第32話
机の上に並んだ紙は、前に見たときより少しだけ厚くなっていた。エルンスト・ケラーは束の端を揃えてから、東部と西部の王領を1つずつ指した。
「どちらも埋葬記録と収穫報告が比較的長く続いています。備蓄は年によって欠けますが、全く追えないわけではありません。救貧については、東部は教会側、西部は町と領側の記録が中心ですので、同じものとしては扱っておりません」
「それでいい。無理に1つの表へ押し込むよりましだ」
「比較できない」という注記もいくつか残っていた。消さずに残してある方がいい。無理に数字を揃えれば、違うものまで同じに見える。
「先に東を見る。王都から近いし、追加で確認するにも動きやすい」
「承知しました」
東部側の記録をめくっていると、見覚えのある文言が目に入った。堰、取水路、数村共同。14歳の春、橋とどちらを先に直すか選ばされた、あの王領だった。
あの時は水路を選んだ。橋の不便には迂回という代わりがあったが、水が必要な時期に足りなければ、その年の作物は後から取り返せない。父上は判断理由を認めたが、正解だとは言わなかった。
同じ場所なら、あの後どうなったかは見ておきたい。それに今回は、水路だけでは足りない。備蓄がどれだけ残るのか、外から穀物を入れられるのか、困った時に誰が助けるのか。帳簿の数字だけでは見えない部分を、現地で確かめる必要がある。
「現地へ行く。王領管理の担当にも村側にも話を聞きたい。ケラーも来てくれ」
一瞬だけ目を上げたケラーは、すぐに頭を下げた。
「……私も、ですか」
「資料を作った本人がいた方が早い。現地で別に見るべきものが出たら、その場で書き足せるだろ」
「はい。準備いたします」
返事はまだ硬い。最初に会った時のように、注記の多さを気にしてこちらの顔色を窺うことはなくなったが、数日同じ一行で地方へ出るとなれば話は別らしい。ケラーの「はい」は、旅程に自分の名前が入った瞬間、また一段固くなっていた。たしかに、俺が逆の立場でも気後れしてしまう。ただ、俺はケラーが気に入っているから慣れてもらわねば困るのだが。
「陛下」
横にいたルーカスが声をかけてきた。
「何だ」
「ご視察なら、馬で行かれるおつもりですか」
「そのつもりだ」
ルーカスはすぐに返事をせず、手元の予定表へ目を落とした。
「……何だ」
「馬車でしたら、移動中も書類をご覧になれます」
「それで俺を馬車に乗せるつもりか」
「お勧めしているだけです」
「却下」
せっかく馬に乗って遠出できるチャンスに馬車に乗るとかとんでもない。
「では、護衛の馬を増やしておきます」
ルーカスは予定表へ何か書き足した。仕事で俺の未来の予定が潰された気がする・・・。
*
王都を出てしばらくすると建物が減り、街道の左右に畑が広がった。トラウムライゼの歩調は軽い。王になってから乗る時間が減ったせいか、鞍の上にいるだけで少し気分が良くなる。
もちろん、1人で好きに走れるわけではない。前後に護衛がつき、ルーカスもいる。ケラーは馬車だ。国王が視察へ行くだけで人も荷物も増える。途中で振り返ると、馬車の窓の向こうに机へ向かっている時よりさらに固いケラーの顔が見えた。
王領に入ると、道端の人々がこちらに気づいて手を止めるようになった。先触れが出ている以上、今日俺が来ることは知られている。管理所へ着いた時には役人も村側の代表も揃い、建物の前も普段より整っていた。当然だ。国王が来るのに、何も準備しない方がおかしい。「普段どおりにしろ」と命じれば普段どおりになる、などという便利な話でもない。
挨拶の後、まず帳簿を見せてもらった。収穫、地代、現物納、直営農場の支出、家畜。全部が1冊にまとまっているわけではなく、目的ごとに分かれている。ケラーは自分の控えと照らしながら、いきなり数字ではなく記録の範囲を確かめ始めた。
「この収穫報告は、村の耕地だけでしょうか」
「はい。村々から上がった報告をまとめたものです。直営農場は別帳でございます」
「分かりました。では、直営分は分けて追います」
ケラーは迷わず紙へ書き足した。記録の出どころを分けてくれるのは助かる。俺はその横で別の帳簿を開いた。
「この『直営』は、王領のどこまでを指している?」
王領管理を任されている役人が、机の上に簡単な地図を広げた。
「こちらと南側の耕地、それから林縁の牧草地の一部でございます。村の耕地は王領内ではありますが、各戸の保有地です。地代と現物納、それに定められた賦役を負います」
「共同で使う土地は?」
「こちらです。牧草地と林、それから時期によっては休ませている畑にも村の家畜を入れます」
知識としては不思議でも何でもない。領主権の下にある土地が全部、領主の直営畑というわけではないし、村には共同利用がある。それでも地図の上で直営地、農民の保有地、共同利用地が分けられると、同じ「王領」という言葉の中身が急に具体的になった。
そこで目が止まったのが休耕地だった。ゾフィーから来た手紙では、その言葉の後にカブが続いていた。ウェストリアの一部農場では、休ませていた畑にカブを植え、秋から冬に牛や羊へ食わせる。
前世の記憶なら、その先まで知っている。カブ、大麦、クローバー、小麦。休耕を減らし、飼料を増やし、冬越しできる家畜を増やす。家畜が増えれば厩肥も増え、それを畑へ戻す。
授業でイギリスの農業革命を扱った時、輪作と一緒に囲い込みも教えていた。土地の共同利用や、村全体で作付けを合わせる慣行が残るところでは、1軒だけ好きな順番で畑を使うわけにはいかない。教科書なら数行で済む話でも、ここでは誰がどこを使う権利を持っているかという現物の問題になる。
「畑を見たい。直営地だけじゃなく、村の畑と休耕地、水路も案内してくれ」
*
外へ出ると、紙の上では同じ耕地だった場所にいくつもの違いがあった。背の高い穀物が風で揺れる畑、その隣にはまだ青さの強い春播きの畑。少し離れた作物のない区画では、牛と羊が草を食んでいる。
「あれが休耕か」
「はい。今年はあちらを休ませております」
村側の男が帽子を手にしたまま答えた。俺を見るたびに背筋が伸びる。
「この辺りで多い作物は?」
「冬に播くライ麦が多うございます。畑のよいところでは小麦も。春は燕麦と大麦、それに豆を少し」
「この辺りで、カブを家畜に食わせることはあるか?」
男は1度だけ王領役人の方を見てから答えた。
「家の近くや畑の端で作ったものを、牛や羊へ少しやることはございます。ただ、冬の餌は干草と藁が主でございます」
やはり、カブそのものが未知なわけではない。種も育て方も分からない作物を一から持ち込むより、話は早そうだ。
「休耕地で作ることは?」
「私は見たことがございません。ここは家畜を入れますので」
目の前でも牛が草を食い、少し先には新しい糞が落ちていた。休耕地をカブ畑に変えれば、カブが取れる代わりに、今ここで使っている放牧分が消える。
「ここにカブを作ったら、この牛や羊はどこへ行く?」
今度は村の男だけでなく、同行していた農場監督まで少し考えた。
「別の草地へ回すことはできますが、全部となれば足りません。刈り取り後の畑へ入れられる時期まで、餌が要ります」
「なら、休耕を減らした分だけ得をするわけじゃないな」
「はい。今と同じ飼い方のままでしたら」
前世の教科書で見たノーフォーク式輪作の図は、矢印がきれいにつながっていた。だが、その矢印の外側に、いま草を食っている牛がいる。そして、誰がその畑へ家畜を入れる権利を持っているかがある。
昔、生徒から「土地を柵で囲っただけで、どうして農業が変わるんですか」と聞かれたことがあった。共同で決めていた作付けや放牧から離れ、農場ごとに作物を回しやすくなる。そう説明したが、今ならもう少し実感を込めて答えられそうだ。前世の授業をやり直す機会は、もちろんないが。
「陛下?」
ルーカスに呼ばれて意識を戻す。
「何でもない。水路はこの先だったな」
*
堰と取水路は、14歳の時に書類で見た図より小さく感じた。あの頃の俺は現物を見ていなかったのだから当然だ。水は流れ、石積みには補修された跡が残っている。
「修繕後、大きな問題はあったか?」
「取水そのものではございません。ただ、雨の多い年は下手側で水が抜けにくい畑がありまして、そちらは別の問題として残っております」
俺がケラーを見ると、もう紙に書いていた。
「比較項目に排水も加えます」
「頼む。水があるかだけ見ても駄目だな」
水路の次は、穀物を置く倉へ回った。そこでまた、帳簿の収穫量だけでは見えないものが出てきた。収穫した穀物が全部そのまま人の口へ入るわけではない。乾かし方が悪ければ傷むし、鼠にも食われる。種として残す分も、地代や現物納で動く分もある。
「去年の収穫報告にある量と、この倉へ入った量は一致するのか?」
「完全にはいたしません。収穫報告には村ごとの見積りも含みますし、各戸で保管する分もございます。こちらへ入るのは直営農場分と、納められた分、備蓄へ回した分です」
「悪くなって捨てた分は?」
「直営分はこちらに記録がございます。ただ、各戸で保管した分の損失までは追えておりません」
帳簿では「収穫」と一言で書かれていたものが、倉へ来るまでにいくつにも分かれた。各戸で保管する分、納める分、備蓄へ回す分、傷んで捨てる分。紙の上の空欄だったものに、少しずつ中身が見えてくる。
倉を出たところで、街道へ向かう荷車が通った。
「この辺りの穀物はどこへ売る?」
「近くの市場町が多うございます。余れば川沿いの集積地へも出します」
「足りない年は?」
「買います。ただ、穀物高の年はこちらでも高くなりますし、道が悪い時期は運賃も上がります」
収穫量だけではない。どれだけ残せるか、どれだけ傷むか、どこから買えるか、いくらで届くか。社会科では、食料問題を生産量だけで教えなかった。流通も価格も所得もある。十分な量がどこかにあっても、必要な人へ届くとは限らない。この世界でも、その部分は変わらないらしい。
「ケラー。西部にも、今見た項目を取れるか」
「水利、排水、家畜、肥料、保管、それから外から穀物を入れる経路ですね」
「土地の使い方も。休耕地を誰がどう使っているか」
「救貧は、これまでどおり記録主体を分けて追います」
「頼む」
ケラーは少し考えてから、紙から顔を上げた。
「家畜については、頭数だけでよろしいでしょうか」
「いや。冬に何頭残せるかも見たい。飼料が足りなくて秋に減らすなら、春にいる数だけじゃ分からない」
「では、冬越しの前後が追える記録を探します」
「肥料もだ。家畜が減れば糞も減る」
冬の飼料が少なければ、秋に家畜を減らす。家畜が減れば、春に使える糞肥も減る。ゾフィーの手紙にあったカブは、やはり試す価値がある。ただし、村の休耕地はすでに放牧に使われ、共同の権利も絡んでいる。
「直営農場をもう1度見たい」
*
戻ってきた俺を見て、王冠直営農場の監督はさっきより緊張した。何か問題を見つけたと思われたのだろう。
「責める話じゃない。今年休ませる予定の土地で、村の共同利用が入っていない場所はあるか」
「ございます。直営農場の家畜を入れる区画ですが、村側の放牧権はございません」
「その一部で試したい。カブだ」
監督は黙って続きを待つ。
「全部は変えない。条件の近い区画を残して、一方は今までどおり休ませる。もう一方だけ、家畜の冬の餌にするつもりでカブを作る」
すぐに賛成は返ってこなかった。監督は畑の方へ目をやり、それから慎重に口を開く。
「播くこと自体は可能だと思います。ただ、休ませる畑も何もしないわけではございません。耕し直しますし、家畜を入れます。カブを作るなら、その家畜を別へ回す必要がございます。それに人手も増えます。播いた後の草取りも要りますし、収穫できたとしても、牛や羊へどの程度与えられるかは、私は大きな畑では試したことがございません」
「そこまで含めて比べる。だから小さくやる」
前世の歴史では、カブを含む輪作が冬の飼料を増やし、家畜と糞肥につながっていった。その結果を知っているから、試す価値の見当はつく。けれど、この土地で同じように育つか、人手に見合うかまでは別の話だ。
「種と追加の人手にかかる費用は王領会計で持つ。普段の賦役に上乗せして、村の農民へ無償でやらせるな。失敗しても農民の保有地や家の食料には触れない。取れる前提で冬越しの家畜を増やすのもなしだ」
「承知いたしました」
「それならできるか?」
監督は少し考えた後、今度ははっきり頷いた。
「小さな区画であれば。今の時期なら、播くのにも間に合います」
俺はケラーを見る。
「比較できる?」
「何を残すか決めていただければ」
「種の量と追加の人手。休耕側で家畜を使った期間も、分かる範囲で。収穫できた量と、そのうち実際に飼料へ使えた量。干草と藁の減り方も追いたい」
監督が口を挟む。
「家畜を入れた日数まで正確には難しいかもしれません。牧夫へ聞けば、おおよその期間は分かります」
「それでいい。分からない数字を作る方が困る」
ケラーが頷く。
「冬越しした家畜と、その後の肥料も見ますか」
「見る。できれば次の作物まで。ただ、すぐ結果が出るとは思ってない」
今回はカブだけでいい。クローバーまで一緒に入れれば、何が効いたのか分かりにくくなるし、そもそもこの土地で扱えるかも分からない。休ませる予定だった土地の一部だけで、冬の飼料として使えるのか、追加の手間に見合うのかを見る。
「陛下」
監督が、さらに確認してきた。
「収穫したカブを家畜へ与える量は、こちらで決めてよろしいでしょうか」
「任せる。その辺は私よりお前たちの方が分かる」
監督の肩から少し力が抜け、今度は畑の方へ目を向けた。
「では、牛と羊で様子を見ながら進めます」
「頼む」
*
2日後、直営農場の一角に杭が打たれた。片方は従来どおりの休耕、もう片方は試験区画として耕し直され、カブの種が播かれていく。
俺が自分で種を撒くような儀式にはしなかった。作業するのは農場の人間だ。監督が土の状態を見ながら指示を出し、ケラーは少し離れたところで、使った種と追加の人手を聞き取っている。村側の畑は何も変わらず、休耕地では今日も牛が草を食っていた。
「西部への照会ですが」
作業を見ながら、ケラーが書面を差し出した。
「土地の保有と共同利用、作付けと休耕、水利と排水、家畜の冬越し、肥料、保管時の損失、外部からの穀物流入まで増やしました。救貧は記録主体を分けて追います」
「これなら、同じところを見られそうだな」
「同じ数字が取れるとは限りません」
「それはもう分かった」
思わず笑うと、ケラーは真面目な顔のまま頭を下げた。
「取れない場合は、取れないと書きます」
「うん。それでいい」
「陛下、そろそろお戻りの支度を」
ルーカスが少し離れたところから呼ぶ。
「分かった」
農場監督はもう俺の方を見ていなかった。作業している男を呼び止め、畑を指しながら何か話している。ケラーも西部へ送る書面へ書き足していた。
「西部から返事が来たら、すぐ持ってきてくれ」
「承知しました」
俺はトラウムライゼのいる方へ向かった。




