第50話
グライフェンから届いた追加報告は、前に父と読んだものより厚くなっていた。遠い斜面から木を運ぶ場合の費用。現地で炭を焼いた場合の人手。鉱山側が冬までに必要とする木炭の見込み。村がこれまで森から取ってきた薪の量。道の状態と、雨が続いた場合に荷車がどこまで入れるか。
私は最後の頁を読み、もう一度最初へ戻った。
「鉱山側は、今の範囲では足りないと言っているのですね」
向かいに座った担当官がうなずいた。
「はい。現在使っている区画だけでは、この冬から来春にかけて不足する見込みです。新しい採掘を始めるのであれば、さらに増えます」
「村の方は?」
「冬季に使う薪を減らすことには反対しております。ただ、森をすべて村だけで使う権利があると主張しているわけではございません。これまで通り、自分たちが使ってきた範囲を守ってほしいという申し立てです」
「鉱山側も、森そのものを自分たちへ渡せとは言っていない」
「はい。必要な木材と木炭を確保したい、という要求です」
紙の上では、どちらも無茶なことを言っていない。だから前に決めきれなかった。鉱山は止めたくない。けれど、村の冬支度を削ってまで木を回す理由にもならない。父はその時、遠い斜面から運ぶ費用と、現地で炭を焼く場合の負担をもう一度出させた。私もそれでよいと思った。
そして、追加報告が来る前に父は死んだ。
「遠い斜面から運ぶ案は、使えないほど高いのですか?」
「使えないわけではございません。ただ、常時それだけに頼ると鉱山側の費用が大きく上がります。雨の多い時期には道も悪くなります」
「現地で炭を焼く場合は?」
「こちらは人手と場所の確保が必要です。村側との境が曖昧な区画もあり、今のまま広げると争いになる可能性があります」
私は机の上の図を見た。森の線。道。村。鉱山。同じ紙の上にあるのに、誰のものでもない場所と、何人もの生活が重なっている。
「では、今冬に必要な分だけ先に決めます」
担当官が顔を上げた。
「鉱山の操業を止めない範囲で、追加利用を認めてください。ただし、村がこれまで冬に使ってきた分は削らない。新しく使う区画は記録を残してください」
「はい」
「木をどこから運んだか。炭をどこで焼いたか。運ぶのにいくら掛かったか。実際にどれだけ使ったか。来春までに数字を揃えてください。その上で、恒久的な扱いを決めます」
担当官は書記の方を見た。書記がすぐに書き始める。
「村側と鉱山側には、暫定措置であることも伝えてください。今回認めた範囲が、そのまま将来の権利になるわけではありません」
「承知いたしました」
返事を聞き、私は署名する場所へ目を落とした。数日前なら、ここまでまとめた後でも父へ戻したかもしれない。自分の判断が間違っているとは思わない。それでも、父が何を聞くかを一度見てから決めた方がいいと思っただろう。今は戻す相手がいない。ペンを取り、署名した。担当官が文書を受け取る。
それで終わりだった。父と一緒に保留した仕事が、特別な音もなく1つ片付いた。
「次をお願いします」
口にすると、書記が机の端に置いていた別の束を前へ出した。表紙にあるのは、帝国の選挙に関する報告だった。
午前の報告では、数字そのものは大きく動いていなかった。それでも、誰がどこへ使節を送り、誰と会い、どんな返答を持ち帰ったかが増えている。
「ルートヴィヒ殿の側は、未定の選帝侯への働きかけを強めております」
外交担当者はそう言って、報告書の一部を指した。
「フロレーヌからも複数の使節が入っております。先方が何を約束しているかまでは確認できておりませんが、ヴァルデンハイム王朝から再び皇帝を出させないという方向は変わっていないものと見られます」
「リューネンベルクは?」
「ヴォルフガング殿へ傾いております。ただし、正式な投票の約束はまだございません」
「なら、数には入れない方がいいですね」
「はい。そのように整理しております」
前回の報告でもそうだった。傾いている。好意的だ。使節への応対が良い。どれも参考にはなるけれど、票そのものではない。担当者は次の紙へ移った。
「ヴォルフガング殿の側からも連絡がございます。こちらには、ヴァルデンハイム家として、未定票への働きかけをさらに強めてほしいとの要請です」
「具体的には?」
「現時点では、個別の保証まで正式に求めているわけではございません。ただ、支持の意思だけではなく、ヴァルデンハイムとして選挙後の協力まで示してほしい、という意向が強いようです」
言い方が曖昧なのは、向こうもまだこちらの反応を見ているからだろう。
「協力、という言葉で何を含めようとしているのか確認してください」
担当者がうなずいた。
「財政上の負担なのか。帝国内での政治的な支持なのか。将来の争いで何か保証を求めているのか。それを分けてください」
「承知いたしました」
「こちらはヴォルフガング殿を支持します。その点は変えません。未定票への働きかけも続けてください」
「はい」
私は一度、報告書へ視線を戻した。帝冠を失いたいわけではない。父が長く持ってきたものだという理由だけでもない。皇帝が誰になるかで、帝国内で話を通す力も、周囲の見方も変わる。ヴォルフガングが皇帝になれば、ヴァルデンハイム王朝の影響は残る。だから欲しい。
ただ、そのために何を差し出すのかは別に決めなければならない。
「新しい保証を求められた場合は、内容を持ち帰ってください。私の名前で先に約束はしないで」
「承知いたしました」
担当者が答え、書記が記録する。
「それから、国内の継承手続や東方の対応を遅らせることになるような負担は認めません。そこまで含めて、こちらの条件として伝えてください」
「その条件を、ヴォルフガング殿側へ明示してよろしいでしょうか?」
「はい。支持は続けます。ただし、何でも引き受けるという意味ではないと伝えてください」
今度の返事には迷わなかった。担当者が退出し、次の予定まで少し時間が空いた。窓の外では、帝国の官吏らしい一団が中庭を横切っていた。父が死んで皇帝の席が空いても、ヴィーネンそのものは止まっていない。書類は運ばれ、人が呼ばれ、法廷も役所も仕事を続けている。私も同じだった。
止まっている暇はなかった。
午後、東方国境からの緊急信号が入った。長い報告ではない。大河対岸の警戒状態は継続。確認できている兵力の集積に大きな減少なし。決定的な大規模渡河準備は、現時点で確認されず。それだけだった。前回より悪化したとは言えない。良くなったとも言えない。
軍務担当者は、信号の内容を読み上げた後で言った。
「詳細な報告はまだ到着しておりません。現地には、引き続き同じ項目で観察を続けさせております」
「こちら側の警戒は?」
「現在の配置を維持しております。大きな増援移動は行っておりません」
「そのままでお願いします。渡河用資材や舟艇の集積が増えた場合は、定型信号でも分かるようにしてください」
「すでに項目へ追加しております」
それなら、今ここで軍を動かす話はない。軍務担当者が下がると、入れ替わるように外交担当者が文書を持って入ってきた。ヴィーネンに常駐しているヴェリスラヴ使節団とのやり取りだった。
「先方は、前回の申し入れについて、項目ごとの協議に応じると改めて回答しております」
「どこから話したいと言っていますか?」
「通航条件と河川関税を先に。中洲と河岸についても協議対象から外しておりません。国境側の軍事施設については、今後の拡張制限を求める姿勢を維持しております」
私は文書を受け取った。何度読んでも、全部を奪えという内容ではない。もちろん、だから穏当という意味でもない。軍を集めたまま交渉している。こちらが弱いと見れば、さらに条件を積むかもしれない。
「向こうは、どの条件なら軍事的な圧力を下げるのか、何か示していますか?」
「明確な線は示しておりません。ただ、通航と関税についてはこちらが具体案を出すのであれば、協議を続ける意思はあるとのことです」
「中洲と河岸は?」
「一括解決を求めてはいません。争いの強い場所から個別に扱うことは可能だとしています」
軍事施設の件も含めて、全部を一度に片付けなければならないわけではない。
「では、こちらも整理してください」
私は机の上の文書を3つに分けた。
「譲れないもの。条件次第で動かせるもの。先方が得れば、軍を置き続ける理由が弱くなる可能性があるもの」
外交担当者が少し考えてから尋ねた。
「殿下は、条件を提示して妥結を急ぐ方針でしょうか?」
公的な報告の場で、何を確認しているのか分かる質問だった。
「まだ妥結は決めません。ただ、拒否だけを返して相手が軍を置き続ける理由を増やすつもりもありません」
外交担当者がうなずいた。
「こちらが守る必要のあるものと、交渉で動かせるものを分けた案を作ってください。軍務側にも見せて、国境の安全を損なう条件になっていないか確認を。それから、先方が何を得れば圧力を下げられるのか、使節団との協議で探ってください。約束を取れなくても構いません。どこに重きを置いているのかを知りたいです」
担当者が頭を下げた。文書を持っていく背中を見ながら、私は大河の地図へ目を落とした。兵が集まっている。それは事実だ。でも、兵を集めているから戦うしかない、というところまではまだ行っていない。なら、こちらもまだ戦争だけを考える必要はない。
そう判断できる間に、使えるものを使うしかなかった。
翌日は、朝から報告が重なった。国内では継承の承認手続が進んだ地域がある一方、まだ代表者が集まり切っていない場所もある。ケルンブルク家によるアイヒェンベルクの継承請求については、関係文書の保全が始まっている。通常の税送付、裁判、街道管理は続いている。
皇帝選挙では、ルートヴィヒ側もヴォルフガング側も未定票への接触を増やしている。東方では、昨夜から大きな変化はない。どれも、昨日の問題が少しずつ動いただけだった。けれど、机の上に並べると、それぞれが別の国の話のように見える。
「こちらが、ヴォルフガング殿側からの追加要請です」
外交担当者が差し出した紙には、いくつかの協力案が書かれていた。
「正式な条約案ではございません。先方の使者が、今後の協議で扱いたい内容として示したものです」
私は上から読んだ。未定票への共同働きかけ。選挙後の帝国政策での相互支持。必要に応じた財政的な協力。個々に見れば、どれも理解できる。ヴォルフガングの立場なら、皇帝になる前から支持を固めたい。なった後も孤立したくない。そのために、ヴァルデンハイム王朝の支えを確約させたい。
「この財政協力は、額も期間もないですね」
「はい。現時点では概念だけです」
「なら約束できません」
「そのように回答いたしますか?」
「具体条件を示すよう返してください。選挙後の帝国政策についても、何を支持してほしいのか分からないまま一括では約束しません」
担当者がうなずき、書き留める。
「ただし、ヴォルフガング殿を支持する方針は維持します。こちらからの働きかけも止めないでください」
言ったところで、別の役人が室内へ入ってきた。国内から届いた文書だった。1つは、身分会の招集日が決まったという報告。もう1つは、地方の役人からの確認だった。新しい君主の下で、先代から続く道路修繕の支出を予定通り執行してよいか。私は紙を読み、すぐに答えた。
「止める理由はありません。既に承認済みの通常支出なら、そのまま進めてください」
役人が頭を下げて退出した。父が死んだ。それでも道は壊れるし、直さなければならない。鉱山は木炭を使うし、村は冬の薪を必要とする。皇帝選挙があっても、国の中ではそれとは関係のない仕事が続いている。そのすぐ後に、東方からの文書が届いた。
今度は緊急信号ではなく、前に出していた観察項目をまとめた詳細報告だった。対岸の部隊はまだいる。食料と馬の集積も減っていない。一方で、大規模な舟艇の追加や、短期間で多数を渡すための資材が急増した形跡はない。軍務担当者は地図を示しながら説明した。
「今の状態だけで安全とは申せません。ただ、直ちに大軍が渡河する兆候があるわけではありません」
「こちらの備蓄は?」
「主要地点については、現状の警戒を続ける分には不足ございません。増援を大きく前へ出す場合は別です」
「分かりました。今は増援を動かしません」
返事をしてから、机の上を見る。皇帝選挙の文書。国内の継承。東方国境。通常支出。別々の担当者が、別々の答えを待っている。1件ずつなら難しくない。全部を最大限に取ろうとしなければ。そこまで考えて、手が止まった。ヴォルフガングには皇帝になってほしい。
そのために、より強い支援を約束すれば票を動かしやすくなるかもしれない。ヴェリスラヴには譲りたくない。何も譲らず、軍を引けと言えれば一番分かりやすい。国内では、誰の権利も損なわず、誰にも不安を与えずに継承を終えられればいい。どれも、できるならそうしたい。
でも、全部を同時に一番いい形へ持っていくための金も、人も、約束も、時間も、無限にはない。
「殿下?」
外交担当者に呼ばれ、顔を上げた。
「すみません。何でしたか?」
「ヴォルフガング殿側への返答ですが、財政協力と選挙後の相互支持については、具体条件を求めるということでよろしいでしょうか」
「はい」
私はもう一度、机の上の紙を見た。
「それから、先方に伝える順番を変えてください」
「順番、でございますか?」
「最初に、ヴォルフガング殿への支持は続けると伝えてください。その上で、追加の保証は具体条件が必要だと」
「承知いたしました」
「こちらが支持を引く話と、負担の上限を決める話を混ぜたくありません」
「そのように整理いたします」
担当者が下がった後、私は軍務担当者へ向き直った。
「東方の対案は、いつ見られますか?」
「外交側と照合しております。本日中には第1案を提出できます」
「お願いします。国境の防備を弱くする条件は外してください。ただ、こちらが守る必要のないものまで、面子だけで抱え込まないで」
軍務担当者は少しだけ間を置いた。
「どこまでを守る必要があるものと見るか、軍務側だけで決めてよろしいでしょうか」
「いいえ」
私は首を振った。
「軍事上、危険な条件を示してください。外交上どこまで動かすかは、その後で決めます」
軍務担当者が頭を下げた。
次は国内の担当者だった。
「継承手続は予定通り進めてください。正式な承認に必要な手続を飛ばす必要はありません。ただし、行政を止めないことは各地へもう一度確認してください」
国内担当者がうなずいた。
「アイヒェンベルクの継承審理も、そのまま進めます。文書を保全して、審理前の恒久処分はしない。ただし、現在の行政権限まで渡す必要はありません」
案件に答えるたびに、別の紙が減っていく。全部を解決したわけではない。むしろ、どれもまだ途中だ。でも、何を先に守るのかは、少し見えた。父がいなくなってから、私はそれぞれの理由を聞けば答えに近づけると思っていた。実際、理由を聞けば分かる。国内の人たちが権利を確認したがる理由も。
ケルンブルク家のディートリヒが、アイヒェンベルクの審理を求める理由も。ヴェリスラヴが軍を置きながら条件を取りに来る理由も。ヴォルフガングが、今のうちにより強い約束を欲しがる理由も。分かる。分かるからこそ、全部を同時には選べない。私は椅子へ深く座り直した。
父の言葉を思い出したわけではない。今ここにある紙を見ただけだった。ヴァルデンハイムの世襲領では、役人が働き、税が送られ、道が直され、村が冬支度をし、国境の兵が立っている。帝冠は欲しい。それでも、今動いている国を止めたり、外から崩されやすくしたりしてまで取りに行くものではない。
「記録に加えてください」
書記がペンを構えた。
「皇帝選挙について、ヴァルデンハイムの通常財政と東方国境の安全を損なう新しい負担は、私の確認なしに約束しないこと」
「はい」
「ヴォルフガング殿への支持そのものは継続します」
書記が書き終え、確認するようにこちらを見た。私はうなずいた。それだけで部屋の空気が変わるわけではなかった。窓の外では、また誰かが書類を抱えて廊下を急いでいる。次の仕事も待っていた。
夜になってから、ようやく机の上の紙が減った。減っただけで、なくなったわけではない。東方との対案は第1案ができたところで、まだ決めていない。皇帝選挙も続いている。国内の承認手続も終わっていない。それでも、朝よりは何を見ればいいか分かっていた。
外交担当者が、その日の最後の報告を持ってきた。
「西方について、商人筋から追加の情報がございます」
「ウェストリアですか?」
「はい」
紙には、船舶の運賃、保険の引き受け、信用条件、商人の取引姿勢について、いくつかの変化がまとめられていた。全面的に取引を止めたわけではない。ただ、危機が長引く可能性を織り込み始めている。
「ウェストリア王国政府からの正式な返答は?」
「まだございません」
「分かりました」
商人は先に動く。政府が言葉を出す前でも、危ないと思えば条件を変える。それ自体は不思議ではない。私は報告書を閉じた。ヴェリスラヴが何を欲しがっているかは、前より見える。ヴォルフガングが何を求めているかも分かる。ルートヴィヒと、その後ろで動くフロレーヌの方向も見える。国内の人たちが何を守ろうとしているのかも、少しずつ分かってきた。
レオンには、公的な書簡と私信を同じ使者に託している。送ってから、まだ日が浅い。こちらから届くまでにも、その返事が戻るまでにも時間が掛かるのは分かる。
ただ、どこか彼からの手紙を待っている自分がいる。
私信に書いた最後の一文を思い出した。
――あなた自身は、今回のことをどう見ていますか。
「ファルケンマルクからは?」
担当者が手元の一覧を確認した。
「まだ、何も」
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