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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第2章 王太子から国王へ

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第26話

ヘルツナー商会の支払いが一段落してから数日たっても、机の上から帳簿が消えることはなかった。


もちろん、あの60日間に集めたものの大半はもう各部署へ戻されている。代わりに積まれているのは、通常の報告書と、危機後の監督に必要な商会の定期報告、それから俺が途中で付けた紙片の束だ。


あれだけ大騒ぎした後なのだから、少しくらい机が広くなってもよさそうなものだが、王太子の机というのは空いた場所へ別の仕事が流れ込む仕組みらしい。


朝食の席で、その机とは別の紙が2通届いた。


「兄上、また手紙?」


マティルデが果物を切る手を止めて、侍従の持つ封書を見た。


「また、というほど来ていないよ」


「昨日も読んでたでしょう」


「あれは昨日届いたものを読み直していただけだ」


「同じじゃない?」


違う、と言い返しかけてやめた。たぶん、妹にとっては同じだ。


母上が俺の方を見て、少しだけ楽しそうに言った。


「食事が終わってから読みなさい」


「はい、母上」


父上は横で別の書付に目を通したまま言った。


「その注意は、レオンより先に私へ向けるべきではないか」


母上の視線が父上の手元へ移る。


父上も自分の書付を見下ろし、一拍置いて畳んだ。


「……これは私が悪かった」


ハインリヒが何も分かっていない顔で笑い、マティルデもつられて笑った。俺は封書を自分の脇へ置いて、残っていたパンを食べた。


食事を終えて部屋へ戻ると、机脇の湯が少し冷めていた。カップを手で包み、弱く熱を加える。少し温めるだけなら、火を足すより早い。


それから封を切った。


片方はゾフィーからだった。


最初は、母上がリューネンベルク家へ送る書簡に、俺も短い手紙を添えたのがきっかけだった。返事が来て、それから時々やり取りが続いている。


内容は拍子抜けするくらい普通だった。家族のこと。領地では秋に向けた補修が始まり、屋敷の近くの道で荷車の車輪が泥にはまったこと。最近よく乗る栗毛の馬が、見慣れない布を道端で干しているだけで立ち止まってしまったこと。それを見ていた若い従者が笑い、試しに手綱を取ったらもっとひどく振り回されたこと。


最後に、俺の乗る馬にも、そんな妙な怖がり方をすることがあるのかと尋ねていた。


恋文ではない。


当然だ。まだ、そんな関係ではない。


けれど、家族の話や、馬の癖や、日々の細かな失敗が書かれている手紙は、その人がどう暮らしているかを思った以上に伝えてくる。


もう1通はアマーリエからだった。


ヴィーネンから戻ったあと、滞在中の礼を書いたのが最初だった。彼女から返事が来て、その中に前に話したことの続きがあり、それ以来、間を置いて何度か書簡が往復している。


こちらは同じ紙でも温度が違う。


前に会ったとき、専門家へ任せることと、最終判断を後継者自身が引き受けることについて話した。その続きを考えたらしく、彼女は、自分が分からない分野ほど専門家の意見を必要とする一方で、「分からないから任せる」と「理解する努力をした上で任せる」は違うのではないか、と書いていた。


前の手紙で、こちらで商会の支払い問題を扱っていると少し書いたせいか、最後に、その処理で何を一番難しいと感じたのかを尋ねている。


重い質問だ。


朝食の直後に読むには、ゾフィーの栗毛の方がだいぶ優しかった。


俺は2通を机の端に並べた。


返事は別々に書く必要がある。当然だが、同じ調子では書けない。


ゾフィーには、うちの馬にも、見慣れない物を急に嫌がることはあると書いた。そのあとで、馬が何を怖がるかは人間にはよく分からないことも多い、と少し付け足した。


アマーリエには、危機の最中に一番難しかったのは「誰が悪いか」を決めることではなく、「誰が、いつ、誰へ、いくら払うはずだったか」を確かめ続けることだった、と書いた。不正がないから簡単になるわけでもない。むしろ、真面目に商売をしている者同士の支払いが絡み合っているからこそ、一つ止まると別の一つが止まる。


書いている途中で、俺は筆を止めた。


それは手紙への返事であると同時に、数日前から頭に引っかかっていることそのものだった。


次も、同じことをするのか。


また誰かが払えなくなったら、王宮の人間が商会へ入り、帳簿を集め、債権を並べ、支払予定をつなぎ直して、銀貨がどちらへ動けば連鎖が切れないかを一から考えるのか。


できなくはない。


実際、今回はやった。


だが、できることと、毎回やるべきことは違う。


その考えをいったん脇へ置いたのは、その日の午後にヘルツナー商会へ行く予定があったからだった。


商会の倉庫は、危機の最中より静かだった。


静かといっても、人がいないわけではない。荷車が入り、帳場では書記が受取を確認し、奥では荷役人が樽を転がしている。以前と違うのは、置かれている荷の量に余裕があることと、出入りする者の目が商会の看板を一度余計に見ることだった。


信用は、帳簿の数字だけで戻るものではないらしい。


マルティン・ヘルツナーは俺を倉庫脇の部屋へ案内した。


「支払いの遅れは、いまのところ出しておりません」


机へ着くなり、彼はそう言った。


「それは報告で見ている。新しい取引は?」


「小口は戻りつつあります。大口は慎重です。こちらも、いま無理をして取りに行くつもりはありません」


「大型の投資もできない」


「できませんし、するべきでもないでしょう」


言い方に悔しさはあったが、判断は冷静だった。


俺は窓の外を見た。ちょうど2台の荷車が入り、一方から袋が、もう一方から木箱が下ろされている。荷主は別だろう。行き先も同じとは限らない。


「マルティン。商会は物を売るだけでなく、運ぶことでも稼いでいるな」


「ええ。自前の荷もありますが、運送の手配だけを請けることもあります」


「それを、もう少し徹底できないかと思っている」


彼が身を乗り出すほどではない。ただ、視線が俺へ戻った。


「徹底、と申しますと?」


「荷主が馬車屋を探し、途中の倉庫を押さえ、次の区間の船や荷車を手配する。それを荷主ごとにやるのではなく、ヘルツナーへ頼めば、到着までまとめて面倒を見る」


「今でも、大口の得意先には似たことをしています」


「なら、それを大口ごとの個別対応で終わらせず、ある程度の量がある荷主なら使える形にしてな」


俺は机にあった紙を引き寄せた。


「同じ方向へ行く荷をまとめる。途中の輸送は、普段使っている運送人へつなぐ。途中は既存の倉庫へ入れる。荷主にとっては、窓口はヘルツナー一つだ」


マルティンはすぐには答えず、指で机を2度叩いた。


「帰りも荷を集められる路線ならできます。片道だけ荷が多ければ、馬車も船も空で戻る分だけ運賃が上がります」


「帰り荷も商会の取引先から集められないか」


「使える路線と使えない路線があります。それに荷の種類です。布と鉄材と油樽を同じようには扱えません」


「同じようにする必要はない」


俺は紙へ、四角をいくつか描いた。


前世の巨大な港や、積み上がった鋼鉄の箱を思い浮かべる。あれをそのまま持ち込むのは無理だ。大型の荷役機械も、全国で揃った道路も、規格を強制できるだけの市場もない。


欲しいのは箱そのものではない。


仕組みだ。


「全部を箱に詰める気はない。樽は樽、袋は袋でいい。ただ、壊れにくくて箱に向く商品だけは、何種類か繰り返し使える木箱を揃えられないか。外の大きさだけでなく、詰めていい重さも決める」


マルティンが紙の四角を見た。


「箱を大きくしすぎると、人が持てません」


「だから数種類だ。人で持てるもの。荷役具を使うもの。必要なら倉庫で魔法を使って位置を合わせる。どれも、いまある設備で扱える範囲にする」


「箱代がかかります」


「返してまた使う」


「なら、回収まで商会で管理する必要があります」


「そうだな。箱にも番号を付けるか。納品したら空箱として戻す」


俺は四角の横に番号を書いた。


「箱の番号とは別に、荷物一つごとにも番号を付ける。出発から到着まで同じ番号を使って、荷札と受渡記録も同じ形式にする。どの倉庫で誰が受け取り、どこで次へ渡したかを番号で追う」


「番号ですか」


「王室牧場で馬に使っている。馬と荷物は違うが、名前や見た目だけに頼らず同じ対象を追うという点は使える」


マルティンは紙を自分の側へ引き寄せた。


「封印は?」


「いると思う。箱だけでなく、樽でも袋でも、封ができるものはした方がいい。受け取ったときに破れていれば、その区間で確認できる」


「記録が増えます」


「増えるな」


「書記も要ります」


「要る」


「殿下。これは、設備を買わない代わりに帳簿と人を買う話です」


俺は少し笑いそうになったが、やめた。正確な指摘だった。


「そうだ。だから、いきなり商会全部でやる気はない」


マルティンは紙へ視線を落としたまま考え込んだ。


しばらくして、彼は別の紙を取り出した。自分の商会の路線表らしい。


「東部のこの路線なら、試せます」


指がヴァイスブルクから内陸へ伸びる1本をなぞる。


「すでに倉庫があり、途中の運送業者とも契約があります。行きは加工品と布地が多い。帰りは農産物と原料が入る。全部をまとめるのは無理ですが、荷姿が似たものを選べば混載できます」


「荷主は?」


「最初は3、4軒で十分でしょう。付き合いが長く、こちらの帳場のやり方も知っている相手に限ります。標準箱も、最初から何種類も作りません。壊れにくい商品向けに2種類ほど試し、駄目ならやめる」


「やめる前提も入れるのか」


「試すなら必要です」


そこは商人らしい。


俺が完成形を見て、マルティンが最初にどこへ足を置くかを決める。その方がいい。


「では、それで組んでくれ。成功したら広げる。失敗したら、どこで金がかかったかを見る」


「承知しました。ただし、成功した場合でも、すぐ別路線へは広げません」


「分かっている」


「本当に?」


「私はそんなに信用がないか」


「殿下は成功すると次を考えるのが早いので」


否定しづらかった。


商会を出たあとも、その言葉は少し残った。


だが、次を考えるのが早いという点では、今回はもう遅いくらいだった。


その夜、俺は危機の間に作った支払予定表をまた広げた。


誰が誰へ払うか。どの支払いが先で、どれが後か。銀貨を実際に動かさなければならないのはどこか。同じ相手同士で、行きと帰りの支払いがあるなら差額だけで済むのではないか。


危機の最中は、目の前の支払いを止めないことが先だった。


今なら、少し先を見られる。


前世の歴史で、まず頭に浮かんだのはイングランド銀行だった。


馴染みがある。授業でも扱った。国家信用、戦費調達、政府との関係。近代金融を考えれば避けて通れない存在だ。


ただ、今回やりたいこととは中心が違う。


俺は戦費を集めたいわけではない。国債市場を作りたいわけでもない。まして、王国中の金融を一つの機関が動かすような話ではない。


欲しいのはもっと手前だ。


商人がばらばらの銀貨を持ち込み、品位を確かめてもらい、預ける。そのうえで、支払いのたびに袋を運ぶのではなく、帳簿の上で残高を移す。


そちらなら、アムステルダムの方が近い。


都市の商業を支えるために、貨幣を預かり、帳簿で振り替える。雑多な貨幣が行き交う場所で、支払いの基準を揃える。


もちろん、ここはアムステルダムではないし、同じ制度をそのまま持ってくる意味もない。


だが、原理は使える。


銀貨を毎回、商人の店から相手の店へ運ぶ必要はない。


平時から残高を整理しておけば、危機になって初めて王宮が全部の帳簿をかき集めるより、ずっとましだ。


翌日、俺はカスパルを呼んだ。


若い財務書記も同席していた。あの60日間の終わりに、「次の不払いでも一から集めるのか」と口にした男だ。名前は聞いていたかもしれないが、今は思い出せない。彼は前より緊張した顔で、厚い紙束を抱えていた。


俺は机の上に簡単な案を置いた。


「ヴァイスブルクに、公設の交換と振替を行う場所を作りたい」


カスパルは紙を読む。


「両替所ですか」


「それだけではない。商人から貨幣を預かり、鑑定し、残高を帳簿へ記録する。参加者同士の支払いは、その残高を振り替える。相互に支払いがあるなら相殺し、差額だけ動かす。ただし、貸付はしない。預かった貨幣の運用もしない。国庫とも分ける」


カスパルは最後の一文で顔を上げた。


「分ける、とは帳簿だけですか。保管もですか」


「両方だ。国庫の不足を埋めるために持ち出せるなら、商人は預けない」


若い書記が紙束をめくりながら言った。


「すると、国庫会計とは別勘定が必要です。受払も別にしないと、監査で混ざります」


「その通りだ」


カスパルは彼を見た。


「既存の会計規則で足りるか調べろ。足りなければ、どこを追加する必要があるかだけ出せ。新しい規則を最初から全部書き直すな」


「はい」


それから俺へ戻る。


「殿下。貨幣の鑑定は誰がします」


「王宮の役人だけで抱える必要はない。既存の両替商や鑑定人を使えないか」


「使えます。ただし、誰を公務に入れるか、責任をどう分けるかは要ります。偽貨や品位不足を見落としたとき、誰が損を負うのか」


「そこは決めよう」


「保管場所もです。新築しますか」


「しない。まずは既存の施設で、安全に区切れる場所を探す」


「護衛、人員、二重確認、鍵の管理。帳簿の訂正手続。引出しの条件。手数料。誰が参加できるか」


「ヴァイスブルクの大口商取引から。任意参加」


「大口の線引きは?」


「最初から金額で固定する必要はない。処理件数を見ながら参加者を絞れないか」


「可能です。では申請制にします」


話が速い。


俺が考えているのは、銀貨を動かさずに支払う仕組みだ。


カスパルが考えているのは、保管庫の鍵を誰が持ち、何人揃わなければ開けられないようにするかだ。


両方がないと制度にはならない。


若い書記が、遠慮がちに手を上げた。


「殿下。ひとつよろしいでしょうか」


「何だ」


「取引の記録は、行政の他部署から見られるのでしょうか」


俺は少し考えた。


あの危機対応では、商会の帳簿をかなり深く見た。だが、平時から公設の場所へ記録が集まるとなれば話は違う。


便利だからといって、役人なら誰でも商人の支払先を覗ける仕組みはまずい。


「通常の行政が自由に見るものにはしない。振替に必要な記録と、王宮の一般行政が使う情報は分ける」


カスパルがうなずいた。


「その線なら、参加者への説明にも必要です。公設であることが信用になる一方、公設だからこそ警戒されます」


「商人に見せる前に、そこまで案を詰めよう」


カスパルがうなずいた。


そこで、前の件で債権者側の査定に入ったヤーコプを思い出した。


「ヤーコプにも見せるか」


「ロートマン家の?」


「ああ。使う側が嫌がるところを探すなら、向いている」


その後の1週間は、紙の上で制度が少しずつ現実へ近づいていった。


カスパルたちは、既存施設の一角を使う案を出した。鑑定と受入、保管、帳簿記入を1人の担当者だけで完結させない。入出庫は複数人で確認する。残高移転は支払側の指図と受取先の口座を照合して記録し、訂正は元の記録を消さずに追記する。


俺の案より細かい。


当然だ。


俺がそこまで全部書き始めたら、今度はカスパルの仕事を奪うことになる。


その間にも、ヘルツナー商会から物流試行の案が上がってきた。


対象は東部国内の既存路線のうち1路線。最初の荷主は少数。荷札の形式を統一し、受渡時に番号と封印状態を記録する。標準木箱は、既存の荷役で無理なく扱えるものだけ。袋や樽に向く商品は従来どおり。


さらにマルティンは、帰り荷の見込みが薄い日には無理に便を出さず、出発日をまとめる案まで付けていた。


そちらも、俺が口を出しすぎるべきではない。


書簡も続いていた。


ゾフィーからは、栗毛の馬の続報が来た。道端の布には少し慣れたらしい。代わりに、今度は庭師が運んでいた長い梯子を嫌がった、と書いてある。


続けて、家族で夕食を取ったとき、給仕が傾けたパン籠を皆で慌てて押さえた話が書いてあった。


ずいぶん平和だ。


俺はその平和さが少し羨ましくなって、マティルデが朝から自分のリボンを見つけられず、結局ハインリヒの玩具箱から出てきた話を書き返した。


なぜ入っていたのかは、誰にも分からなかった。


アマーリエからの返事は、また別の方向へ進んだ。


俺が「最も難しかったのは支払関係の確認だった」と書いたことに対して、彼女は、統治者が判断する前に、判断できる形へ情報を整える仕事そのものが重要なのではないか、と返してきた。


そして、専門家に任せるべきなのは判断そのものではなく、判断の材料を壊さずに集める部分なのかもしれない、と。


俺はそこに少し引っかかった。


全部がそうとは限らない。


専門家にしか判断できないこともある。医師の診断まで王が最終判断する必要はないし、貨幣鑑定の細部を俺が決めるのも違う。


そのことを書き、代わりに「どこまで自分で判断し、どこから専門家の判断へ委ねるかを決めるのも、後継者の仕事なのだと思う」と返した。


会って話したときより、手紙の方が考える時間がある分、こちらも相手も少し深く書ける。


だからといって距離が急に縮まったわけではない。


ただ、次に会ったとき話せることは確実に増えていた。


制度案が商人に見せられる形になったのは、それから数日後だった。


マルティンとヤーコプ・ロートマンを王宮へ呼んだ。


机には、制度の概要と、利用者向けの仮の手順書が置いてある。


俺が最初に基本を説明した。


「目的は、ヴァイスブルクの大口取引で、毎回大量の貨幣を運ばなくても支払いを済ませられるようにすることです。参加は任意。預けられた貨幣は鑑定して保管し、残高を帳簿へ記録する。参加者同士の支払いは帳簿上で振り替える。相互の支払いがある場合は、可能な範囲で相殺する」


マルティンが手順書をめくった。


「商会から相手先へ銀貨を運ぶ代わりに、ここへ指図を出すわけですな」


「そうです。もちろん、相手も口座を持っている場合ですが」


「預け入れと引出しはいつでも?」


カスパルが答えた。


「定めた時間内で受け付けます。大量の引出しは事前連絡を求める案です。保管と鑑定に必要な人員を常に最大量へ合わせるわけにはいきませんので」


「それなら商売上は理解できます」


ヤーコプは、そこまで一度も口を挟まなかった。


紙を最後まで読んでから、ようやく顔を上げた。


「殿下。国庫が資金不足になった場合、この預り金を一時的に使うことはありますか」


「ありません」


「戦時でも?」


「少なくとも、この制度の規則上は認めません。必要なら別の方法で資金を求めるべきです」


「国王陛下の命令でも?」


質問の空気が少し変わった。


俺は横にいるカスパルを見た。彼は黙っている。


ここを曖昧にしたら駄目だ。


「だからこそ、国庫とは会計も保管も分離します。国王命令一つで通常の国庫支出へ移せる資産なら、あなたは預けないでしょう」


「預けません」


即答だった。


「私でも同じです」


ヤーコプは次の紙を指で押さえた。


「では、貸付は?」


「しません」


「当座の残高を超えた振替は?」


「認めません」


「残高不足なら支払いは不成立?」


「そうなります」


「手数料は」


「無料にはしません」


今度はカスパルが資料を開いた。


「鑑定、保管、振替にかかる費用を賄い、その上で少し収入が残る程度に設定します。利用者が増えた場合に見直せるよう、最初から恒久額にはしません」


ヤーコプがうなずいた。


「妥当でしょう。安すぎる方が怖い。無料の保管には、たいてい別の支払いがあります」


マルティンが少しだけ口元を動かしたが、何も言わなかった。


ヤーコプはさらに続けた。


「取引記録は誰が見ます」


「振替所の運用に必要な担当者です」


「税務官が見せろと言えば?」


カスパルが答える。


「通常業務として自由閲覧できる制度にはしません。公設であることと、行政の全部門が同じ帳簿を使えることは別です」


「なるほど」


「まだありますか」


俺が尋ねると、ヤーコプは紙を閉じた。


「あります。しかし、使えない理由を探す段階は終わりました」


「では?」


「条件どおり運用されるなら、うちは口座を持ちます。最初は限定的に。全取引を移すつもりはありません」


「十分です」


「それと、殿下」


「何でしょう」


「この範囲で始めるのですね」


「はい。まずは交換と保管と振替だけです」


「なら、そのままの方がよろしいでしょう。できることを増やすのは簡単ですが、信用を失った後で減らすのは難しい」


それは危機を見た者の言葉だった。


ヤーコプは手順書をもう一度開いた。


「参加者が増えれば、支払いのために店ごとへ置いておく銀を減らせる。こちらとしては、その分、資金の置き方を変えられますな」


初めて、彼が使わない理由ではなく、使った場合の利点を口にした。


マルティンは別の点を気にしていた。


「殿下。相手が口座を持っていなければ、結局は引き出して払うことになります」


「そうですね」


「つまり、参加者が少ない最初は、便利さも小さい」


「その通りです」


「では、うちも口座を持ちます。ロートマン家だけ入って、こちらが入らないのでは、試す意味が薄い」


ヤーコプが横を見た。


「私のために入るように聞こえますな」


「あなたのためではありません。支払先が一つ増えるからです」


「それなら安心しました」


2人とも笑わなかった。


だが、それで十分話は通じていた。


その日の夕方、修正を入れた案を父上へ持っていった。


父上はすでに概要を知っている。あの危機処理を実際に見ていたし、同じ手作業を繰り返す限界も理解している。


だから、必要性の説明から始める必要はなかった。


「範囲はヴァイスブルクだけか」


「はい。まずは大口取引の任意参加だけです。地方へ参加を命じることもしません」


「商人には見せたか」


「ヘルツナー商会とロートマン家は、限定的なら口座を持つと言っています」


「国庫との分離は?」


「会計も保管も分けます。通常の国庫支出へは回せません」


父上は書面へ視線を戻した。


「お前の案で、一番重要なのはそこだな」


「国庫との分離ですか」


「便利さではない。国が預かると言いながら、必要になれば使うのでは、ただの別の財布だ」


俺はうなずいた。


父上はさらに数枚を読んだ。


「失敗するとしたら?」


「運用上なら、鑑定ミス、帳簿記載の誤り、引出し時の混乱、保管事故。制度としては、参加者が増えず使われないこともあります」


「取り付けが起きる可能性は」


「預かった貨幣を貸さないので、資産が正しく保管されている限り、預り額と現物が大きくずれる構造にはしません。ただ、同時に大量の引出しが来れば受渡実務は詰まります」


「だから事前連絡か」


「はい」


父上は椅子にもたれた。


「国が関わる以上、失敗すれば『任意だった』だけでは済まない。商人は王家の看板を見て預ける」


「分かっています」


「なら、試せ」


あっさりした言葉だった。


俺が返事をする前に、父上は続けた。


「ただし、範囲を広げるのは結果を見てからだ。今まで詰めた条件のまま、ヴァイスブルク限定で試せ。当面は運用報告を私にも出せ」


「承知しました」


「それから、名前は急いで立派なものを付けるな」


「そこまで考えていません」


「お前は時々、仕組みより先に完成した姿を見ている」


マルティンにも似たことを言われたばかりだ。


「気をつけます」


「なら、広げる前に一度止まって結果を持ってこい」


父上は次の政務書類へ手を伸ばした。


話は終わりらしい。


認可が出てから、実際に振替所が動くまでにはさらに時間がかかった。


といっても、巨大な建物を建てるわけではない。


既存施設の一角を区切り、保管場所の鍵と受渡手順を変え、鑑定に入る者を決め、帳簿の様式を揃える。利用者へ規則を説明し、最初の預入日を分ける。


地味な作業ばかりだ。


だが、こういう地味なところで一つでも穴があれば、たぶん後で派手に困る。


俺は毎日そこへ張り付くことはしなかった。


カスパルと実務側が動かしている以上、王太子が受付の横に立っていても邪魔だ。


代わりに、数日おきに進捗を聞いた。


ヘルツナーの物流試行も同じ時期に準備が進んでいた。荷札の見本が届き、番号欄、荷主、出発地、到着地、荷姿、封印確認の欄が並んでいる。


最初の標準木箱も2種類試作されたが、マルティンからは「一方は重すぎるので小さくする」とだけ報告が来た。


俺は口を出さなかった。


人が持てない箱を作っても仕方がない。


その頃、ゾフィーからまた手紙が届いたので、返事を1通書いた。アマーリエにも1通書いた。


ゾフィーには、王都でも朝夕は少し冷えるようになったことと、最近馬に乗ったときのことを書いた。


アマーリエには、専門家と最終判断の境界について、今まさに公設の振替所を作る中で考えている、とだけ書いた。制度の細部は書かず、俺が決めたのは目的と越えてはいけない線で、鍵の本数や帳簿の訂正方法は実務官に任せている、と。


書き終えた夜、俺はふと、2人への手紙を取り違えていないか確認した。


取り違えてはいなかった。


さすがに、それをやれば洒落にならない。


確認するなら、封蝋を押す前に限る。


振替所の試行初日、朝から銀貨の袋がいくつも運び込まれた。


結局、最初に現物が要ることには変わりない。


参加者は、自分の残高の元になる貨幣を預けなければならないのだから当然だ。


違うのは、その後だ。


鑑定人が貨幣を確認し、受入担当が量を確かめ、帳簿へ残高が記録される。袋は保管場所へ運ばれ、利用者には記録が渡される。


俺は邪魔にならない位置からしばらく見ていたが、午前の半ばには戻った。


初日から王太子が見張っているのも、利用者には落ち着かないだろう。


最初の数日は預入と引出しだけで、振替はなかった。


参加者同士の取引がなければ、当然そうなる。


俺は少し拍子抜けしたが、これも制度というものだ。作ったからといって、都合よく最初の取引が起きてくれるわけではない。


そして4日目の午後、若い財務書記が俺の執務室へ来た。


「殿下。最初の振替指図が入りました」


俺は読んでいた書類から顔を上げた。


「誰から誰へ?」


「ヘルツナー商会から、参加している卸商へです。通常の仕入代金です」


危機処理ではない。


救済でもない。


ただの商売だ。


それがよかった。


「金額は?」


「184ターラー12グロッシェンです」


「残高は足りている?」


「確認済みです。受取側も口座があります」


俺は立ち上がった。


「見に行ってもいいか」


書記は一瞬だけ迷った。


「……担当者が緊張すると思います」


「では、少し離れて見る」


自分でも子どもみたいだと思う。


18歳なのだから、実際まだ若いと言えば若いが、それにしても王太子が帳簿の1行を見るためにわざわざ歩く必要はない。


それでも見たかった。


振替所では、担当者が2人で指図書を確認していた。


ヘルツナー商会側の残高。受取側の残高。署名。金額。


間違いがないことを確かめ、一方の帳簿から184ターラー12グロッシェンを減らし、もう一方へ同額を加える。


ただ、それだけだった。


銀貨の袋は動かない。


荷車も出ない。


護衛もいらない。


机の上で、数字が移る。


前世で見慣れていた振込に比べれば、ずいぶん手作業だ。通信もなければ、端末もない。記帳は人間がするし、訂正にも時間がかかる。


だが、今回の支払いに使われるはずだった重い銀貨は、保管場所から出なかった。


担当者が記録を閉じる。


「完了しました」


若い書記が俺を見た。


俺はうなずいた。


「次も同じ手順で」


「はい」


それ以上、言うことはなかった。


最初の一件だから特別に見に来ただけで、次からは俺がいない方がいい。


部屋を出ると、廊下の向こうから別の官吏が書類を抱えて走ってきた。振替所とは関係のない税務の書類らしい。外では荷車の音がし、窓の下を兵士が2人通っていく。


制度が一つ増えても、王宮の仕事が減るわけではない。


父上の執務室へ行くと、ちょうど会議が終わったところだった。


父上は席に残り、机いっぱいに広げた別件の報告を読んでいる。


「終わったか」


「はい。最初の通常振替が成立しました。184ターラー12グロッシェンです」


「銀貨は?」


「動かしていません」


父上はそこで初めて顔を上げた。


「そうか」


それだけ言って、手元の報告書を1枚俺の方へ押した。


「では、こちらも見ろ。明日の会議で使う」


俺は紙を受け取った。


振替所の話は、ひとまずそこまでだった。


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