第31話
数日後、人口関係の資料が最初にまとまった。
まとまった、と言っていいのかは少し怪しい。俺の机の上には、東部の王領から来た戸口の記録、教会が残している洗礼と埋葬の記録、西部の旧領から上がった税籍、収穫量の報告、穀物価格の控え、それから救貧関係の帳簿の写しが積まれていた。先日、国全体の数字を並べた時も思ったが、この国には記録がないわけではない。むしろ、ある。ありすぎる。
問題は、みんな別の目的で作っていることだった。戸口の記録は人が住んでいるかを見るためのものだし、税籍は税を取るためのものだ。教会の記録も、王宮が人口を数えるために作らせたわけではない。そこへ収穫や価格の記録まで混ぜれば、同じ地域の話なのに紙の形も書き方も違う。
俺は一番上の一覧をめくった。地域ごとに人口、出生、死亡、収穫、穀物価格が並んでいる。ただし、数字の横にやたらと細かい書き込みがあった。
――推計。
――前年と対象範囲が異なる。
――原簿の一部欠落。
――教会記録と税籍の数字が一致しない。
――比較不可。
最後の文字を見て、手が止まった。
「比較不可?」
そばにいたカスパルが、俺の視線の先を見た。
「はい」
「これを書いたのは?」
「先日お話しした者です。こういう整理を細かくやる者が1人いる、と申し上げた」
ああ。あの時の。
「呼べますか」
「既に王宮内で作業しております。すぐに」
しばらくして、カスパルが1人の男を連れて戻ってきた。年は30代半ばくらい。中背で少し痩せている。短く整えた灰褐色の髪に、やや広い額。細長い顔で、目は灰色がかっていた。
「エルンスト・ケラーです。各部署から上がる帳簿と報告の照合を担当しております」
カスパルの紹介はそれだけだった。各部署から上がる紙と数字を、国王へ届く前に確かめているらしい。
ケラーは深く頭を下げた。顔を上げても肩には力が入ったままで、視線も一度こちらへ向いたあと、すぐに机の上へ落ちた。緊張しているのはすぐに分かった。
「お呼びとのことで参りました、陛下」
「この資料をまとめたのはあなたですか」
「全部ではありません。各部署から集めたものを、比較できる形に直したのは私です」
声は落ち着かせようとしているようだったが、返事は少しだけ硬い。俺が手にしている紙へ視線を落としてから、また姿勢を正した。
「この『比較不可』というのは?」
俺が紙を差し出すと、ケラーは受け取った。そして、数字を見なかった。最初に紙の上端を見て、次に末尾へ目を走らせる。
「数字は見なくていいんですか」
思わず聞くと、ケラーの目がこちらへ戻った。
「これは私の癖です。先に、どこの誰が、いつ作った記録かを確認しないと気がすまいものでして。数字だけ見ても、それが何の数字か分かりませんから」
なるほど。ケラーは改めて紙を見た。文書へ顔を近づける時だけ、少し前へ身体が傾く。
「こちらは東部のある王領から上がった記録です。前年は課税対象となる戸口を中心に数えていますが、今年分は教会側の記録を加えて妻子を含む人数を推定しています。同じ欄に人口と書かれていますが、そのまま増減を比べることはできません」
「だから比較不可にした?」
「はい。数字を揃えることはできますが、揃えてしまうと意味が変わることがございます」
そこまで言って、ケラーはわずかに間を置いた。
「注記が多すぎましたでしょうか」
それを気にしていたらしい。
「逆です。助かりました」
今度はケラーの方が少し止まった。
「……助かった、ですか」
「はい。分からないものを分かったように並べられる方が困ります。推計なら推計でいいし、比較できないなら比較できないでいいです。私が思っていた数字と違っても、合わせなくていい」
「陛下の想定と違っていても、ですか」
「それで変えるなら、調べる意味がないでしょう」
ケラーは返事をする前に、1度だけ手元の紙を見た。それから「承知しました」と答えた。声はさっきと同じだったが、紙を持つ手から少し力が抜けたように見えた。
俺は別の束を引き寄せた。
「それで、人口そのものを正確に出すのは、やっぱり難しいですか」
「今すぐ全国を同じ基準で、ということであれば難しいかと。地域ごとに記録の目的が違いますし、同じ地域でも途中で書き方が変わっております」
「では、逆に同じ地域で長く続いている記録は?」
「あります。全てではありませんが」
返答が少し速くなった。
「東部王領には、洗礼と埋葬の記録が比較的長く続いている教会がいくつかあります。戸口の記録も合わせられる場所があります。西部は行政の形が違いますので、そのまま同じものは使えませんが、別の記録を重ねられるところはあります」
やはり、そこを知っている。前世で歴史を教えていた時、昔の人口をどう調べるかという話をしたことがある。近代的な国勢調査が整う前の人口は、最初から人口統計として作られた資料だけで分かるわけではない。イングランドなら16世紀以降の教区に残る洗礼、婚姻、埋葬の記録がある。後世の研究者は、そういう本来は別の目的で作られた記録を積み上げて、人がどれくらい生まれ、結婚し、死んだのかを追っていた。
授業では「史料は、書いてある数字だけじゃなく、何のために作られたかを考えて読め」と何度も言った。まさか自分が、後世の歴史家に面倒をかける側へ回るとは思わなかったが……いや、今それはどうでもいい。
「ケラー」
「はい」
「正確な人口表を作るのは、いったん後回しにしましょう。知りたいのは、人がどこで増えて、どこで減っているのかです。特に、どこで失われているのか。同じ地域で何年も続いている記録を優先して、出生と死亡、それから戸口の変化を見たい」
ケラーはすぐには頷かなかった。
「出生というのは、洗礼記録を使う前提でしょうか」
「使えるなら」
「なら、洗礼を受けないまま亡くなった子供や、記録から漏れた者は拾えません。戸口から消えた者も死亡とは限りません。移住した者や、奉公に出た者もいるでしょう」
「それも区別してください」
ケラーの目が少し細くなった。
「つまり、死者数を無理に出したいのではなく、何が分からないかを残したまま、変化を見たい?」
「そうです」
「それでしたら、使える地域を先に選んだ方が早いです。全部を集めてから比較するより、継続して残っている記録の組合せを探します。収穫と穀物価格も同じ地域で揃えますか」
「できる範囲で。疫病の記録も」
「分かりました。ただ、都市の穀物価格は周辺からの流入で動きます。農村の収穫とそのまま結びつけると、逆に分かりにくくなるかもしれません」
今度は俺が止まった。
「そこも分けた方がいい?」
「少なくとも、同じ扱いにはしない方がよいと思います」
「それで」
ケラーは手元の紙へ何か書き始めた。なるほど。これは使える。
いや、「使える」という言い方も少し違うか。俺が前世の知識から思いつくのは、何を比べれば見えるかという方向だ。どこにどんな記録があり、どういう癖があるかまでは、この世界で十数年働いた人間の方がよほど詳しい。全部を俺が知っている必要はないし、知っているふりをする必要もない。国王になってから、その当たり前を前より強く感じるようになった。
そこから数日、通常の政務の合間に人口関係の資料を見る時間が増えた。朝から晩まで帳簿に張り付いているわけではない。政務が待ってくれるわけではないし、署名しなければ止まる案件もある。ただ、昼前に30分、午後の会議と会議の間に1時間、といった具合に紙を追っていると、少しずつ比較できる地域だけが絞られていった。
東部と西部で完全に同じ条件にはならない。そもそも行政の成り立ちが違う。それでも、同じ地域の中で数年分を追える場所はいくつかあった。
ケラーは、それぞれの資料の横に短い注記を残した。
洗礼記録あり。埋葬記録あり。戸口記録は2年欠落。
収穫量は継続。市場価格は近隣都市の記録のみ。
疫病流行の記載あり。ただし死因別記録なし。
最初のうちは、俺も数字を追っていた。何人増えた。何人減った。去年より多い、少ない。けれど、すぐにそれだけでは足りないことが分かった。
「この地域、子供の数が減っていませんか」
俺が指したのは、洗礼記録と数年後の戸口記録が両方残っている場所だった。生まれた子供の数に対して、その後の記録に現れる同年代の子供が少ない。
ケラーは紙へ顔を近づけた。
「減っております。ただし、これを死亡とすることはできません」
「移住?」
「それもあります。奉公に出た者、親族の家へ移った者もいるでしょう。戸口記録自体の漏れも考えられます」
「でも、他の年より差が大きい」
「はい。それは言えます」
その答え方が気に入った。言えるところまでは言う。言えないところから先へ勝手に進まない。
別の地域では、疫病があったと記録されている年に埋葬数がはっきり増えていた。さらに別の地域では、収穫不良の年に穀物価格が上がり、その年から翌年にかけて埋葬が増えている。そこまでは、俺にも分かりやすかった。
問題は、その次だった。
「こっちも収穫は悪いですよね」
「はい」
「でも、死者の増え方は少ない」
「記録上は」
俺は2つの紙を並べた。どちらも同じ年に収穫が落ちている。穀物価格も上がっている。なのに、片方では埋葬記録が大きく増え、もう片方では増えてはいるが、そこまでではない。
「何が違うんでしょう」
俺が言うと、ケラーは少し考えた。
「現時点では分かりません。備蓄量が違うかもしれませんし、外から穀物が入った可能性もあります。救貧の規模、家族構成、記録の漏れも考えられます。そもそも収穫量の報告精度が同じとも限りません」
候補が多い。同じ不作なら同じだけ人が死ぬ、という話ではないらしい。だったら、不作そのものをなくせなくても、死ぬ人を減らす方法があるかもしれない。
歴史でもそうだった。凶作が起きたから必ず同じ被害になるわけではない。食料がどこにあり、どう運ばれ、誰が買えて、誰が助けられるかで結果は変わる。前世では出来事の後からそれを見ていたが、今は、その前に手を打つ側にいる。
原因を1つに決めるのは簡単だ。その方が話も早い。ただ、国を動かすなら、早いだけでは困る。
「陛下」
ケラーに呼ばれて顔を上げた。
「先ほど比べた2地域ですが、どちらも救貧関係の記録が残っている可能性があります。教会側ではなく、王領管理側です」
「両方とも見られますか」
「探させます。ただ、同じ形で残っているとは限りません」
「構いません。ある範囲で比べましょう」
ケラーは頷くと、すぐ手元の紙へ書き足した。
その日の夕食で、俺はハインリヒをしばらく見ていたらしい。
「兄上」
「ん?」
「さっきから何ですか」
「何って?」
「こっちを見ています」
向かいのハインリヒが怪訝そうに眉を寄せた。隣のマティルデもこちらを見る。
「本当ね。何かついてる?」
「いや」
「では、何ですか」
ハインリヒはもう1度聞いた。
12歳を過ぎて、顔つきも以前よりだいぶ少年らしくなった。背も伸びている。少し前まで子供だと思っていたのに、こうして座っていると、そのうち普通に俺と並ぶくらいになるのかもしれない。
「ちゃんと大きくなったなと思って」
言った瞬間、ハインリヒの顔がさらに変になった。
「急に何ですか、それ」
「兄上、それはさすがに気持ち悪いわ」
マティルデにまで言われた。
「気持ち悪いはひどくない?」
「だって、食事中に弟をじっと見て『大きくなったな』でしょう?」
「言われてみるとちょっと気持ち悪いな」
「兄上」
「悪かった」
母上は俺たちのやり取りをしばらく見ていたが、何も言わずに食事を続けた。父上がいなくなってから、4人で食卓を囲むことにも少しずつ慣れてきた。慣れた、という言葉が正しいのかは分からない。空いている場所を毎回意識するわけではなくなった、くらいかもしれない。
俺はハインリヒとマティルデを見た。王家の子供は、少なくとも食事に困らない。病気になれば医師も呼べる。魔法を使える医療者にも診てもらえる。それでも父上は44歳で死んだ。まして、そうではない家なら。
「母上」
「何?」
「親を亡くした子供って、今はどうなるんですか」
食卓の空気が少し変わった。母上はすぐには答えず、手元の器を置いた。
「急ね」
「今日、孤児や救貧の記録を見ていて」
「そう」
それだけで、母上は大体察したらしい。
「まずは親族ね。祖父母、叔父や叔母、兄や姉。引き取れる家があれば、そこへ行くことが多いわ」
「いない場合は?」
「教会が世話をすることもあるし、町によっては救貧の金から食事や寝る場所を出すこともある。少し大きければ、職人や商家へ奉公に出すこともあるわね。寄進で子供を預かっているところもあるでしょう」
「それで足ります?」
母上は少し首を傾けた。
「足りるなら、困る子はいないでしょうね」
それはそうだ。
「王都でも?」
「王都でも。地方より助ける人は多いでしょうけれど、その分、人も多いもの」
マティルデが口を挟んだ。
「前に教会へ行った時、子供が何人か一緒にいたわ。あれも?」
「全員が孤児とは限らないわ。家が苦しい間だけ預けられている子もいるでしょうし」
母上が答える。
なるほど。ここでも、「孤児」と書いてある数字だけ見れば全部同じに見えるが、実際は違う。親がいない子、片方の親がいる子、親族がいる子、家が一時的に食わせられない子、教会にいる子、奉公先が決まった子。帳簿の1つの欄に押し込めるには、ずいぶん事情が多い。
「兄上、今度は私を見ないでくださいね」
ハインリヒが言った。
「見てないよ」
「さっき見ていました」
「もう十分育ってるのは確認した」
「何の確認ですか」
そこは自分でも説明しにくい。
「仕事のせいで少し変になってるのよ」
マティルデが勝手にまとめた。
「それでいいです」
「よくないでしょう」
母上に言われたので、その話はそこで終わった。
翌朝、執務室へ戻ると、昨日までとは違って、数字そのものより余白が気になった。
分からない。比較できない。記録が抜けている。理由はまだ分からない。
前なら、それは資料の欠点に見えた。今は少し違う。そこに次の問いがある。
俺は紙を1枚引き寄せ、昨日まで見ていた内容を大雑把に書いた。出生、幼い子供、疫病、凶作、穀物価格、救貧、備蓄、輸送、教育。書いてから、増えすぎたと思った。これでは結局、また全部やることになる。
「陛下」
顔を上げると、ケラーが入ってきていた。
「昨日の救貧記録ですが、東部の王領でいくつか残っているようです。まだ原簿は届いておりません。それと、別件ですが」
ケラーは持っていた紙を1枚抜いた。
「疫病の年について、同じ地域でも前後数年を見た方がよいと思います。その年だけですと、埋葬記録そのものが乱れている場所があります」
「そこまで調べてくれたんですか」
「昨日、気になりましたので。ただ、これで疫病による死亡数そのものが出せるわけではありません」
「分かっています。前後の変化が見られれば十分です」
「承知しました」
ケラーはそのまま、次に確認したい記録を紙の端へ書き足した。最初に呼んだ時のような、資料の不完全さを気にする様子はもう薄れていた。
俺は机の紙へ戻った。
「それで、これを考えていたんですが」
書き散らした項目をケラーへ見せる。
「人口を増やしたい、というお話でしたね」
「最初は」
「今は違いますか」
「違うというか、足りないと思って」
生まれる子供を増やしても、その子供が育たなければ人口は増えない。大人になっても、凶作や疫病で簡単に失われるなら同じだ。
そして、生きていればそれで終わりでもない。子供なら食べさせ、育て、その先で何かを身につけていかなければならない。農民にも職人にも商人にも兵士にも役人にも、それぞれ覚えることがある。
俺は書いた言葉をいくつか消した。細かい政策はまだ決められない。でも、問題の種類ならまとめられる。
紙の空いたところへ、3つ書いた。
食わせる。
死なせない。
育てる。
ケラーが3つの言葉を順に見た。
「この3つを国全体で一度に調べるとなれば、今ある記録を洗うだけでも何年かかるか分かりません」
「……そこは即答なんですね」
「はい」
食わせる。死なせない。育てる。言葉にしたところで、何をすれば一番効くのかはまだ分からない。食料の問題1つでも、収穫なのか、備蓄なのか、運ぶ力なのか、困った家へ届く仕組みなのか。地域によって違うかもしれない。全部の答えが出るまで国全体を調べ続けるつもりなら、本当に何年かかるか分からない。
王室牧場で番号を付けた時も、最初から全部を決めたわけではなかった。限られた範囲でやって、記録が使えるか確かめた。だったら今回も、まず比べられる場所を絞ればいい。
「王領の中から、記録が揃っている場所をいくつか選べませんか」
ケラーの目が紙から上がった。
「選ぶことはできます。何をご覧になりますか」
「今まで見たものです。収穫、穀物価格、死亡、救貧……まず違いが見えるところを比べたい。その上で、確かめたいことが出たら小さく試す」
ケラーは少し考えた。
「王領であれば、領主ごとに許可を取る必要はありません。記録の様式も、今よりは揃えやすいでしょう」
「東部と西部の両方で?」
「条件を完全に同じにはできませんが、両方から選ぶことはできます」
「それでいきましょう」
ようやく、話が手を付けられる大きさまで下りてきた。全国を相手に答えを探すのではなく、まず違いの見える場所を選ぶ。
「まず候補を出してください。記録が続いていて、違いを比べられそうな王領を」
「承知しました。候補を出す前に、備蓄と救貧の記録も確認します。比較材料が足りない場所を先に外せますので」
「そこまで見ます?」
「必要になると思います」
俺が次に聞きそうなことまで、もう拾い始めている。これはかなり助かる。
俺はもう1度、紙に書いた3つの言葉を見た。
食わせる。死なせない。育てる。
その横は、まだ空いている。俺は王領の地図を引き寄せた。




