第33話
西部からの返書が揃い始めた頃には、窓を開けた時の風から、夏の盛りの重さが少し抜けていた。
机の上には、東部で見た倉の記録、西部から届いた控え、それにケラーが別の王領の倉から拾ってきた帳簿の抜き書きが並んでいる。紙の量は増えたが、最初に知りたかったことは、まだきれいな答えになっていなかった。
「埋葬の差は、まだ分からないか」
「はい。保存中の損失が少ない地域ほど埋葬の増え方も小さい、とまでは言えません。備蓄、外から買えた穀物、救貧、家ごとの蓄え、記録の抜けが重なっています」
「そこは無理に1つへ絞らなくていい」
同じような不作と穀物高でも死者の増え方が違った理由は、まだ分からない。そもそも原因が1つである保証もない。
最初は、比較すればもっと分かりやすい差が出るかもしれないと思っていた。片方だけ大きな備蓄庫があるとか、外から穀物を入れやすい道があるとか、救貧の仕組みが明らかに違うとか。実際には、そんなに都合よく線を引けなかった。
だが、全部が分からないわけでもない。
ケラーが別の紙をこちらへ寄せた。
「埋葬とは切り離して見た方がよいものがありました。王領側で管理している穀物です」
「倉か」
「はい。直営農場から入った分や現物納、備蓄へ回った分のうち、入庫した量と、その後に払い出し、種用、廃棄へ回った量を追える倉だけを見ています」
紙の端には、湿気、黴、鼠、虫、乾燥不足といった注記が並んでいた。帳簿によって書き方は違う。単に「傷み」とだけ書かれたものもあれば、鼠に食われた袋の数まで残しているものもある。
ケラーが西部側の1枚を指した。
「この倉では、入庫した穀物に対して、保管中の傷みで廃棄へ回る分が少ない年が続いています」
「倉に入った量が少なくて、置き場に余裕があった年だけじゃなく?」
「違います。入庫量が多い年にも同じ傾向があります。記録の取り方が変わった年は除きました」
「じゃあ、何が違う?」
「大きな違いは見つかりませんでした」
ケラーはもう1枚の紙を開いた。
「倉へ入れる前によく乾かす。天気のよい日は風を通す。積んだままにせず、傷みがないか確かめる。怪しいものは早めに分ける。鼠が入る場所があれば塞ぐ。床が地面から離れている倉もありますが、これは建物そのものの違いです」
「……それだけ?」
「少なくとも、帳簿と報告から拾えるのはその程度です」
拍子抜けするくらい普通だった。
乾かす。見る。悪いものを分ける。鼠を入れない。
前世でも、食品を長く置くなら当たり前と言えば当たり前だ。この世界でも、別に誰も知らない知識ではない。東部の倉だって穀物は乾かしていたし、鼠を見つければ捕る。悪くなったものをわざわざ一緒に残しておくわけでもない。
違うのは、それをどこまで丁寧にやるかだった。
「全部を同じ倉でやってるわけじゃないんだな」
「はい。乾燥をかなり気にする倉もあれば、保管中の確認を細かく行う倉もあります。鼠への対処が早いところもあります」
「逆に、損失の多い倉は何もしてない?」
「いえ。乾燥もしますし、鼠も捕ります。ただ、収穫が重なると十分に乾かさないまま入れる例や、傷みを見つけるまで長く積んだままにする例がありました」
ケラーが西部から来た報告をめくる。
「ここでは、収穫後すぐ倉へ詰め込まず、天候を見ながら乾かした後に入れることが管理人の仕事として書かれています。別の王領では、保管中に傷みを見つけた場合、同じ山へ戻さず別に置く記録が残っています」
どちらも、新しい道具を作ったわけではない。
昔からある倉と、そこにいる人間の仕事の仕方だ。
「人手を多く使ってるだけ、という可能性は?」
「そこも見ました。確認や積み直しが増える倉はあります。ただ、常に多くの人を置いているわけではありません。入庫時の乾燥を丁寧にした結果、後で傷んだ穀物を選り分ける手間が減っている例もあります」
「金を掛ければ減る、だけじゃないんだな」
「今ある記録からは、そう見えます」
俺はもう1度、廃棄の記録を見る。
畑を1枚増やさなくても、同じ収穫から捨てる分を減らせれば、人の口へ届く量は増える。
1つの倉なら小さな差だ。だが、同じことが各地で毎年起きているなら、話は変わる。
それに、これはカブより早く結果が見えるかもしれない。
カブは、育てて、実際に家畜へ食わせて、冬を越した家畜がどうなるかを見て、その先の糞肥や次の作物まで追いたい。まともに見ようとすれば季節が必要だ。
倉なら、今年入れた穀物がその後どれだけ残るかは、もっと早く比較できる。
「すごい倉が1つあるわけじゃないんだな」
「今のところは」
「でも、良いやり方はもう国内にある」
「はい」
それなら、一から考える必要はない。
カブは、前世の知識から試す価値の高い方向を知っていた。こっちは違う。すでにうまくやっている場所から、使えるものを拾えばいい。
もちろん、倉を丸ごと同じにする話ではない。建物も湿気も人手も違う。床そのものを高くするなら工事が要るし、風の通り方だって建物で変わる。
だが、よく乾かしてから入れることや、保管中に時々確かめることまで土地固有の事情とは言えない。
「カスパル。王領側が管理している倉なら、こういうやり方を試せるか」
少し離れた席で資料を読んでいたカスパルが顔を上げた。
「何を揃えるかによります。床を全部作り直す、建物を建て替えるとなれば別ですが、入庫前の乾燥、保管中の確認、傷んだ穀物の分離、鼠穴や戸口の補修程度なら、王領管理の役人を通じて指示できます」
「一律に何日乾かせとか、何日に1回見ろとかは決めない方がいいな」
「私もそう思います」
王都で数字だけ決めても仕方がない。雨が続く場所と晴れが続く場所で同じ日数にする意味はないし、その数字を守ること自体が仕事になったら本末転倒だ。
「ケラー。始める前の損失を追えそうな倉を選べるか」
「選べます。同じ基準で何年も揃うところは多くありませんが」
「多くなくていい。まず比べられるところでやる」
ケラーは紙の端に書き込んだ。
「では、東西からいくつか候補を絞ります。廃棄量だけでなく、湿気、鼠害、入庫時の傷みなど、分かる理由も分けて残してもらいます」
「新しい帳簿を何冊も増やす必要はないからな」
「はい。今ある記録で取れるものは、そのまま使います。足りないところだけ追加します」
カスパルが聞いた。
「王領以外の倉へは、どうされますか」
「今は何もしない。まず、こちらから指示できて数字も追える倉でやる。本当に捨てる量が減るなら、その時に広げ方を考える」
「承知しました」
貴族の倉も、町の倉も、教会の倉もある。そこまで国王だからと直接やり方を変えさせるつもりはない。
ただ、王領で数字が出れば、話はしやすくなる。
「建物に問題があるところは、補修で済むものと大きな工事が必要なものを分けてくれ。良いやり方を広げるために国中の倉を建て替える、では困る」
カスパルの口元がわずかに動いた。
「その場合は、財政側が先に止めると思います」
「それなら安心だ」
安心していいのかは少し怪しいが、誰も止めないよりはいい。
「運用で変えられる部分を先にします。乾燥させる場所そのものが足りない、床が傷んでいる、といった設備側の問題は分けて上げます」
「頼む」
王領なら、失敗しても国王の命令で始めた試行として処理できる。費用も記録もこちらで持てる。農民の食料をいきなり賭ける必要はない。
カブと同じで、まず自分の側で試せばいい。
ただし、今回はこちらが方法を考えたわけではない。
「うまくやってる倉の管理人にも聞けるか」
ケラーが顔を上げた。
「可能です」
「帳簿に書いてあることだけじゃなくて、実際に何を気にしてるのかも聞いてみてくれ。乾かし方でも、見回る時でも、文章に残ってないやり方があるかもしれない」
「分かりました。作業を増やしたことで困っていることがないかも確認します」
「それも頼む」
良いやり方でも、毎年続けられなければ意味がない。
カスパルが手元の紙へ何か書き足した。
「実施する倉にも、結果だけでなく現場側の負担を上げさせましょう。陛下の命令だから続けているだけでは、他へ広げる時に困ります」
「うん」
その言葉に、少しだけ父上を思い出した。
俺が何か案を出すたび、父上はよく「誰がやる」と聞いた。
当時は、案の中身を聞く前にそこか、と少し不満に思ったこともある。今なら分かる。やる人間が決まらない案は、紙の上から動かない。
ただ、そこで父上ならどうしたかを考え続けても仕方がない。
今は俺が決める側だ。
ケラーが次の紙を見た。
「東部の直営農場からは、カブの発芽について短い報告が来ています」
「どうだった?」
「芽は出始めた、とだけです。まだ収量を見られる段階ではありません」
「なら、それだけでいい」
見に行きたい気持ちはある。かなりある。
前世で知っていた農法につながる作物が、本当にこの国の畑から芽を出したのだ。写真でも教科書でもなく、自分で試すと決めた区画で出ている。
見たいに決まっている。
ただ、芽が出たと聞くたびに国王が馬で現れていたら、農場監督の方が仕事にならない。
「予定どおり現地で続けてもらえ。大きな問題が出た時だけ上げてくれればいい」
「承知しました」
カスパルが資料を閉じる。
「実施先の選定に必要な記録はケラーから受けます。王領側への指示はこちらで組みます。陛下へ次にお上げするのは、実施先と費用が分かれてからでよろしいでしょう」
「それでいい」
「記録の取り方は私が先にまとめます」
ケラーが続けた。
「いつから始められる?」
今度はカスパルへ聞く。
「簡単な運用変更なら、次のまとまった入庫から間に合う倉があります。補修が必要なところは別です」
「じゃあ、間に合うところから。全部揃うまで待たなくていい」
「承知しました」
そこまで決まると、話は細かい実務へ移っていった。
どの倉なら過去の数字が使えるか。どこは補修費の見積もりが要るか。管理人への指示は誰を通すか。どこまでを今の帳簿へ書き足せるか。
俺が口を挟まなくても、ケラーとカスパルの間で話が進む。
ケラーは比較できる形を考え、カスパルは実際に動かす順番を考える。倉の管理人は、現場で乾燥や確認をする。
誰が何をするかまで決まると、机の上にあった話が急に俺の手から離れていく。
不安より、少し楽になった感じの方が強かった。
東部のカブも同じだ。芽が出た後に、俺が畑へ立ち続ける必要はない。次に必要なのは、育ったか、使えたか、どれだけ手間が掛かったかという結果だ。
そこまで決まれば、今ここで俺が握っておくものはない。
2人に任せるために呼んだのだから、それでいい。
それでも、2人だけで話が進んでいるのを見るのは、まだ少し妙だった。
父上の執務室では、最後は父上が決めた。俺が口を挟んでも、カスパルたちが話し合っても、最後に上がる先は父上だった。
今は、そこに俺が座っている。
王になってから何度も同じようなことをしているのに、全部が一度に当たり前になるわけでもないらしい。
「陛下」
横からルーカスの声が入った。
「何だ」
「次のご予定まで、あまり間がございません」
机の端の予定表を見る。
「まだ余裕あるだろ」
「着替える時間を入れれば、です」
「ああ」
今日はこの後、訓練だった。
「こちらは進めておきます」
カスパルが立ち上がり、ケラーも紙を集める。
2人が退出した後、机にはまだ資料が残っていた。だが、今すぐ俺が続きを書く紙ではない。
こういう終わり方には、まだ少し慣れない。
「陛下」
「分かってる。行く」
ルーカスは何も言わず、先に扉を開けた。
*
訓練用の部屋へ入ると、いつもの鉄と油の匂いがした。
重りを付け替えられる鉄棒と支持台、長椅子を置くようになって、もう何年も経つ。最初の頃は鍛冶職人へ説明するだけでもひと仕事だったが、今では留め具や木部が傷めば直して使う、王宮のいつもの設備になっている。
上着を脱ぐと、ルーカスが受け取った。
「今日は下半身からやる」
「承知しました」
補助についている男が、棒の両端と留め具を確かめる。
最初は軽い重りで身体を動かした。
棒を背に担ぎ、足を決める。息を吸い、しゃがみ、立つ。
数回繰り返して戻す。
15歳で始めた頃より、今の身体の方がずっと扱いやすい。身長の伸びはそろそろ落ち着いてきたが、肩や胸はまだ少しずつ厚くなっている。
前世の身体を基準に考えることも減った。
今はもう、この身体で何年も鍛えてきた感覚の方が先に来る。
少し休んでから、いつもの重量へ増やす。
今度はさっきより深く呼吸を整え、腹に力を入れてからしゃがむ。
立つ。
もう1回。
後半になると腿の奥が熱くなり、立ち上がる速度が少し落ちた。
最後まで崩れずに終え、棒を支持台へ戻す。
「よし」
息を吐く。
ルーカスが杯を差し出してきた。
「水をどうぞ」
「ありがとう」
受け取って飲む。
水が喉を通る間に、補助の男が重りを確認している。
もう1段増やすか少し迷ったが、今日は最大重量を試す日でもない。
同じ重さでもう1セット続ける。
最後の1回は少し遅くなった。それでも腰は崩れず、棒を戻せた。
肩を回していると、ルーカスがこちらを見た。
「右肩は、今日は大丈夫ですか」
「問題ない。前回は張ってただけだ」
「それなら結構です」
前回、上着を着る時に少し動かしにくそうにしていたのを覚えていたらしい。
痛めたわけではない。ベンチプレスを少し多めにやって、翌日まで張っていただけだ。
ルーカスはそれ以上何も言わなかった。
スクワットを終え、次はベンチプレスへ移る。
長椅子へ仰向けになり、棒を握る。補助が位置についたのを確かめてから外し、胸元まで下ろして押し返す。
単純な動きだが、調子はすぐ分かる。
最初の数回が軽くても、最後まで同じように上がるとは限らない。
何セットか繰り返すと、胸と腕に重さが残った。
休憩中、ルーカスは訓練へ口を出さず、壁際で予定表を確認している。
俺が杯を置くと、それを受け取って別のものと交換した。
こういうことを何年も続けている。
終わった後にどれくらい着替えへ時間が要るか、食事前に汗を流す余裕があるか、翌日に予定が詰まっているか。
「あとどれくらい時間がある?」
「今の予定どおりでしたら、デッドリフトを終えても余裕はあります」
「じゃあ、そのままで」
「はい」
床に置いた棒の前へ立つ。
握り、背中を固め、床を押すように立つ。
これは疲れてくると分かりやすい。
重りが床から離れた瞬間に、今日の残りの体力がどれくらいあるか大体分かる。
最初のセットは軽い。
次は少し重い。
最後のセットでは、棒が膝を越える辺りで一瞬だけ速度が落ちた。
それでも立ち切る。
床へ戻した時には、手のひらも背中も熱くなっていた。
「今日はここまで」
補助の男が重りを外し始める。
俺は少し離れて歩き、息を整えた。
国王が政務の合間に鉄の棒を持ち上げる必要があるのかと言われれば、別にない。
戦場なら身体強化もあるし、俺1人の筋力で国が強くなるわけでもない。
それでも、これは好きで続けている。
持ち上がらなかったものが持ち上がるようになるのは単純に気分がいい。記録が伸びれば嬉しいし、伸びなければ少し悔しい。
それに、筋肉はないよりあった方がかっこいいしな。
そこは前世から変わっていない。
「この後は剣だったか」
「短い型稽古だけです。夕食前に時間を取っております」
「まだ余裕あるな」
「ございます」
ルーカスが予定表を閉じる。
「ただ、ここから書類を見始める余裕ではありません」
「見ないよ」
「それなら結構です」
即答された。
汗を流し、着替えてから、軽い剣を取る。
今日は相手をつけない。
筋トレの後なので、脚には少し重さが残っている。その状態で足運びと踏み込みを繰り返す。
1度。
2度。
身体強化を薄く掛けると、床を蹴る力が増して、身体が前へ出る。
速くなる分、足の位置が少しずれるだけで剣先も揺れる。
一度止め、踏み込む位置を直す。
もう1度。
今度はさっきよりましだった。
身体強化は便利だ。
だが、便利だからこそ、使い続けると素の筋力が伸びなくなる。
何度か繰り返し、剣先が大きくぶれなくなったところで切り上げる。
もっと続けようと思えばできる。
だが、今日はこれで十分だ。
「終わり」
「承知しました」
ルーカスが布を渡してくる。
汗を拭きながら、ふと思い出した。
「夕食の後、ゾフィーへの返事を書く。前の手紙を出しておいてくれ」
「それでしたら、机の右側へ出してあります」
「ありがとう」
「今朝、今日は返事を書かれると伺いましたので」
そういえば言った。
ケラーの資料を見始めてから、完全に頭から抜けていた。
ルーカスは次に着る服を確かめながら続けた。
「ただ、夕食後は別の者が付きます。私は今日は夕方で交代です」
「ああ、そうなのか」
「前に東部へ出た日に、家で食事をする予定を1度延ばしましたので、今日は顔を出してまいります」
そこで思い出した。
「あの視察か。悪かったな」
「いえ。あれはご視察でしたから」
ルーカスはいつもどおりの調子で答えた。
「今日は交代も済ませてありますので、予定どおり上がらせていただきます」
「分かった。行ってこい」
「ありがとうございます」
俺の予定表には、ルーカスが仕事を終えた後にどこで食事をするかなんて書いていない。
当たり前だ。
朝から夜まで俺の予定を動かしている姿ばかり見ていると、ついその先を考えなくなる。
ルーカスが休みの日もあるし、別の用事で外れる日もある。俺が寝ている間まで横に立っているわけでもない。
それでも、何か予定が分からなければルーカスに聞けばいい、と思うことが増えていた。
「俺が王になってから、前より帰りにくくなってないか?」
ルーカスは少し考えた。
「忙しくなった日は増えました。ただ、それは陛下だけではありません。代替わりの後ですから」
「交代は取れてる?」
「はい。今夜のように」
「俺が急に呼ぶことも増えただろ」
今度は、すぐには答えなかった。
「以前よりは」
「やっぱりか」
「急ぎの御用でしたら、お呼びください」
「そういう時は呼ぶよ」
「はい」
困っているようには見えない。
だからといって、俺の都合で予定を変えさせるのが何でもないわけでもない。
そのくらいは覚えておいた方がいいだろう。
「今日はゆっくりしてこい」
ルーカスの表情が少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます」
*
部屋へ戻る途中、廊下の角で別の近侍が待っていた。
何度か俺の身の回りについている若い男だ。顔は覚えているが、ルーカスほど話す機会はない。
ルーカスが足を止める。
「夕食後は書斎へ行かれると思います。机の右側の手紙が先です。政務書類を追加でお持ちする必要はありません。急ぎなら担当側から上がります」
「はい」
「夜の呼び出しは通常どおりで構いません。陛下から特にお申し付けがなければ、朝まで私へ回す必要はありません」
若い近侍が手帳へ書き込む。
「承知しました」
「着替えは用意してあります。夕食の時間だけ遅れないように」
「はい」
俺は横から口を挟んだ。
「ずいぶん念入りだな」
ルーカスはこちらを見た。
「先月、私が半日外れた時に、同じ書類が2度届きましたので」
「ああ、あれか」
一度見た書類が、別の束に混じってもう1度机へ来たことがあった。
大した事故ではない。俺も途中まで気づかず、同じ内容を読み直した。
「今日は大丈夫です」
ルーカスが若い近侍を見る。
相手は少し緊張した顔で頷いた。
「承知しました」
「そんなに固くならなくていい。俺も途中まで気づかなかったから」
若い近侍が一瞬こちらを見て、頭を下げる。
「はい。次は確認いたします」
「頼む」
それで話は終わった。
ルーカスも何も付け足さない。
こういう小さな失敗も含めて、引き継ぎ方を覚えていくのだろう。
先月は同じ書類が2度来た。今日は、その話がもう引き継ぎの注意点になっている。
俺が細かく指示しなくても、こうして次へ残るものがある。
話し終えると、ルーカスがこちらへ戻ってきた。
「では陛下、私はこれで失礼いたします」
「うん。行ってこい」
「はい」
ルーカスは頭を下げ、そのまま廊下の先へ歩いていった。
代わりの近侍が、少し間を置いて声をかけてくる。
「陛下。お着替えを」
「ああ、頼む」
居室へ戻り、用意されていた服へ着替える。
いつもなら、その間にルーカスが夕食後の予定をもう1度確認することが多い。今日は別の声が同じように予定を読み上げた。
少しだけ変な感じがする。
ただ、困りはしない。
近侍が襟元を整え、一歩下がった。
「こちらでよろしいでしょうか」
「うん。ありがとう」
机を見ると、右側には言われたとおりゾフィーの手紙が置いてあった。
その横に、今日の会議で使った保存損失の資料はない。
あれはもう、ケラーとカスパルが持っていった。
俺は椅子へ座り、まずゾフィーの手紙を開いた。




