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ある転生王の一代記  作者: アレグリア
第2章 王太子から国王へ

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20/70

第19話

春も終わりに近づいた頃、父上の執務机の前に置かれた紙は、2組だけだった。


いつもなら、俺が同席する政務ではもっと多くの書類が動く。父上が目を通し、カスパルが要点を述べ、担当の者が呼ばれ、必要なら別の書類が増える。俺はその横で話を聞いたり、許された範囲で意見を求められたりする。


今日は違った。


机の上にある2組の書類を、父上は俺のほうへ少し押した。


「この2件のうち、先に本修繕へ回すものを1つ選べ。今から片方を始めれば、もう片方は次に大きく工事できる時期まで待つことになる」


一瞬、意味を取り違えたかと思った。


「ぼくが、ですか」


「そうだ」


父上は椅子の背にもたれず、いつものようにまっすぐ俺を見ていた。


「どちらも担当で調査を終えている。費用の見積もりも出ているし、危険な箇所には応急の措置もしてある。工事を始める前に必要な確認も済んでいる。どちらを先にしても、明らかな誤りとは言えんところまでは整理させた」


そこで一度、父上は机上の2組へ目を落とした。


「そのうえで、お前が選べ。重大な見落としが見つからない限り、私はその選択を採る」


夜会で、自分の言葉に勝手に重さがつくことは嫌というほど分かった。


あれはまだ、俺が何かを決めたわけではない。街道について普通に感想を言っただけでも、王太子の言葉として受け取られる。その面倒さを知ったばかりだ。


今回は最初から逃げ道がなかった。


俺が言ったことが政治的な意味を持つのではなく、俺の答えを使って実際に片方を進める、と父上は言っている。


「正式に命令するのも、支出を認めるのも父上ですか」


「もちろんだ。お前に国庫を好きに使う権限を渡す話ではない。今日ここにある1件について、最終の選択を任せる」


そこははっきりしていた。


王太子だからといって国の財布が俺の財布になったわけではない。そんな仕組みなら、たぶん国は長くもたない。


父上の右手にはカスパルが立っていた。相変わらず、政務官というより鎧を着せたらそのまま戦場へ出られそうな体格をしている。今日はその巨体の前に、細い木札が2枚置かれていた。片方には橋、もう片方には水路を示す簡単な印がついている。


「まず、読んでみろ」


「はい」


椅子に座り、橋のほうから開いた。


王領の市場町と周囲をつなぐ主要な橋。橋脚と路面の一部に傷みがあり、すでに応急の補強は済んでいる。人や馬、軽い荷車なら今も通れる。ただし、重い荷を積んだ荷車には制限がかかっていた。


通れないわけではない。重い荷車は別の渡河点を使えばいい。ただ、そのためには遠回りになる。


書類には、どの地域からどの市場へ荷が流れるか、迂回した場合にどの道へ回るかが簡単な図で示されていた。毎日まったく同じ台数が通るわけではないから、損失額が1つの数字になっているわけではない。それでも、不便が出ること自体はかなり確かだった。


「橋は、今の制限を守っていれば急に落ちる可能性が高いわけではないんですね」


俺が尋ねると、橋を担当している実務官が答えた。


「はい、殿下。少なくとも、現在確認している傷みから、このまま制限を守って使う限り、近いうちの崩落を強く見込む状態ではございません。ただし、補強は本修繕の代わりではありませんので、制限は維持する必要があります」


「遠回りは、どのくらい困りますか」


質問が雑だった。


担当官も一瞬だけ考えたらしい。


「荷によります。腐りやすい物は時間が増えることを嫌いますし、荷車を多く使う商人ほど人足や馬の負担が増えます。農村から市場へ持ち込む場合も同じです。とはいえ、橋がなければ一切運べない、という地域ではありません」


広く、薄く、確実に痛い。


そんな感じだ。


しかも、広いというのが厄介だった。橋そのものの近くに住んでいる者だけの話ではない。そこを通って市場へ来る荷も、そこから別の場所へ出ていく荷もある。誰が一番困るとも言いにくい代わりに、細い負担があちこちへ伸びている。


「制限を続けた場合、町の側で荷を小分けにするような対応はありますか」


「すでに行っている者はおります」


橋の担当官が答えた。


「ただ、積み替えには人手が要ります。軽くすれば橋を通せる荷でも、そこで別の費用が生じますので、遠回りとどちらを選ぶかは商人ごとに違います」


つまり、代替手段があるから無傷というわけでもない。


迂回するか、積み替えるか。どちらにしても、壊れていない橋をそのまま渡るより面倒で高くつく。


橋が直れば恩恵を受ける人数は多い。商人だけでもない。作物を売りに行く者、荷を運ぶ者、町へ向かう者。毎回少しずつ余計な時間と金がかかっているなら、積み重なればかなりのものになる。


次に、もう1組を開いた。


こちらは別の王領にある堰と取水路だった。


数村が同じ場所から水を引いている。通常の水量なら今のままでも使えるが、傷んだ箇所から水が逃げやすくなっていて、川の水が少ない時には必要な量を安定して取れない可能性がある。


今はまだ、畑で使う水が本格的に増える前だ。今からなら、取水を大きく邪魔せずに本修繕を終えられる見込みらしい。けれど、この時期を逃せば、作物が水を必要とする間は大きく手を入れにくくなる。


今すぐ困っているわけではない。けれど、これから水を多く使う時期に足りなくなれば困る。


「今年、水が少なくなる可能性は」


水利を担当する実務官は、すぐには数字を口にしなかった。


「分かりません、殿下。過去に水量が落ちた年の記録はございます。しかし、今年がそうなるかを申し上げられるほどのものではありません」


「少なくなった場合、別のところから引くことは」


「一部で井戸や小さな溜めを使うことはできます。ただ、畑へ必要な量を同じだけ補うのは難しいかと」


橋との違いは分かりやすかった。橋は、直さなければかなりの人が確実に少しずつ困る。取水路は、直さなくても何も起こらないかもしれない。その代わり、低水量になれば影響を受ける人数は橋の利用者より少なくても、1人1人に出る損害はずっと深くなる。作付けそのものがうまくいかない、あるいは収穫が大きく減るとなれば、遠回りで荷車を走らせるのとは話が違う。


だからといって、すぐ取水路を選べるわけでもない。前世なら、こういう時は数字を並べたくなる。影響する人数、工事費、被害が起こる確率、起きた時の損失。考え方としては今でも使えるが、肝心の数字が揃わない。橋の迂回で1日にどれだけ余計な費用が出るのかは荷や時期で変わるし、今年どこまで水量が落ちるかも分からない。


水不足になる見込みが分からないのに、俺が勝手に3割だの4割だのと数字を置けば、計算自体はいくらでもできる。でも、最後に細かい数字が出てきたからといって、それが正解になるわけじゃない。俺が置いた想像を、きれいに計算しただけだ。


しかも、全部を金に直せば終わりでもない。10人が一ずつ失うのと、1人が10を失うのは足し算なら同じでも、その10が今年を越せるかどうかに関わるなら同じ顔はしていない。


少し腹が立つ。資料にではない。世界にだ。数字を揃えてくれれば比較できるのに、現実はそんなに親切ではなかった。


紙を閉じず、そのまま2組を横に並べた。


「両方はできないんですよね」


「今から続けて2件とも本修繕を終えるのは難しいでしょう」


答えたのはカスパルだった。


「片方を先に終わらせて、その人たちをもう片方へ回すのも?」


「取水路を先にすれば、橋を本修繕まで終えられるだけの時期が残りません。橋は今の制限を続け、冬を越して次にまとまった工事へ入れる時期まで待つことになります」


「橋を先にしたら?」


「取水路は収穫後に本修繕できます。ただし、その頃には今年の作物が水を必要とする時期は終わっています」


なるほど。順番を変えれば両方ともいつかは直せる。問題は、その『いつか』まで何を抱えるかだった。


「金だけの問題ですか」


「いいえ」


カスパルは橋の木札を指先で押さえ、それから水路の札へ動かした。


「石工と大工、資材の手配、運搬、施工に適した時期が重なります。金を増やせたとしても、工事を行う者と物が同時に増えるわけではありません」


「工事隊を分けたら」


「どちらも中途半端になります」


今度は橋の担当官が、自分の書類から1枚抜いて机へ置いた。


「橋は、通行制限を外せるところまで直して本修繕の意味が出ます。橋脚だけを先に触って路面側を残せば、結局は重量制限を続けることになります」


水利担当官も続けた。


「取水路も、傷みの大きいところだけを一部直しても、水を安定して引くには足りません。施工する区間を分ければ、そのぶん仮設や人の移動も増えます」


半分ずつ金を出して、半分ずつ幸せになるわけではないらしい。むしろ、どちらも欲しいところまで届かない。それでは意味が薄い。


「予備費は」


口にしてから、自分でも嫌な質問だと思った。


困った時のための金があるなら、それを使えばいい。言うだけなら簡単だ。


カスパルは嫌な顔をしなかった。


「使うことはできます。陛下が必要と認めれば」


父上を見る。


父上は何も言わなかった。


たぶん、続きまで聞けということだ。


「ただし、予備費をここで使えば、別の急な支出へ残せる額が減ります。別の予算から移す場合も、その予算で予定していたものを遅らせることになります」


「地元に多く出してもらうのは」


今度は水利担当官がわずかに姿勢を直した。


「可能か不可能かだけなら、負担を求める方法はございます。しかし、その場合は修繕費の不足を住民側へ移すことになります」


そうなるよな。金が空から降ってくる第三案ではない。王の金を使わない代わりに農民や町の人間から取れば、帳簿の場所が変わるだけで、誰かが払うこと自体は変わらない。しかも、今まさに修繕が必要な地域へ追加負担を求めることになる。


「父上」


「何だ」


「別の支出を止めれば、両方できますか」


「ものによる」


「止めていいものがありますか」


父上は少しだけ目を細めた。


「それを決めるなら、今度はその支出を止めた時の不利益と、この2件を比べる必要があるな」


ですよね。口には出さなかった。


問題を1つ解決するために別の問題を机の外へ押し出しても、消えたことにはならない。


前世では、予算の話になると「無駄を削ればいい」という言葉をよく見た。もちろん本当に無駄なものもあっただろう。でも、実際に削る段になると、それを使っていた側には使っていた理由がある。


この国でも同じだ。しかも今回は金だけではなく、職人も資材も工期も足りない。全部取る方法を探していたつもりが、別の何かを差し出す方法ばかり見つかる。


俺はもう一度、橋の資料へ目を戻した。


迂回路の図を見る。


橋を渡ればまっすぐ行けるところを、川沿いに回って別の渡河点へ向かう。荷が重いほど面倒だ。雨で道が悪ければ、もっと時間がかかるだろう。


「この迂回路が使えなくなることはありますか」


担当官は図の端を見た。


「一時的に通りにくくなることはあり得ますが、現在の確認では、橋の代わりとなる経路そのものがなくなる見込みはございません」


「橋を今年直さなかった場合、制限を守らない荷車が増える可能性は」


「ございます。制限が長引けば、無理に通ろうとする者が出ることは考えられます。ですから監督は続ける必要があります。ただ、それは現在も行っている対応です」


先送りすれば、制限違反を抑える手間まで消えるわけではない。それでも迂回路そのものは残り、制限を守れば橋を使える荷もある。橋側の不利益は続くし、増える可能性もあるが、通る手段がなくなるわけではなかった。


次に取水路の図へ視線を移す。


川から堰で水を取り、枝分かれした水路がいくつかの村へ向かっている。紙の上ではただの線だが、そこを水が流れなければ畑へ届かない。


「水が足りなくなってから工事を始めるのでは遅いですか」


「今年の作付けについては、かなり難しくなります」


水利担当官の返事は早かった。


「これから畑で使う水が増えます。その途中で取水を止めるような工事をすれば、それ自体が作物へ影響します。収穫後なら大きく手を入れられますが、今年の不足をあとから取り戻すことはできません」


「他所から水を運ぶのは」


「人や家畜の飲み水ならともかく、畑へ流す量となりますと」


そこで言葉が切れた。


答えは十分だった。


橋で遠回りをすれば金も時間も失う。それでも、遠回りはできる。対して、畑へ流す量の水を必要になってから荷車で運ぶのは、何台要るか以前に、その水をどこから持ってくるのかという話になる。


俺は机に肘をつきかけ、父上の前だったことを思い出してやめた。14歳にもなれば、こういうところはさすがに気をつける。代わりに両手を膝へ置いた。


今年の水量が普通なら、取水路を先に直した意味は結果だけでは見えにくい。その一方で橋の不便は確実に続く。「橋を直しておけばよかった」と後から言われれば、その通りだ。逆に橋を選んだ年に水が足りなくなれば、失った収穫をあとから戻すことはできない。


どちらを重く見るか。その基準自体を決めなければならなかった。


「カスパル」


「はい、殿下」


「橋の迂回で増える負担を、全部合わせた金額は出せますか」


「概算なら幅を持たせて出すことはできましょう。ただ、かなり仮定が増えます」


「水不足の被害額は」


「こちらも同様です。むしろ、どの程度水量が落ちるかを先に仮定しなければなりません」


「その2つを比べれば」


カスパルは少し考えてから答えた。


「仮定同士を比べることはできます」


言い方がうまい。数字を出せないとは言わない。出した数字が答えそのものになるとも言わない。


俺は息を吐いた。カスパルの言う通り、ここで比べられるのは仮定同士だ。数字を出せても、最後に何を重く見るかまで数字が決めてくれるわけではない。


橋の不利益はすでに出ている。それでも迂回という代わりは残っている。水路は今年何も起こらないかもしれないが、必要な時に足りなければ、その年の作物をあとから取り戻す手段がほとんどない。


そこを重く見ることにした。


「今年は、堰と取水路を直します」


自分の声が思ったより普通に出た。


父上は表情を変えずに聞いている。


カスパルも、橋と水路の担当官も黙っていた。


俺は続けた。


「橋の不便は広く出ています。でも、今は迂回できます。取水路は、今なら畑で水を多く使う前に直せる。ここを逃して水が足りなくなっても、その年の作物をあとから元に戻すことはできません。だから、ぼくはそちらを先にします」


言ってから、橋の資料が目に入った。橋の担当官は何も言わない。


俺が選んだのは水路だけではない。橋を今年は直さないことも、同時に選んだ。


カスパルが口を開いた。


「確認いたします、殿下」


「はい」


「堰および取水路の本修繕を先に実施する。主要橋梁については、現行の応急措置と通行制限を維持し、冬を越して次に工事へ入れる時期まで本修繕を見送る。こちらでよろしいでしょうか」


一瞬だけ、喉の奥が詰まったような感じがした。さっき俺が言ったのと同じ内容なのに、橋のほうを言葉にされると重い。


市場へ荷を運ぶ人たちは、橋が直るまで遠回りする。少なくとも冬を越すまでは、この不便が続く。もともと全部を同時にはできなかったし、父上やカスパルたちが無理に二択を作ったわけでもない。それでも、どちらを先にするかを俺が選んだことは変わらなかった。


「はい。それでお願いします」


答えは変えなかった。


カスパルは一礼し、それぞれの担当官へ視線を移した。


「記録をその内容で整えます。橋については制限維持の周知と点検を継続してください。取水側は施工時期と人員の最終調整へ進めます」


「承知しました」


2人がそれぞれ返事をする。


父上はそこで初めて、机上の書類へ手を伸ばした。


「レオン」


「はい」


「選んだ理由は分かった」


それだけだった。


褒められもしなければ、正解だとも言われない。


俺は少し待った。


「……それだけですか」


思わず聞くと、父上の眉がわずかに上がった。


「何か欲しいのか」


「いえ。そういうわけでは」


たぶん。


でも、試験のあとなら採点がある。授業で問題を解けば、正しいか間違っているかが分かる。


これはそうではない。


父上は俺の顔を見て、少しだけ間を置いた。


「私は、重大な見落としがなければお前の選択を採ると言った」


「はい」


「今のところ、その見落としはない。なら約束どおり進める」


「橋ではなく水路を選んだのが、正しかったかは」


「今年の水量がどうなるか、私に分かると思うか」


「思いません」


「なら、今ここで正解を教えることもできん」


その通りだった。


父上は水路側の書類へ目を落とし、必要な箇所へ短く書き込みを入れた。それからカスパルへ渡す。


それで、俺が選んだものは俺の頭の中から外へ出た。正式な命令や支出の手続きは父上と行政の仕事だが、どちらを先にするかという部分にはもう俺の答えが入っている。


机の上から2つの木札が下げられた。さっきまで目の前にあった二択は、それでなくなった。


代わりに、カスパルが別の書類を父上の前へ置く。


今度は俺に選ばせるためのものではないらしい。父上が目を通し、担当部署から上がってきた確認事項をいくつか尋ねる。俺は横で聞きながら、必要なところだけ覚えていく。


政務はそのまま続いた。父上が次の書類へ目を通し、俺も横で話を聞く。


しばらくして、扉の外で控えていたルーカスが入ってきた。


「殿下、そろそろお時間です」


次の予定を知らせに来たらしい。


父上が書類から顔を上げる。


「今日はここまででいい。行け、レオン」


「はい、父上」


立ち上がると、思っていたより脚が固くなっていた。ずっと座っていただけなのに、妙に疲れている。


ルーカスが扉を開ける。


廊下へ出たところで、腹が鳴りそうなのに気づいた。


次の予定の前に何か食べる時間があっただろうか。


「ルーカス」


「はい、殿下」


「このあと、食べる時間ある?」


「少しでしたら」


「じゃあ、何か欲しい」


「承知しました」


それで歩き出した。


橋を使う人たちは、今日も遠回りをしている。


水路の村では、まだ普通に水が流れているかもしれない。


どちらも、今ここからは見えない。


決断することの重みを感じながら、本当に判断が正しかったのか反芻しながら、ご飯にむかった。

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