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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第3章 若き王の国づくり

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第37話

初夏に入ると、王宮の執務室は朝のうちから少し暑くなった。窓を開ければ風は入るが、机の上の紙まで一緒に動く。結局、片方だけ少し開けたまま、俺は朝から届いていた報告を順に片づけていた。春に始めた王都の衛生試行についても、短い報告が来ている。井戸前の敷石は直した。暗渠入口もさらった。漏れの疑いがあった便槽は目地を詰め直し、汲み取り間隔も一部変えている。


そこまでは予定どおりだった。腹の病が減ったかどうかは、まだ分からない。


「これは継続でいい。今の時点で結論は出さなくていい」


「承知しました」


書記が報告を下げる。次に置かれた束の表紙には、ヘルツナー商会の名前があった。一瞬、手が止まった。


「まだ定期報告が続いていたか」


財務官が頷く。


「陛下。再建時の監督命令が解除されておりませんので」


そうだった。あの時、マルティンには再建の見通しが立ったら、その後の王宮との関係を改めて決めると答えた。短期の支払い危機を越えたあとも、利益の持ち出し、大型投資、関係者への資産移転、主要資産の処分には制限が残っている。定期的な資金報告も続いていた。俺は報告をめくった。不払いは出ていない。小口取引だけでなく、大口の取引量も危機直後より戻っている。国外との取引も以前ほどではないが続いている。


一方で、共同輸送の欄には、東部の路線で荷主が増え始めているとある。


「大型投資禁止のままだと、これ以上広げるのは難しいか?」


「はい。現在の制限を厳密に適用すれば、荷車や倉庫をまとまって増やす場合にも王宮側の確認が必要です。再建のための制限が、通常の事業判断を妨げる段階に入りつつあります」


それなら、もう目的が逆になっている。危機の時には、商会の価値を自分たちで壊させないために必要だった。今はその制限が、商会が稼ぐための投資まで遅らせている。


「今の商会の価値は、どのくらいで見ている?」


財務官が別紙を出した。


「資産、負債、回収可能な債権、在庫、直近の営業状況を合わせた再評価です。厳密な売却価格ではありませんが、ヘルツナー家の持分はおよそ3万ターラーと見ています」


危機の最中、帳簿上2万5000ターラーだったマルティンの持分は、現実的には4000ターラー程度まで落ちていた。そこから考えれば、ずいぶん戻った。俺は紙を置いた。


「監督は終わらせよう。マルティンを呼んでくれ」


財務官が記録を取る。そこで俺は、共同輸送の欄をもう一度見た。荷主が増えた。ただ、荷車と倉庫が足りない。……それだけで終わらせるのも、少し惜しい気がした。


*


マルティン・ヘルツナーが王宮へ来たのは、その日の午後だった。以前より顔色はいい。危機の頃は、寝ているのか怪しい顔で帳簿を抱えていたが、今は少なくとも倒れそうには見えない。形式的な挨拶を終えたあと、俺は先に本題を伝えた。


「再建時の特別監督を終わらせる」


マルティンの目が少し動いた。


「利益の持ち出し、大型投資、主要資産処分への特別な制限も解除する。通常の法律と契約上の義務だけに戻す」


「ありがたく存じます」


深く頭を下げたあと、マルティンは顔を上げた。


「それは、この後のお話とは別でございましょうか」


俺は少しだけ驚いた。


「まだ何も言ってないぞ」


「陛下が監督解除だけをお伝えになるのでしたら、私を直接お呼びになる必要はございませんので」


なるほど。


「別だ。監督解除は、次の話を受ける条件じゃない。断っても解除する」


それを聞いて、マルティンの肩からほんの少し力が抜けたように見えた。ここを混ぜるのはまずい。王宮に経営を押さえられたままの商人へ、「自由にしてほしければ持分を寄こせ」と言えば、王家の信用問題になってしまう。


「その上で聞きたい。明日から好きに投資できるなら、最初に何をする?」


マルティンはすぐには答えなかった。


「共同輸送を広げます」


「具体的には?」


「自前の荷車と馬を増やします。王都側の倉庫も、今のままでは足りません。東への途中で荷をまとめ直せる場所も欲しい。御者や荷扱いの者も増やしたい。荷札と受渡記録が増えましたので、書記も必要です」


指を折るような話し方ではなかった。頭の中では、もう優先順位まで付いているのだろう。


「それから、帰り荷を取る者です」


「帰り荷?」


「行きだけ荷車を埋めても、帰りが空なら高くつきます。こちらから東へ荷を出した商人だけを見ていては足りません。東からこちらへ運びたい者も探さなければなりません」


「なるほど」


「全部やるなら、いくらかかりそうだ?」


今度は答えが早かった。


「一段広げるだけなら、2万ターラーほどでしょうか」


俺は朝の再評価を思い出した。今の持分価値は約3万ターラー。共同輸送はまだ小さい。それでも、王領の荷にも使える。王領から物を出す時にも使える。将来、国外へ売る物が増えれば、その時にも必要になる。


戦争になれば、荷車と馬と倉庫はもっと欲しくなる。これを全部、他人の商売として横から眺めている必要はない。


「その2万ターラーを、王家から出したらどうする?」


マルティンが黙った。驚いた顔ではなかった。むしろ、さっきより慎重になった。


「条件を伺ってからでなければ、お答えできません」


「そう言うと思った」


俺は財務側の再評価を机へ出した。


「今の持分を3万ターラー前後と見ている。そこへ王家から2万ターラーを新しく商会へ入れる。私があなたの持分を買うわけじゃない」


マルティンが紙を見る。


「出資後で5万。王家が4割、ヘルツナー家が6割だ」


危機時の4000ターラーを基準にすれば、もっと大きな持分を取れる。そんなことをしたら、投資というより追い剥ぎだ。しかも今回は、マルティンから金を受け取る話ではない。2万ターラーは商会の中へ入る。荷車にも馬にも倉庫にも、御者や荷扱いの人員にも、運転資金にも使える。マルティンは数字を見たあと、俺へ視線を戻した。


「経営にも4割、口を出されますか」


「4割も持つんだから、何も言えないのもおかしいだろう」


「では、次に買う荷車の台数を陛下がお決めになりますか」


「いや。そこまでは決めない」


「倉庫の書記を誰にするかは?」


「それもそっちだ」


「どの商人の荷を受け、どの荷を断るかは?」


「……それも私が決めることじゃないな」


マルティンが小さく頷いた。


「でしたら、その線を先に決めていただきたく存じます」


言いたいことは分かる。4割持っているからと、王が毎日の商売へ口を出し始めれば、商会の主人が2人になる。


「日々の経営はあなたがやる。王家側の同意が必要なのは、商会そのものを売る、解散する、主要な倉庫や資産をまとめて処分する、商会の規模に比べて大きすぎる借金をする……そういう話だ」


「通常の仕入れや雇用、取引先、運送経路は、これまでどおり私どもで決めてよろしいでしょうか」


「任せる」


マルティンはそこで初めて、椅子の背へ少し体を預けた。


「それなら、話はできます」


まだ受けるとは言わないらしい。さすがに商人だった。


「もう一つ。王領で今運ばせている荷のうち、条件が合うものはヘルツナーへ回したい」


マルティンの視線が少し細くなった。


「現在、その荷を運んでいる者との契約は、どうなさいますか」


「いきなり切るつもりはない。まず、どの路線で何をどれだけ運んでいて、今いくら払っているかを出させる。契約の切れ目か、新しく増える分から比べる。そちらの条件が悪ければ回さない」


「王領の荷だからと、民間の荷より優先する条件も付けない、ということでございましょうか」


「付けない。定期的に出る分は先に量と時期を知らせて、普通の荷主と同じように契約する。急に増えた分まで割り込ませる気はない」


マルティンは少し考えた。


「それでしたら、まず私どもの荷車を増やして、東への定期便を太くしたいところです。王領の荷をそこへ載せられれば、行きの荷量を読みやすくできます」


「今運んでいる者はどうする?」


「全部切る必要はございません。私どもの荷車だけで足りない時期や、枝道まで運ぶ区間では、これまでの運送人も使えます。条件の合う者なら、こちらから仕事を頼む形にもできます」


「幹の部分は自分たちで運んで、足りないところを外から借りる?」


「当面は、その形がよろしいかと存じます。荷が増えれば、自前で持つ荷車と馬もさらに増やします」


それなら今回の2万ターラーを入れる意味も分かりやすい。王領の荷は、今だって誰かが運んでいる。既存契約をいきなり切るのではなく、契約の切れ目や新しく増える分から、ヘルツナー自身の便へ移す。民間の荷や帰り荷も積み合わせ、量が足りない区間や繁忙期だけ外の運送人を使う。


王宮の日用品や役所の荷まで、ここでまとめてヘルツナーへ回すつもりもなかった。それぞれ今の手配がある。使う価値があるなら、その時に別に契約すればいい。


マルティンは少し間を置いてから続けた。


「もう一つ、お願いがございます」


公的な場で国王へ向ける言葉なので、口調は崩れない。それでも、さっきまでより声が低かった。


「陛下のお仕事だけで食べる商会には、したくありません」


「私も、そんな商会に2万ターラー出す気はない」


これはすぐに答えられた。王領の荷が止まったら潰れる商会なら、強い物流網とは言えない。


「今までの客も、これから取る客も自由だ。王家の持分があるからという理由で、普通の商売を止める必要はない」


「国外との取引も、これまでどおり続けてよろしいでしょうか」


「もちろん」


「王家と利害の合わない商人であっても、通常の取引なら同じでしょうか」


少しだけ考えた。


「通常の商売なら止めない。国家として取引を禁じる相手が出れば別だが、それはヘルツナーだけの話じゃない」


マルティンは頷いた。


「でしたら、そこも条件へ入れていただきたい」


「入れよう」


次は利益の話になった。


「配当はどうなさいますか」


「当面、出さない」


今度は明らかに嫌そうな顔をされた。


「陛下は4割でございますが、私は6割でございます」


「私より多く我慢するな」


「まことにありがたいお話で」


声だけは丁寧だった。


「別に捨てろとは言ってない。第一段階の拡張が終わって、十分な運転資金を置けるまでは商会の中に残す。その後は改めて決める」


「期限ではなく、状態で決めると」


「そうだ。3年と決めて、2年で十分なのに寝かせても意味がない。逆に3年経って足りないなら、無理に抜く必要もない」


俺は机の上の再評価書へ指を置いた。


「今少ない配当を取るより、その金で商会を大きくして、後で多く取れる方がいい」


「陛下は、思っていたより欲がおありですな」


「商人にだけは言われたくない」


マルティンの口元が少しだけ動いた。それで、ようやく出資そのものには同意した。


*


契約をまとめる前に、俺はヘルツナーの倉庫へ行った。2万ターラーを出す相手なのだから、帳簿だけで終わらせる気はなかった。倉庫は王都の商業区にあり、表には商会持ちの荷車が何台も並んでいた。初夏の日差しの下で馬が尾を振り、人足が袋を肩へ担いで出入りしている。奥では樽を転がす音がして、その横を木箱を抱えた男が通った。


俺が来ると、当然ながら何人かの動きが止まった。


「止めなくていい」


そう言っても、完全には戻らない。前にも似たことがあった気がする。王が現場を普段どおり見たいなら、王がいない方が早い。どうしようもない。マルティンに案内されて中へ入る。すぐ目に入ったのは、木箱だった。試し始めた頃に見た箱より小さい。


色々と試行錯誤をしているようだ。


その箱の側面には焼き印で番号が入っている。蓋には荷札を括り付ける場所があり、別の札には荷物ごとの番号が書かれていた。隣では袋物を積んでいる。そちらは箱へ詰め替えていない。


理想はコンテナ化での規格統一だが、今はまだ無理だろう。多額の資金を投じて、一から完全な規格統一を進めるより、運送規模を拡大するほうが先だ。


箱から少し先へ進むと、書記が荷札と帳簿を見比べていた。荷番号の横に、どこで誰から受け取ったか、次に誰へ渡したかが短く記されている。


「ここで破損していたら?」


「受け取る時に確認します。封印のある荷なら、封印が切れていないかも見ます。そこで異常があれば、その区間を受け持った運送人へ確認できます」


「全部の荷で?」


「いいえ。安い荷に人手をかけすぎれば、運賃の方が高くなります」


それもそうだ。少し離れた場所では、荷車の片輪を外して職人が軸を見ていた。別の荷車にはすでに半分ほど荷が積まれ、書記が残りの空きについて商会の御者と話している。少し離れたところでは、外から請けた運送人が次の区間を確認していた。俺はその荷台を見ながら聞いた。


「王領の定期荷を載せるなら、荷番号と引渡記録は必須にしたい」


「可能です」


「重要な書類や高価な物なら封印も。到着したことも確認したい」


マルティンは返事をせず、少しだけ荷台を見た。


「何?」


「同じ扱いを望む民間のお客様には、追加料金を取っても構いませんか」


「……それ、私に聞くことか?」


「王領の荷向けの条件として求められた方法ですので、一応」


「商売になるなら売ればいい」


「では、そういたします」


即決だった。王領の荷を安全に扱いたいと言っただけなのに、もう商品にしている。こういうところは、俺よりずっと商人だ。さらに奥へ進み、中継予定の帳簿を見る。東へ向かう荷だけでも、荷主は複数いる。行きは布や金物、加工品。帰りは別の商人から穀物や原料を取る予定が書かれている。


「この路線、途中の倉庫をもう一つ置けば積み替えを減らせないか?」


「場所によります」


「ここなら――」


地図へ手を伸ばしたところで、マルティンが俺を呼んだ。


「陛下」


「何?」


「その先は、私どもに試させていただけませんか」


手が止まった。


「まだ何も決めてないぞ」


「はい。ですので、そのままお任せください」


2万出すんだけどな。そう思ってから、地図の上に置いていた手を引いた。いや、2万出したからといって、中継倉庫の場所から箱の幅まで全部決め始めたら、それは国王としての仕事じゃない。ただの面倒な大口出資者だ。


「分かった。結果だけ報告してくれ」


「重大な投資でなければ、それでお願いいたします」


「そこは念を押すんだな」


「4割をお持ちになる方ですので」


*


数日後、出資契約がまとまった。2万ターラーは国庫ではなく、王家が保有する財産から出す。取得した4割の持分も王家の資産として保有する。俺個人の財産ではないし、子どもの人数に合わせて4割を分けて相続させる類のものでもない。


出資金の支払いは、振替所を使うことになった。振替所で最初の通常振替を見た時は、184ターラー12グロッシェンだった。今回は2万ターラーだ。1ターラーの基準純銀量は19.5g。純銀量だけで考えても390kgになる。実際の貨幣は品位も種類も混じるから、現物を全部運ぶとなればもっと面倒だ。


振替所の一室で、王家側の残高、ヘルツナー商会の口座、金額、署名、出資契約を確認する。帳簿係が読み上げ、別の担当が照合した。最後に、一方の残高から2万ターラーが減り、ヘルツナー商会側へ同額が増える。それだけだった。荷車は1台も動かない。護衛もいらない。銀貨袋を積み降ろしする人足もいない。


「終わり?」


思わず聞いた。担当者が少し緊張した顔で頷く。


「はい、陛下。記録上の振替は完了しております」


「……便利だな」


自分で作らせておいて今さらだが、184ターラーの時より実感が違った。その担当者が、もう1枚の紙を差し出した。


「手数料の記録でございます」


王家からの振替でも、規定どおり同じ手数料が計上されていた。


「このままでいい。王家だからと変えなくていい」


「承知しました」


ここだけ無料にすれば、出資先を公設の振替所で特別扱いすることになる。最初から同じ条件で通した方がいい。2万ターラーが商会へ入ったあと、マルティンはすぐに支払いの準備へ入った。全部を荷車や馬へ変えるわけではない。日々の仕入れや運賃、賃金を払える現金も残さなければ、前と同じことになる。


振替所を出る前、マルティンから、この資金の一部についてロートマン家へ相談する支払いがあると聞いた。帝国内の遠方にいる取引先への、まとまった支払いだ。振替所を作った頃にヤーコプが話していた資金の置き方が、実際の商売でどう変わるのかは見ておきたかった。俺もその相談に同席することにした。


その日の午後、マルティンの連絡を受けたヤーコプ・ロートマンが王宮へ来た。


「3000ターラーほどを、向こうで受け取れる形にしたいのです」


マルティンがそう言うと、ヤーコプは金額より先に聞いた。


「いつまでです?」


「遅くとも20日以内に」


「相手はファルケン・ターラーで受け取りますか」


「現地の銀貨を望んでいます」


「では、現地で払わせます。こちらから全部の銀を送る必要はありません」


ヤーコプは手元の帳面を開いた。


「向こうからヴァイスブルクへ支払う予定のある商人が何人かおります。その金とぶつけられる分があります」


俺は横から帳面を見る。


「つまり、ヘルツナーが東へ3000ターラー払う。東の別の商人が、こっちへ払う金もある。それをロートマン家の中で合わせて、差額だけ実際に動かす?」


「大まかには、その通りでございます」


ヤーコプは指で2つの欄を示した。


「ただし、期限も貨幣も同じではありません。現地側で不足する分は私どもの取引先へ先に払わせ、こちらで後から受けます。貨幣の交換も必要です」


「当然、ただではやらない」


「はい」


返事に迷いがない。


「送金手数料と、交換する貨幣の差でいただきます」


マルティンが聞いた。


「銀を積んで護衛を付けるより安いか?」


「今回なら、そのつもりで条件を出しております。高ければ、ご自分で運んでいただいて構いません」


「相変わらずだな」


「慈善で銀を動かす家ではございませんので」


あの支払い危機の頃から変わっていない。いや、むしろ分かりやすくて助かる。ヤーコプは振替所を褒めたり、王国の発展を語ったりしない。安く決済できる場所ができたから、自分の銀を支払い用に置いておく量を減らせる。その分を、もっと利益の出る遠隔送金や為替へ回す。商人としては、それで十分なのだろう。


「人も増やすのか?」


俺が聞くと、ヤーコプは少し考えた。


「こちらの振替を扱う者を増やすより、遠方の取引先との書状と帳簿を扱える者を増やした方が利益になると見ています」


「もう決めてる?」


「利益になると分かった仕事を、陛下のお許しが出るまで待つ理由はございませんので」


「それもそうか」


マルティンが小さく息を吐いた。


「陛下。こういう男です」


「知ってる」


ヤーコプは気にした様子もなく、支払い条件の続きをマルティンへ説明し始めた。


*


さらに数日後、財務側から振替所の運営報告が上がった。手数料の見直し案も付いていたので、利用者側がどう動くかを確かめようと、マルティンとヤーコプにも来てもらった。


利用者は試行を始めた頃より増えている。それでも王都の大口商人全員が参加しているわけではないし、小口の日常支払いまで帳簿振替へ移ったわけでもない。直近の集計では、鑑定、保管、振替などから入った手数料が2000ターラー余り。人件費、警備、保管、鑑定人への支払い、設備維持を差し引くと、900ターラーほど残った。


「900か」


口にすると、財務官がこちらを見る。国家歳入は年間600万ターラー規模だ。900ターラーで国が変わるわけではない。


「少ないとお考えですか」


「大きくはないな」


「はい。ただ、今年は運営費を国庫から補填せずに済みます。その上で残った額です」


そちらの方が大きい。作るだけで毎年金を食う制度ではなくなった。


「利用が増えているなら、手数料を少し上げる案もございます」


財務官が別紙を出した。その場に残っていたヤーコプが、紙を見る前に言った。


「上がるのであれば、私どもは振替に回す取引を減らします」


財務官の眉がわずかに寄った。


「王国が人員と保管場所を用意し、その仕組みであなた方も費用を減らしているのでしょう」


「ですから、今も手数料を払っております」


「多少上げたところで、銀貨を運ぶより安い取引も多いはずです」


「その場合は使います。高くなる取引では使いません」


話がきれいだ。協力する、しないではない。得なら使う。損なら使わない。マルティンも口を挟んだ。


「私どもも同じです。振替所が高くなれば、手形や現金輸送と比べます」


財務官は不満そうだが、2人が間違っているわけでもない。彼の仕事は国庫へ入る金を増やすことだ。マルティンとヤーコプの仕事は、自分たちの費用を減らして利益を増やすことだ。俺は手数料案と利用件数を見比べた。前世で税率の話を教える時にも、税率を上げれば必ず税収が同じ割合で増える、なんて説明はしなかった。


取られる側が行動を変えるからだ。振替所も同じだろう。今は参加者が増え始めているところだ。入口で少し多く取るために、使う取引を減らされる方が惜しい。


「今は上げない」


財務官が確認する。


「現行手数料を維持、ということでよろしいでしょうか」


「そうしてくれ。運営費と利用量は引き続き見る。費用が増えれば、その時はまた考える」


「承知しました」


そこまで言ってから、手元の紙を見た。ヘルツナー商会。王家が4割。振替手数料が安い方が、ヘルツナーは得をする。だからこそ、ここで個別の優遇まで混ぜるわけにはいかない。俺は財務官を呼び止めた。


「もう一つ」


「はい」


「ヘルツナーだけ別料金にするのは禁止。王家が持分を持っていても、同じ条件の利用者とは同じ手数料にしてくれ」


財務官が一度、マルティンの方を見る。


「現在も個別減免はしておりません」


「今後もだ。少なくとも、王家の持分があることを理由には変えない」


「承知しました」


マルティンは何も言わなかった。ヤーコプは少しだけこちらを見たが、こちらも口を出さない。振替所の料金を決める側と、ヘルツナーの持分を管理する側は、どちらも最後は俺のところへ上がってくる。だから、個別優遇だけは最初から切っておく。料金を据え置く判断自体は変えない。会議が終わる頃には、窓の外の光が少し傾いていた。


執務室へ戻る途中、ルーカスが次の予定を読み上げる。


「この後は訓練場です。その後、夕食までに署名が必要な書類が3件ございます」


「3件?」


「今朝の時点では2件でした」


「増えてるじゃないか」


「陛下がヘルツナー商会へ出ていらっしゃる間にも、王国は動いておりますので」


それはそうだ。階段を下り、訓練場へ向かう。外へ出ると、紙とインクの匂いがようやく消えた。兵が使っていた木剣の音が聞こえる。俺は上着を近侍へ渡し、用意されていた剣を受け取った。


「では、始めますか」


相手の兵が構える。


「頼む」


剣を上げたところで、さっきまで見ていた帳簿の数字は、いったん頭の隅へ追いやった。


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