第49話
検討会は、前回地図を広げた部屋で行うことにした。
大きな卓の中央にはグライフェンとファルケンマルク南部を含む地図が置かれ、その周囲に軍務、財務、外交の資料が分けて積まれている。ケラーの席だけは紙の束が少し多い。各地から届いた報告を、到着順ではなく現地で確認された時点へ並べ直した結果だった。
カスパルはいつものように、席へ着く前から資料の位置を確かめていた。
その隣に立つ男を見て、少しだけ目が止まった。
オスカー・フェルナー。
カスパルの息子だ。
親子だと知らなくても分かるかもしれない。父親も、初めて見た時には軍人かと思ったくらいの巨体だったが、息子も負けていなかった。肩幅が広く、上着の下でも腕と胸に厚い筋肉がついているのが分かる。太ももなんてまるで像みたいだ。政治や外交を扱う実務者という立場と、見た目だけがひどく噛み合わなかった。
二人が並ぶと、血筋というものを妙に信じたくなる。
もっとも、今日聞きたいのは筋肉の話ではない。
全員が席へ着くのを待ってから口を開いた。
「最初に確認しておきます。今日は開戦を決めるための会議ではありません。軍を動かす命令を出す場でもありません」
軍務を預かる将官が小さくうなずく。財務側も、外交担当も同じだった。
「グライフェンの一部を獲得しようとした場合、それが実際に可能なのか。可能なら何が条件になるのか。軍事だけでなく、財政、補給、外交、取った後の統治まで含めて確認したい」
そこで一度言葉を切った。
「できる、できないのどちらでも構いません。都合のいい答えに合わせる必要はありません」
口にした時には、ただの確認のつもりだった。
でも、少し引っ掛かった。
都合のいい答え。
俺にとって、どっちが都合のいい答えなんだろう。
考える前に、軍務側の将官が地図へ手を伸ばした。
「では、軍事面から申し上げます」
指がファルケンマルク南部から国境へ動く。
「王国軍だけでグライフェン全域を制圧し、そのままヴァルデンハイム軍の反攻を長期にわたって退け続ける、という条件であれば困難です。しかし、目標地域と期間を限定するのであれば話は変わります」
最初から、無理ではなかった。
俺は黙って続きを待った。
「現時点で確認できるグライフェン方面のヴァルデンハイム軍は、平時の守備兵力が中心です。要塞守備を含めれば無視できる数ではありませんが、こちらは王国常備軍と中央管理の予備戦力だけでも、初動では優勢な兵力を置けます」
将官は地図の北側を指した。
「問題は、その優勢が続かないことです。ヴァルデンハイムは内乱状態ではありません。皇帝崩御後の継承処理で指揮判断や増援の集結が遅れるとしても、時間を与えれば帝国内世襲領や南方から増援を送れます」
「どの程度の時間を見ますか?」
「正確な日数は、向こうがどこから部隊と補給を集めるかを見なければ申せません。緊急信号で警戒や準備開始を先に伝えられても、人と馬と物資が移動する時間は別です。ただ、こちらが何週間も国境付近で準備してから動くようでは、初動の利点はかなり失われます」
ケラーが手元の紙を見ながら補った。
「ヴァルデンハイム国内で、対外防衛命令そのものが出せないという情報はありません。継承をめぐる異議があることと、外国軍への対応ができないことは分けて見るべきです」
「そうでしょうね」
昨日も考えたことだった。
家の中で揉めていても、外から殴られれば話は別だ。
軍務側の将官は、今度は国境から北部へ指を滑らせた。
「したがって、戦争目的を先に狭める必要があります。北部から中央へ入る街道とレーデン川沿いを主軸にし、橋、渡河点、街道の結節を先に押さえる。その上で中央の行政・商業の要点へ進むのであれば、高速機動部隊を中心とした王国軍の機動力を使えます」
「中央部を取った後は?」
俺が尋ねると、将官は西側へ指を移した。
「西から南西の鉱山・金属産地へ進む余地があります。ただし、南東へ同じ強さで広げることは勧めません」
指が山地の手前で止まる。
ホーエンヴァルト。
「ここを越えれば?」
「補給条件が変わります。道が減り、高低差が増え、守備側は山地を利用できます。さらに、その先はグライフェン主要部を取る戦争というより、ヴァルデンハイムの南方領へ深く入る戦争になります」
その言葉は分かりやすかった。
「別の戦争になる、と」
「はい。少なくとも軍事上は、そう考えるべきです」
地図を見る。
北部。中央。西部。
そこまでなら、取れる。
山を越えれば別物になる。
まだ誰も「勝てる」とは言っていない。条件付きだ。時間が経てば敵は増える。要塞もある。損害だって出る。
それでも、俺がどこかで待っていた言葉は出なかった。
無理です。
その一言があれば、ここで終われた。
アマーリエの領地を取るなんて現実的じゃなかった。そう結論づけて、別の国益を考えればいい。
そんなことを考えている自分に気づいて、少し嫌になった。
「陛下」
将官に呼ばれ、顔を上げた。
「軍事面について、もう一つ申し上げてよろしいでしょうか」
「お願いします」
「この案が成立するのは、敵国全体を打ち負かす必要がない場合です。グライフェン主要部を占領した後も、ヴァルデンハイム軍が集結するたびに奥へ追撃し続けるのであれば、必要兵力も補給も変わります」
「目的地点へ到達したら、そこで止まることが前提ですね」
「はい」
「分かりました」
止まる場所を決めてから始める戦争。
考え方としては理解できる。
理解できてしまう。
軍の話が終わると、今度は補給担当の資料が地図の横へ広げられた。
兵士の食料、飼料、弾薬、医療物資、交換用の馬、荷車。行軍距離そのものより、どこで何を積み替えるかの方が紙の上では場所を取っている。
「2万人を超える兵を前へ出した場合、人間の食料だけを見ていては維持できません」
軍務側の実務者が、飼料の欄を指した。
「馬ですか」
「はい。騎兵だけではありません。砲、荷車、連絡、予備馬まで含めれば、軍馬と輓馬の飼料は大きな負担になります。特に乾草や穀物を後方から全量運ぶ形では、運ぶための馬がさらに飼料を食います」
「ヴァイスブルクから全部運ぶ案は捨てた方がいいですね」
「その方がよろしいかと考えます」
担当者が別の紙を出した。
「南部の既存集積地へ事前に通常在庫の範囲で寄せられる物資、国境側の倉庫、街道輸送、それにレーデン川の利用可能な区間を組み合わせる必要があります。前進後は後方倉庫も段階的に移します」
「現地調達は?」
「使わずに済ませるのは難しいでしょう。ただし、無制限な徴発にすれば占領後の統治を自分たちで壊します。買い上げを基本にし、軍が必要量と買い上げ価格を定め、支払いを記録する仕組みが必要です」
カスパルがそこで口を挟んだ。
「その仕組みを戦争が始まってから考えるのであれば遅いでしょう。軍が現地で必要な物を取る権限と、後で誰が支払いを認めるかを先に分けておく必要があります」
「その通りです」
俺は地図の上へ置かれた小さな印を見た。橋、倉庫、宿駅、街道。
さっきまで軍事上の目標に見えていた場所が、そのまま補給の目標にもなっている。
「北部から中央を先に取る意味が増えますね」
「はい。道を取らなければ兵を進められず、進めても維持できません」
そこで、ふと思った。
「飼料は南部側へ先に余裕を持たせられますか?」
言った後で、自分の言葉が耳に残った。
担当者は気づかず、資料をめくっている。
「平時在庫を不自然に減らさず、民間市場を荒らさない範囲なら一部は可能です。ただし、現時点で戦争用の大規模移送を始めれば、意図を隠すことは難しくなります」
「……そうですね。今すぐ動かす話ではありません」
答えながら、手を止めた。
さっきまで俺は、できるかどうかを聞いていた。
今の質問は違う。
どうすればできるかを聞いた。
誰に指摘されたわけでもない。だから余計に、言い逃れができなかった。
財務の責任者は、軍務側より少し慎重な口調で始めた。
「短期間で終わるなら、国家財政として不可能ではございません」
また、その言葉だった。
不可能ではない。
「ただし、平時予算の余りだけで賄える額ではありません。戦争が始まれば、兵の追加給与、輸送、飼料、砲弾、補充、医療、借入費用まで一度に増えます」
「3か月程度で主要目標を取って停戦交渉へ入る場合は?」
「国庫準備と通常歳入に、臨時の国家借入を組み合わせれば対応可能です。返済計画を同時に置く必要はありますが、初年度だけなら耐えられます」
「半年なら?」
財務官は少しだけ間を置いた。
「同じ条件では見ません。半年続けば追加借入が増えますし、商業への影響も大きくなります。1年を超えて常態化する戦争であれば、現在の歳入構造そのものを見直す必要が出ます」
カスパルが腕を組んだ。
大きな身体でそれをやると、それだけで机が狭く見える。
「つまり軍務側と同じですな。始めるなら、長く戦えることを理由に始めるのではなく、長く戦わずに目的を達成できる見込みが必要になる」
「はい」
俺は財務官へもう一つ確認した。
「振替制度の預り資産を戦費へ回す必要はありますか?」
財務官の答えは早かった。
「ございません。あれは国庫資金ではありません。戦時であっても手を付けるべきではないと考えます」
「私も同じです。そこは触らないでください」
預けた金が、王が戦争を始めたら勝手に消える。
そんな制度を一度やれば、戦争が終わった後も信用は戻らない。
使うなら別のところだ。
国庫準備。税収。国家としての借入。複数の商人や金融家を通じた資金調達。振替制度は、その支払いと債務の記録を回す側に使える。
そこまで考えて、気づいた。
前なら、こんな話はもっと難しかった。
国庫に今いくらあるか。どの支出がいつ来るか。どこから借りて、どう記録し、どう返すか。以前よりずっと見えるようになっている。
自分が変えてきたからだ。
徴税や会計を揃えた。国庫と王家の金を分けた。借入を整理した。遠隔の支払いを少しずつ扱いやすくした。
国を戦争しやすくするためにやったわけじゃない。
そんなこと、一度も目的にしたことはない。
それでも、平時に国を動かしやすくした仕組みは、戦争でも国を動かしやすくする。
当たり前だ。
当たり前なのに、気分はよくなかった。
「陛下?」
財務官がこちらを見ていた。
「すみません。続けてください」
「はい。戦費については、短期であれば資金手当ての方法があります。ただし、軍事目標が拡大した場合に同じ見積もりを流用することはできません」
「分かりました」
また一つ、終われる理由が減った。
「では、取った後を考えましょう」
カスパルが地図ではなく、別の資料を中央へ出した。
軍隊の配置図ではない。
グライフェンの人口、都市、鉱山、森林、既存の領主、教会、都市権、税と行政の概略をまとめたものだった。
「軍が進めるかどうかと、国として保持できるかどうかは別です」
「はい」
「主要部を取れば、道路も鉱山も税収も得ます。同時に、裁判、徴税、治安、道路維持、既存権利の確認も引き受けます。軍が旗を立てれば終わる土地ではございません」
「それは当然でしょう」
俺が答えると、カスパルの隣から声がした。
「だからこそ、私は取る価値があると考えます」
初めてオスカーがまとまった意見を出した。
声まで父親に似ているわけではなかった。声はカスパルより少し低い。話すテンポは速く、言葉を選んでから話すというより、すでに考えたものを必要な順に出している感じがする。
「理由を聞かせてください」
「グライフェン北部と中央部は、単なる国境地帯ではありません。人口と農地があり、街道と河川があり、都市があります。西部には鉱山と金属資源がある。ファルケンマルクがこれらを得れば、王国の歳入だけでなく、軍を支える人口、輸送路、資源の基盤が広がります」
オスカーは地図の南東には手を伸ばさなかった。
「一方で、ホーエンヴァルトを越えてまで領土を広げる必要はないと考えます。そこから先は、利益に対して軍事負担と外交負担が大きくなります」
「軍務側と同じ線ですか」
「結果としては、そうなります。ただ、私が重く見るのは戦後です」
俺は続きを促した。
「陛下。今のファルケンマルクは、以前より強くなっております。しかし、周囲の列強も止まりません。現状を維持するだけなら、こちらが成長していても相対的には弱くなることがあります」
カスパルが息子を見る。
オスカーは気にせず続けた。
「今回と同じ条件が数年後にもあるとは限りません。ヴァルデンハイムの継承が固まり、グライフェンの守備と道路が強化され、別の皇帝が帝国をまとめれば、同じ土地を取るために必要な代価は上がります。今取らないことにも、費用があります」
言い方が、カスパルとはまるで違う。
父親は、今ある金と人員を使ったら次に何が足りなくなるかを見る。
息子は、今使わなかったら将来何を失うかを見る。
どちらも同じ国を見ている。
「オスカー」
カスパルが初めて息子の名を呼んだ。
「価値を挙げるだけでは統治できん。グライフェンの既存領主と都市へ、王国の制度を翌日からそのまま押し付ければ反発を作る」
「その点は同意します、父上」
オスカーはすぐに返した。
「全部を作り替える必要はありません。主権を得ることと、土地の持ち主を全部入れ替えることは別です」
「では、どのように整理するべきだと考えますか?」
今度の質問は俺からだった。
オスカーは少しだけ姿勢を正した。
「取得した主要地域は、国内の大貴族へ分配せず、アルテンフェルス王家の直轄領とするのがよいと考えます。その上で、現地貴族の適法な所領、都市の権利、教会の権利、農民の保有については、新しい主権の下で原則として確認する。反抗した者や戦時の個別処分は別として、最初から総没収を前提にするべきではありません」
カスパルは反対しなかった。
代わりに、別の点を突いた。
「王家直轄領にすれば、王家側の行政人員が要る」
「はい」
「鉱山と税収だけ先に計算して、裁判官と徴税官と道路管理の人数を後から考えるようなら、取らない方がましだ」
「それも同意します」
父子が思ったより争わない。
いや、同じところを見ていないから、真正面から衝突しないのかもしれない。
「陛下」
オスカーが俺を見た。
「王家直轄領とするのであれば、国内貴族へ領地を与えるために戦争を拡大する理由も減ります。王国軍だけで達成した戦争の結果を、戦争へ参加していない大貴族へ分配する必要もありません」
「そこは重要ですね」
国内大貴族の領地軍を大規模に呼ばずに勝てるなら、戦後に「誰がどれだけ出したから、どれだけ土地を与える」という話もしなくて済む。
王国が取って、王家が直接持つ。
それなら、国王権力の基盤も一段変わる。
そこまで考えた時、胸の奥に別の感覚が混じった。
欲しい。
はっきりそう思った。
鉱山が欲しい。街道が欲しい。人口が欲しい。王家が国内の大貴族に頼らず使える土地と歳入が欲しい。
国益だとか将来の安全保障だとか、いくらでも立派な言葉にできる。
でも、欲しいものは欲しい。
それを認めると、少しだけ楽になって、同時にもっと嫌になった。
アマーリエの父親が死んだ直後だ。
彼女は国内の権利を確認し、ヴェリスラヴと向き合い、皇帝選挙まで考えている。
その横で俺は、土地を欲しがっている。
「陛下」
今度はカスパルだった。
「王家直轄領とする方向で、統治可能性を詰めるという理解でよろしいでしょうか」
質問は具体的だった。
まだ戦争を決めていない。
だから答えも、その範囲に留める。
「実行する場合の前提として、それで検討してください。国内貴族への分配を前提にはしません。現地の権利を一律に消す案も取りません」
「承知いたしました」
言葉にした。
また一つ、「もしやるなら」の中身が具体的になった。
外交の話へ移った時には、卓の上の地図に置かれた紙の種類が増えていた。
軍事的に可能。
短期なら補給も可能。
短期なら財政も耐えられる。
取った後の統治も、少なくとも最初から破綻する案ではない。
残っているのは、国外がどう動くかだった。
外交担当の実務者が、皇帝選挙の票読みを確認する。
「現時点では、ルートヴィヒ殿とヴォルフガング殿がほぼ同数で競っております。未確定票の中にアルテンフェルスが含まれる状況は変わっておりません」
「ヴォルフガングが皇帝になった場合、グライフェンへの軍事行動をどう見ると考えますか?」
「帝国外にあるグライフェンそのものは、帝国領内の係争とは性質が異なります。ただし、ヴァルデンハイム家の世襲領への攻撃であることに変わりはありません。ヴォルフガング殿は、帝国諸侯への外部からの軍事圧力に対し、皇帝が早く態度を示すべきだという立場です」
「つまり、即座に帝国軍を出すとは限らないが、こちらに停止を求める動きは早い」
「その可能性は高いと考えます」
「ルートヴィヒなら?」
外交担当者は慎重に言葉を選んだ。
「ファルケンマルクの味方になると考える根拠はございません。ただ、現時点ではフロレーヌの支持を受け、ヴァルデンハイム王朝から帝冠を移す選挙を戦っております。少なくとも選挙が終わるまでは、ヴォルフガング殿とは優先順位が異なります」
味方ではない。
そこは重要だった。
ルートヴィヒへ票を入れれば、グライフェンをくれるわけじゃない。皇帝になった後に、こちらへ止まれと言う可能性だってある。
それでも、時間が違う。
俺は机の脇に置いた公的書簡を見た。
アマーリエが求めているのはヴォルフガング支持だ。
彼女にとっては自然だ。父親の帝冠を王朝に残したい。自分は候補になれない以上、男系傍系のヴォルフガングを立てる。
でも、俺がヴォルフガングへ票を入れれば、グライフェンをめぐって自分の首を絞めることになる。
いや、グライフェンを取らないとしても、皇帝がファルケンマルクの国益にどう関わるかは別に考えなければならない。
「陛下は、ヴォルフガング殿への支持要請にどのように回答なさいますか?」
外交担当者からの質問だった。
正面から来た。
数日前なら、まだ決めていないと答えた。
今も正式な投票先は決めていない。
ただ、同じ意味ではない。
「少なくとも、要請されたからヴォルフガングを支持する、という回答はできません」
口にすると、部屋が少し静かになった気がした。
誰も驚いた様子は見せない。
俺だけが、机の上の封書を意識していた。
――あなた自身は、今回のことをどう見ていますか。
こう見ている。
あなたの希望する皇帝を支持すれば、自国の行動を縛るかもしれない。
あなたが父親を失った直後に、俺はあなたの領地を奪う可能性を本気で調べている。
最悪だ。
でも、ここまで来て「友人だから」で考えるのをやめる方が、もっと駄目だ。
俺は国王だ。
アマーリエも、もう自分の国を背負っている。
だからこそ、彼女が俺に同じことをしても、俺は怒るだろうし、止めるだろうし、それでも「王なら考えるな」とは言えない。
そこまで考えて、少し息を吐いた。
「投票先はまだ確定しません」
外交担当へ向き直る。
「ただし、国益だけで見れば、ヴォルフガング支持には明確な不利益があります。ルートヴィヒが皇帝になった場合の反応も含めて、比較を続けてください」
「承知いたしました」
カスパルが何も言わず俺を見ていた。
長く仕えている人間の視線は、ときどき面倒だ。
何も聞かれていないのに、考えていることを少し見られた気がする。
もちろん、本当に分かっているかは知らない。
「残る大きな不確定要素は、ウェストリアです」
ケラーが資料を差し替えた。
話題が変わって、少し助かった。
「陸軍の大規模移動は、現在も確認されておりません。ただ、海運、信用、保険、商業面については、軍の移動と違い、命令の結果がまとまった動きとして外から見えるわけではありません。現時点の情報だけで、介入しないとは判断できません」
オスカーが地図の西側を見た。
「ウェストリア陸軍がグライフェンへ直接来ることを第一に考える必要はないでしょう。問題は、王国として敵に回るかどうかです」
「私もそう思います」
俺は答えた。
「知りたいのは、エドワード王がグライフェンだけを理由にファルケンマルクとの国家間戦争へ進むのか。海上で大規模な敵対行動を取るのか。あるいは、こちらを抑えるための同盟を作るのか。その辺りです」
外交担当が確認する。
「ウェストリアへ直接、参戦意思の有無を問うのでしょうか」
「その聞き方では、こちらが戦争を決めたと教えるようなものです」
「では、継承危機と皇帝選挙を含む大陸情勢全体について意向を探り、その中で対ファルケンマルク関係の線を確認する形がよろしいかと考えます」
「お願いします。ただし、まだ正式な領土要求も開戦決定もありません。その範囲を越える約束はしないでください」
「承知いたしました」
ケラーにも向き直る。
「ウェストリアの商業面は引き続き追ってください。船が動いたかだけではなく、信用供与や保険条件に不自然な変化があるなら拾いたいです」
「複数の商人報告を合わせます。単独の値動きだけで国家方針とは判断しません」
「それでお願いします」
そこで、会議は一度止まった。
紙は増えているのに、最初より地図は見やすくなっていた。
できない理由を探すつもりだったのか。
そこまで言葉にして、違うと思った。
最初からそう決めていたわけじゃない。
本当に可能なのか知りたかった。それは嘘じゃない。
ただ、軍が「条件付きなら可能」と言った後、俺は条件を狭めた。
補給が問題だと言われれば、飼料をどこへ置くかを考えた。
財政が短期なら耐えられると言われれば、借入の仕組みを確認した。
統治負担を言われれば、直轄領にして既存権利を残す形を考えた。
一つずつ、できない理由を消している。
誰かにそうしろと言われたわけじゃない。
俺がやっている。
「陛下」
オスカーだった。
「一点、申し上げてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「今日の検討結果だけで開戦を決めるべきだとは考えておりません」
少し意外で、彼を見る。
オスカーは続けた。
「ただし、可能だと分かったことを、判断材料から外すべきでもないと考えます。好機を使うことと、好機だから何でもすることは同じではありません」
カスパルが息子へ視線を向けたが、止めなかった。
「取るべき範囲を決め、そこを取った後に止まれるのであれば、私は実行を支持します。逆に、目的がヴァルデンハイムを弱らせること自体へ変わるのであれば反対します。終わりがなくなるからです」
事情を知らずにあの体格だけを見れば、好戦的な軍人だと思うかもしれない。
話しているのは、戦争をどこでやめるかだった。
「分かりました」
俺は答えた。
「意見として受け取ります」
カスパルが資料を閉じる。
「陛下。本日の検討としては、軍事、補給、財政、統治の各面で、条件を限定すれば実行可能という結論でよろしいでしょうか」
公的な場の質問として、曖昧さはなかった。
俺はすぐには答えなかった。
ここで「はい」と言っても、戦争は始まらない。
兵は動かない。
アマーリエへ要求も届かない。
ただ、昨日までとは違う。
昨日までは、グライフェンを取れるかもしれない、という段階だった。
今日は、条件を守れば取れる。
その差は大きかった。
「その結論で整理してください」
言った。
「ただし、次の判断にはウェストリアの反応が必要です。それが確認できるまでは、実行準備へ移しません」
「承知いたしました」
軍務、財務、外交の担当者がそれぞれ資料をまとめ始めた。
オスカーも立ち上がる。
父親と並ぶと、やっぱり大きい。
こんな時でなければ、カスパルの家では食費が大変だったんじゃないか、と少し考えたかもしれない。
今はそこまで気分が戻らなかった。
人が出ていった後、部屋には俺とカスパルだけが残った。
「何かありますか?」
俺が聞くと、カスパルは閉じた資料へ手を置いた。
「陛下は、私に反対してほしかったのでしょうか」
一瞬、言葉が出なかった。
「……どうしてそう思います?」
「軍務が実行可能と答えた時、少しだけ残念そうに見えましたので」
見られていた。
本当に面倒だ。
「反対してほしかった、というのは違うと思います」
椅子へ座り直した。
「でも、誰かが無理だと言えば、楽だったかもしれません」
カスパルは何も言わなかった。
その沈黙が、続きを要求しているわけではないことは分かる。
それでも口にした。
「アマーリエ殿下から、私信が来ています」
「存じております」
「内容までは?」
「伺っておりません」
「父親が亡くなったことと、今の状況について書かれていました。最後に、私自身が今回をどう見るか、と」
カスパルの表情は変わらない。
俺は少し笑った。
「ずいぶん答えにくい質問になりました」
「そうでしょうな」
「今日の会議をする前なら、まだ分からないと書けました」
「今は違いますか?」
家臣から国王への質問だが、さっきまでの会議とは少し空気が違う。
それでも、答えははっきりしていた。
「少なくとも、分からないだけではなくなりました」
グライフェンを取るかどうかは決めていない。
戦争も決めていない。
選帝票も決めていない。
それでも、何を選べば自国に利益があるか。その輪郭はもう見えている。
見えてしまった。
「カスパル」
「はい」
「あなたは、取るべきだと思いますか?」
今度は俺から聞いた。
カスパルはすぐには答えなかった。
「陛下が何を優先なさるかで変わります」
「それは逃げでは?」
「いいえ」
即答だった。
「グライフェンを得れば王家と王国は強くなります。今後の列強関係を考えても、大きな価値があります。一方で、戦争を始めれば人が死に、金を使い、ヴァルデンハイムとの関係は変わります。アマーリエ殿下との個人的な関係も、今のままでは済まないでしょう」
淡々としている。
「そのどちらを重く見るべきかは、財務官が決めることでも、私が決めることでもありません」
「国王の仕事ですか」
「はい」
分かっていた。
分かっていたけど、言われると腹が立つくらい正しい。
「父上なら、どうしたと思います?」
聞いてから、少し後悔した。
カスパルはアウグストに長く仕えていた。
だからといって、死んだ父親を便利な答え合わせに使うのは違う。
カスパルも、すぐには答えなかった。
「陛下」
「はい」
「先王陛下がどう判断されたかを推測することはできます。しかし、その推測を現在の陛下の決定理由にするべきではないと考えます」
思わず息が漏れた。
「そうですよね」
「ただ」
カスパルが少しだけ声を緩めた。
「検討せずに見送ることは、なさらなかったでしょう」
それだけだった。
父なら攻めたとも、攻めなかったとも言わない。
でも、見ないふりはしなかった。
そのくらいなら、俺も分かる。
「今日はここまでにしましょう」
「承知いたしました」
カスパルが立ち上がった。
扉の前で一度止まる。
「オスカーの発言に、行き過ぎたところがございましたらお申し付けください」
「今のところはありません」
「それなら結構です」
「体格は、完全にあなた譲りですね」
つい言うと、カスパルが珍しく少しだけ困った顔をした。
「よく言われます。そういえば、オスカーは陛下のトレーニングを気にしておられましたので、今度機会がありましたら、本人と話してみてください」
「そうですか。もしかしたらトレーニング仲間が増えるかもしれませんね」
ほんの少しだけ気が抜けた。
カスパルが出ていき、扉が閉じた。
執務室へ戻ると、机の上には返書用の紙が置かれていた。
アマーリエから届いた2通も、そのまま残してある。
公的書簡。
私信。
正式な返答として先に出せる部分はある。父親の死への弔意。国家間関係を維持する意思。国内継承へ不用意に介入しないこと。
ヴォルフガング支持の要請には、まだ答えない。
私信は、もっと難しい。
椅子へ座り、もう一度最後の一行を読んだ。
――あなた自身は、今回のことをどう見ていますか。
返書用の紙を引き寄せる。
日付だけ書いた。
その下で、手が止まった。
父親を失った相手へ書きたい言葉はある。
無理に全部自分で抱えるな。
食べろ。
寝ろ。
周囲に任せられることは任せろ。
父上が死んだ後の俺自身に、誰かがそう言ってくれたら助かったかもしれない言葉はいくらでもある。
でも、それだけを書いて送れば、肝心なところから逃げることになる。
彼女が聞いたのは、慰めだけじゃない。
今回をどう見るか。
今日、俺はその答えの一部を得た。
ヴァルデンハイムは崩れていない。
だからこそ、使える時間は短い。
グライフェン北部、中央部、西部なら、限定した戦争で取れる可能性がある。
取ればファルケンマルクは強くなる。
ヴォルフガングを支持すれば、その機会を自分で狭めるかもしれない。
そこまで書ける。
書けるようになってしまった。
「……書けるか、こんなの」
声に出したら、誰もいない部屋に妙に響いた。
紙から手を離す。
数日前は、答えが決まっていないから書けなかった。
今は違う。
答えの形が見え始めたから、書けない。
俺は日付だけ入った紙を裏返した。
ウェストリアの確認が終われば、また一つ逃げ道が減る。
そう思った時、自分が「逃げ道」と呼んだことに気づいた。
しばらく、そのまま動けなかった。
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