第52話
~アマーリエside~
グライフェンから上がってきた報告は、どれも決定的ではなかった。国境に近い街道で、ファルケンマルク側の荷車が増えている。交換馬をまとめて動かしているらしい。普段より多くの兵が行き来しているという見張りからの報告もある。けれど、国境を越えた部隊はいない。国境線へ明確に部隊を集めたという報告もない。私は机の上に置かれた3枚の紙を、もう一度順番に見た。
「これらは、一連の動きと見ていいのですか」
軍務担当者はすぐにはうなずかなかった。
「関連している可能性は高いと見ております。ただ、現時点では断定できません。部隊の補充、倉庫の確認、馬の入れ替えだけでも似た動きは出ます」
「普段より動きが増えていること自体は確かですか」
「それは間違いございません」
隣にいた書記が、別の報告を私の方へ寄せる。グライフェン側の信号所から入った短い速報だった。国境監視を続けている地点のうち、2か所からほぼ同じ内容が来ている。ファルケンマルク側で、軍に関係する人と物の動きが増えている。1か所だけなら、その場所だけの動きかもしれない。別の場所から同じ傾向が重なれば、局地的な変化では済ませにくくなる。
「警戒を一段上げてください」
軍務担当者が顔を上げた。
「グライフェンの守備隊へ、既定の警戒符号を送りますか」
「はい。橋と主要街道の結節点、倉庫、信号所の状態も確認し直させてください。配置を変える必要があるなら、理由と必要な兵数を文書で上げさせます」
「承知いたしました」
「東から兵を動かす案は、まだ出さないでください」
相手は一瞬だけ黙り、東方の報告書へ目を落とした。
「ヴェリスラヴ正面の警戒を下げる理由は、今のところございません」
「ええ」
ザルヴァ川の向こう側では、相変わらず兵がいる。大規模な渡河が始まると断定できる動きはまだ見つかっていない。だからといって、そこから兵を抜けばいいことにはならない。西へ兵を回せば東が薄くなる。東を維持すれば、西はまず今いる兵で備えるしかない。
「グライフェン側には、まず今いる兵でできることをさせてください。倉庫の在庫、伝令馬、橋の警備、信号所の人員を確認して、人員や物資に不足がある箇所を先に報告させます」
「ファルケンマルク側の動きについては、増減が分かる形で続報を。『多い』『少ない』だけではなく、昨日までと何が変わったのかを知りたいです」
軍務担当者が頭を下げた。命令書のために書記がペンを動かし始める。私は次の紙へ手を伸ばした。机の端には、皇帝選挙の報告と、ヴェリスラヴ使節団へ返す文案、それから国内の継承手続に関する束がまだ残っている。
「次をお願いします」
国内担当者が前へ出た。
「アイヒェンベルクの審理資料について、追加の照会分が届いております」
「ディートリヒ殿の側からですか」
「はい。先方は、審理を急がせることよりも、提出済みの古い文書が正式に証拠として扱われるかを確認しております」
「扱ってください。真偽の確認は必要ですが、請求を出したこと自体で不利にはしないように」
国内担当者が頭を下げた。私を支持しながら、昔からの権利を確認したい家がいる。忠誠の宣誓をまだ終えていない地域もある。アイヒェンベルクだけについて、自分に継承権があると正式に訴えているディートリヒもいる。それでも国は動き続けている。
翌日、午後の会議が始まって間もなく、扉の外が少し騒がしくなった。大きな声は聞こえない。ただ、人の足音が重なった。書記が立ち上がりかけたところで、近侍が入ってくる。
「ファルケンマルクからの急使が到着いたしました」
私は手元の文書から顔を上げた。机の端に残っていた昨日の軍務報告へ、何人かの視線が動いた。
「通してください」
急使本人が会議の奥まで入ることはなく、所定の受け渡しが行われた後、3つの封書が運ばれてきた。同じ便で届いたものだという。1つは国家間の公的な返書。1つは別封の正式外交文書。最後の1つには、私個人宛ての封がある。私はそれを見てから、公的な返書を取った。先に読むのはこちらだった。マクシミリアンの死への弔意。私が政務を継続していることを承知しているという文言。
ヴァルデンハイム内部の継承問題へ不当に介入する意思はなく、通常の国家間関係を続けるという確認。丁寧だった。必要なことは書いてある。ヴォルフガングへの支持だけは、どこにもなかった。
「選帝侯票については、何もありませんね」
外交担当者が文書を確認する。
「はい。支持も、不支持も明記されておりません」
「分かりました。これは通常の返書として処理してください」
私は文書を脇へ置いた。次。もう1つの封を開く。最初の数行で、手が止まった。もう一度読む。読み違いではない。
「地図を」
私が言うと、書記がすぐに立った。外交担当者は文書を受け取らず、私が読み終えるのを待っている。レーデンブリュック。ハーゲンフェルト。エルツハイム。その3つが、同じ要求書に並んでいる。
「こちらです」
広げられた地図の上で、私は文書に書かれた範囲を追った。北部。中央部。西部。線を目でつないでいく。グライフェンの端を少し削る話ではなかった。
「この要求通りなら、ハーゲンフェルトも完全に向こうへ入りますね」
「はい」
外交担当者が地図へ手を伸ばす。
「レーデンブリュックもです。エルツハイムを含む西部の主要な鉱山・製錬地域も、要求範囲に含まれております」
「要求は、南側のどこまで及んでいますか」
「ホーエンヴァルト山地より南へは出ておりません。南東側の地域も、今回の要求には含まれていません」
南側が要求から外れていても、失う範囲は小さくない。ハーゲンフェルトを失えば、中央部の行政と市場の中心を失う。エルツハイムを失えば、西の鉱山と金属加工の大きな部分を失う。レーデンブリュックを失えば、北側の都市と交通をまとめて切り取られる。私は文書の最後まで読んだ。要求は最後通牒とは書かれていない。
受け取ってから1昼夜以内に、受けるか、拒否するか、交渉を続けるための具体的な対案を返すよう求めている。詳細な条約を明日までに作れという話ではない。けれど、考えているとだけ返して待たせるつもりもないらしい。
「いつ受領した扱いになりますか」
「先ほど、正式に受領しております」
「では、そこから1昼夜ですね」
「はい」
私は地図から顔を上げた。
「この範囲の割譲は受けません」
外交担当者の顔は変わらなかった。軍務担当者は、机の上の地図を見たままだった。
「正式回答は、対案と一緒に作ります」
外交担当者がペンを構えた。
昨日までは、増えた兵や荷車が何を意味するのか、もう少し見てから判断する余地があった。今は、向こうが何を求めているかが分かった。広すぎる。数日前、皇帝選挙のために通常財政と東方国境を危うくする約束はしないと決めたばかりだった。グライフェンの主要部を差し出す方が、それより軽いはずがない。
私は地図の端を押さえた。
「割譲せずに出せる実益を並べてください」
外交担当者がうなずく。
「通商条件、通行条件、資源供給でしょうか」
「国境線についても、3都市や主要鉱山地域を外した上で、実際に調整できる区間があるか確認してください。あるなら対案の候補に入れます」
「鉱山産物については、長期の供給契約を作れるか確認を。ファルケンマルク商人の通行や関税についても、どの条件まで変更できるか案を作ってください。条約全文ではなく、明日返せる骨子で構いません」
外交担当者が書き取っていく。私は軍務担当者へ目を移した。
「昨日の警戒命令は?」
「主要な信号路については、すでに到達確認が来ております。文書での詳細確認は、順次返送中です」
「ファルケンマルク側に、新しい動きはありますか」
「増加傾向は続いております。ただ、越境は確認されておりません」
「守備側の確認を続けます。橋、街道、倉庫、信号所。必要な補充があるなら急いでください。東方の配置を崩して兵を送る案は、私へ上げる前にヴェリスラヴ正面への影響も付けてください」
軍務担当者がうなずき、文書を受け取った。次に、国内担当者と法務担当者を呼ぶよう命じた。
法務担当者が来るまでの間に、ヴェリスラヴからの新しい回答が届いた。軍事施設については、こちらの案にまだ不満がある。航行条件については、前より具体的な文言になっている。河川関税については、相手が譲れる範囲が少し見えた。私は最初の頁を読み、いったん閉じた。
「これは今日中に結論を出す必要がありますか」
外交担当者が首を振った。
「本国照会が必要な部分が残っております。こちらの返答が数時間遅れても、交渉そのものが止まる状況ではございません」
「では、夕方まで待ってください。ファルケンマルクへの回答を先にまとめます」
ほどなく、国内担当者と法務担当者が入ってきた。机にはまだグライフェンの地図が広がっている。法務担当者はそこへ目をやったが、何も尋ねなかった。
「グライフェンの警戒を上げました」
私が言うと、2人の顔が少し硬くなる。
「まだ開戦ではありません。ただ、この先、対外防衛のために各地へ兵や輸送の協力を求めることになれば、継承請求を続けている家にも同じ命令が届きます」
国内担当者が私を見る。
「その時、命令に従ったことを、請求を取り下げたとか、私の権利を全面的に認めたという扱いにはしたくありません」
法務担当者はすぐに答えず、少し考えた。
「軍令への服従と、民事・継承上の権利主張を別に扱う形であれば可能です。現在進行中の審理については、対外防衛への協力が請求の放棄を意味しない旨を明示できます」
「お願いします。逆も同じです。請求を続けているからといって、防衛命令に従わなくてよいという意味にもしたくありません」
「地域の特権についても同じ考え方で整理できますが、文言は分けた方がよろしいかと存じます」
「分けてください」
「発令まで進めますか」
私は少し考えた。まだファルケンマルク軍は国境を越えていない。国内へ、戦争が始まったような命令を出す必要はない。
「案を作ってください。軍務側とも合わせて、どの命令に付けるのが一番混乱しないか確認を。審理は止めず、文案は必要になった時すぐ出せるところまで進めてください」
法務担当者がうなずき、国内担当者が続ける。
「ディートリヒ殿の請求審理も、予定通り進めますか」
「進めてください。今の段階で止めれば、こちらが軍事上の不安を利用して請求を潰そうとしているように見えます」
相手は短くうなずいた。
「では、審理担当へそのまま進めるよう伝えます」
「お願いします」
国内担当者と法務担当者が退出する。机の上には、割譲要求の地図、アイヒェンベルクの審理書類、ヴェリスラヴへの返答案、皇帝選挙の報告が並んだままだった。
夕方近くになって、対案の最初の文案が上がってきた。私は外交担当者と一緒に、1項ずつ読む。最初に、要求された広域割譲は受諾できないと明記してある。次に、国境の小規模な調整については、双方の安全上または交通上の必要がある区間に限り、具体的な対象を示した上で協議に応じる。
通商については、グライフェンを通るファルケンマルク商人の通行条件と関税の一部を長期協定で安定させる。資源については、グライフェン産の鉱石や加工金属を中心に、一定期間の優先供給契約を協議する。
「『優先供給』だけでは、何を約束するのか分かりにくくありませんか」
私はその行を指した。外交担当者が文書を見る。
「数量まで本日中に確定するのは難しいですが、供給期間と対象品目を骨子へ入れることはできます」
「入れてください。交渉を続けるなら、次に数量や条件を詰められる程度には具体的にします」
「通行条件も同じです。『改善を検討する』では返事になりません。どの種類の通行と関税を協議対象にするのかを書いてください」
書記が修正点を書き込む。
「それから、国境調整は、この要求書にある3都市や主要鉱山地域を含まないことを分かるようにしてください」
外交担当者がこちらを見た。
「そこまで明記しますか」
「します。3都市と主要鉱山地域は、国境調整の協議対象から外すと明記してください」
文書の端に修正が増えていく。私は椅子の背に寄りかかり、書き込みの増えた文案を見直した。
「これで2案目を作ってください」
外交担当者が文書をまとめる。扉の方へ向かいかけたところで、私は机の端に残っている封書を見た。個人宛ての封。届いてから、ずっとそこにある。
「その前に」
相手が立ち止まる。
「この部屋を少し空けてもらえますか」
外交担当者は私の視線を追った。封書を見て、それ以上何も聞かず一礼した。書記も紙をまとめる。全員が出ていき、扉が閉じた。部屋が急に静かになった。私はしばらく封書を見ていた。開けたくなかったわけではない。むしろ、ずっと気になっていた。ただ、先にこれを読んだら、国家の返事と私の返事が混ざる気がした。だから後にした。封を切る。
私が送った問いへの答えは、最初の方にあった。ファルケンマルクにとって、同じ形では二度と来ないかもしれない機会だと見ている。その一文で、私は読む手を止めた。少しだけ息を吐き、続きを読んだ。父を亡くしたばかりであること。国内の継承と皇帝選挙を抱えていること。東の国境でヴェリスラヴと向き合っていること。全部、分かっていると書いてある。知らずに要求しているのではない。
知った上で、ファルケンマルク王として、この機会を見なかったことにはできなかった。私はそこで紙から目を離した。窓の外はもう暗くなり始めている。廊下を誰かが歩く音がして、遠ざかった。手紙へ目を戻す。私が聞いたのだ。あなた自身は、どう見ているのか。レオンは答えた。きれいな言葉で逃げずに。
要求書だけを読んだ時には、レオンが私の状況をどこまで承知した上で、この条件を出したのかまでは分からなかった。今は分かる。父の死も、継承も、東の国境も、皇帝選挙も知った上で、それでもファルケンマルクにとっての機会を見過ごせないと言っている。
腹が立った。思ったより、ずっと。思わず吐き気を催すくらいには。私は手紙を机へ置いた。
知らなかったのなら、説明する余地がある。けれど、知らないわけではなかった。同じ事情を言い直すだけでは変わらない。最後まで読む。父の最後の日々を書いたことへの返事は、今はうまく書けない。今日の要求の後では、何を書いても言い訳にしてしまいそうだから。ただ、読んだことだけは伝えたかった。そこで手紙は終わっていた。私はしばらく動かなかった。
机の上には、まだ私が返すべき国家文書の草案がある。私は呼び鈴へ手を伸ばした。近侍が入ってくる。平静を装う近侍の顔に、ほんの一瞬、怯えの色が差した。そこで初めて、私は自分が思いのほか怒りを露わにしていたことに気づいた。いつも浮かべているはずの微笑みはとうに消え、無意識のうちに周囲を威圧するほどの怒気を滲ませていたようだ。
「外交担当者を戻してください」
「承知いたしました」
2案目ができた頃には、外はすっかり暗くなっていた。私は修正された文面を最初から読み直した。
「これで出せます」
外交担当者が確認する。
「広域割譲の拒否。限定的な国境調整の協議。通行・関税条件の長期安定。鉱山産物と加工金属の長期供給協議。この4点を対案骨子として返します」
私は署名欄を確認し、そのまま署名した。正式回答はそれで終わった。次に、個人用の紙を出してもらう。これは人に書かせるものではない。外交担当者と書記を退出させた。何を書くかは、長く迷わなかった。長く書けば、父のことや今の怒りまで書きそうだった。
あなたが、私の置かれている状況を理解した上で書いたことは分かりました。そこまで書く。次の行。それでも、今回の要求を受け入れることはできません。少し考え、最後にこう記した。久しく忘れていた感情を、思い出しました。此度の件、深く心に留めておきます。と
最後に、正式な対案を同封したことだけを書き、署名した。読み返して、封をした。翌朝、正式回答と私信は同じ急使へ渡された。公的な文書は外交手続で。私信は本人宛ての封書として。私は受け渡しの記録を確認した。
「出発しました」
近侍が報告する。
「そう」
急使がヴィーネンを離れて間もなく、軍務側から新しい報告が来た。ファルケンマルク側の準備は、昨日よりさらに明確になっている。国境越境はまだない。グライフェン側では警戒命令が届き、主要な橋と街道結節点の確認が進んでいる。倉庫の不足分についても最初の報告が上がり始めた。
「追加兵力の要請が2件ございます」
軍務担当者が言った。
「どちらも現地の既存配置だけでは、すべての結節点へ常時兵を置くのが難しいとのことです」
「東から動かす必要がありますか」
「現時点では、必ずしも。グライフェン内部で配置を調整すれば対応できる案も出ております。その場合は一部の通常任務を縮小する必要があります」
「その案を先に見せてください」
軍務担当者が頭を下げた。次の紙。今度は法務担当者からだった。昨日頼んだ文案が上がっている。対外防衛のための軍務・輸送・補給への服従または協力は、それだけを理由に継承請求や既存の地域権利を放棄したものとは扱わない。一方で、請求や審理が継続中であることは、適法な防衛命令への不服従を正当化しない。私は2度読んだ。
「グライフェンで追加の軍令を出す場合に一緒に使えるよう、国内担当と軍務担当で文言を合わせてください」
法務担当者が頭を下げて退出した。次に入ってきたのは、ヴェリスラヴとの交渉文書を持った外交担当者だった。昨日後回しにした分だ。
「航行条件について、先方から本国照会前でも受けられる修正案がございます」
「見せてください」
紙を受け取る。ザルヴァ川。河川関税。係争中の河岸と中洲。国境沿いの軍事施設。昨日までと同じ論点が、少しだけ違う形で並んでいる。
「この修正案なら、航行条件の部分は前へ進められます」
私は1頁目をめくった。
「関税は、こちらが示した下限を下回っています。その税率では受けられません。下限を維持した案で返してください。軍事施設については、先方が安全保障上どうしても譲れない条件を、ほかの要求と分けて改めて確認してください」
担当者が書き取る。窓の外では、朝からの曇り空が少し明るくなっていた。私は次の頁へ進んだ。
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