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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第2章 王太子から国王へ

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第25話

第25話を読むための貨幣価値の目安


ファルケンマルク東部では、銀貨を基準とするターラーが主要な貨幣単位として使われています。そしてその下には補助通貨があります。

基本的な交換レートは「1ターラー=30グロッシェン=360ペニヒ」です。


一般的な都市労働者の日給は、およそ9~12グロッシェン。

年間の現金所得は、およそ80~100ターラーです。


日常的な金額では、

・パン1個:11~14ペニヒほど

・普通の外食1回:3グロッシェン前後

・都市の家族向け家賃:月2~3ターラーほど

・シャツ:1~2ターラーほど

・靴:2~3ターラーほど

・一般的な乗馬:150~250ターラーほど

が一つの目安になります。


そのため、大きな金額については、おおよそ次のような感覚です。


100ターラー

・一般労働者1人の年間所得に近い金額。

1000ターラー

・小規模な資産家や事業として意識される金額。

1万ターラー

・有力商人の取引や大型事業で動く金額。

10万ターラー

・大商会、大貴族、大規模な国家事業まで関係してくる金額。

100万ターラー

・国家政策や戦争に関わる規模の金額。


ついでにこの時点のファルケンマルク中央政府の年間歳入は、およそ600万ターラーです。

ヘルツナー商会が支払いを落としたという報せが王宮へ入ったのは、昼をかなり過ぎてからだった。


額は1万2000ターラー。


最初にその数字を聞いたとき、俺は大きな支払事故だとは思った。だが、それだけで王宮まで動く話なのかは分からなかった。


「相手は大口の金属商です。満期額1万8000ターラーのうち、6000ターラーは本日支払われました。残額が1万2000ターラーです」


財務官が卓上の紙を指で押さえた。


会議室には財務の者だけでなく、司法実務を扱う書記官も呼ばれていた。廊下では別の役人が早足で行き交い、開いた扉の向こうを、帳簿を抱えた小吏が何度も通る。


「賃金、倉庫代、運送費の4000ターラーと、小口仕入先への3000ターラーは支払い済みです。商会主は営業を止めないための支払いを優先したようです」


父上は報告書から顔を上げた。


「ヘルツナーは今朝になって初めて金がないと気付いたわけではあるまい」


「はい。予定されていた国外からの2万ターラーが60日目まで遅延し、1万5000ターラーの借換も不成立となっています。その後、商会側で現金化と延期交渉を進めています」


差し出された別紙には、その内訳もあった。


優良手形などの早期現金化が5000ターラー。換金しやすい在庫の売却が4000ターラー。支店や取引先からの資金移送が3000ターラー。将来受け取るはずだった債権の前倒し回収が7000ターラー。


合計1万9000ターラー。


さらに別の大口債権者から、合わせて7000ターラーの支払延期まで取っている。


かなり動いている。


無策のまま資金を使い切った商人ではない。打てる手を打って、それでも今日の支払いに届かなかったらしい。


「30日間の資金計画では、もともと8万9000ターラーを用意して、8万4000ターラーを支払う予定でした。しかし国外入金と借換が崩れた。商会主の手当て後でも、30日内の現金支払に対して4000ターラー足りません」


俺は最初の紙へ戻った。


18日目朝の現金は1万3000ターラー。その日に必要だったのは、金属商1万8000ターラー、賃金など4000ターラー、小口3000ターラー。全部で2万5000ターラー。


マルティン・ヘルツナーは、商売を止めればさらに価値が落ちる支払いと小口を先に払い、大口へ6000ターラーを入れた。


そこまでは分かる。


「この金属商は、今日受け取るはずだった1万2000ターラーを、この先何に使う予定でした?」


財務官が一瞬だけ黙った。


「そこまでは、まだ確認できておりません」


その返答を聞いたところで、前世の記憶が引っかかった。


七年戦争が終わったころのアムステルダムで、大商人の破綻が一社だけで終わらず、手形と信用でつながった取引先へ連鎖的に広がっていった。たしかそのことがあった気がする。


目の前の事件が同じだとは限らない。


銀行制度も市場の大きさも違う。


それでも、見る場所のヒントにはなる。


「金属商の支払予定を確認してください」


俺は言った。


「まず数日以内に大きな支払いがある相手。その相手も、受け取る予定だった金をすぐ次へ回すのか。金額と期限の大きいところからでいいです。ヘルツナー商会の1万2000ターラーが止まったことで、次に誰の支払いが詰まるのかを知りたい」


司法の書記官が確認するように聞いた。


「ヘルツナー商会の債務だけでなく、取引先の支払予定まで調べるということですか」


「はい。まず、どこまで影響が広がる可能性があるのかを見たいんです」


父上がこちらを見た。


「財務だけでは済まなくなりそうだな」


「そう思います」


「司法も、王都の商取引も絡む。私自身が最初から前へ出れば、ヘルツナーの支払いを王国が支えると受け取る者も出るな」


父上は少し考えてから続けた。


「レオン。この件、おまえが最後まで見ろ」


会議室の空気が少し変わった。


任されること自体は、もう珍しくない。だが、今回は一つの部署の中だけで終わる仕事ではないらしい。


「承知しました」


「ただし、王国がヘルツナー商会を保証するのではない。王権を使って債権者へ損を飲ませるのでもない。強制処分の保全その他、王の名で出す命令は私が承認する」


「はい」


「必要な者は使え。国庫から金を出す案を持ってきたら、その理由は相当しっかり聞くぞ」


「できれば持ってきたくありません」


父上が鼻で短く息を出した。


その日の夕方には、最初の追跡結果が戻ってきた。


金属商には数日以内の仕入代金と運送関係の支払いがあり、その一部は今回の未収が埋まらなければ延期交渉が必要になる。さらに、その受取先にも短期の支払予定があった。


まだ次の不履行は起きていない。


だが、ヘルツナー商会の1万2000ターラーが止まったことで、別の商人の支払いまで遅れる可能性は出ていた。


翌朝から調べる範囲を広げることにした。


* * *


マルティン・ヘルツナーが王宮へ来たのは、その日の夕方だった。


朝から取引先を回っていたらしく、外套の裾には乾いた泥が残っていた。目の下にははっきり隈がある。それでも、席に着くと背筋は伸びたままだった。


「殿下、先に申し上げます。商会の金庫が空に近いことは否定いたしません」


開口一番、それだった。


「しかし、商会に価値がないという話ではありません。国外の2万ターラーは消えたのではなく、先方の都合で60日目へ延びています。回収できる債権も、動いている取引も残っております」


「今日払えないことと、60日後にも払えないことは別だと?」


「その通りです」


マルティンは持参した帳簿の写しを開いた。


「私はすでに、売れる在庫を売り、早く換えられる手形を換え、支店から資金を戻しました。将来債権も前倒ししております。別の大口先には7000ターラー分を待ってもらった。それでも今日、足りなかった」


声に悔しさはあったが、弁解する調子ではない。


「金属商には6000ターラーを入れました。賃金と運送を止めれば倉庫も荷も動きません。小口を全部落とせば、明日から仕入れそのものが細ります。私が何を優先したかは、帳簿でご確認いただけます」


「確認します。不正な資産移転や、身内へ先に逃がした資産がないことも含めて」


そこで彼の目が少し鋭くなった。


「当然でしょう。ただし、調べ終える前に倉庫を差し押さえ、船荷をばら売りし、取引契約を切られれば、その確認が終わるころには本当に価値がなくなります」


「そこは私も気にしています」


俺は昼から集めた支払予定の紙を見た。


「金属商の先にも支払いが続いていました。あなたの商会だけの話では済まない可能性がある」


マルティンはしばらく紙を見ていた。


「……金属商が待てない理由まで調べられたのですか」


「まだ一部です。明日から大口を中心に広げます」


「でしたら、うちの帳簿係も出します。取引先同士の関係は、王宮側だけで一から追うより早い」


自分の商会を調べられている最中に、こちらへ人を出す。


少なくとも、何もせず結果を待つつもりではないらしい。


「お願いします。ただし、商会側の資料だけで判断はしません」


「当然です」


「それと、営業を続ける場合でも、あなたの取り分はかなり減る可能性があります。利益の持出し、新規の大型投資、関係者への資産移転にも制限を掛けることになる」


「清算すれば、取り分どころか商会そのものがなくなります」


返事が早かった。


「商会が残れるなら、条件は聞きます」


助けてくれ、とは言わなかった。


少なくとも、救済されることを当然視する相手よりは話を詰めやすい。


* * *


翌日から、王宮の一角が帳簿と契約書で埋まった。


ヘルツナー商会の帳簿係が箱を運び込み、財務官が数字を書き写し、司法の実務者が印章と日付を確かめる。金属商側からも代理人が来た。


俺の前にも紙は積まれたが、一枚ずつ照合する仕事まで自分で抱える気はない。


契約の成立条件なら司法の者の方が詳しい。数字の突合なら財務官の方が早い。


俺は、支払う側と受け取る側のつながりを追った。


ヘルツナー商会から金属商へ1万2000ターラー。


金属商から別の取引先へ数日後の支払い。


ところが、その取引先には逆にヘルツナー商会が持つ受取債権があった。


別のところでも、二つの商会を挟めば似た組み合わせが出る。


紙の上では別々の支払いなのに、同じ金がぐるりと回るような形になっている。


俺はそこで、前世のアムステルダムの話をもう一度思い出した。


信用の連鎖は危機を広げる。


だが、つながりが見えているなら、全部を銀貨で順番に渡さなくても整理できる部分があるのではないか。


「この三つの債権、相手方が同意すれば支払先を付け替えられますか」


司法の実務者が契約書を並べた。


「一つ目は可能です。二つ目も譲渡条項に問題はありません。三つ目は相手方の同意が必要です」


「相殺扱いになりますか」


「いいえ。債権譲渡と支払先の変更を別々に記録した方が安全です」


「財務側で同じ金額を二重に消さないように確認してください」


「承知しました」


計算を進めると、現金を動かさずに整理できそうな額が6000ターラーほど出た。


その日の午前、財務官から別の報告が入った。


「大口債権者の一つであるロートマン家から、ヤーコプ・ロートマン殿が王宮へ来ております」


「本人が?」


「はい。こちらの調査に異議を述べたいとのことでしたので、まず待っていただいております」


ロートマン家はヘルツナー商会と以前から取引があり、今回も債権者側にいる。こちらとしても、ヘルツナー側とは別の目で資産を見られる人間が欲しかった。


「会います。こちらからも話があります。通してください」


「承知しました」


しばらくして、ヤーコプ・ロートマンが案内されてきた。


30代半ばほど。服装は派手ではないが、生地も仕立ても良い。


彼は決められた位置で立ち止まり、正式な礼を取った。


「お目通りを賜り、ありがとうございます。ロートマン家のヤーコプ・ロートマンでございます」


「こちらこそ来てもらって助かります。まず、そちらの用件を聞きます」


「ありがとうございます」


ヤーコプは顔を上げた。


「王宮がヘルツナー商会の債権者へ一律の支払猶予を命じるとの噂が出ております。もし事実であれば、私どもとしては異議を申し上げなければなりません」


「一律の猶予を命じるつもりはありません。国庫で不足を埋めるつもりもありません」


ヤーコプの表情がわずかに変わった。


「では、王宮は何をなさるのでしょう」


「まず数日だけ、主要資産の新しい強制処分を止められないか父上へ相談します。その間に、営業を続けた場合と今すぐ清算した場合で、債権者へいくら戻るかを比べたい」


「営業継続を前提にした査定ではない、と理解してよろしいでしょうか」


ようやく、聞きたかったことが分かった。


王太子が案件を担当している。それだけで、結論まで決まっているのではないかと疑っているのだ。


「はい。清算した方が債権者の回収額が高いなら、私はその数字を父上へ出します。保全を頼むのは、判断する前に倉庫や船荷をばらされて数字そのものが変わるのを避けたいからです」


ヤーコプは少し黙ったあと、頭を下げた。


「それでしたら、異議の半分は取り下げます」


「半分?」


「残り半分は、査定を誰がするかです。ヘルツナー商会だけで算定した価値を、私どもはそのまま信用できません」


「そこは同意見です」


俺は用意していた紙を差し出した。


「ロートマン家にも査定へ参加してもらいたい。必要な範囲の帳簿と契約は、司法側立会いで見てもらいます」


ヤーコプは紙へ目を落とした。


「私どもはヘルツナー殿のために数字を甘くする理由がありません」


「だから頼みたいんです」


「逆に、売りに出る資産が安ければ買いたいと考える者でもありますが」


なるほど。債権者として厳しく見るだけではなく、清算になれば買い手側へ回る可能性もあるわけか。


「査定中にロートマン家だけが先に資産を押さえることは認めません。それから、査定をあなた方だけに任せるつもりもありません。ヘルツナー側、財務官、ほかの債権者の数字と突き合わせます」


ヤーコプは俺の顔を見た。


「私どもを信用しているからお任せになるわけではない、と」


「ヘルツナー商会だけで値を付けるより、厳しく見る側もいた方がいいと思っています。あなた方の数字が厳しすぎれば、今度はほかが異論を出すでしょう」


そこで初めて、ヤーコプの口元がほんの少し動いた。


「よく分かりました。その条件でしたら、ロートマン家として査定に参加いたします」


礼儀は崩さない。


こちらへ都合のいい数字を出してくれる相手ではなさそうだ。


だからこそ、ヘルツナー側の見積もりと突き合わせる意味がある。


午後、俺は父上の執務室へ行った。


「主要資産だけ、数日の保全をお願いしたいです」


父上は命令案を読んだ。


「支払いそのものを止めるのではないのだな」


「はい。営業に必要な通常支払まで止めれば、自分たちで価値を壊します。新しく倉庫や船荷をばらして取り立てる動きだけ、査定が終わるまで止めたいです」


前世の1927年を思い出していた。


昭和金融恐慌では、取り付けが広がり、支払猶予まで使われた。


もちろん、今ここには同じ銀行制度も中央銀行もない。全国規模の支払猶予を真似するつもりもない。


使えるのは、もっと小さな部分だけだ。


一斉に取りに走ることで価値が壊れるなら、対象を絞って短い時間を作る。


「今のまま債権者がそれぞれ倉庫や船荷を押さえ始めると、営業を続けた場合の価値も、清算した場合の価値も下がる可能性があります。数日だけ止めて、その間に両方の数字を出したいです」


父上は同席した司法官を見た。


「この範囲なら、既存の権限でできるか」


「期間と対象を明記し、債権そのものへ干渉しないのであれば可能です」


「財務は?」


「国庫支出を伴いません」


父上はもう一度文面を読んだあと、署名した。


「よし。三日だ。三日の間に、営業を続けた場合の回収見込みと、今清算した場合の回収見込みを出せ。延ばすなら、その理由も持ってこい」


「はい」


紙を受け取る。


これで他人の取り立てを一時止める。


* * *


19日目の夜までに、資産再評価の大枠が出た。


帳簿上の残存資産は16万8000ターラー。残存負債は14万3000ターラー。


帳簿だけなら、まだ2万5000ターラーの持分がある。


取引を続け、期限を待ち、通常の相手へ通常の形で回収していくなら、現実的な回収価値は約14万7000ターラー。


負債を上回るのは4000ターラー程度まで縮む。


一方、今すぐ在庫を急いで売り、長い債権を値引きし、取引契約が切れることまで含めて清算すると約12万6000ターラー。


負債に1万7000ターラー足りない。


ヘルツナー商会側の見積もりと、ロートマン家を含む債権者側の見積もりには細かい差があった。


それでも、即時清算より営業を続けた方が回収額が大きくなるという点では一致した。


「ただし、14万7000ターラーは今ここにある現金ではございません」


ヤーコプが言った。


「国外の2万ターラーが60日目に入らなければ前提が一つ崩れます。信用低下で取引がさらに縮めば、営業継続時の価値も下がる。追加の不履行が出れば、債権者が再び一斉回収へ動く可能性もあります」


「そこはヘルツナー側も否定しません」


マルティンが答えた。


「国外入金の文書は出します。営業見込みも毎週更新しましょう」


俺は別の紙を引き寄せた。


「最初の未払い1万2000ターラーについては、6000ターラー相当を現金なしで整理できそうです」


金属商の代理人がこちらを見る。


ヘルツナー商会が持つ受取債権の一部を、関係者の同意を得て譲渡する。金属商側が今後払う予定だった相手との間でも支払先を付け替える。


誰かの債権を勝手に消すわけではない。


6000ターラーの現金が新しく生まれるわけでもない。


複数の「受け取る予定」と「払う予定」を組み直すことで、実際に銀貨を動かさなくても済む部分を作る。


「残る6000ターラーについては、60日目まで待っていただきたいと考えています」


金属商の代理人はすぐには答えなかった。


「その場合、私どもが負うリスクを明確にしていただけますか」


もっともな質問だった。


「第一に、予定されている国外入金がもう一度遅れるリスクがあります。第二に、この60日間でヘルツナー商会の信用がさらに落ち、営業収入や資産価値が今の見込みを下回る可能性があります。第三に、別の大口支払いで不履行が出れば、今回の合意自体が崩れる可能性があります」


代理人はうなずいた。


俺は続けた。


「だからこそ、その間は利益の持出し、大型投資、関係者への資産移転を禁じます。主要資産の処分も監督下に置き、資金繰りは定期的に報告させる。リスクをなくすことはできませんが、増やす行動は制限できます」


「今すぐ取り立てる場合との比較は?」


「即時清算では、全債権者合計で約1万7000ターラー不足する見込みです。あなた方が先に資産を押さえれば回収できる可能性はあります。ただ、皆が同じことをすれば清算価値自体がさらに下がります」


代理人は手元の紙を見た。


「つまり、待てば確実に戻るのではない。今取りに行く場合より、全体として回収が増える見込みがある、という話ですね」


「そうです」


そこでヤーコプが口を開いた。


「ロートマン家も、その理解です」


金属商の代理人が彼を見る。


「ロートマン殿は待てるからそう言えるのでは?」


ヤーコプは一度だけ首を振った。


「待つことで回収見込みが下がるなら、私どもも待ちません。今回は、今売るより時間を置いた方が回収できる可能性が高い。だから時間を売る。その条件を詰めているのです」


言い方は商人そのものだった。


慈善ではない。


マルティンもそこに異論はなかった。


「所有者として、私が先に負担するべき条件があることも承知しています」


ヤーコプが彼へ向き直った。


「帳簿上2万5000ターラーあった持分は、現実的な評価では4000ターラーほどです。再建中は利益を自由に持ち出せない。新しい大きな投資も、勝手にはできない。それでも営業には残られますか」


「残ります」


「理由を伺っても?」


「今の商会で、どの取引先が一週間なら待ち、どこは一日も待たないかを一番知っているのは私です。私を外して回るなら外せばよい。しかし、回らないなら働きます」


「分かりました」


金属商側は、残る6000ターラーを60日目まで延期する代わりに、資産移転の制限と定期的な資金報告を条件として求めた。司法側が文言を整え、財務側が報告項目を詰める。


夜が深くなるころ、ようやく合意がまとまった。


最初の未払い1万2000ターラーは、6000ターラー分を債権譲渡と多者間の決済整理で処理し、残る6000ターラーを60日目まで延期する。


国庫からは1ターラーも出さない。


債権者に元本放棄を強制しない。


マルティンは営業実務に残るが、所有者としての自由には制限を掛ける。


誰か一人が譲れば済む話ではなかった。


それぞれが、自分の損を増やさない条件を出し、その条件同士がぶつからないところまで詰めた結果だった。


* * *


合意ができても、危機そのものが消えたわけではない。


18日目の終わり、ヘルツナー商会の現金はほぼ0だった。


19日目から30日目まで、もともと予定されていた入金は2万8000ターラー。そのうち6000ターラー分は非現金の決済整理へ回ったため、実際に入る現金は2万2000ターラーになった。


現金支払は2万ターラー。


30日目に残ったのは約2000ターラー。


31日目から59日目までには約2万4000ターラーが入り、営業維持と小口支払で約2万2000ターラーが出た。


59日目の現金は約4000ターラー。


その間にも、商会の信用は以前のままではなかった。


以前なら短い交渉で延ばせた支払いに追加条件を付けられ、手形を割るにも値が悪い。現金払いでなければ取引を再開しない相手もいた。


マルティンは定期報告のたびに、営業の状況を具体的に持ってきた。


どの荷が戻ったか。


どの取引先が現金払いなら再開したか。


どの支店では取引量が落ちたままか。


ヤーコプも債権者側の代表として何度か数字を確認しに来た。


ある日、財務官が報告書へ「資金繰りは安定化」と書いたとき、ヤーコプがそこを指した。


「この表現は少し広すぎるかと存じます」


財務官が眉を寄せる。


「現金不足は改善しております」


「はい。ですが、信用まで戻ったようにも読めます。私どもはまだ条件を厳しくしておりますので」


俺も文面を読み直した。


確かに、数字だけ見れば改善している。


だが、「安定化」と書くと、商会全体が元へ戻ったように見える。


「『短期支払の見通しは改善』にしてください。信用低下と資産価値の毀損は別に残す」


財務官は少し嫌そうな顔をした。


「長くなりますな」


「短くして意味が変わるよりは」


「承知しました」


教師をしていたころ、生徒の答案に「経済が安定した」とだけ書かれて、何がどう安定したんだ、と赤を入れたことがあった。


今度は王宮の報告書で同じことを言っている。幅広い便利な単語で楽をしたがるのはこっちの世界でも変わらないな。俺も適当な表現が思い浮かばないときは楽をしてしまう。


ただ、扱う仕事が国家レベルになると、一つの単語でも受け取られ方を考えなければならない。最近になって、その面倒さを自覚し始めてきた。前世の政治家達の言い回しを参考にする日が来るとは。いつか「記憶にございません」も使うのだろうか。


60日目の朝、国外からの2万ターラーが着いた。


財務官は金額を確認し、商会の帳簿係は受取記録を付け、司法の者は延期契約の期日を確かめた。


俺も、まず次の支払い表を見た。


延期していた6000ターラー。


別の大口満期8000ターラー。


合わせて1万4000ターラーを支払う。


それまで残っていた約4000ターラーと合わせれば、支払い後も約1万ターラーを最低限の運転資金として残せる。


金属商への6000ターラーが実際に支払われたという確認が届いたのは昼前だった。


マルティンはその日の午後、王宮へ来た。


「殿下、延期分の支払いは完了いたしました」


「確認しています」


「ありがとうございます」


「まだ再建が終わったわけではありません」


「もちろんです」


ヘルツナー商会は潰れなかった。


だが、資産価値は落ち、信用も落ちた。マルティンの持分価値は大きく削れ、自由も制限されている。


大口債権者は元本を捨てなかった代わりに時間とリスクを負担した。


小口と営業に必要な支払いは先に通した。


国庫は穴を埋めていない。


「今後も報告は続けてください。営業判断へ細かく口を出すつもりはありませんが、合意した制限に触れる処分は事前に」


「承知しております」


マルティンは立ち上がって礼をした。


そのまま出ていくかと思ったが、扉の前で一度止まった。


「殿下」


「何です?」


「今回、王宮に持ち込まれた帳簿の中には、私どもの取引先、運送経路、国外の相手先までかなりの情報が入っております」


「ええ」


「再建中は当然、必要な報告を続けます。ただ、その先については、いずれ扱いを決めていただければと」


言われてみれば当然だった。


今回の危機対応で、王宮はヘルツナー商会の取引先や運送経路、国外の相手先までかなり深く知った。


再建が終わったあとも王宮がこうした報告を受け続けるのか。それとも監督を終え、通常の民間商会との距離へ戻すのか。


今ここで決める話ではない。


「分かりました。再建の見通しが立った段階で、改めて話しましょう」


「承知しました」


マルティンは今度こそ出ていった。


* * *


夕方、父上へ最終報告を持っていった。


父上は最後まで読み、数字の欄を二か所だけ指で戻って確認した。


「短期の資金繰りは、これでひとまず山を越えたか」


「はい。ただし信用低下と資産価値の毀損は残っています。再建が成功するかは、ここからの営業次第です」


「国庫支出は」


「ありません」


「私人の債権を消したか」


「消していません」


「ヘルツナー本人は」


「持分価値の大半を失い、再建中の制限を受けます。不正は確認されなかったので、営業実務には残します」


父上は報告書を閉じた。


「なら、この件はそれでよい。制限の解除は勝手に決めるな」


「はい」


それだけだった。


報告書を残して執務室を出る。


廊下では、財務の若い書記が帳簿の束を抱えてこちらへ向かってきた。俺を見ると足を止める。


「殿下、今回の決済整理に使った一覧ですが、保存区分をどういたしましょう」


「通常の案件記録で。勝手に捨てないようにしてください」


「承知しました。それと……一つよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「似たような不払いが別の商会で起きた場合も、また今回のように、各商会から債権と支払予定を一から集めるのでしょうか」


俺は帳簿の束を見た。


今回は、人を呼んで、紙を集めて、誰が誰へ払うのかを一件ずつつないだ。


一つだったから何とかなった。


同じ規模が二つ重なったら、たぶん王宮の廊下が帳簿で埋まる。


「……今のままなら、そうなるな」


書記も自分の腕の中を見た。


「そうですか」


あまり嬉しそうではない。


俺も嬉しくない。


「とりあえず今回は保存をお願いします。次も同じやり方をするかは、別に考えます」


「承知しました」


書記と別れて階段を下りる。


窓の外はもう暗くなり始めていた。


危機そのものは、ひとまず収まった。


ただ、王宮へ帳簿を運び込んで人手でつなぎ直さなければ、誰が誰へ払うのかさえ分からない。


今回うまくいった方法を、毎回同じように繰り返す気にはなれなかった。


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