご苦労でした。休んでください」


使者が退出すると、外交担当者が封書を二つ机へ並べた。一つはファルケンマルク国王宛ての正式回答。もう一つは、俺個人に宛てられたアマーリエの手紙だった。


先に公的な封を切った。


弔意への謝意と、両国の通常関係を続けたいという言葉。その下には、求めた地域を譲ることはできないと、はっきり記されていた。


昨日の速報と同じ結論だが、理由も添えられている。北部の都市と交通路、中央部の行政と市場、西部の鉱山と加工拠点を失えば、グライフェンの残る地域を治めることまで難しくなる。父から引き継いだ領地のうち、そこを手放すわけにはいかない、と。


俺も同じ地図を見て、その土地を欲しいと思ったのだから、彼女が拒む理由はよく分かる。


次の頁に進んだ。


こちらの商人がグライフェンを通る際の手続や関税の条件を改め、その適用を長期に安定させるための協議。鉱石と加工金属の供給契約を結ぶため、品目と期間の骨子を示した提案。国境線についても、主要都市と鉱山地域を除いた小さな区間なら、双方の安全と交通の便宜を考えて協議に応じるという。


用意できるものを、きちんと用意してきたらしい。


外交担当者が、俺の読んでいる頁を確かめてから言った。


「通行条件の部分は、今の条約より具体的でございます。適用する商人や貨物の範囲を定め直せば、検査の繰り返しによる遅れは減らせます。もっとも、税率などの最終条件は、次の協議で決める必要がございます」


「鉱石の方は、実際に買う工房の意見が要りますね」


「はい。必要な品目と品質、それに年間の数量を確かめなければ、供給条件を詰められません。商人や工房から希望を聞き取る必要がございます」


俺はその頁の端を押さえた。軍の金属需要だけでなく、王国内の工房にとっても利益になる。まして相手が契約を守るなら、今ある設備から産物を買う方が、戦争で鉱山を傷めるより安く済む場合だってある。


「この対案を基に交渉を続けるとして、条約の内容が固まるまでに、どの程度かかるでしょう」


「今の段階では見積もれません。まず双方で条件を詰め、文書を往復させる必要がございます。通行手続や供給数量などの細部は、使節を交えて協議した方が早いかもしれません」


「分かりました。正式回答の写しをカスパルとケラーへ回してください。午後に軍務も交えて話します」


外交担当者が正式回答を預かって退出したあと、机に残ったもう一つの封筒へ手を伸ばした。


アマーリエの手紙は長くなかった。


こちらの私信を読み、俺が彼女の置かれた事情を理解した上で書いたことは分かった、とある。それでも要求は受け入れられない。公的な対案を別封で送ったという短い連絡が続いていた。


そして、最後に。


『久しく忘れていた感情を、思い出しました。此度の件、深く心に留めておきます。』


しばらく、紙から目を離せなかった。


「……そこまで怒らせたか」


声に出してみても、返事はない。


彼女の苦しい事情を知らなかったなら、まだ言い訳の余地はあったかもしれない。だが、俺は知っていた。皇帝選挙も、国内の継承請求も、東方のヴェリスラヴも。その上で、この時期を選んで割譲を求めた。


それを分かっている、と彼女は書いてきた。


何度か読み直すうち、前の手紙に返事をしたときのことを思い出した。公的な返書とは別に、あえて俺自身の言葉で書いた。何も説明せず要求だけ送るよりは誠実だと思ったのだ。


今考えると、ずいぶん自分勝手な誠実さだった気もする。


手紙を折り、封筒に戻す。外交担当者に用意させた正式回答の写しを取り上げ、午後の会議に使う書類へ重ねた。


会議を待つあいだ、地方から届いた別の裁可書類にも目を通したが、少し進めては手を止めていた。




午後の会議には、カスパル、オスカー、ケラー、外交と軍務の担当者が集まった。


「アマーリエ殿下の対案について、まず財務側から申し上げます」


カスパルが、昼のうちにまとめた紙を開いた。


「長期供給契約には価値がございます。工房が必要とする品目を安定して購入できるなら、価格の急な変動も抑えられるでしょう。通行条件の改善も商人の負担を減らします。戦争をしない場合の利益として、軽く見るものではございません」


「それを踏まえても、現在の要求は維持すべきだと考えております」


オスカーが言った。


「これまでグライフェンの市場や鉱山で生まれる利益の多くは、ヴァルデンハイム側の税収と力になってきました。契約でこちらへ入るのは産物と通行の便益です。あの地域の行政と防衛を誰が担うかは変わりません」


「戦争で取得すれば、税収だけが増えるわけではない」とカスパルが返した。「現地の官吏と領主の権利、徴税の時期、軍の駐屯、傷んだ道路。すべてを引き受けます。そこを軽く見るなら、取得後に国庫が苦しくなる」


「軽くは見ておりません。ですが、今はその負担を引き受けるための準備もできています」


オスカーは父の方へ体を向けた。


「10年後に同じ機会があるかは分かりません。ヴァルデンハイムが落ち着けば、こちらがどう望んでも、この規模の割譲交渉には応じないでしょう」


「10年後の話より、まず来月の支払いを見たいのが財務の仕事です」


カスパルの返答に、オスカーはわずかに口元を引き締めた。


俺は二人のやり取りを聞きながら、同じ紙にある二つの数字へ目を落としていた。一つは準備を解く場合に確定する費用。もう一つは、軍を進め、しばらく維持した場合の見積りだ。


「軍務側は、今の配備を維持して交渉を続ける場合、何が問題になりますか」


将校が報告書を手元へ寄せた。


「現在の集積場所を維持するだけなら、直ちに不足は出ません。ただ、待機が長くなれば交代の兵と馬が必要になります。先方も警戒を強めていますので、作戦開始時の配置は改めて確認しなければなりません」


「一度兵を引いた場合は、また同じように準備できますか」


「できます。ですが、前回の準備に要した時間は再び必要です。敵の守備配置が変われば、同じ命令書で行動できるとも限りません」


新たに届いた対案を受けて交渉を続けるなら、軍の方は今の準備を解くことも考えなければならない。明日、あさってと待っているうちに、相手はグライフェン各地から兵と物を集めてくるだろう。もちろん、それを理由に交渉の時間を与えないと決めるのも、こちらの選択だ。


「陛下」


外交担当者が口を開いた。


「先方は、主要都市と鉱山地域を国境調整の対象から外しております。通商と資源の条件を詰めれば、実際に条約へまとめる道はございます。ただ、要求された地域の割譲については、交渉の出発点が異なります」


「こちらが広域割譲を求め続けるなら、交渉はすぐには進まないということですね」


「左様でございます。拒否されていることが明確な以上、再度の要求には新しい材料が要ります」


その新しい材料を、こちらは軍事力で作ろうとしている。


外交担当者の説明が終わると、ケラーが国外から届いた最新の報告を出した。ウェストリアがヴァルデンハイムの継承の安定を重視していること。フロレーヌの使節がルートヴィヒ支持を働きかけていること。ヴェリスラヴは依然として東方国境に圧力をかけていること。


「いずれも、前回お伝えした方向から大きく変わってはおりません。ただし、我が国が軍を動かしたあとも同じ態度が続くかは、まだ確認できません」


俺はうなずいた。ウェストリアがただちに軍を送ってくるという材料はない。しかし、アマーリエの側へ金と物を流すだけでも、この先の戦争はずいぶん厄介になる。


「皇帝選挙の進展は?」


「結果はまだ出ておりません。ルートヴィヒ側からは、先の支持要請以降、投票を確約するよう改めて働きかけが続いております」


投票先はまだ決めていない。皇帝に誰が就くかで、こちらが開戦した場合の帝国の対応も変わり得る。ヴォルフガングならヴァルデンハイム王朝との結び付きから動くだろうし、ルートヴィヒなら、彼自身の帝国観と諸侯への約束が判断を左右する。


どちらもこちらの戦争を歓迎するとは思えない。


目の前に置かれた対案へ戻った。


ここで開戦を見送れば、アマーリエは譲れる範囲の条件を実際に示している。時間をかけて条約を結べば、商人も工房も利益を得られるだろう。王国の兵士を危険にさらさずに済む。彼女から届いた私信に、さらにひどい返事をすることも避けられる。


悪い選択ではない。


俺が欲しかったのは、契約がもたらす便益だけではない。グライフェンの都市と土地を、アルテンフェルス王家の統治下に置くことだった。人が暮らし、市場が育ち、税が集まり、道と橋を自国の判断で守る。そこまで得て初めて、周りの国との力関係を変えられると考えた。


今なら、そのための兵を動かせる。アマーリエが複数の危機へ対応していることも、帝冠の行方が決まっていないことも、俺に有利に働く。


「軍務側へ確認します。現在の報告を踏まえて、最初の作戦目標を変更する必要はありますか」


将校が前へ出したのは、国境から届いたばかりの警戒報告だった。


「敵守備隊の一部再配置は把握しております。先行部隊の指揮官には既に伝達済みです。現時点では、準備している作戦全体を変更する理由はございません。ただし、敵の主力が早く到着した場合、前進の速度は落ちると考えます」


「補給については?」


「当初の前進を支える分は揃っています。昨日報告した後続の飼料と予備資材については、現地で荷を分けて通すよう調整しております」


俺はカスパルを見た。


「最初に認める費用の範囲は、これまでの見積りで足りますか」


「はい。超えると見込まれる時点で、追加の裁可をお願いすることになります」


カスパルの帳簿には、今からでも軍の準備を解ける場合の費用がある。別の机には、前線の封印命令を発効させるための書類が置かれていた。


俺はアマーリエの対案へもう一度目を通し、顔を上げた。


「アマーリエ殿下の対案は受諾しません」


書記が顔を上げた。


「グライフェンへの軍事行動を開始します。既定の作戦を発効させてください」


オスカーはすぐに書類へ目を落とし、軍務の担当者は立ち上がった。カスパルだけがしばらくこちらを見ていたが、やがて帳簿を閉じた。


「必要な支払いは、わたしの方で手配いたします」


「お願いします」


書記の筆が走る音を聞きながら、俺は椅子に座ったまま、机の上の文書へ署名した。




署名した命令書が軍務へ渡されると、会議の部屋は急に慌ただしくなった。


軍務担当者は、前線へ先に送っていた封印命令の受領記録を机に並べた。最後に残っていた宛先からも確認が届き、必要な将校がそれぞれの文書を持っていることが分かった。


「発効符号の送信準備はできております。指定時刻は、明朝の夜明けで変更ございません」


「はい。発効させてください」


担当者は一礼し、記録を携えて退出した。前線へ渡っている作戦命令を動かすため、王都の信号所から短い符号が送られる。


外交担当者は、別の机で正式回答を整えていた。アマーリエの対案を受諾しないことと、軍事行動に移る決定をしたことを伝える文書だ。外交官が読み上げた文案を聞き、俺は割譲要求の範囲に曖昧なところがないかだけ確かめた。


「殿下への正式回答は、この文言でお願いいたします」


書記が清書を仕上げ、俺が署名する。


「国境側へ伝える通知は、どういう経路で届けますか」


「現地の連絡所と急使を使います。先方の守備隊へ直接知らせる手続も、国境側の担当者に準備させております。到達の確認には別の報告が必要です」


「では、通知を出してください。受領が分かったら報告を」


「承知いたしました」


正式回答は、書記の手で封書へ収められた。これがヴィーネンへ届くまでには、いくつもの宿駅を通る。前線の部隊は明朝動く。俺は封書が運び出されるのを見送った。


外交担当者が書類を持っていくと、今度は軍務側から、国境に配置した部隊の夜間連絡担当を示す紙が来た。明け方に受ける定型報告を誰が確認し、どの系統で王宮へ上げるかが書いてある。俺の執務室へ届くまでにも、人の手をいくつも通る。


「今夜は軍務の当番を増やします。陛下へ直接お知らせするものは、越境開始か、命令変更を要する事態が生じた場合でよろしいでしょうか」


「それで構いません。現地の判断で対応できることまで、全部こちらへ問い合わせなくていい」


軍務担当者が出ていってから、ようやく机の上の紙が減った。


アマーリエの私信だけは、引き出しにしまわず残してあった。


返事を書こうとして便箋を出したが、最初の一行も浮かばなかった。国王としての回答には署名した。けれど、昔から手紙をやり取りしてきた相手に、これから自分の軍がそちらの土地へ入ると告げた直後、何を書けばいいのだろう。


謝りたい気持ちはあった。


ただ、今の俺が謝ったところで、彼女の守るべきものが減るわけでも、俺が求めた土地が消えるわけでもない。便箋を元に戻し、手紙を封筒へ収めた。




夕食の時間には、少し遅れた。


食堂へ行くと、ゾフィーは食事を終えたところだった。俺の分は温め直して運ばれてきた。彼女は出ようとせず、向かいの席に残っていた。


「今日は遅かったですね」


「悪い。昼に返事が届いたんだ」


「アマーリエ殿下からですか」


「うん。割譲は断られた。それで……軍を動かすことにした」


ゾフィーは少し黙ってから、俺の顔を見た。


「あなたも行くのですか」


「今のところは王都にいる。前線を動かすのは、向こうの将校たちだよ」


「そうですか」


彼女は手元の杯を置いた。


「明日の宮廷の予定も、いつも通り進めて構いませんか。私の方へ相談の来ている方が何人かいらっしゃるので」


「うん。もし変更が必要になったら、俺から伝える」


「分かりました」


それからゾフィーは、今日済ませた用件と、まだ返事を待っている人のことを少し話した。俺も食事を取りながら聞いた。食べ終わったあとも彼女は急いで席を立たず、俺はもう少しだけ一緒にいた。


部屋へ戻る途中、アマーリエの手紙を思い出した。ゾフィーには見せていないし、今夜のうちに俺の考えがまとまるとも思えない。




翌朝、身支度を済ませたとき、軍務の当番から夜間の連絡が届いた。


前線の各部隊は発効符号を受け取っており、予定の時刻へ向けて準備が続いている。国境付近で警戒する相手方の動きも報告されていたが、作戦を変更する必要があるという知らせは入っていない。


「新しい受領確認は?」


「昨夜のうちに揃っております。今朝は、先行部隊の行動開始の報告を待っているところでございます」


「分かりました」


当番を下がらせ、朝の政務を始めた。


机には、急いで判断する必要のない書類も積まれていた。普段なら後で読めば済むものだが、今日はかえって目を通す気になった。王領の支出報告を一枚読み、地方からの請願に付いた資料を確認する。どちらも前線からの報告ではない。


最初の文書に署名している間に、廊下で足音が止まった。


軍務担当者が入ってきた。


「陛下。先行部隊から、越境開始の定型報告が届きました」


差し出された紙には、発信元と中継の確認が付いていた。予定された時刻に、先行部隊が国境を越えたという。続いて主力側からも、実施命令に従い行動を開始したとの知らせが入っていた。


俺は紙を受け取った。


「現地で敵と接触したという報告は?」


「まだございません。先に届いたのは行動開始の符号です」


「分かりました。橋と街道については、確認が取れ次第知らせてください。後続の補給も、軍務側で報告を続けてほしい」


「承知いたしました」


担当者が頭を下げて退いた。


地図に引いた線のどこまで兵が進んだかは、まだ分からない。昨夜まで書類の中にあった作戦を、今は本物の人間が、馬を連れて実行している。


先行部隊から届いた紙を、もう一度見た。


越境開始。


俺はその文字を見ながら、アマーリエの返事をもう一度思い出した。


そのとき扉が控えめに叩かれた。次の報告を持った書記が来ているらしい。


「入ってください」


机の端へ軍務の速報を置き、俺は顔を上げた。


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