第35話
冬のヴァイスブルクは、朝になると屋根の縁や石畳の隙間が白くなる。
雪が積もるほどではない。けれど日陰には薄い霜が残り、王宮の中庭を渡る風も、頬に当たると目が覚める程度には冷たかった。
その中庭へ、リューネンベルク家の馬車が入ってきた。
俺は玄関広間の奥で待ちながら、馬車から降りてくる顔を順に見た。
フリードリヒ選帝侯。エリザベート妃。ヴィルヘルム。そして最後にゾフィー。
会うのは久しぶりだが、手紙はつい最近までやり取りしていた。
だから妙な感じだった。
姿を見れば久しぶりなのに、何をしていたかはだいたい知っている。ゾフィーがこの冬、乗馬の回数を少し減らしていることも、兄のヴィルヘルムが父親について帝国内の会合へ出る機会が増えたことも、向こうでは早めに雪が降ったことも知っていた。
文字で知っていた人間が、急に立体になって目の前へ現れたような気分だ。
「ようこそ、ヴァイスブルクへ」
俺が言うと、フリードリヒが礼を返した。
「お招きいただき、ありがとうございます、陛下」
その後ろで、ゾフィーも裾を整えて頭を下げる。
「お久しぶりでございます、陛下」
陛下。
手紙では、こんな呼ばれ方はしない。
当然といえば当然だ。ここは王宮の玄関で、周囲には近侍も衛兵も両家の随員もいる。俺だって選帝侯家の令嬢を皆の前でいきなり私的な呼び方はしない。
分かっている。
分かっているのだが、それでも少しだけ遠く感じた。
「長旅だったと思う。まずは休んでくれ。正式な話は午後からでいい」
「ありがたく」
フリードリヒが答え、そのまま一行は案内役について奥へ進んだ。
ゾフィーは途中でちらりとこちらを見た。
目が合った。
俺は軽く片手を上げかけて、周囲の視線を思い出して途中でやめた。
……いや、別に上げてもよかった気はする。
国王になってから、こういうところがいちいち面倒になった。
午後の話し合いそのものは、思ったほど長くはかからなかった。
そもそも、婚姻については突然始まった話ではない。俺が王太子だった頃から両家で検討し、本人同士の意思も確認した上で進めてきた。父上が亡くなり俺が即位したことで、確認し直すべき条件はいくつか増えたが、それで婚姻そのものを白紙に戻そうという話ではなかった。
ゾフィーが将来どの程度の随員を連れてくるか。実家との往来をどう扱うか。王妃としての費用をどこから出すか。儀礼上の位置づけ。両家の使節や親族訪問の扱い。
そういった話を一つずつ確認していく。
政治的な意味ももちろんある。
リューネンベルクは選帝侯家で、ウェストリア王家にも近い。ファルケンマルクにとって軽い縁ではない。
ただ、午後の途中から、俺の頭には別のことが引っかかり始めていた。
話し合いの中で何度も出てくるのだ。
ゾフィーがヴァイスブルクへ来た後は。
ゾフィーが王宮で暮らすようになれば。
ゾフィーの部屋は。
ゾフィーの随員は。
当然の話なのに、今までより妙に具体的だった。
話し合いが一区切りしたところで、母上が言った。
「せっかく来ていただいたのですもの。書類の話ばかりでは疲れるでしょう。レオン、ゾフィーに中を案内して差し上げたら?」
「俺が?」
反射的に返してから、しまったと思った。
フリードリヒの前だ。
公的な場では私だった。
母上は気にした様子もなく、「あなたが一番よく使っているのだから」と続けた。
ゾフィーの母であるエリザベートも異論はないようだった。
「お願いしてもよろしいでしょうか、陛下」
そこまで言われれば断る理由もない。
「もちろんです」
結局、俺とゾフィーは王宮の居住区側を歩くことになった。
二人きりというわけではない。少し離れて侍女と近侍がついてくる。けれど午後の会議よりはずっと気楽だった。
「こちらが小評議の時によく使う部屋で、その先が私の執務室です。大きな謁見は別棟ですが、日常の報告はだいたいこの辺りで――」
しばらく説明してから、ゾフィーが足を止めた。
「レオンハルト様」
「ん?」
「お仕事をする場所は、もうかなり分かりました」
「そうか」
「普段は、どちらで過ごされるのですか?」
俺は廊下の先を見た。
「……普段?」
「はい。お食事をしたり、ご家族とお話しになったり、本を読んだり」
言われてみれば、そこをほとんど説明していなかった。
俺がここ数年で王宮内を移動する目的は、政務、訓練、食事、睡眠、それから馬だ。何かを説明しろと言われると、どうしても仕事の場所から出てくる。
「食事は家族用の食堂を使うことが多い。毎回全員揃うわけじゃないけどな。母上やマティルデ、ハインリヒとはそこで会うことが多い。私室はこっちだ」
「最初からそちらを教えていただいた方が、私には分かりやすかったかもしれません」
「……確かに」
王宮案内と言われて執務室から始めるあたり、我ながら仕事に寄りすぎている気はする。
その日の夕食は、昼間よりかなり人数を絞った。
母上と俺、マティルデ、ハインリヒ。それにリューネンベルク家の4人だ。
正式な晩餐ではないので、卓上の料理も儀礼用に何皿も並べるようなものではない。温かいスープとパン、肉料理に根菜、あとは冬でも保存の利くものが中心だった。
席についてしばらくは、母上とエリザベートが昔の親族訪問の話をしていた。二人とも生家を離れて別の家へ嫁いだ女性だ。俺には分からない種類の共通話題があるらしい。
マティルデはゾフィーに、リューネンベルクの冬について聞いていた。
「こちらより雪は多いんですか?」
「多い年は。けれど毎年同じではありません。今年は少し早かったです」
「馬には乗れる?」
「道が凍っていなければ」
そこへハインリヒが口を挟んだ。
「兄上は雪があっても乗ろうとします」
「おい」
「去年も止められてた」
「凍っている日に乗ろうとしたわけじゃない」
「雪の日だった」
「雪が降っているのと、道が凍っているのは別だろ」
ハインリヒは納得していない顔だった。
向かいを見ると、ゾフィーが俺を見ている。
何か言いたそうだ。
「……何だ?」
「お手紙で、冬でも馬に乗られると書いてあったので」
「ほら、普通だ」
「普通とは申し上げていません」
マティルデがスープを飲みながら肩を揺らした。
母上は会話を止めずにパンを切っている。
こういう食卓にゾフィーがいるのは初めてなのに、思ったより奇妙ではなかった。
もちろん客ではある。皆、それなりに気を遣っている。けれど昼間の会議ほど言葉を選んではいない。
ゾフィーも最初は母上に話すことが多かったが、そのうちマティルデやハインリヒへ話す回数が増えていった。
誰か一人が長く話し続ければ、次に口を開こうとしていた者を見る。ハインリヒが話へ入り損ねれば少し待つ。母上が黙っている時には無理に話題を振らない。
そういう細かな動きが目についた。
俺は食事をしながら、昼間とは別の意味で彼女がここにいることを考えていた。
婚姻すれば、ゾフィーはたまに訪ねてくる客ではなくなる。
この食卓へ座る側になる。
俺と結婚するというのは、俺一人と暮らすというだけではない。
母上も、マティルデも、ハインリヒもいる。
当たり前のことなのに、なぜか今までそこまで具体的には考えていなかった。
翌日は朝からよく晴れた。
風は冷たいが、前日に心配していたほど道は凍っていない。日が少し高くなった昼前、王宮厩舎へ向かった。
ゾフィーがトラウムライゼを見たいと言ったからだ。
「この馬が、トラウムライゼですか」
厩舎の中で、ゾフィーが少し顔を上げた。
トラウムは人の話などどうでもいいという顔で干草を噛んでいる。
「そう。長距離の後でも脚が残るし、翌朝の回復も早い。気性は……まあ、素直とは言いにくい」
「その話も聞きました」
「そうだったか?」
「鞍を変えた時に嫌がったことも、知らない騎手だと露骨に態度が違うことも」
たしかに、手紙で書いた気がする。
「かなり詳しく書かれていました」
「馬の話だからな」
「はい。それも分かりました」
何が分かったのかは聞かないことにした。
トラウムの鼻先へ手を出すと、匂いを確認してからこちらの袖へ顔を寄せてきた。ゾフィーも少し離れた位置から手を差し出す。
トラウムはこちらを見た。
俺の許可を取っているわけではないだろうが、そう見える。
「大丈夫だ」
ゾフィーの手の匂いを嗅ぎ、今度は興味を失ったように干草へ戻った。
「歓迎されたのか分かりませんね」
「嫌ならもっと分かりやすい」
「では、良い方なのですね」
その後、短い距離だけ馬に乗ることになった。
ゾフィーは自分の乗馬用の馬を連れてきていた。旅程用の馬とは別に連れてきたと、厩舎の者から聞いている。冬の地面を見ながら、まずはゆっくりと王宮近くの道を進む。
供の者も後ろについている。
しばらくは普通に話していた。
ところが帰り道、道幅が少し広くなったところで、ゾフィーの馬が前へ出た。
「少しだけ、速くしても?」
「この先の標木までなら」
俺が答えると、ゾフィーは頷いた。
軽く走るだけだ。
そう思っていた。
トラウムを出す。
ゾフィーの馬が先に速度へ乗った。
少し前に出る。
……いや、待て。
相手は婚姻交渉中の令嬢だぞ。
ここで本気になる必要はない。
そう思ったところで、トラウムがさらに前へ出た。
俺も止めなかった。
標木の手前で並び、そのまま少しだけこちらが先に出る。
そこで手綱を抑えた。
「……大人げない」
口から出た。
「何がですか?」
「いや」
前世を含めれば、とっくに大人どころではない。
それでも競走になると追ってしまうらしい。
ゾフィーは息を整えながらこちらを見た。
「手加減されるよりはいいです」
「そういう問題か?」
「少なくとも、負けても納得できます」
その言い方は嫌いではなかった。
馬を歩かせ、呼吸を戻す。
しばらくして、ゾフィーが言った。
「そういえば、カブは本当に試されたのですね」
「ああ」
「手紙を読んで驚きました。あれは、伯父の国ではそういう農場もあるという話をしただけだったので」
「分かってる。別にゾフィーが農業政策を提案したと思っているわけじゃない」
「それなら安心しました」
「収穫まではできた。牛と羊も食べた。そこまでは確認できた」
「では、成功ですか?」
「まだ分からない。冬を越す家畜が増えるか、干草や藁がどれだけ減るか、糞肥が増えるか、その後の畑がどうなるか。見たいのはその先だ」
ゾフィーは少し考えるように前を見た。
「結果が出るのは、ずいぶん先なのですね」
「農業だからな」
作物も家畜も、こちらの都合で早送りはしてくれない。
前世なら数字を入力して次の年へ進めるゲームもあったが、今は本物だ。冬が終わるまで冬越しの結果は出ないし、次の作物は蒔いて育てなければ分からない。
当たり前だが、待つしかない。
王宮へ戻った後、俺たちは小さな居間で温かい飲み物を出してもらった。
侍女と近侍は同じ部屋の端にいるが、会議ほど堅い空気ではない。
午前の乗馬の続きを話しているうちに、話題は自然と婚姻後のことへ移った。
最初は俺からだった。
「昨日の話し合いでも出ていたけど、こっちへ来た後に使う部屋は、王妃用の区画を手直しすれば問題ないと思う。必要な使用人については、そちらから連れてくる者とこちらで付ける者を分ければいい。儀礼関係は母上が一番詳しいし、最初から全部を任せる必要も――」
そこまで話したところで、ゾフィーがこちらを見た。
「レオンハルト様」
「ん?」
「そのお話は、とてもありがたいです」
一拍置いた。
「ただ、ひとつ聞いてもよろしいですか?」
「もちろん」
「レオンハルト様は、普段どのくらいそこにいらっしゃるのですか?」
「そこ?」
「私が使う部屋です」
少し考えた。
「……結婚した後なら、普通に行くだろ」
「どのくらい?」
今度はすぐに答えられなかった。
どのくらいと言われても困る。
朝は訓練することがある。午前から政務が入る。昼も予定次第で変わる。午後も会議や報告がある。夜まで書類を読むことも珍しくない。
「日によるな」
「そうですよね」
ゾフィーは責めるようには言わなかった。
「私は、こちらへ来れば王妃になるのだと思います。けれど、それだけではなくて、レオンハルト様と暮らすのですよね」
その言葉で、ようやく分かった。
俺はずっと、ゾフィーがヴァイスブルクへ来た時に困らないようにする話をしていた。
部屋。
使用人。
儀礼。
役割。
仕事。
必要なものを配置していく話だ。
けれど、その中に俺自身がほとんど入っていなかった。
人事表を作っているんじゃないんだぞ、俺は。
「……確かに、その話はしてなかったな」
「はい」
「ゾフィーは、どうしたい?」
「どう、とは?」
「こっちへ来ても、続けたいこと」
今度はゾフィーが黙った。
俺は待った。
考えてみれば、俺は結婚してもほとんど何も失わない。
ここにいる。
国も変わらない。王宮も変わらない。母上も、マティルデも、ハインリヒもいる。トラウムもいる。仕事もそのままだ。
ゾフィーは違う。
リューネンベルクを離れる。
父親と母親と兄から離れる。慣れた屋敷も、普段一緒にいる人間も、乗っている道も変わる。
婚姻という言葉は両方に同じようにかかるのに、実際に動く距離は全然違う。
やがてゾフィーが口を開いた。
「家族への手紙は、今まで通り書きたいです」
「もちろん」
「毎年でなくても構いません。時々は帰りたいです。こちらの都合もあると思いますが」
「それも問題ない。日程は相談になるけど、帰れない理由はない」
「馬にも乗りたいです」
「それは俺も困らない」
むしろ歓迎だ。
「それから、今いる侍女のうち何人かは、一緒に来てほしいです。知らない場所で、周りまで全員知らない人になるのは……少し不安なので」
「それは昨日の話し合いでも出ていた。人数を決めれば大丈夫だと思う」
ゾフィーはそこで、手元の杯へ視線を落とした。
「王妃として必要なことは覚えます。でも、最初から全部できると思われるのは困ります」
「それは母上も分かっていると思う。俺だって即位した日に全部できたわけじゃない」
今でもできているかと聞かれれば、怪しいものはいくらでもある。
「それと……」
「まだある?」
「あります」
言い切られた。
「食事の時まで、ずっとお仕事をされるのは困ります」
「俺、そんなことすると思われてる?」
ゾフィーは少し考えた。
「しないのですか?」
即答できなかった。
さすがに食事中に書類を広げることは多くない。
多くないが、頭の中で考えていないとは言えない。
それに、忙しくなれば「食べながらでいい」と言い出す自分は簡単に想像できた。
「……毎回はしない」
「毎回、というお話ではありません」
「分かってる」
分かっている。
たぶん俺は、放っておくと私生活へ仕事を持ち込む側だ。
前世でもそうだった気がする。試験前や行事前になると、家へ帰っても授業や採点のことを考えていた。今は仕事の量も責任も桁が違う。
だから余計に、意識して線を引かないと全部仕事になる。
「努力する」
「そこも努力なのですね」
「確約して破るよりいいだろ」
「それは、そうかもしれません」
俺は杯を置いた。
「じゃあ、今度は俺からでいいか?」
「はい」
と言ったものの、何を求めるのか考えていなかった。
王妃に求めるものならいくらでも並べられる。
儀礼を理解する。宮廷での人間関係を扱う。外国使節や王侯家との応対をする。家族を持つ。必要なら俺の不在時に一定の役割を担う。
でも、それは妻に求めることとは少し違う。
しばらく考えてから言った。
「分からないことを、分かったふりはしないでほしい」
ゾフィーがこちらを見る。
「俺も全部分かるわけじゃない。だから、分からなければそう言ってほしい。それと……俺の考えに納得できない時は、そう言ってほしい」
「国王に、ですか?」
「俺に」
「同じ人ですよね」
「それはそうなんだけど」
難しいところを突いてくる。
俺が国王なのは家へ帰っても変わらない。妻だけが都合よく肩書を消せるわけではない。
「でも、夫婦になってまで全部『陛下のお考えですから』で終わったら困る。俺が変なことをしていたら、変だと言ってほしい」
ゾフィーは少し黙った。
それから聞いた。
「言ったら、聞いてくださいますか?」
今度は俺が黙る番だった。
聞く、と格好よく即答することはできる。
ただ、自分が正しいと思っている時の俺が、素直に引くかと言われると自信がない。
少なくとも、競走になると相手が婚姻相手でも本気で追う程度には負けず嫌いだ。
政策ならなおさらだろう。
「……聞く努力はする」
「やはり努力なのですね」
「さっきと同じだ。守れない約束よりはいい」
ゾフィーはしばらくこちらを見ていたが、やがて「分かりました」と言った。
それ以上は続けなかった。
何でも今ここで決める必要はないのだと思う。
実際に一緒に暮らしてみなければ分からないことの方が多い。
父上と母上だって、最初から何十年も一緒に暮らしていたわけではない。
翌日の午前、両家で最後の確認が行われた。
前日までに大きな条件は整理されていたので、長い会議ではなかった。
俺の側には母上と王家の担当者が付き、リューネンベルク側にはフリードリヒとエリザベートがいる。ゾフィーも同席していた。
父上はいない。
そのことだけは、どうしても目に入った。
俺が王太子のままだったなら、この席の中心には父上がいたはずだ。
今は母上がいる。そして、最終的に答えるのは俺自身だった。
必要な確認が終わったところで、母上が俺を見る。
「レオン」
公の会議より少し柔らかい声だった。
「あなた自身の意思を、もう一度聞きます。この婚姻を進めることでよいのですね」
正式な婚姻交渉へ進む前にも、同じことを聞かれた。
あの時も俺は、自分の意思で進めると答えた。
今回は、少しだけ答えの中身が違う。
家格が合うことも、選帝侯家であることも、ウェストリアとのつながりも大事だ。王の婚姻から政治を取り除くことはできない。
けれど、それだけでもなくなった。
一昨日は家族と食事をし、昨日は馬に乗った。
向こうが残したい生活を聞いた。
俺が何を望むのかも話した。
全部が分かったわけではない。
むしろ、分からないことが多いと分かったくらいだ。
それでも、答えは迷わなかった。
「はい。それでお願いします」
続いてゾフィーにも意思が確認された。
俺は彼女の顔を見た。
何を考えているのかまでは分からない。
ただ、問いかけを最後まで聞いてから、はっきりと答えた。
「はい。私も望みます」
その後は、形式に沿って両家の合意が確認され、必要な書面への署名も済んだ。証人が名を連ね、今後の婚礼時期については改めて調整することになった。
それで、俺とゾフィーは正式な婚約者になった。
驚くほど、何かが劇的に変わったわけではない。
部屋の外へ出れば、近侍はいつも通り動いている。午後には午後の予定がある。明日になれば政務も訓練もある。
それでも、前とは違う。
夕方、自室へ戻ると、机の上には朝から残っていた報告書が置かれていた。
手を伸ばしかけたところで、扉が叩かれる。
「陛下、夕食のお時間です」
ルーカスの声だった。
いつもなら、あと少しだけと言って1枚くらい読むこともある。
報告書を見る。
昨日の会話を思い出す。
……婚約したその日に、食事より仕事を優先するのも何か違う気がする。
「分かった。今行く」
書類を机へ戻し、立ち上がった。
廊下へ出てから、ふと気づいた。
婚約者。
ゾフィーが、俺の婚約者になった。
言葉にすると、ようやく少しだけ現実味があった。




