第18話
それから数か月が過ぎ、俺も14歳になった。だからといって、毎日の予定が急に別物になったわけではなかった。
学問や訓練は変わらず続き、父上の許す範囲で政務を見る時間もある。コンラートたちとも、予定が合えば顔を合わせた。
ただ、全員の予定が合う日は以前より減った。
俺自身の予定も増えているのだから、当然といえば当然なのだろう。
その日の夕方は、その増えた予定の中でもかなり面倒な部類に入った。
「もう一度、こちらを向いてください」
ルーカスに言われ、鏡の前で肩の向きを直す。
「さっきも向いただろ」
「その後で殿下が首元を触られましたので」
触った。
正装は見栄えがする代わりに、普段着より首まわりが窮屈だ。気になって指を入れたら、きれいに整えられていたところが少し崩れたらしい。
「これでよろしいでしょう。夜会の最中には、できれば触れないでください」
「できれば、ね」
「はい。絶対にとは申しません」
ルーカスは平然としている。
たぶん、俺が触ると思っている。
俺もそう思う。
それでも、今のところはきれいに整った。鏡の中の自分は、普段より少し年上に見える気がした。背が伸びたせいもあるだろうし、衣服のせいもあるだろう。
見た目だけなら、それなりに王太子らしい。
問題は、その姿で何を口にするかだった。
父上と母上は、夜会が始まる前に短い時間を取っていた。
2人が待つ部屋へ入ると、父上はすでに正装を整え、母上も夜会へ出る支度を終えていた。2人ともこれから大勢の前へ出る格好なのに、いる場所がいつもの私的な部屋に近いせいか、妙に落ち着いて見える。
「来たか」
「はい、父上」
父上は俺の姿を一度見てから、椅子を示した。
「今夜、何に気をつける」
試験の質問ではないことは声で分かった。
俺も、覚えた答えを並べるつもりはない。
「ぼくに決める権限がないことを、決めるような言い方はしません。頼まれても、その場で約束しない。父上や評議会が決めることを、ぼくが先に決まったように言わない」
「それでいい」
父上は頷いた。
「好ましいと思うことまで隠す必要はない。何も考えていないように振る舞うのも違う。ただし、好意と決定は別だ」
「はい」
「レオン」
母上に呼ばれて顔を向ける。
「言葉だけではありませんよ」
「誰と話すか、ですよね」
「それもです」
母上は少し考えるように俺を見た。
「同じ相手と長く話せば、親しいと思われます。相手から声をかけられたのか、あなたから近づいたのかでも見え方は変わります。頼みを断っても、その後で親しく話していれば、別の受け取り方をする人もいるでしょう」
「断り方も見られる」
「ええ。相手がなぜその話をあなたにするのかも考えてください。ただ、考えすぎて誰とも話せなくなる必要はありません」
最後の一言はありがたい。
ここまで聞くと、壁際に立って一晩黙っていたくなる。
だが、それをやれば今度は、王太子が誰とも話そうとしなかった、という情報になるのだろう。
面倒くさい。
顔には出さないようにしたつもりだったが、母上には分かったらしい。
「宮廷の夜会が急に嫌になりましたか」
「前から、楽なものではないと思っています」
「正しい答えです」
母上が言い、父上がわずかに息を漏らした。
笑われた気がする。
「今夜はリューネンベルク選帝侯一家の歓迎だ」
リューネンベルク選帝侯領は、ヘルヴァルト神聖帝国の北西部、うちの西部領よりさらに西から北西にある。領土はそれほど大きいわけではないが、皇帝選挙では正式な1票を持つ。しかも現選帝侯妃は、北西海上のウェストリア国王の実妹だ。領土の広さだけでは測れない影響力を持つ家、と考えた方が近い。
「フリードリヒとは私も長く付き合いがある。だが、お前は子どもたちを含めて初対面になる。必要以上に構えるな。礼を失わず、普通に話せ」
普通に。
その普通がどこまで政治になるのかを、さっきまで説明されていた気がする。
「分かりました」
立ち上がると、母上が俺の襟元を見た。
「レオン」
「はい」
「触りましたね」
「……少しだけ」
ルーカスめ。
いや、たぶん何も言っていない。見れば分かるのだろう。
母上が指先でわずかな乱れを直した。
「今度こそ、そのままに」
「はい、母上」
夜会は公式晩餐の後に始まった。
王宮の大広間は、何度来ても人が増えると別の場所に見える。壁際の灯りは普段より多く、磨かれた床には人影と光が途切れず動いていた。広間の一角では楽団が演奏しているが、音楽を聴くために黙っている者はほとんどいない。あちこちで会話が重なり、その間を給仕が抜けていく。
俺にとって夜会そのものは珍しくない。
それでも今日は、入ってすぐから少し違った。
父上と母上のそばに立ち、訪問客を迎える側として人の流れを見る。以前なら、大人同士の挨拶が続く間は、自分の番が来るまで姿勢を崩さないことの方が大きな仕事だった。
今は、誰が誰を見ているかまで気になる。
気にし始めると、いくらでも気になる。
これでは母上の言った通り、考えすぎだ。
やがて父上の前へ、栗褐色の髪に灰色が混じった男が進み出た。
「アウグスト陛下」
礼を交わした父上の声が、それまでの何人かに向けたものよりわずかに柔らかい。
「フリードリヒ。よく来た」
リューネンベルク選帝侯、フリードリヒ・フォン・リューネンベルク。
父上と二、三言交わした後、フリードリヒはすぐにこちらへ顔を向けた。会話の途中でも、相手へ向く時は体ごと正面を向ける人だった。
「王太子殿下。お目にかかれて光栄です」
「こちらこそ。ヴァイスブルクへようこそお越しくださいました」
決まりきった挨拶でも、初対面の相手なら必要だ。
フリードリヒの隣には、淡い金褐色の髪の女性がいた。
「妻のエリザベートです」
「お会いできて嬉しく存じます、殿下」
「ぼくもです」
続いて2人の子どもが紹介された。
ヴィルヘルムは父親に似た栗褐色の髪で、俺より2歳ほど上らしく、細身だが背は明らかに高い。
「ヴィルヘルム・フォン・リューネンベルクです」
「レオンハルトです。よろしくお願いします」
互いに礼をする。
その隣にいたのがゾフィーだった。
明るい栗色の髪に、灰緑色の目。俺より少し小柄で、兄より一歩だけ後ろにいた。
「ゾフィー・フォン・リューネンベルクです。お目にかかれて光栄です、殿下」
「こちらこそ。ヴァイスブルクでの滞在がよいものになれば嬉しいです」
「ありがとうございます」
それで最初の挨拶は終わった。
選帝侯、その妃、継承予定者、その妹。一家4人に順番に挨拶し、その後は父上とフリードリヒの会話へ戻った。俺は必要な時だけ口を挟み、母上とエリザベート妃の話にも耳を向ける。
挨拶が終わって最初に気になったのはヴィルヘルムの方だった。2歳上という差は、今の年齢だと見た目にも話し方にもまだ残る。俺が16歳になった時に、今の彼と同じくらい落ち着いて立てているかは少し気になった。
もっとも、姿勢だけなら今もそれほど悪くないはずだ。
首元は窮屈だけど。
触るなと言われたので我慢した。
一家との挨拶が一段落すると、父上のそばから離れてよい時間が来た。
離れたから自由、というわけではない。
「王太子殿下」
すぐに別の声がかかった。
振り向く。
黒に近い灰褐色の短い髪。体格の大きな壮年の男が、落ち着いた動作で礼をした。
アルブレヒト・フォン・シュヴァルツフェルト。
国内でも屈指の大領主で、父上の政務を長く支えてきた人物だ。姿は何度も見ているが、こうして俺自身が会話の相手になるのは初めてだった。
「シュヴァルツフェルト卿」
「こうして殿下とお話しする機会をいただけたこと、嬉しく存じます」
低い声は、大広間のざわめきの中でも聞き取りやすかった。
最初は訪問客や夜会についての話だった。アルブレヒトはリューネンベルク側の一行について、俺が知っている以上のことをわざと披露するような話し方はしない。こちらが答えやすいところまで話し、俺が何を返すかを待つ。
話しやすい。
だからこそ気をつけろ、ということなのかもしれない。
やがて話題が領内の往来へ移った。
「今年は我が家領の周辺でも、馬車の往来がかなり増えております」
「商人ですか」
「商人もおりますし、領境を越えて移動する職人も増えました。ありがたいことですが、道の傷みも目立つようになりまして」
アルブレヒトはそこで一度言葉を切った。
「いくつかの区間は、今のうちに手を入れた方がよいと考えております」
来た。
いや、別に罠ではない。
街道が傷んでいるなら、領主が整備を考えるのは普通だ。王太子と話す機会があるなら、その話題を出すのもおかしくない。
俺は一度だけ頭の中で言葉を選んだ。
「道がよくなること自体は、ぼくも良いことだと思います。人も荷も動きやすくなりますし」
アルブレヒトは静かに頷く。
「ただ、どこをどのように直すかや、費用をどうするかは、ぼくには今ここで何も言えません。もし詳しい案があるのでしたら、見せていただくのは興味があります」
「十分でございます」
返事は早かった。
「殿下に決定をお願いするつもりはございません。若い方が道というものをどうご覧になるか、それを伺いたかったのです」
そう言われると、少し肩の力が抜けた。
「歩くにしても馬車にしても、悪いより良い方がいいですから」
「まことに、その通りです」
当たり前すぎる答えだったが、アルブレヒトは真面目に受け取った。
その後は、道そのものより移動時間や荷車の傷みの話になった。俺が政務の場で見聞きした範囲と、馬で移動した時の感覚を混ぜて話す。具体的な工法や予算には踏み込まない。そもそも知らない。
しばらくして別の人物がアルブレヒトへ挨拶に来たため、そこで話は終わった。
「貴重なお話をありがとうございました、殿下」
「こちらこそ」
離れてから、少しだけ安心した。
約束はしていない。
父上の権限を借りるような言い方もしていない。
道が良い方がいい、と言っただけだ。
これなら問題ないだろう。
そう思ったところで、見覚えのある3人組を見つけた。
正確には3人組ではない。今夜たまたま3人が近いところにいただけだ。
「殿下」
先に気づいたマティアスが礼をし、フェリクスとコンラートもこちらを見る。
「ここだと、ずいぶん他人行儀だな」
「訓練場と同じ調子では話せないでしょう」
マティアスが真顔で返した。
「それはそうだけど」
普段から3人に名前で呼ばれるわけではない。それでも訓練場とは空気が違う。4人とも正装で立っていると、妙に他人行儀に見える。
コンラートが俺の格好を上から下まで見た。
「剣を下げていないと、少し変だな」
「お前もだよ」
「僕は別に変じゃない」
「そう言うと思った」
フェリクスが小さく息を吐いた。
「2人とも、ここで張り合うのはやめてください」
「張り合ってない」
俺とコンラートの声が重なった。
マティアスが何か言いかけたが、結局言わなかった。
たぶん言っても無駄だと思ったのだろう。
4人で話し始めれば、内容は思ったより普段に近かった。
ただし、次にいつ集まれるかという話になると、以前と同じではなかった。
「来週なら、午後に1度空いてる日がある」
俺が言うと、コンラートが首を振る。
「僕は来週は難しい。午後に軍務の見学が入ってる」
「また増えたのか」
「増えた。見ているだけの時間も多いけどな」
言いながらも、嫌そうではない。
以前なら俺と一緒の訓練に出ていた時間の一部が、今は家の側で別の教育に使われているらしい。
「フェリクスは?」
「その頃は本領に戻っています」
「また?」
思わず聞くと、フェリクスが苦笑した。
「最近は、こちらにいる方が短いくらいです。家の者に連れ回されていますから」
「何をしてるんだ」
「村を回ったり、倉庫を見たり、役人の話を聞いたりです。最初は全部同じに見えましたけど、同じではないですね」
「帳簿だけ見ているのとは違う?」
「かなり。書いてある数字が、どこの何なのか前より分かるようになりました」
そこまで言ってから、フェリクスは少し顔をしかめた。
「ただ、朝が早いです」
「そこかよ」
「大事ですよ」
それは分かる。
朝が早いのは大事だ。つらいという意味で。
「マティアスは?」
「ぼくは来週ならいます。ただ、その次は家の用で何日か予定が変わるかもしれません」
「結局、誰かがいないな」
コンラートが言った。
以前なら、次の訓練日を決める時にここまで予定を擦り合わせることはなかった。
それぞれ授業は違っても、ヴァイスブルクで暮らしていれば、どこかでまた会えたからだ。
今も会えなくなるわけではない。
ただ、コンラートは軍事の方へ引かれる時間が増え、フェリクスは家の土地へ戻ることが増えた。マティアスは3人の中ではまだ王都にいるが、それでも家の用事はある。
俺も人のことは言えない。
「じゃあ、全員揃う日を先に探すか」
「殿下の予定が一番面倒なのでは?」
マティアスが言う。
「否定できない」
「それならルーカスに聞いた方が早いな」
コンラートが当然のように言った。
「俺の予定なのに?」
「殿下が覚えているより正確でしょう」
フェリクスまで頷いた。
ひどい。
でも反論しづらい。
4人で話していると、少し離れたところからこちらを見る視線が何度かあった。
最初は気のせいかと思ったが、同じ相手ではない。年長の貴族もいれば、訪問客らしい人物もいる。
俺たちが何を話しているかまでは聞こえない距離だ。
それでも見ている。
母上の言葉を思い出した。
誰と話すか。
長く話すか。
そういうことか。
コンラートたちは前からの学友だ。俺にとってはそれだけで説明がつく。
だが、見ている側にとっては、王太子が夜会の途中で長く話している若い貴族3人になる。
エーレンフェルト、ハルテンベルク、ケッセルハイム。
家名まで知っている者なら、そこから勝手に続きを考えられる。
別に会話を切り上げなければならないわけではない。
そう思ったのに、一瞬だけ迷った。
その迷いが少し腹立たしい。
「どうしました、殿下」
フェリクスが聞いた。
「いや。次に全員揃う日、ちゃんと決めようと思っただけ」
「それはルーカスに――」
「分かった。あとで聞くよ」
マティアスがわずかに肩を揺らした。
笑ったな。
その後、コンラートが知り合いに呼ばれ、フェリクスも家の者らしい年長者を見つけてそちらへ向かった。マティアスだけが少し残ったが、彼にも挨拶すべき相手がいる。
結局、次に4人で集まる日は決まらなかった。
以前なら、そのうち会うだろうで済んだ。
今もたぶん会う。
ただ、その「そのうち」が前より少し遠くなっただけだ。
俺も次の挨拶へ向かった。
何人目かは途中で数えるのをやめた。
伯爵、宮廷役人、訪問団に加わっている貴族、父上の側で何度か見たことのある人物。名前を知っている相手もいれば、紹介されて初めて知る相手もいる。
全員と長く話すわけではない。
それでも、挨拶だけで終わる相手と、いくつかの話題を交わす相手は出てくる。
少し慣れてきた頃だった。
年配の国内貴族が、話の途中で何気なく言った。
「シュヴァルツフェルト家領周辺の街道について、殿下も前向きにお考えとうかがいました」
一瞬、意味が分からなかった。
「前向き、ですか」
「はい。若い殿下が往来の改善に関心をお持ちだと。先ほどもシュヴァルツフェルト卿と熱心にお話しであったとか」
熱心。
確かに話した。
道が悪いより良い方がいい、と。
詳しい案なら見てみたい、と。
それがもう、こうなるのか。
「街道が良くなることには関心があります」
俺はできるだけ同じ調子で答えた。
「ですが、特定の整備案を支持したわけではありません。内容もまだ見ていませんから」
「ああ、なるほど」
相手はすぐ頷いた。
悪意があるようには見えない。
むしろ、本当にそう聞いたから話題にしただけなのだろう。
「失礼いたしました。少々先走った話を耳にしたようです」
「いえ」
そこで別の話に移った。
会話を終え、俺は給仕から水の入った杯を受け取った。
飲みながら、さっきのことを考える。
アルブレヒトは約束を求めなかった。
俺も約束していない。
たぶん、アルブレヒト本人が「王太子殿下が支持した」と言い回っているわけでもない。
それでも、俺が彼としばらく話していた。道が良くなるのは好ましいと言った。それを誰かが聞いたのか、本人か周囲から話の一部が伝わったのか、その途中で少しずつ形が変わった。
前世でも似たことはあった。
職員室で誰かが「こうできたら便利ですね」と言っただけの話が、何人かを経由すると「来年度からやるらしい」になっている。学校程度の人数でもそうだったのだから、ここで起きない理由はない。
違うのは、俺の言葉に王太子という肩書がつくことだ。
ただの感想にも、余計な重さが乗る。
分かっていた。
少なくとも、分かったつもりではいた。
でも実際に、自分がさっき口にした言葉が一刻もしないうちに別の形で戻ってくると、頭で分かっていたのとはまるで違う。
水をもう一口飲む。
これでは、何を言うにも一度考えたくなる。
その一方で、いちいち考えすぎれば会話にならない。
面倒だ。本当に。
杯を返そうとした時、近くでフリードリヒの声がした。
振り向くと、彼は2人の貴族と話していた。そのうち1人が去ると、入れ替わるように別の人物へ声をかける。名前を呼び、以前の訪問か共通の知人らしい話題を短く挟む。
よく覚えている。
単に記憶力がいいだけではないのだろう。相手に「覚えられている」と感じさせるところまで含めて上手い。
俺が見ていたことに気づいたのか、フリードリヒがこちらへ目を向けた。
「殿下。楽しんでおられますかな」
答えに困る質問だ。
「はい。勉強になる夜です」
言ってから、少し堅すぎたと思った。
フリードリヒは俺の顔を見て、それから手にしていた杯へ視線を落とした。
「それは、楽しんでいる方の答えではなさそうですな」
「……楽しくないわけではありません」
「では、そういうことにしておきましょう」
からかわれたのだろうか。
父上とは違う種類の話しやすさがある。
「先ほど、ご学友と話しておられたようですね」
来た。
ほんの少し身構えた。
「はい。普段から一緒に学んだり訓練したりする相手です」
「それはよい。もっとも、その年頃になると家の予定も増えましょう。ヴィルヘルムも例外ではありません」
フリードリヒは少し離れた場所にいる息子へ目をやった。
「若者には若者の都合があるでしょうが、家も待ってはくれませんからな」
「ぼくたちも、ちょうどそんな話をしていました」
「やはりそうですか」
それ以上、3人の家について探るようなことは言わなかった。
俺も、誰とどれだけ親しいかを説明する必要はない。
短く話した後、フリードリヒは別の挨拶へ戻った。
俺はその背中を見送る。
今の会話も、見ている者はいるのだろう。
考え始めると、きりがない。
そんなことをしているうちに、広間では曲が変わった。
人の位置も少しずつ入れ替わっている。踊りに向かう者もいれば、隣の歓談空間へ移る者もいる。
俺は母上と一度目が合った。
母上は何も言わず、わずかに視線を動かした。
そちらを見ると、先ほど挨拶した相手が何人か固まっている。
行け、ということらしい。
分かりました。
声には出さず、そちらへ向かった。
しばらくして隣の空間へ移ると、大広間より音楽が遠くなった。会話の声はまだ多いが、少しだけ耳が楽になる。
そこで、ゾフィーを見つけた。
公式の挨拶の時とは違い、今は両親と兄から少し離れている。完全に一人ではなく、少し後ろに付き添いの女性がいるが、本人は壁際に置かれた卓の前で飲み物を選んでいた。
向こうも俺に気づいた。
目が合った以上、そのまま通り過ぎるのも変だ。
「ゾフィー嬢」
「殿下」
互いに軽く礼をする。
さっき一度正式に挨拶を済ませているせいか、今度は少しだけ楽だった。
「夜会は、いかがですか」
口にしてから、ずいぶん無難なことを聞いたと思う。
ゾフィーはすぐには答えず、広間の方を見た。
「きれいです」
「はい」
「でも、誰にご挨拶したのか、少し分からなくなってきました」
思わず彼女を見る。
ゾフィーは困ったように眉を寄せた。
「同じ方に2度、初めましてと言わないように気をつけています」
「それは、ぼくも気をつけています」
「殿下もですか?」
「全員を間違えずに覚えられるほど得意ではありません」
少し驚いた顔をされた。
俺は王宮に住んでいるから、ここにいる全員を知っていると思われていたのかもしれない。
「よかったです」
ゾフィーが小さく言った。
「よかった?」
「わたしだけではなかったので」
その言い方が、さっきまでの「選帝侯の娘」と少し結びつかなかった。
もちろん、選帝侯の娘であることは変わらない。
ウェストリア王の姪でもある。そこだけ見れば、俺が軽々しく扱っていい相手ではない。
だが今、目の前で誰に挨拶したか分からなくなりかけているのは、13歳の女の子だった。
考えてみれば当たり前だ。
俺だって同じようなものなのだから。
「最初のうちは、服で覚えると危ないです」
「なぜですか?」
「次に会った時、服が変わっているので」
一度やった。
顔より先に衣服の色を覚えてしまい、次の集まりで本気で分からなくなったことがある。
「では、髪で」
「似た人がいると困ります」
「それなら、どうすればいいのでしょう」
真剣に聞かれてしまった。
俺も知りたい。
「何度か会うしかないと思います」
結局それか。
ゾフィーは少し考え、それから頷いた。
大広間の方から1人が来て、ゾフィーの付き添いへ何かを伝えた。付き添いの女性がゾフィーへ声をかける。
ゾフィーは大広間の方を見てから、俺へ向き直る。
「戻らなくてはいけないようです」
「ぼくも、そろそろ戻ります」
「では、殿下」
「また」
短い挨拶をして別れた。
次に彼女を見かけた時には、「選帝侯の娘」より先に、さっき人の顔を覚えられないと困っていた表情を思い出す気がした。
広間へ戻る途中、今度はヴィルヘルムとすれ違った。
彼とは立ち止まって短く言葉を交わしただけで、すぐ別れた。向こうも向こうで、父親に伴われて挨拶を続けているらしい。
16歳なら、俺より2年先にこういう役目を多く経験しているのかもしれない。
2年後に楽になっている保証はないけれど。
夜はその後も続いた。
アルブレヒトとも一度だけ遠くで目が合ったが、もう街道の話をし直すことはなかった。彼の方も別の相手と話している。
さっきの噂について本人に確かめることも考えた。
だが、今この場で「あなたが広めましたか」と聞くのは違うだろう。
そもそも本人が広めたと決まったわけではない。
俺が人前で話した。それだけで材料は十分にあったのかもしれない。
それからは、発言だけでなく自分がどこに立っているかまで、やけに意識に入るようになった。
リューネンベルク一家の近くに長くいれば、それも何かに見える。
国内の大領主と続けて話せば、それも何かに見える。
学友と話していても同じだ。
別に悪いことをしているわけではない。誰とも話さない方がよほどおかしい。
だから普通に動けばいい。
分かっている。
分かっているのに、視界の端で誰かがこちらを見ていると、一瞬だけ「今は何に見える」と考えてしまう。
面倒くさい。
今日だけで何回目だろう。
途中で母上の近くを通った時、呼び止められた。
「疲れましたか」
「まだ大丈夫です」
「そう」
それだけだった。
さっき街道の話が妙な形で伝わっていたことを言おうかとも思ったが、母上は別の客へ声をかけられた。今でなくてもいい。
父上も同じだ。
王は王で、歓迎する相手が多い。
俺は俺の役目を続けた。
何度か話しかけ、何度か話しかけられた。相手の名前を聞き返さずに済んだ時は少し安心し、危うく間違えそうになった時は内心で焦った。
一度、給仕が持っていた小さな菓子を取ろうとしたところで別の貴族に呼ばれ、結局食べ損ねた。
話が終わった時には、もう皿ごといなくなっていた。
あれはちょっと惜しかった。
王太子の発言がどう見られるかも大事だが、腹が減るものは減る。
その後、別の皿が来たので一つ取った。
味わう前に次の挨拶が来た。
夜会というのは、食べ物がたくさんあるのに案外食べられない。
ようやく客の動きが出口へ向かい始めた時には、脚より先に頭が疲れていた。
最後まで姿勢を崩さず、父上と母上の近くで主だった客を見送る。
フリードリヒ一家も、今夜の挨拶を終えて退出する。
「王太子殿下、今宵はありがとうございました」
フリードリヒが言う。
「こちらこそ。お話しできて嬉しかったです」
エリザベート妃、ヴィルヘルムとも言葉を交わす。
ゾフィーは俺を見て、正式な礼をした。
「おやすみなさいませ、殿下」
「おやすみなさい、ゾフィー嬢」
一家が去った後も、まだ何組か見送る相手が残っていた。
全部が終わり、ようやく私室へ戻れた時、扉が閉まる音がひどく静かに感じた。
「殿下、お疲れさまでございました」
後ろから入ってきたルーカスが言う。
「うん」
返事をしてから、首元へ手を伸ばした。
今度は止められない。
留め具を緩めると、やっと息がしやすくなった気がする。
「それほど苦しかったのですか」
「途中から、苦しいのか疲れてるのか分からなくなった」
ルーカスが上着を脱ぐのを手伝う。
肩を回してみる。
馬に長く乗った日のような張りはない。軍事訓練の後みたいに腕が重いわけでもない。走り込んだ時のように脚が笑うこともない。
なのに、疲れた。
「水、もらえる?」
「すぐに」
椅子へ座る。
誰と何を話したかは、今ならまだかなり覚えている。
一つずつ思い返せば、たぶん順番にもできる。けれど、今はそこまで頭を使う気になれなかった。
ルーカスが持ってきた水を受け取り、一口飲む。
静かだ。
今夜一番ありがたいのは、それだった。




