第40話
21歳になった夏、俺は結婚した。
その日の朝も、目を覚まして最初に見たのは書類だった。
寝台脇の小卓に置かれていたわけではない。さすがにルーカスもそこまではしない。身支度を終えていつもの部屋へ入ると、普段なら机の端まで埋まりかねない紙束が、今日は薄い1束だけ置かれていた。
「これだけか」
「はい。本日中に陛下の確認が必要なものはそれだけです」
ルーカスはそう答え、俺の前に予定を書いた紙を広げた。
午前のうちに婚姻契約の最終確認。その後に着替え、来賓への挨拶、婚礼。祝宴は夕方まで続く見込みで、その後は王族と近親者だけが残る。
いつもの政務会議も、軍からの定例報告も今日はない。
「ずいぶん空けたな」
「空けました」
「そこまで言い切るか」
「本日まで通常どおりの予定を入れられましたら、周囲が困ります」
俺も困るとは言わないらしい。
書類は街道沿いの橋の補修費についての承認と、王領の一部で予定している倉庫修繕の支出確認だった。どちらも今日でなければ国が傾くような話ではないが、担当者が次の作業へ進むには俺の承認が要る。
目を通し、補修費の方だけ1点を確認して署名した。
いつもの朝なら、そのまま次の束へ手が伸びる。
今日はない。
机の上が妙に広かった。
「では、次は婚姻契約の確認です」
「ああ」
返事をして立ち上がったところで、ようやく少し変な感じがした。
婚礼の予定は前から知っていた。衣装も、来る人間も、どこで何をするかも聞いている。ゾフィーと結婚すること自体も、とっくに決めている。
それでも、今日の夜から彼女がここにいる、という部分だけは、予定表の項目と同じ形では頭に入ってこなかった。
今までは会う日を決めていた。
これからは、帰ればいる。
その違いを考えかけたところで、ルーカスが扉の前で待っていることに気づいた。
「行こう」
考えるのは後でいい。
今日は考える暇の方が少なそうだった。
***
婚姻契約の最終確認は、俺とゾフィー、それぞれの家から出た者と、宮廷側の担当者が同席して行われた。
書類そのものは既に何度も確認している。今日になって条件を争うための席ではない。
それでも、署名する紙が目の前に積まれると、話していたことが急に現物になる。
王国の国庫。王家の資産。宮廷の家政に使う金。俺個人の財産。ゾフィー個人の財産。
同じ城の中で動く金でも、全部同じ財布ではない。
「こちらは婚姻後も、それぞれ婚前から所有されている財産を本人の名義に残します」
担当者が該当箇所を示した。
俺は一度読んだ文章をもう一度追った。
「共同で出資する場合は?」
「その都度、双方の持分を明記します。どちらか一方の名義へ当然にまとめることはいたしません」
「王妃として必要になる支出は、私の私産からではありませんね」
隣に座っていたゾフィーが尋ねた。
「はい。王妃としての公式な衣装、行事、必要な人員その他は宮廷家政から支出します。ゾフィー様ご自身の私的な購入とは分けて記録されます」
まだ婚礼前なので、担当者はゾフィーを王妃とは呼ばなかった。
ゾフィーは書類へ目を落としたまま、もう1つ確認した。
「私の名義の財産から、家族へ贈り物をする場合も同じですか」
「ゾフィー様ご自身の財産の範囲であれば、原則として御自身の判断になります。ただし大きな土地や権利の移転など、別の承認が必要なものはその限りではありません」
「分かりました」
彼女が頷き、次の紙へ進む。
その様子を見て、少し安心した。
俺が守ってやる、という形だけでは困る。ゾフィーの財産なのだから、本人が分かっている方がいい。
さらに、俺が先に死んだ場合の扱いが確認された。
ゾフィー自身の財産はそのまま本人に残る。王太后となった後の生活についても、婚姻契約で保護する。王位を誰が継ぐかという話と、俺個人の財産を誰が相続するかという話は同じにしない。
俺としては当然に分けたいところだが、書類として並べると項目は多い。
王になってから、同じ人間に属しているように見えるものを分ける仕事は何度もした。国の金と王家の金。公の権限と私的な所有。今回はその中に妻の財産が増える。
妻。
その言葉が頭に浮かんで、一瞬だけ書類から意識が逸れた。
まだ妻ではない。数時間後にはそうなる。
「陛下」
呼ばれて顔を上げると、別紙が差し出された。
俺自身の財産の一覧だった。
土地、現金、債権、王子時代から本人名義で持っていた資産、成人後に管理を移されたもの、父上から相続した私産。
負債や支払予定を差し引いた純額は、およそ2万ターラー。
「……思ったよりあるな」
口から出た。
担当者が少しだけ顔を上げたが、何も言わなかった。
2万ターラー。
少し前なら、かなり大きな額に見えたはずだ。いや、今でも個人の金として見れば大きい。
ただ、俺はほぼ同じ額をヘルツナーへの出資で見ていた。
あちらは王家の投資だった。
俺個人がこれまで持ってきた財産を全部合わせた額と、王として1つの案件で扱った額がだいたい同じになる。
そう考えると、急に2万ターラーが別の大きさに見えた。
競馬場を造るにしても、馬を何頭も持つにしても、あれを国の金でやる気はない。ゾフィーの金を使う気もない。
自分で好きなことをするなら、自分の財布から出す。
問題は、その財布が思ったほど無限ではないことだ。
まあ、当然だ。
国王になったからといって、俺の個人資産まで国庫と同じになるわけではない。
書類の余白を見ながら、いつかこっちも増やす方法を考えた方がいいかもしれないと思った。
だが、今日は考えない。
さすがに結婚式の日に、新しい金儲けの計画を始めるのはどうかと思う。
顔を上げると、ゾフィーがこちらを見ていた。
「何かありましたか」
「いや。自分の財産をまとめて見たら、思っていたより少なくて、多かった」
「どちらですか」
「両方だな」
ゾフィーは少し首を傾げた。
説明すると長くなりそうなので、俺は書類へ署名した。
「後で話す」
「覚えていたら聞きます」
それで、この場の確認は終わった。
***
婚礼の衣装は、普段着る礼装よりさらに動きにくかった。
当然だが、馬に乗るためには作られていない。
袖を整えられ、襟元を直され、もう十分だろうと思ったところからさらに確認が入る。こちらが終わった頃には、外から来賓が揃ったという知らせが届いていた。
俺は一度だけ鏡を見た。
21歳。
王になってからも、父上が死んでからも、少し時間が過ぎた。鏡に映っている顔は、少年と呼ぶには無理がある。
それでも、結婚する自分を見るのは変だった。
扉の外へ出る。
そこからは、考えるより先に人が来た。
挨拶。移動。別の挨拶。順番の確認。
王の婚礼だから当たり前だが、俺とゾフィーが結婚するために、ずいぶん多くの人が動いている。
やがて、会場の向こうに彼女が見えた。
明るい栗色の髪が整えられ、普段より重い衣装をまとっている。何度も会っている相手なのに、一瞬だけ別人のように見えた。
灰緑色の目がこちらを向く。
そこで、やっぱりゾフィーだと思った。
彼女も緊張しているようには見えた。俺がそう見たいだけかもしれないが、いつもより背筋が少し固い。
その近くにはフリードリヒ、エリザベート、ヴィルヘルムがいた。こちら側には母上と、マティルデ、ハインリヒ。
並んだ家族を見たとき、父上がいたならどこに立っていただろうと思った。
一瞬だけだった。
考えたところで位置が空くわけではない。
俺は前へ進んだ。
婚礼の儀礼そのものは、事前に聞いていた通りに進んだ。
祈りがあり、祝福があり、俺とゾフィーの意思を確認する言葉がある。
俺は求められたところで返事をした。
ゾフィーも返した。
大勢の前で、これまで何度も二人で確認してきたことをもう一度口にする。
それだけなのに、その返事が終わると周囲の空気が変わった。
婚約者ではなくなった。
俺の妻になった。
そして、ゾフィーはファルケンマルクの王妃になった。
隣に並んだ彼女が、婚姻を境に突然別人になるわけではない。
さっきまでと同じ顔で、同じように俺を見る。
それでも、次に歩き出したときには、俺たちは夫婦として同じ場所を歩いていた。
***
結婚した直後に、夫婦だけで話す時間があると思っていたわけではない。
思ってはいなかったが、本当になかった。
祝宴が始まってからは、次々に人が来た。
祝いの言葉を受け、返事をし、紹介され、また祝いの言葉を受ける。
食事は出ているのに、落ち着いて食べる時間がない。
俺だけではない。ゾフィーも同じだった。
少し離れたところで彼女が母上と話しているのが見えたと思ったら、次には別の来賓と挨拶をしている。
王と王妃の婚礼なのだから仕方がない。
そのうち、視界の端にマティルデを見つけた。
彼女はもう、こういう場でただ家族の後ろに立っている年齢ではない。何人かと言葉を交わし、その後、セレーンの王太子ヨハンと向き合っていた。
形式的な挨拶は既に済ませているはずだが、今はそれより少し長く話している。
何を話しているのかまでは聞こえなかった。
しばらくして近くを通ったとき、ようやく断片が耳に入った。
「道中はずっと馬車だったのですか」
マティルデが尋ねていた。
「ずっとではありません。途中では馬にも乗りました。馬車の中にいるより、その方が周りを見られますから」
「それなら分かります。私も、乗れる道なら馬の方が好きです」
「王女殿下はよく乗られるのですね」
「兄上ほどではありません。でも、城の中にいるよりは」
そこでマティルデが俺に気づいた。
「あ、兄上」
ヨハンもこちらを向く。
俺は二人の会話を止めるつもりはなかったので、軽く言葉を交わしただけで通り過ぎた。
後ろで会話が再開する。
珍しいな、とは思った。
マティルデは必要な社交はするが、誰とでも同じように話し続けるわけではない。馬の話なら続きやすかっただけかもしれない。
俺はその程度に考えて、次の来賓へ向かった。
しばらくして、自分の席へ戻ると、ゾフィーは母上の隣にいた。
祝いの席で何を話しているのかと思えば、明日の朝から使う部屋と人の話だった。
「今まで使っていた侍女たちは、しばらく同じように側に置けばいいわ」
母上が言った。
「こちらのやり方を最初から全部覚えさせる必要はありません。宮廷側から必要な者を付けますから、分からないことはその者たちに聞けばいいのです」
「ありがとうございます」
「それから、私が今までしていたことを、明日からあなたが全部する必要もありません」
ゾフィーが少し驚いた顔をした。
母上は杯へ手を伸ばしながら続けた。
「王妃になったからといって、一晩でこの城の人間関係まで分かるものではないでしょう。必要なことから覚えればいいわ」
「はい」
「分からなければ聞いてください。私でなくても、長くいる者なら知っています」
そこまで言って、母上は俺を見た。
「レオンに聞くと、政務の話まで始まるかもしれませんから」
「母上」
「違うの?」
完全には否定できない。
ゾフィーがこちらを見た。
「気をつける」
「前にも似たようなことを聞いた気がします」
「覚えていたか」
「大事なことなので」
そう言われると弱い。
母上はそれ以上俺を追及せず、今度はゾフィーと、明日会う宮廷側の担当者について話し始めた。誰に何を聞けばいいかという話だった。
俺はそこでようやく、皿に残っていた料理を少し食べた。
明日になれば、ゾフィーは知らない部屋へ行き、知らない仕事の順番を覚え、今までとは違う人間に声をかけられる。
俺の方も、妻ができたからといって、夫として何をすればいいのか全部分かるわけではない。
その辺りは、たぶん二人とも同じだった。
それからさらに時間が過ぎた。
日が傾く頃になると、ようやく人が減り始めた。
形式的な挨拶が一段落し、遠方から来た者もそれぞれに引き上げる準備を始める。
俺はやっと椅子へ腰を下ろした。
「疲れた」
誰に聞かせるでもなく言うと、隣に来たゾフィーが同意した。
「私もです」
「今日、ちゃんと食べたか?」
「食べました。陛下よりは」
「それならいい」
妻になった相手へ最初にする会話が食事の確認なのもどうかと思うが、実際気になったのだから仕方がない。
ゾフィーは少し向こうへ視線を移した。
そこにはリューネンベルク家の家族がいた。
「行ってこい」
言うと、彼女は俺を見た。
「よろしいのですか」
「もちろん。俺はここにいる」
少し迷ったあと、ゾフィーは頷いて家族の方へ向かった。
俺はその場に残った。
聞こうと思えば声が届く距離だったが、聞く必要はない。
エリザベートがゾフィーの手を取った。フリードリヒは何かを言い、ヴィルヘルムもその後に続いた。
大げさな別れではなかった。
明日から二度と会えないわけではない。手紙も出せるし、帰ろうと思えば帰れる。向こうから来ることだってできる。
それでも、今日までは式が終わればゾフィーは家族の側へ戻る人だった。
今日は違う。
家族との話を終えた彼女が、こちらへ戻ってくる。
そのことが、婚礼の儀式よりはっきり結婚を感じさせた。
「終わった?」
「はい」
「大丈夫か」
ゾフィーはすぐには答えなかった。
「寂しくないと言えば、嘘になります」
「そうだろうな」
「でも、帰れなくなるわけではありません」
「帰りたくなったら帰ればいい」
「前にもそう言いましたね」
「言ったな」
それ以上は何も足さなかった。
今は、その沈黙がなぜか心地よかった。
***
夜になった。
侍女がゾフィーの衣装を整え、近侍が俺の側の支度を終えると、彼らも部屋を出て、扉が閉まった。
静かになった。
今日一日、ずっと誰かがいた。
朝から今まで、二人きりになった時間がほとんどない。
それが急になくなると、部屋が妙に広く感じられた。
ゾフィーは昼間よりずっと軽い服になっていた。髪も婚礼のときほど固く整えられていない。
俺も重い礼装から解放されている。
それだけで楽なはずなのに、昼間より緊張した。
何を言えばいいのか、一瞬分からない。
政務なら困らない。話すべきことがある。
今は、話すべきことが決まっていない。
「……疲れたか」
結局、また同じことを聞いた。
ゾフィーがこちらを見る。
「さっきも聞きました」
「そうだった」
「疲れています」
「俺もだ」
それで少し間が空いた。
「家族とは、話せた?」
「はい。母からは、困ったことがあったら手紙に書くように言われました」
「俺の悪口を書かれそうだな」
「困らせなければ大丈夫です」
「努力する」
そう答えると、ゾフィーは椅子へ座った。
俺も向かいではなく、その少し横へ座る。
昼間のことを話した。
誰が来ていたとか、祝辞が長かったとか、食事をほとんど味わえなかったとか。婚礼を終えたばかりの夫婦の会話として正しいのかは知らない。
ただ、話しているうちに、普段のゾフィーとの会話に近くなった。
だからこそ、途中で意識した。
この後のことが頭に浮かぶ。ゾフィーも同じなのだろうか。
ゾフィーの手が膝の上で組まれている。指先が少し強く重なっていた。
俺は息を吐いた。
「ゾフィー」
「はい」
「今日結婚したからといって、無理に何かをしなくていい」
彼女は黙ってこちらを見た。
「嫌なことがあるなら言ってくれ。前にも言ったけど、黙って我慢される方が困る」
言ってから、自分も緊張していることを隠す必要はないと思った。
「俺も、こういうのは慣れていない」
ゾフィーの指の力が少し抜けた。
「私もです」
「そうだろうな」
「でも」
彼女はそこで一度言葉を切った。
それから、椅子から立った。
俺の前まで来る。
「私も、この結婚を選びました」
静かな声だった。
「父や母に言われたからだけではありません。あなたと話して、手紙を書いて、ここへ来て、それで決めました」
俺は何も言わずに聞いた。
「ですから、陛下だけが気を遣って、全部決めるのも違うと思います」
ゾフィーが手を伸ばし、俺の手に触れる。
握るというより、確かめるような触れ方だった。
俺はその手を握り返した。
「本当にいい?」
「はい」
今度は迷わなかった。
俺は立ち上がった。
近くで見ると、ゾフィーも緊張しているのが分かった。昼間より顔が近いせいかもしれない。
それでも、彼女は離れなかった。
俺も離れなかった。
初めての接吻は、思っていたよりずっとぎこちなかった。
どちらが先に動いたのか、後から聞かれても多分答えられない。
唇が触れ、すぐに離れた。
二人で顔を見合わせる。
「……これで合っているのか?」
思わず聞いた。
「私に聞かれても分かりません」
「そうだよな」
もう一度、今度はさっきより少し長く触れた。
ゾフィーの手が俺の腕に置かれる。
俺も彼女の肩へ手を回した。
昼間、何百という目の前で並んでいたときより、今の方がずっと結婚したという感じがした。
その夜、俺たちは初めて夫婦として身体を重ねた。
上手くできたのかは分からない。
互いに戸惑い、途中で止まり、言葉を交わしながらだった。
ただ、どちらか一方が決めたのではなく、二人でそこまで進んだ。
夜が深くなった頃、同じ寝台で横になった。
隣にゾフィーがいる。
自分の寝台に妻がいるというのは、当然初めてだった。
ゾフィーはもう目を閉じていた。
眠っているのかと思ったら、小さく声がした。
「明日は、何時からですか」
「俺?」
「はい」
「朝食のあとから政務だ。午前は報告がいくつか」
「やっぱりあるのですね」
「国王が結婚した翌日だからって、国は休みにならないらしい」
「王妃もです。明日は王太后陛下と、宮廷の人たちから話を聞きます」
「いきなり全部やらなくていいぞ」
「分かっています」
少し間が空いた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それから先は覚えていない。
疲れていたらしい。
***
翌朝、目を開けたとき、いつもの天井が見えた。
一瞬だけ何も変わっていないように思った。
横を見る。
ゾフィーがいた。
そこで昨日のことを全部思い出した。
彼女もすぐに目を覚ました。
「おはようございます」
「おはよう」
どちらも普通の挨拶だった。
なのに、その後に少し沈黙した。
昨日までなら、同じ部屋で朝を迎えること自体がなかった。
何をすれば自然なのか考えた結果、特に思いつかなかった。
ゾフィーも似たようなものだったのか、こちらを見たあとで視線を外した。
「……昨日より静かですね」
「昨日がうるさすぎた」
「それはそうです」
扉の向こうで人の気配がした。
いつまでも二人だけではいられない。
やがて侍女と近侍が入り、朝の支度が始まった。
それだけで部屋の空気が変わる。
俺はいつものように服を整えられ、今日の予定を聞く。ゾフィーの方にも別の予定が伝えられていた。
昨夜までのことを誰も口にしない。
当たり前だが、その当たり前に少し助かった。
朝食の部屋へ行くと、母上とマティルデ、ハインリヒが既にいた。
席も用意されている。
俺の隣に、ゾフィーの席がある。
客用として少し離れた位置ではない。
ゾフィーは一瞬だけその椅子を見てから、何も言わずに座った。
「おはようございます」
母上がいつも通りに言う。
「おはようございます」
ゾフィーが答えた。
そのまま会話が続いた。
母上は午前中に宮廷家政の担当者を紹介すると話し、ゾフィーは自分の侍女たちの部屋について1つ確認した。マティルデは昨日の祝宴で長く立っていたせいか少し眠そうで、ハインリヒは料理を先に取っていた。
婚礼の翌朝とは思えないくらい普通だった。
俺はパンを取った。
そこへ、ルーカスが1枚の書類を持って入ってきた。
「陛下。昨日の橋の件で、担当から追加の確認が届いております。午前の会議までにご覧いただければ十分です」
「分かった」
受け取って、反射的に開きかけた。
隣でゾフィーがこちらを見た。
何も言わない。
以前、ゾフィーと話したことを思い出した。
私的な時間まで、全部仕事にしない。
俺は書類を閉じて脇へ置いた。
「食べてから読む」
ルーカスは一礼した。
ゾフィーがパンへ視線を戻す。
「何だ」
「何も言っていません」
「そうだな」
「本当に急ぎなら、読んでください」
「午前まででいいと言っただろう」
「では、冷める前に食べた方がいいです」
それは正しい。
俺は食事を続けた。
書類は脇に置いたままだった。午前の会議までなら、食事を終えてから読んでも十分に間に合う。
朝食が終わると、全員がそれぞれの予定へ動き始めた。
母上とゾフィーは宮廷側の担当者に会う。マティルデにも別の予定があり、ハインリヒも自分の時間へ戻る。
俺は政務室へ向かう。
廊下の途中で、ゾフィーとは行き先が分かれた。
昨日なら、ここで別れれば次に会う時刻を改めて決める必要があった。
今日はそうではない。
「夕食は一緒に取れますか」
ゾフィーが聞いた。
俺は今日の予定を頭の中で確認した。
「取れる。遅くならないようにする」
「では、私もそのつもりでいます」
「分かった」
ゾフィーは母上の待つ方へ向かった。
俺は反対側の政務室へ歩いた。
手には、朝食で開かなかった橋の書類がある。
扉の前では、もう何人かが俺を待っていた。




