第46話
~アマーリエside~
その男は、さっきから3度、口を開きかけている。
鉱山側の管理人が木炭の不足を説明した時に1度。村の代表が冬の薪の話をした時に1度。それから、地方領主の代官が古い権利書を机の上へ置いた時に、もう1度。
けれど、3度とも何も言わなかった。
私は手元の紙から目を上げた。
父の前に置かれた大きな机には、帝国首都ヴィーネンまで運ばれてきたグライフェン地方の報告書と、この辺りの山を描いた地図が広げられている。鉱山の印、その近くにある村、街道。森の境は線で囲まれているけれど、その線だけで誰がどこを使えるのかまでは分からない。
今日の話は、その森をもう少し鉱山に使わせてほしい、というところから始まった。
鉱石を掘るだけなら、今のところ大きな問題はないらしい。
坑内では排水や崩れた石の移動に魔法を使える者も働いているし、古い坑道の補修も続いている。ただ、掘った鉱石を金属にするには炉を動かさなければならない。炉には木炭が要る。坑道を支える木も要る。
鉱山側がこれまで使ってきた近くの林だけでは、この先の分が足りない。
だから、隣の森まで伐採範囲を広げたい。
話だけなら簡単だった。
その森が、鉱山だけのものなら。
「鉱山に認められている権利は、どこまでですか」
私が尋ねると、鉱山の管理人が机の上の文書へ手を伸ばした。
「採掘と操業に必要な木材を周辺林から得ることが認められております。ただ、現在争いになっております林については、後の時代に境界が引き直されております。鉱山側では、従来の権利がそのまま及ぶと考えております」
「村側は違うのですね」
「はい」
村の代表が答えた。
年は父より少し若いくらいだろうか。ヴィーネンの宮廷へ来るために用意したのだろう上着はきちんとしているのに、両手だけは日に焼けていた。
「村では昔から、あの森で薪を取り、落ち枝を集め、家畜も入れております。今年さらに鉱山へ渡せば、冬に使う分が足りなくなります」
「伐採そのものに反対しているわけではない?」
「鉱山が止まれば、こちらも困ります。村から働きに出ている者もおりますので。ただ、今まで使ってきたところまで一度に渡されては困るのです」
鉱山側の管理人が少し身じろぎした。
言いたいことがある顔だった。
けれど、その人が口を開くより先に、私はさっきから黙っている男を見た。
代官の後ろに控えている。服装からして、代官と同じ立場ではない。机へ近づく時も、自分から前へ出るのではなく、呼ばれた時だけ地図の端を押さえていた。
また、口が少し動いた。
「あなたは、何か言いたいことがあるのではありませんか」
男がこちらを見る。
すぐには答えなかった。隣の代官を一度見て、それから父へ視線を移した。
父は何も言わず、軽く手を動かした。
「申し上げてもよろしければ」
「どうぞ」
男が地図へ近づいた。
「木がないわけではございません」
鉱山側の管理人が眉を動かす。
男はそれには構わず、地図の鉱山から少し離れた斜面を指した。
「こちら側には、今すぐ伐っても構わない林がまだございます。若木ばかりというわけでもありません。ただ、道が悪く、木を鉱山まで運ぶとなると、今までの林より手間が掛かります」
「どのくらい違うのですか」
「荷車をそのまま入れられない場所があります。乾いた時期なら途中まで行けますが、雨が続いた後は難しくなります。伐った木を下まで出す人手も要ります」
なるほど。
木が足りないのと、安く使える木が足りないのは同じではない。
鉱山側の管理人が今度は自分から言った。
「そのため、現在の申請では近い林を求めております。遠い林を使えば、炉へ届く木炭の値も上がります。坑木も同じです」
「ですが、近い方を多く伐れば、村の薪が減る」
「はい」
また条件が1つ増えた。
私は地図を見直した。
最初に書類を読んだ時は、鉱山へ追加の森を使わせるか、村の利用を守るか、どちらかを考える話だと思っていた。
実際には、遠い林もある。道が悪い。人手が掛かる。近い林は村も使っている。鉱山が止まれば、村から働きに出ている人も困る。
「炭にする場所は、鉱山の近くでなければならないのですか」
今度は、村の代表の隣にいた男が顔を上げた。
炭焼きの仕事をしている者だと、最初の紹介で聞いている。
「いいえ、殿下。木をあちらから全部運ぶより、山で炭にしてから運ぶ方がましなところはあります」
「では、それなら」
言いかけて、男の顔を見た。
まだ続きがある顔だった。
「ただ、新しく窯を作る場所と人が要ります。すぐに今までと同じ量を焼けるわけではございません。それに、山の上で焼けば今度は炭を下ろす道が要ります」
「そうですよね」
簡単には終わらない。
最初の紙だけを読んで決めていたら、遠い林のことも、炭を焼く場所のことも知らなかった。知らなかったものが1つずつ見えてくると、答えからは遠ざかっているようなのに、問題そのものには近づいている気がする。
父が鉱山側へ尋ねた。
「今の割当のままなら、すぐに炉を止めることになるのか」
「いえ、陛下。直ちにという状況ではございません。備蓄もあります。ただ、今のまま冬まで同じ操業を続けるのは難しいと見ております」
「なら、今日ここで恒久的に林を渡す必要はないな」
「はい」
父は地図の端を指で軽く押さえた。
「遠い林を使う場合の運搬、現地で炭を焼く場合に必要な人と場所。それから、村が冬までにどの程度を使うのか。鉱山側の木炭の備蓄量も、もう一度揃えて出してくれ」
代官が頭を下げた。
村の代表も続く。
私は机の上の古い権利書を見た。
「この森について、村が使ってきた記録も確認したいです。今ここにあるもの以外にも残っていますか」
「領内の台帳を調べさせます」
代官が答えた。
「お願いします」
話はそこで終わった。
誰かが勝ったわけでも、負けたわけでもない。
扉が閉じ、最後の1人が出ていく。
部屋に残ったのは、父と私、それから壁際の近侍たちだけになった。
父は地図を見たまま、しばらく何も言わなかった。
扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかってから、ようやくこちらを見る。
「お前は、ああいう話になると本当に楽しそうだな」
「楽しそうでした?」
「少なくとも、困っている顔ではなかったよ。話を聞くたびに条件が増えているのに、次は誰に聞こうかという顔をしていた」
言われてみると、否定しづらい。
「最初の紙だけでは分からなかったことが、あんなにあったんです」
「それが面白い?」
少し考える。
「……少し」
父は声を立てずに笑った。
「昔から変わらんな。分からないものが一つ分かると、それで満足するより、その先にまだ何かあるんじゃないかと気にする子だった」
「悪いことみたいに言わないでください」
「悪いとは言っていないさ」
父は書類を一つに重ねた。
「今日の件は、今すぐ決めなければ炉が止まるわけではない。時間があるなら、聞けることは聞けばいい。ただ、全部分かる日を待っていたら、いつまでも決められない。それだけは覚えておけばいい」
「はい」
さっきより素直に返事ができた。
父は私の顔を見て、少しだけ笑った。
「まだ山のことを考えているな?」
「……分かります?」
「分かるとも。さっきから地図を見ている時と同じ顔をしている」
そこまで分かりやすいつもりはなかった。
父は机の横へ手を伸ばし、小さな包みを取った。
「だから、少し休め。ちょうどいいものがある」
「何です?」
「開けてみなさい」
受け取って包みを開く。
甘い香りがした。
焼き菓子だった。
見覚えがある。
「……お父様。これ、まだ私が好きだと思っているんですか?」
父はすぐには答えず、菓子と私の顔を見比べた。
「違ったか。昔はこれが出るとずいぶん機嫌がよかったんだが」
「好きでしたよ。10歳くらいの時に」
「10歳?」
父は本気で驚いた顔をした。
それから、記憶を確かめるように少し目を細める。
「そんなに前になるのか。私には、もう少し最近のことのような気がしていた」
「お父様の中では、私は何歳なんです?」
「それは困る質問だな」
父が笑う。
「政務の席にいるお前を見れば、もう子供ではないと分かっている。だが、こういうものを見ると、つい小さい頃のお前が先に出てくる」
そう言われると、少しだけ返事に困った。
父は包みの中を覗いた。
「兄と一緒に食べていた頃だったな。お前はゆっくり食べるくせに、兄が先に皿へ手を伸ばすと急に気にし始めていた」
「そんなことまで覚えているんですか?」
「あれだけ分かりやすければ覚えているよ。本人だけは隠しているつもりだったらしいが」
父の声には、からかうというより懐かしむ響きがあった。
昔より少し甘く感じる。
子供の頃は、兄が先に皿へ手を伸ばすと、それだけで取られた気がしていた。兄の方が6つも上だったのに、本気で競っていたわけではないと思う。
今なら、1つくらい取られても何とも思わない。
そもそも取り合う相手もいない。
そこまで考えたところで、父も包みから1つ取った。
「お父様も食べるんですか?」
「娘に勧めておいて、自分は食べないというのも妙だろう」
父は一口食べ、少し考えた。
「なるほど。昔より甘く感じるな」
思わず父を見る。
「私もそう思いました」
「菓子の方が変わったというより、食べる方が変わったんだろうな」
父はもう一口だけ食べて、残りを私の方へ押した。
「小さい頃のお前に持ってきたつもりだったが、今のお前も食べるなら無駄にはならなかった」
「ちゃんと今の私に持ってきてください」
父は楽しそうに笑った。
「次からはそうしよう。もっとも、何が今のお前の好物なのか、聞いておかないと分からんな」
考えてみると、最近そんな話を父とした覚えはない。
「今なら、もう少し甘くないものの方が好きです」
「そうか。では、次は覚えておこう」
父はそう言って、残りの菓子を私の方へ押した。
もう1つ取る。
さっきの森の話が、また頭に戻ってきた。
遠い林を使うなら、道をどこまで直せば採算が変わるのだろう。炭焼きの人を増やすと言っても、鉱山が必要とする量まで急に増やせるわけではない。村の冬の薪も、今年だけでなく来年がある。
気づくと、菓子を持ったまま手が止まっていた。
「ほら、また戻った」
父の声がして顔を上げる。
「何がです?」
「頭が山へ戻った。お前は考え込むと、食べる直前で手が止まるんだ」
自分の手を見る。
確かに止まっていた。
「そんなところまで見ないでください」
「目の前にいる娘くらい見るさ」
父は責めるでもなくそう言った。
「今ここで考えても、遠い斜面の道幅までは分からんよ。報告が来てから考えればいい。菓子くらいは菓子として食べなさい」
「はい」
今度は素直に口へ入れた。
父も満足したように自分の分を食べる。
しばらくは、政務の話をしなかった。
菓子の味の話から、私が子供の頃に好きだったものの話になり、そこからいつの間にか午後の予定の話へ移った。父は私の衣装合わせがあると聞くと、長く立たされるのは大変だろうと言った。
そんな話をしているうちに、父付きの侍従が午後の予定を知らせに来た。
父は名残惜しそうにするほどでもなく、いつものように立ち上がった。
私も自分の予定がある。午後は来週の公式行事に使う衣装の確認と、その後にいくつかの書状へ目を通すことになっていた。
父が扉へ向かって歩き始める。
その背中を見て、襟元が少し折れているのに気づいた。
「お父様、少し待ってください」
父が足を止めて振り返る。
「どうした?」
「そのままでいてください」
近づいて、襟を直した。
「ここ、曲がっています」
「そうだったのか」
「朝からです」
父が少し目を見開いた。
「朝から? それなら、もう少し早く教えてくれてもよかったんじゃないか」
「人がいるところで言うほどでもないと思って、そのまま忘れていました」
「私はその間ずっと、この格好で人に会っていたんだがな」
困ったように言いながらも、怒ってはいない。
布を整え、少し離れて見る。
今度は大丈夫だ。
「はい。これで大丈夫です」
父は襟元へ軽く触れた。
「ありがとう。こういうことは、なぜか誰も教えてくれない」
「陛下に『襟が曲がっています』とは、皆さん言いにくいんだと思います」
父は納得したようにうなずいた。
「なるほど。なら、気づいた時にはこれからも教えてくれ。皇帝に言いにくいことでも、娘なら言ってくれるだろう」
「それくらいなら」
「十分だよ」
父は穏やかに笑った。
そのまま私の顔を見て、少しだけ表情をやわらげる。
「午後は衣装合わせの後に書状だったな。朝から人の話を聞いてばかりだ。菓子は持っていきなさい。少しくらい休みながらやればいい」
「分かりました」
父はそれを聞いて、満足したようにうなずいた。
それから、いつもの調子で扉へ向かう。
「では、行ってくる」
「はい」
父が部屋を出ていった。
私は残っていた菓子をもう1つ食べた。
午後の衣装合わせは、思っていたより時間が掛かった。
袖の長さを直したと思ったら、今度は裾の落ち方が気になるらしい。私は台の上に立ったまま、衣装係の女性が布をつまみ、侍女が横から留め具を渡すのを眺めていた。
「殿下、右腕を少し上げていただけますか」
言われた通りにする。
「このくらい?」
「はい。そのままでお願いいたします」
針が布へ入る。
仕事とは分かっているけれど、じっとしているのはあまり得意ではない。
窓の外では、宮殿の中庭を荷車がゆっくり横切っていた。厨房へ何か運んでいるのだろう。反対側の回廊では、書類を抱えた2人の役人が歩きながら話している。
午前の森の話も、今頃は担当ごとに調べ始めているはずだ。
あの森林管理の人は、どうして最初から話さなかったのだろう。
身分の問題か。代官が先にいるからか。それとも、話しても採用されないと思っていたのか。
そこまで考えたところで、衣装係に腕をもう少し上げてくださいと言われた。
「ごめんなさい」
「いえ、殿下」
今度は動かないようにする。
しばらくして仮合わせが終わり、ようやく普段の服へ戻れた。
次の書状を読むために部屋を移った頃には、午前の政務からかなり時間が経っていた。
最初の1通は、以前会った地方の家からだった。
書状の末尾に、前に病気をした娘がもう庭へ出られるようになったと書かれている。
よかった。
返事に一言入れておこうと思い、端へ印を付けた。
2通目を開いた時、扉の外が少し騒がしくなった。
声は大きくない。
けれど、足音が速い。
顔を上げる。
入ってきたのは、父付きの侍従だった。
さっき父を呼びに来た人とは別の男だ。普段なら、私の部屋へ直接入ってくることはほとんどない。
礼をする。
浅い。
息が整っていない。
何より、こちらを見た時の顔がいつもと違った。
「どうしたの?」
男が一度息を吸った。
「陛下が、倒れられました」
意味を理解するより先に立っていた。
「どこで?」
「会議室で倒れられました。すでにお部屋へお運びしています。侍医が――」
最後まで聞かなかった。
廊下へ出る。
後ろから侍女が何か言ったけれど、振り返る余裕はなかった。
走るほどではない。そう思ったのに、気づけば裾を片手で持ち上げていた。
廊下にいる人たちが、私を見るより先に道を開ける。
いつもなら礼をされて、こちらが通り過ぎる。
今日は違った。
父の部屋へ近づくほど、人が増えているのに声は少なくなった。
扉の前にいた近侍が、私を見てすぐに開ける。
「お父様」
呼びながら入った。
父は寝台に横たわっていた。
朝と同じ服だ。
周囲に侍医が2人、その補助をする者がいる。1人は父の手首を取り、もう1人は呼吸を確かめていた。治療を補助する魔法も使われているのだろう。手元に意識を集中させている者がいた。
父の目は閉じている。
胸が動く。
生きている。
まず、それだけ分かった。
「いつ倒れたの?」
誰に聞いたのか、自分でもよく分からなかった。
最初に答えたのは近侍だった。
「会議が始まって間もなくです。お話しになっている途中で急に言葉が止まり、そのまま――」
「その前は?」
「普段と変わりませんでした」
「何か痛いとか、苦しいとかは?」
「何も」
侍医がこちらへ向いた。
「殿下、現在できる処置は行っております」
「何が起きたのですか」
「まだ断定できません。意識が戻らず、呼吸も安定しておりません」
「まだできることはありますか」
侍医はすぐに答えた。
「ございます。続けます」
私はうなずいた。
なら、続けてもらえばいい。
他に何を聞けばいい。
父は朝食を取った。午前中も普通に話していた。鉱山の話を聞いた。菓子を持ってきた。午後の会議へ歩いていった。
その間に何かあったのなら、誰かが見ているはずだ。
「会議の前に、他の部屋へ寄りましたか」
近侍が答える。
「執務室へ一度戻られました。その後、会議室へ移られています」
「執務室では誰が?」
「私と、書記が2人おります」
「その時も何も?」
「はい」
聞いても、聞いても、同じところへ戻ってくる。
普段と変わらなかった。
突然だった。
分からない。
私は寝台のそばへ行った。
「お父様」
もう一度呼ぶ。
父のまぶたが少し動いたように見えた。
本当に動いたのかもしれない。
呼んだからそう見えただけかもしれない。
「私です」
返事はない。
手に触れた。
温かい。
それなのに、握り返してはこなかった。
侍医が処置を続ける邪魔にならないよう、少し離れた。
待つしかない。
それが一番難しかった。
何かを聞けば、その分だけ次にすることが見えると思っていた。
午前の森もそうだった。
木が足りないと言われた。別の林があると分かった。道が悪いと分かった。炭にして運ぶ方法があると分かった。人手が要ると分かった。
聞くほど問題は複雑になったけれど、少なくとも何を調べればいいかは増えた。
今は違う。
いつ倒れたかを聞いた。
誰がいたかも聞いた。
その前の様子も聞いた。
それでも、次に何を聞けばいいのか分からない。
部屋の中では、人が動いている。
水を運ぶ者がいる。布を替える者がいる。侍医が短い言葉を交わす。扉の外にはさらに人がいる気配がした。
誰も止まってはいない。
なのに、少しずつ何かが変わっていく。
最初に入った時、若い方の侍医は何度も年長の侍医へ確認していた。
しばらくすると、その回数が減った。
父付きの侍従は扉のそばに立ったまま、何度もこちらと寝台を見ていた。それがいつの間にか、寝台を見る時間の方が短くなっている。
年長の侍医が何かを言うたび、補助をしている人たちの動きも少しずつ静かになった。
誰も何も言っていない。
だから、まだ決まっていない。
そう思いたかった。
「殿下」
呼ばれて顔を上げる。
侍医だった。
「少しお掛けください」
「大丈夫です。このままで」
「承知しました」
それ以上は言わなかった。
私は立ったまま父を見た。
窓から入る光の位置が変わっていく。
どのくらい経ったのか分からない。
途中で誰かが部屋へ入り、また出ていった。何をしに来た人だったか、後から思い出そうとしても分からない気がした。
父の呼吸は、さっきより間が長くなっていた。
侍医がまた近づく。
私はその顔を見る。
目が合った。
その瞬間、聞きたくないと思った。
初めてそう思った。
何も聞きたくない。
知らなくていい。
さっきまで、知らないまま決めるのが嫌だったのに。
侍医は父の手首に触れたまま、しばらく動かなかった。
もう1人も確認する。
部屋の音が少なくなった。
父の胸が動かない。
私は見ていた。
もう一度動くと思った。
待った。
動かなかった。
年長の侍医が手を離した。
「……お亡くなりになりました」
誰かが息を呑んだ。
私は父を見たまま、うなずいた。
「そう」
声は出た。
思っていたより普通の声だった。
何かしなければならない。
そう思った。
でも、何をするのかが出てこない。
「倒れた時刻は、記録されていますか」
自分の口から出たのは、そんなことだった。
「はい」
近侍が答える。
「亡くなられた時刻も記録いたします」
「そう」
また同じ返事をした。
父の手はまだ温かい。
それを見ながら、時刻を記録してどうするのだろうと思った。
必要なのだろう。
皇帝なのだから。
父なのに。
その2つがうまく一緒にならなかった。
しばらくして、侍医が私のそばへ来た。
声を落としている。
「殿下、1つ確認させてください」
私は顔を上げた。
「本日、最後に陛下とお会いになった際、何か普段と違うご様子はございませんでしたか。お食事やお話しぶりでも、些細なことで構いません」
最後に会った時。
午前の地図が浮かんだ。
森の話をした。
知らないことがなくなる日は来ない、と父が言った。
それから、菓子をくれた。
10歳の頃に好きだった菓子を、まだ私が好きだと思っていた。
結局私は食べた。
父の襟が曲がっていた。
直した。
今日は娘に随分世話を焼かれるな、と言われた。
今日だけみたいに言わないでください、と返した。
父は、そうだったな、と言った。
それから。
では、行ってくる。
私は、はい、と答えた。
それだけだった。
「……いいえ」
喉が少し詰まった。
もう一度、父を見た。
「いつも通りでした」
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