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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第3章 若き王の国づくり

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第38話

秋が深まり始めていた。


朝晩はもう上着なしでは少し寒い。執務室の窓も、夏のように一日中開けたままにはしていなかった。


午前の報告を一通り終え、次の書類へ手を伸ばしたところで、机の端に置かれていた封書が目に入った。


ヴァルデンハイムから届いた私信だ。


封蝋を見なくても、差出人は分かっている。


アマーリエからの手紙だ。


頻繁というほどでもない。こちらも向こうも、暇を持て余して手紙を書いていられる身分ではない。それでも何か月も空くことはあっても、完全に途切れることはなかった。


最初の頃は、どこまで書いていいのか互いに探っているような文面だった。


今はもう少し気楽だ。


もちろん、国境を挟んだ王家同士であることまで忘れてはいない。


紙を開く。


最初に書かれていたのは、ゾフィーとの婚約への祝辞だった。


そこまでは普通だった。


『国王になられたと聞いた時よりも、ご婚約を聞いた時の方が少し驚きました、と書けば失礼でしょうか』


……失礼かどうかを聞く前に書いている。


その次には、国王になることは以前から分かっていたが、俺が誰かの夫になる姿は今でもうまく想像できない、と続いていた。


余計なお世話だ。


とは思ったが、言われてみれば自分でもまだよく分からない。


婚約の儀式を終え、ゾフィーと今後について話すことは増えた。だが、それで朝起きた瞬間から「俺は将来夫になる男だ」と実感するようなものでもない。


国王の方は、嫌でも毎朝実感する。


机の上に書類が積まれているからだ。


夫の方には、まだ専用の書類の山がない。


それはちょっと助かる。


手紙を読み進めた。


マクシミリアン皇帝は相変わらず忙しいらしい。


午前に諸侯からの使者と会い、午後は帝国法院関係の話を聞き、その間にもヴァルデンハイムの世襲領について指示を出している。アマーリエも以前より同席することが増えた、とある。


以前会った時の姿を思い出す。


60を越えてなお、こちらの言葉の意味を一つずつ拾っていた老人。


少なくとも手紙の中では、まだ隠居する気配はなさそうだった。


その後は宮廷であった小さな失敗や、最近読んだ本の話が続いていた。


俺が手を止めたのは、末尾に近いところだった。


宮廷へ出入りする家の子供が、あの瘡を避けるための処置を受けるかどうかで揉めているという。


痘瘡。


こちらでは、地方によって呼び方が少し違う。


高い熱が出て、全身に瘡が広がる。生き残っても顔や体に痕が残ることがあり、子供が死ぬことも珍しくない。


その家では、父親が医師の勧める処置を受けさせたいと言っている。


病人から取ったものを健康なうちに移し、先に軽く病ませる。


母親は反対していた。


まだ元気な子供を、親の判断でわざと病気にするのか、と。


『理屈だけを聞けば、父親の考えの方が分かりやすいのです。でも、もし自分の子供だったらと考えると、私も同じように決められるのか自信がありません』


そこで話は終わっていた。


医療相談でもない。


俺に答えを求めているわけでもない。


数ある近況の一つだ。


それなのに、その数行をもう一度読んだ。


健康な人間へ、あえて病気を移す。


人痘接種。


天然痘を防ぐために、天然痘患者から取った材料を健康な人間へ接種する。


危険はあるが、自然感染よりはましだった。


……こっちでも、もうやっているのか。


俺は手紙を机に置いた。


人痘というものが歴史上あったことは知っている。だが、この国で誰が、どのくらい、どうやってやっているのかは知らない。


そして、人痘の次にあったものも知っている。


そこまで考えて、一度止めた。


先に確認しよう。


歴史の授業を始めるには、まだ早い。



数日後、マティアス・ヴェーバーが王宮へ来た。


以前より慣れたのか、初めて呼んだ時ほど固くはない。


それでも国王の執務室で気安く振る舞えるわけではなく、扉の前で一度姿勢を正してから頭を下げた。


「お呼びでしょうか、陛下」


「急に悪かったな。座ってくれ」


向かいの椅子を示す。


ヴェーバーが腰を下ろす前に、俺は聞いた。


「あの地区はどうなった?」


ヴェーバーの手が、持ってきていた紙束の上で止まった。


「その件もお話ししようと思っておりました」


一番上の紙を抜く。


細かな数字までは見えない。患者の家と日付を並べたものらしい。


「減っています」


思わず顔を上げた。


「はっきり?」


「はい。以前は同じ井戸を使う家々から、短い間に続けて腹を悪くする者が出ることがありました。春に手を入れてから、そのまとまり方が明らかに少なくなっています」


「比べていた方は?」


「あちらでは、同じような変化はありません」


それなら分かりやすい。


去年と今年で天気が違う、町全体で病人が減った、という話ではない。


手を入れた場所で減った。


比べた場所では減っていない。


「効いたな」


「はい」


ヴェーバーも今回は迷わなかった。


少しだけ肩の力が抜けた。


春に始めた時は、どうなるか分からなかった。


井戸の近くへ便槽から汚れが回り込んでいるのではないか。雨が降れば地面を伝い、側溝から溢れた水が公共水場の周囲へ入るのではないか。


だから流れを変え、壊れたところを直し、汲み取りの間隔も詰めた。


それで病人が減った。


単純な結果だ。


単純だから嬉しい。


「ブレーマーにも伝わっているか?」


「昨日、会いました。向こうも記録を見ています。似た配置の井戸がないか、もう地図を見直していました」


早い。


「なら、そのまま進めてもらおう。共同井戸の近くに便槽があるとか、雨の時に汚れが回り込むとか。条件が似ているところから手を入れる」


王都中の道を掘り返す必要はない。


まず危ない場所を探す。


前にやったことと同じだ。


ヴェーバーは頷いたあと、紙を膝の上へ置いた。


それでも話を切り上げる様子がない。


「何かあるか?」


「前に陛下がおっしゃったことです」


「前に?」


「目に見えないほど小さな生き物が、病に関わっているかもしれないと」


ああ。


顕微鏡を覗きながら話したやつだ。


あの時のヴェーバーは、否定もしなかったが、納得もしていなかった。


当然だと思う。


俺だって、顕微鏡の中に何か動くものを見せられて「これが腹痛の原因です」と言われたら、それだけでは信じない。


「考えが変わった?」


「少し」


ヴェーバーは紙束の端を指で揃えた。


「小さな生き物が病を起こしている、とまで申し上げることはできません。ですが、汚れた水が病を運んでいたことは分かりました。あの場所を直してから病人が減った。今は、汚れの中に何かがあり、それが水を通じて人へ届いていたのだろうと考えています」


前より、ずっと進んでいる。


「調べる気になった?」


「なりました」


即答だった。


少し嬉しい。


ようやく「国王がまた変なことを言っている」だけではなくなった。


まあ、変なことを言っているのはたぶん間違いないが。


「それならちょうどいい。今日は別の病について聞きたかった」


ヴェーバーの眉が少し上がる。


「何でしょう」


「あの瘡だ。全身に出る方の」


表情が変わった。


腹の病と違って、名前を出しただけで空気が少し重くなる。


「何か流行の報告が?」


「いや。そうじゃない」


アマーリエの手紙のことを簡単に話した。


病人から取ったものを、健康な子供へ移す処置。


この国でも行われているのか。


ヴェーバーはすぐに頷いた。


「行う医師はおります。私も見たことはあります」


「自分では?」


「ありません。危険が大きいので」


そこからは、俺が想像していたより具体的な話になった。


一度あの瘡に罹って生き残った者は、その後、流行が来ても罹らないことが多い。


それ自体は医師だけではなく、かなり広く知られている。


だから、その性質を利用する。


自然にどこから感染するか分からないまま待つより、体調の良い時に、医師が見ているところで先に病ませる。


うまくいけば軽く済む。


だが、必ず軽く済むわけではない。


重くなる者もいる。


死ぬ者もいる。


そして何より、処置を受けた者自身が病人になる。


「別の者へ移すのですね」


「そうです。ですから、受けた後は人から離さなければなりません。広い家があり、世話をする者もいて、しばらく外へ出なくても困らない者の方が行いやすい」


なるほど。


上流層に偏る理由は、医師の腕だけではない。


隔離そのものに金がかかる。


日雇いの職人に「何週間か家にこもってください」と言っても、その間の飯は誰が出すんだという話になる。


「効果はある?」


「あります」


これも即答だった。


「危険だから行わない医師はおります。危険を承知で勧める医師もおります。ですが、まったく意味のない処置なら、これほど長く残ってはいないでしょう」


その言葉で、頭の中の何かが一気につながった。


人痘。


一度罹れば、次は罹りにくい。


そこから――。


ジェンナー。


牛痘。


乳搾りをする人間は天然痘に罹りにくいという話。


牛痘を利用した種痘。


前世の教科書なら数行で終わるところだ。


「……牛だ」


「はい?」


「牛から人へ移る病気で、皮膚に瘡ができるものを知らないか?」


ヴェーバーが黙った。


ほんの少しだけ。


「今度は牛ですか」


腹の病から始まって、次は牛。


医師からすれば、俺の相談範囲が広すぎる。


「牛の病気そのものは、私より牛を扱う者へ聞いた方が確かです。ただ、手に瘡ができたという患者を診たことはあります。牛の乳を搾っている者でした」


背筋が伸びた。


「その後、あの瘡には?」


ヴェーバーが首を横に振った。


「そこまでは見ていません。手の傷が治れば、それで診療は終わりますから」


そりゃそうだ。


何年も後に天然痘へ罹ったかどうかまで追いかける医者はいない。


「牛から人へ移る病気が、あの瘡を防ぐかもしれない」


口にすると、ヴェーバーはまた黙った。


今度はさっきより長い。


「どうして、そう思われるのです?」


来た。


ここが困る。


前世の医学史で知っています、とは言えない。


「似た話を聞いたことがある。かなり前だ」


嘘ではない。


前世で聞いた。


「どこで、とは?」


「……昔の知識だ。今すぐ説明するのは難しい」


ヴェーバーは俺の顔を見た。


納得した顔ではない。


それでも追及はしなかった。


前回の衛生試行が効いてくれて、本当に良かった。


もしあれがなければ、今日の俺は「牛の病気で痘瘡を防げるかもしれないと言い出した国王」で終わっていた可能性が高い。


いや、今でも十分そうなのだが。


「仮にそういう病があるとして」


ヴェーバーが言った。


「陛下は、その病をどう見分けるおつもりです?」


「……そこなんだ」


答えがない。


牛痘という名前は知っている。


牛の乳房に病変が出ることも、乳搾りをする人へ移ることも、ジェンナーがそれを使ったことも知っている。


だが、牛を何頭か並べられて、


――この中で使えるのはどれですか。


と聞かれたら終わる。


歴史の試験なら書ける。


「ジェンナーは牛痘を利用して種痘法を確立した」


これで丸だ。


でも現実の牛には、「牛痘」と札が下がっているわけじゃない。


どんな色で、どんな順番で腫れ、いつ何が出るのか。


似た病気とどう見分けるのか。


何を取るのか。


どれくらい置いておけるのか。


人へどう使うのか。


何も知らない。


「まず、牛を見ている人間に聞こう」


そう言うと、ヴェーバーは少し考えてから頷いた。


「それがいいでしょう」



王領には牛を飼っている農場がいくつもある。


今回はその中でも、乳を取る牛を多く扱っているところを選んだ。


ヴェーバーも同行した。


王が医師を連れて牛の乳房を見に来る。


言葉にすると、かなり意味が分からない。


現地の管理を任されている男も、最初に用件を聞いた時は一度聞き返した。


さらに、長く乳牛の世話をしている者を呼んでほしいと言うと、今度は本当に困った顔をした。


しばらくして連れてこられたのは、50を越えていそうな女だった。


厚い前掛けに、袖を肘近くまでまくっている。


王が来たと聞かされていたのだろう。俺の前へ出ると、ひどく緊張した顔で頭を下げた。


「楽にしていい。牛について聞きたい」


「牛、でございますか」


「牛だ」


女が一度、横にいる管理人を見た。


管理人も答えを持っていない。


そりゃそうだ。


「乳を取る牛の乳房に、できものが出ることはある?」


質問すると、女の顔が少し変わった。


緊張が消えたわけではない。


でも、分かる話になった。


「あります」


「どんなものだ?」


「どの、でございましょう」


今度は俺が止まった。


「どの?」


「赤くなって裂けるものもございますし、硬く張るものもございます。丸くふくれて、あとでかさぶたになるものも。乳首の先だけ悪くなる牛もおります」


ヴェーバーが横で手帳を開いた。


「全部、同じものではない?」


女が俺ではなく、ヴェーバーを見た。


「違います」


言い切った。


そこだけ急に強い。


「どう違う?」


「見れば分かります」


医者が少し困った顔をした。


俺は危うく笑いそうになった。


専門家が素人へ言う「見れば分かる」は、前世でも今世でも変わらないらしい。


「見たことのない者にも分かるように教えてくれ」


そう頼むと、女は少し考えた。


それから、指で自分の手の甲を示しながら話し始めた。


赤く広がって皮が裂けるもの。


触ると牛が強く嫌がるもの。


小さな丸い膨らみがいくつもでき、しばらくして中心が濃くなり、最後は乾いて落ちるもの。


すぐ隣の牛へ同じものが出ることもあれば、1頭だけで終わることもある。


話し出すと止まらない。


さっきまで国王を前にどうしていいか分からなかった人間と同じとは思えなかった。


「人の手に出るものは?」


ヴェーバーが聞いた。


「あります」


女は自分の右手を見せた。


指の付け根に、古い小さな痕があった。


「これは?」


「もうずいぶん前です。若い頃に、乳房に丸いものが出た牛を搾っていたら、あとで私の手にもできました」


「熱は?」


「少し。2日ほど寝ました」


俺とヴェーバーが顔を見合わせた。


これだけなら、かなりそれらしい。


だが、ここで欲しい答えを先に聞くのはやめた。


「同じ牛を扱った人は?」


「姉も触っていましたが、姉には出ませんでした」


「ほかの牛には?」


「2頭だったと思います」


ヴェーバーがさらに、牛に出た方が先だったか、手に出たのは何日くらい後だったか、傷はどこから始まったかを聞いていく。


何十年も前の話だ。


当然、全部は覚えていない。


女も途中で、


「そこまでは、もう」


と首を振った。


それでいい。


覚えていないものを埋めても仕方がない。


話を聞き終えたところで、近くにいた別の男が口を挟んだ。


「そういうのを手にもらった女は、赤い瘡を怖がらなくていいって、昔は言いましたな」


俺はそちらを向いた。


「誰から聞いた?」


「祖母です。乳を搾る女は顔がきれいなままだ、と」


来た。


前世で聞いた話とほとんど同じだ。


乳搾りの娘は天然痘に罹らない。


ジェンナーへつながる、有名な逸話。


胸が一気に熱くなった。


本当にある。


この世界にも。


「実際に、罹らなかった人を知っているか?」


男は頭を掻いた。


「祖母はそう言ってましたが……誰だったかまでは」


そう簡単にはいかないか。


すると、少し離れていた若い男が、


「でも、牛から手を悪くしたあとに赤い瘡になった人もいますよ」


と言った。


今度は胸の熱が一気に冷えた。


「誰?」


「母の姉です。若い時に牛の乳を触って手がひどくなったって。顔にも痕があります」


「痘瘡の?」


「はい。あとで罹ったそうです」


頭の中で、教科書の記憶と今の話がぶつかった。


牛痘に罹ったら天然痘への抵抗がつく。


少なくとも、それが種痘へつながったはずだ。


なのに、罹っている。


いや。


違う可能性を考える前に、もっと手前がおかしい。


俺は今まで聞いた「牛から手を悪くした」という話を、勝手に全部「牛痘」へ寄せていた。


「陛下」


ヴェーバーに呼ばれた。


「何だ?」


「その伯母上の手は、どのようになったのです?」


若い男が戸惑った。


「どのように、と言われましても」


「今、この方が話したような丸いできものでしたか。熱は出ましたか。牛の方には何が出ていました?」


「そこまでは……。牛に蹴られた傷から腫れたって聞いたような」


ヴェーバーの視線がこちらへ向いた。


「あれ?」


思わず声が出た。


「先ほどの話と、同じ病ですか?」


そう言われて、ようやく気づいた。


俺はさっきから、「牛から手へ移った病気」を全部一つにしていた。


目の前の女は最初から言っていた。


違う、と。


牛の乳房に出るものは何種類もある。


裂けるもの。


腫れるもの。


丸いもの。


人へ移るもの。


傷から膿むものまで混ざっている。


なのに俺の頭には「牛痘」という答えがあるから、牛から人へ移ったというだけで全部そこへ押し込もうとしていた。


教科書では一語だった。


現実には、誰も牛に札を掛けてくれない。


「ヴェーバー」


「はい」


「一度、分けよう」


俺たちはその日、結局かなり長い時間を牛の話に使った。


最初の女だけではない。


近くで長く乳を搾っていた者。


病気の牛を世話した者。


昔、手にできものが出た者を知っているという者。


何人かから話を聞いた。


話は揃わなかった。


むしろ、揃わないことの方が多かった。


ある人は熱が出たと言う。


ある人は手が腫れただけだと言う。


牛の乳房に丸いものが出たという話もあれば、ただ裂けて膿んでいたという話もある。


それでも、何もなかったわけではない。


似た話は確かに残っている。


牛の乳房にある種類のできものが出る。


それを扱った人の手にも似たものが出ることがある。


そして、その経験をした者はあの瘡を怖がらなくていい、という古い言い伝えがある。


俺が探しているものが、この辺りにある可能性は十分ある。


問題は、どれだ。


帰りの馬車の中で、ヴェーバーが手帳を開いたまま言った。


「昔の話だけでは難しいですね」


「うん」


「牛の症状も、人の症状も、いつ起きたかも揃っていません」


「次は最初から見よう」


ヴェーバーが顔を上げる。


「病変が出た牛が見つかったら、すぐ知らせてもらう。治る前に見る。誰が世話をしているかも記録する」


「人に症状が出た場合も、最初から診ます」


「同じ牛を触って何も起きなかった人も」


ヴェーバーが少し考えた。


「それも必要ですね」


そこで話は決まった。


王領側で乳牛を扱ういくつかの現場に、似た病変が出た時は早めに連絡するよう伝える。


牛のどこに何が出たか。


いつ出たか。


どんなふうに変わったか。


誰が触ったか。


人の手に何か出たなら、牛の症状より前か後か。


まずそこからだ。


「人へ移して確かめるのは?」


ヴェーバーが聞いた。


一瞬、ジェンナーの名前が頭をよぎった。


歴史上は、そこまでやっている。


牛から取ったものを人へ接種し、その後で天然痘への抵抗を確かめた。


子供に。


……いや。


「まだやらない」


「分かりました」


「何の病気かも分からないものを、健康な人間へ入れる気はない。まず自然に出たものを見る」


ためらう理由は、それだけじゃない。


今の俺たちは、材料の見分け方すら分かっていない。


それで人へ入れろと言うのは、医療というより博打だ。


博打は好きでも、これは賭けたくない。


「その方が私も助かります」


ヴェーバーが真顔で言った。


「陛下に『牛の病気を人へ移せ』と言われたら、さすがに今日は眠れなかったと思います」


「そこまで無茶は言わない」


言ってから少し考えた。


今までヴェーバーに話した内容を並べると、そう言い切る自信がなくなってきた。


汚れた水に見えない生き物がいる。


牛の病気が人の痘瘡を防ぐかもしれない。


医者から見た俺は、だいぶ危ない国王なのではないだろうか。


少なくとも今回は、いきなり人へ試すと言わずに済んだ。


そのくらいは自分で褒めてもいいと思う。



王宮へ戻って2日後、アマーリエへの返事を書いた。


すぐに返せなかったのは、別に牛の調査に夢中で忘れていたからではない。


……半分くらいはそうかもしれない。


最初に、婚約の話への返事から書く。


国王になった時より驚いた、という一文には、こちらもまだ夫になる自分を十分想像できていないので、アマーリエの想像力だけの問題ではない、と書いた。


書いてから、少しだけ意地の悪い返しだったかと思った。


まあ、先に言ったのは向こうだ。


マクシミリアンの近況にも触れる。


働きすぎではないか、と書きかけてやめた。


たぶん娘の方がよく分かっている。


そして、最後にあの子供の話へ触れた。


『あなたの手紙にあった処置について、こちらの医師にも尋ねてみました。そこから、こちらでも少し調べ始めています』


そこまで書いて、筆を止めた。


このあと、


牛の乳房にできる瘡を調べに行きました。


と続けるべきか。


……いらないな。


説明が長い。


何より、手紙を送った本人も、まさか数日後に俺が牛の乳房について何人もの農場の人間へ聞き回っているとは思っていないだろう。


『まだ答えは出ていませんが、もう少し調べてみるつもりです』


それで十分だ。


乾かすために紙を置き、窓の外を見た。


中庭の木は、もうかなり葉を落としている。


封をする前に、もう一度だけ手紙を読み返した。


牛のことは書かなかった。


婚約のところは、そのまま残した。


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