第17話
ゴルデネ・ライゼの首筋を撫でると、汗で少し湿った毛が手のひらに張りついた。走り終えたばかりだから当たり前だが、本人――いや、本馬はまだ動き足りなさそうに鼻を鳴らしている。今日もよく走った。俺の指示にも素直だったし、最後の周回でも脚は乱れなかった。
問題があるとすれば、乗っていた俺のほうだ。
「最後、少し膨らみましたね」
後ろから言われて振り返ると、コンラートが自分の馬の手綱を引いていた。
「分かってる」
「なら、僕から言うことはありません」
「もう言っただろ」
コンラートは返事の代わりに馬の鼻先を軽く撫でた。腹が立つほど得意げ、というわけでもない。そこが余計に腹立たしい。今日の最後は、馬場の端に置かれた目印を回って戻るだけだった。競走ではないし、誰が一番速いかを決めるものでもない。それでも4人で同じことをやれば、誰がきれいに回れたかくらいは自然に目に入る。
コンラートは俺より小さく回った。
それだけだ。
それだけなのだが、次は負けたくない。
「殿下はその前が速かったでしょう」
フェリクスが鞍を外す手伝いをしながら言った。
「最後に欲張ったんじゃないですか」
「欲張ってない。少し内へ入れたかっただけだ」
「それを欲張ったと言うんじゃないですか」
マティアスまで混ざってきた。俺はゴルデネの横腹へ回り、鐙革が引っ掛からないようにまとめた。言い返したところで、最後に膨らんだ事実は消えない。
「次はもっときれいに回る」
「では次も同じ馬で?」
コンラートが訊く。
「選べるならゴルデネにする」
「やっぱり」
今度はフェリクスだった。
「殿下が自由に選んでいい日、ほとんどゴルデネじゃないですか」
「好きなんだから仕方ないだろ」
「馬のほうも、もう分かっているんじゃないですか。殿下が来たら自分だって」
「そこまでは分からないと思うぞ」
そう言いながら、ゴルデネがこちらへ首を寄せてきたので、鼻面を押し返した。ほら、とフェリクスが言いたそうな顔をしたが、口にはしなかった。
馬場から戻ってきた馬が何頭か続いて厩舎へ入る。蹄の音と、人の声と、革具の擦れる音が重なった。俺たちも邪魔にならないよう場所をずらしながら、乗っていた馬を厩舎の者へ渡す前に汗の具合や脚を見ていく。
こういうところは、乗って終わりではない。最初の頃は馬に乗れることそのものが楽しくて、降りた後のことなど早く済ませたいと思う日もあった。今でも、腹が減っていれば早く終わらないかなと思うことはある。だが、乗った後の馬を見るのも含めて馬術だと、オットーには何度も言われている。
正しい。
正しいが、今日はやはり早く終わらせてご飯が食べたいという欲の方が強い。
「そういえば」
コンラートが馬の前脚を見終えて立ち上がった。
「うちで、僕がこれから乗る馬を買うことになりそうです」
「買う?」
「はい。ゾンネンフェルトから。もう家から希望は出していて、何頭か候補を見てもらっているところです」
俺はゴルデネから顔を上げた。
「お前の馬を?」
「そのつもりです。今の僕に合って、これからも乗れそうな馬を。まだ決まってはいませんけど、近いうちに僕も見に行きます」
「いいな」
思ったより先に口から出た。
自分の馬。
正確には家が買う馬だろうが、継続して自分が乗ることを前提に選ぶなら、かなり自分の馬に近い。俺にはゴルデネがいる。王家の馬であって俺個人の所有馬ではないが、選べる日はかなりの割合で乗っているし、愛着もある。
それでも、これから長く乗る1頭を選ぶと聞くと、少し羨ましい。
「殿下なら、もっとたくさん選べるでしょう」
コンラートが言った。
「そういう話じゃないんだよ」
王宮の厩舎に馬が何頭いるかという話ではない。コンラートは少し考えてから、ああ、と頷いた。たぶん分かったらしい。
「名前はどうするんです?」
マティアスが訊いた。
「まだ馬も決まってないのに?」
フェリクスが横から言う。
「決まってなくても考えるくらいはできるだろ」
コンラートはそう返してから、少しだけ声を落とした。
「変えていい馬なら、ハイリゲス・シュヴェルトにしたいと思っています」
聖剣。
……ちょっと格好いい。
いや、待て。俺は35まで生きたんだぞ。13歳の友達が自分の馬に「聖剣」と付けるのを聞いて、なんで少し羨ましくなってるんだ。
まずい。俺の中で眠っていた厨二病が、この世界に来てから妙に元気になっている気がする。
「殿下?」
「いや。いい名前だと思って」
これは本音だ。
「本当ですか」
コンラートの顔が少し明るくなる。そこでからかう気にはならなかった。むしろ少し羨ましい。俺も自分だけの馬に好きな名前を付けるとなったら、たぶんかなり悩む。下手をすると人のことを言えない名前を付ける。
「でも、馬を見てから変えるんだろ?」
「もちろんです。まだ馬も決まっていませんし、変えていいなら、ですけど」
「ハイリゲス・シュヴェルト」
マティアスがもう一度口にした。
「強そうですね」
「名前だけ強くて乗り手が落ちたら最悪だな」
俺が言うと、コンラートはこちらを見た。
「殿下こそ、次は最後の角で膨らまないようにしてください」
「今その話に戻すか?」
「馬の名前より、今日実際に起きたことですから」
今度はさすがに言い返す言葉がなく、俺はゴルデネの首をもう一度撫でた。フェリクスが「次も見ていますから」と余計なことを言い、マティアスは自分の馬の手綱を厩舎の者へ渡しに行った。
昼食前に着替える時間もいる。名残惜しそうなゴルデネの鼻先から手を離して、俺たちも厩舎を出た。
父上から試行の許可が出たのは、申請書を渡してから数日後だった。許されたのは申請した通り、ゾンネンフェルト王室牧場の育成中の1厩舎、その時点でいる馬だけだ。
それから1か月あまりが過ぎている。最初の数日は気になった。書記が番号を書き忘れていないか。基本台帳の書き方が途中で変わっていないか。新しい日誌と本当にうまくつながるか。とはいえ、気になるからと毎日見に行くわけにもいかない。
というか、行けない。ヨアヒムとの学問は続いているし、ヘレーネとの魔法もある。オットーとの馬術も、ゲオルクから受ける軍事の勉強もなくならない。父上から政務に呼ばれる日もあるし、コンラートたちと顔を合わせることもある。
13歳とはいえ、予定表に俺の思いつきだからという理由で1日を増やす欄はない。おかげで、試行は俺がいなくても続いた。最初にそれを見た時は少し妙な気分だった。
俺がいない間にも、対象の馬には同じ番号が使われる。繁殖台帳の該当する行にも、基本台帳にも、試行開始後の育成日誌にも同じ番号がある。移動があればその記録にも書かれる。昔の日誌はそのままだ。
そこを全部直し始めたら、便利にするための試行で人を帳簿の山に埋めることになる。
牧場へ行ける日には、書記から基本台帳や新しい日誌を何度か見せてもらった。番号は決めた位置に書かれ、基本台帳も必要な時に更新されている。少なくとも、仕組みそのものは止まっていなかった。
ただ、馬のことを番号で分かるようになったわけではない。ある馬が今日は落ち着いているとか、最近飼葉の食いが悪いとか、騎乗を始めた時にどういう反応を見せるとか、そういうことは毎日見ている牧場の人間のほうがずっとよく知っている。
番号は馬を見ない。帳簿も馬には乗らない。
俺が作りたかったのは、彼らの代わりに馬を判断する仕組みではなく、彼らが残した記録を後から同じ馬のものとしてたどりやすくする入口だった。だから1か月ほど経った時点では、まだ「動いている」以上のことはよく分からなかった。
書く仕事は増えている。番号を書くだけなら一瞬でも、基本台帳を新しく作る分は確実に追加だ。便利さがそれを上回るかは、実際に記録をまたいで探す機会がなければ見えにくい。そんな状態で、コンラートの馬の話が出た。
数日後、ゾンネンフェルトへ行く予定が入った時、俺はルーカスからエーレンフェルト家の者も同じ日に候補馬を見に来ると聞いた。
「コンラートも?」
「はい、殿下。ご本人も来られる予定です」
ちょうどいい、と一瞬思った。あの名前を付ける馬がどんな馬になるのか見たいのだ。
当日、牧場に着くと、コンラートはすでに家から来た大人たちと馬を見ていた。
俺は試行中の厩舎へ向かう予定があったので、最初から一緒に回ったわけではない。書記と基本台帳を見て、試行開始後に新しく書かれた日誌を何頭か確認する。
午前の確認が一段落したところで外へ出ると、少し離れた柵の向こうにコンラートがいた。家の者と牧場の者が2頭の馬を見比べている。コンラートはそのそばで、さっきまで乗っていたらしい1頭の首を撫でていた。
俺に気づくと、手を上げる。
「殿下」
「どうだった?」
「まだ決まっていません。でも、この馬はかなり好きです」
そう言って、隣の馬を見る。やや離れたところから見ても、手入れの行き届いた若い馬だった。動きに落ち着きがあるようには見えるが、俺が一目見て適性まで分かるはずもない。
「名前は?」
「ヴァルトヴィントです」
その名を聞いた瞬間、どこかで見た気がした。どこだ。顔ではなく、字だ。
「待って。試行の厩舎にいる馬か?」
近くにいた牧場の者が頷いた。
「はい、殿下。現在の試行対象です」
なるほど。基本台帳で見た名前だ。コンラートは馬の肩のあたりへ目をやってから言った。
「僕は乗りやすかったです。こちらの指示を待つ感じもあります。ただ、僕がそう思っただけなので」
その先は、家から来た馬に詳しい者が、脚の状態やこれまでの育ち方、今後の使い方を牧場側へ尋ね始めた。牧場側も、日頃どんな様子か、騎乗を始めてからどうだったかを答える。俺には分かる話もあれば、実際に何年も馬を扱ってきた人間でなければ重みが分からない話もある。
俺は少し離れてやり取りを聞いた。
コンラートは自分で乗った時の感触を尋ねられれば答え、気になるところがあれば馬の近くへ回って確かめる。家の者に任せきりというわけではないが、俺たちだけで決められる話でもない。
結局、その場では決まらなかった。ほかの候補も見るという。
「名前、もう変える気になってるだろ」
帰り際に小声で言うと、コンラートは少しだけ間を置いた。
「まだ決まっていません」
「顔に出てる」
「殿下ほどではありません」
「何の話だ」
「ゴルデネに乗れる日です」
それを持ち出されると弱い。俺は黙って馬車へ向かった。その後も、またしばらく何気ない日々が続いた。ヨアヒムの前で答えに詰まり、次の日にはヘレーネの指示通りに魔法を使おうとして余計な力を入れ、馬場ではコンラートに言われた最後の回り方を意識しすぎて別の失敗をした。
牧場の番号は、その間も淡々と帳簿へ増えていった。しばらくして、エーレンフェルト家がヴァルトヴィントを希望していると聞いた。牧場側と家側で候補を見た結果らしい。
俺は「やっぱり」と思っただけで、口は挟まなかった。王室の馬を外へ出す以上、こちらの承認が要る。今回は父上の承認を経ることになった。その手続きも、俺のところを通って進んだわけではない。
後から、承認が下りたと聞いた。そして数日後、試行の確認のために基本台帳を開いた時、ヴァルトヴィントの欄に書記の手が止まった。
「殿下。こちらですが、少し書き方を変えたいと思っています」
「何かあった?」
「エーレンフェルト家への引渡しが決まりました。新しい名も届いております」
来た。
「ハイリゲス・シュヴェルト?」
書記が一瞬だけ目を上げた。
「ご存じでしたか」
「本人から聞いてた」
書記が示した新しい引渡しの記録には、ハイリゲス・シュヴェルトの名があった。そして、その横に試行で使っている識別番号がある。基本台帳のほうには、まだヴァルトヴィント。試行開始後の育成日誌もヴァルトヴィント。
俺は目の前の記録を見比べた。名前が違う。番号は同じだ。
「……ああ」
思わず声が出た。最初に考えていたのは、帳簿が変わっても同じ馬だと確かめやすくすることだった。名前そのものが途中で変わる場合まで、具体的には考えていなかった。
過去の日誌にはヴァルトヴィント。新しい引渡し記録にはハイリゲス・シュヴェルト。それでも、その横の番号は同じだった。
「以前なら、改名した時はどうしてた?」
俺が訊くと、書記はすぐ答えた。
「新旧の名を対応させます。引渡しの記録にも旧名を添えることがありますし、必要なら父母や毛色、特徴も見ます。今回のような馬なら、それで追えます」
やっぱりそうだ。
名前が変わったら牧場が馬を見失っていた、なんてことはない。
「ただ」
書記は2冊の帳簿へ目を落とした。
「別の記録まで遡る時は、途中でいったん、新旧の名を確かめることになります。番号が同じなら、その確認は早いです」
「基本台帳は?」
「ここに旧名と、新しい名、それから名称が変わった時期を残したいと思います。今の形ですと、馬名の欄が1つしかありませんので」
なるほど。基本台帳は入口だ。だったら入口で名前が変わったことが分からないと困る。
「番号はそのまま?」
「はい。それがこの試行の決まりですので」
番号はそのまま。そう聞いて、妙に嬉しくなった。ハイリゲス・シュヴェルト。名前だけ見ると完全に別の馬みたいだ。だが番号は変わらない。過去のヴァルトヴィントと、これからのハイリゲス・シュヴェルトが、ひと続きにつながっている。
「その書き方でやってみて」
「承知しました」
書記は元の記載を消さず、旧名が分かるように残し、その横へ新しい名と変更の時期を書き加えた。たった数行だった。ヴァルトヴィントだった頃の記録と、ハイリゲス・シュヴェルトになってからの記録が、同じ番号の下につながっている。
便利だ。これ、ちゃんと便利だ。思いつきの紙の上ではなく、実際の仕事の中で。その日の帰り、コンラートへ会う予定はなかった。だから数日後、顔を合わせた時に俺から言った。
「ハイリゲス・シュヴェルト、正式に決まったんだな」
「はい」
「台帳でも名前が変わった」
「台帳?」
「今、牧場で試してる記録のほう。前の名前も残して、新しい名前とつなげた」
「へえ。そんな記録があるんですね」
コンラートは少し考えてから、「なら、僕が名前を変えたせいで仕事を増やしましたね」と言った。
「少しな」
「すみません」
「いや、ちょうどよかった」
「何がです?」
「名前が変わっても同じ馬だって、すぐ分かる」
コンラートは俺を見て、よく分からなさそうな顔をしていた。
「そうですか。問題が無いのでしたらよかったです」
「そうだ。今度、ハイリゲス・シュヴェルトに乗っているところ見せてくれよ」
「機会がありましたら、合同練習のときに乗るので、そのときに」
コンラートがハイリゲス・シュヴェルトに乗っているところを想像するとワクワクする。……やっぱり名前が格好いい。聞くたびに少し気分が上がる。
試行開始から3か月を過ぎる頃には、最初の頃ほど頻繁に確認へ行かなくなった。行かなくても回ると分かったからだ。
牧場側から確認したいことがあれば伝言が来るし、こちらも折を見て記録を見る。それでも、毎日顔を出す必要はなくなった。
ある日は朝から学問で、午後は馬術だった。別の日には父上のところで政務の話を聞き、そのあと家族と食事をした。牧場へ行かない日が続いても、その間の育成日誌には日々の出来事が書かれ、その馬の番号も付いていた。
俺が始めたものなのに、俺の手から少し離れている。最初は妙だったその感じが、だんだん悪くなくなってきた。4か月ほど経ったところで、試行の区切りとして牧場側の意見をまとめることになった。
俺も話は聞いたが、自分で「成功です」と書いて父上へ持っていくつもりはなかった。便利だった場面を見たのは確かだ。でも、そのために毎日書く人間の仕事が増えているのも確かだった。
基本台帳は勝手にはできない。番号も、書かなければ存在しないのと同じだ。牧場で話を聞いた時、書記はそこを隠さなかった。
「最初に対象馬の基本台帳を作る分は、従来より仕事が増えます。その後も、所属や名前が変われば更新が必要です」
「日誌の番号は?」
「書くこと自体は慣れました。ただ、急いでいる時には抜けることがあります。後から気づいて補った例もあります」
隣にいた牧場の者も頷いた。
「馬を見る仕事が減るわけではありません」
「そこは今まで通りでいい。ぼくが減らしたいのは、後から記録をたどる時の確認です」
「その点なら、役には立っています。今回の改名では特に分かりやすかった」
書記も頷いた。
「ヴァルトヴィントの古い記録を探す時も、前より確認が少なくて済みます」
「仕事が増えても、続ける価値はある?」
俺が訊くと、2人ともすぐには答えなかった。そこは少し嬉しかった。俺に気を使って即答されるよりいい。書記が先に口を開いた。
「今の範囲なら、私はあると思います。ただ、対象を急に増やせば基本台帳を作る仕事も増えます。やるなら、順に広げたほうがよろしいかと」
牧場の者も同意した。
「私も続けてよいと思います。馬を見るやり方は今まで通りで、記録の確認だけ早くなりました」
それで十分だった。
いや、十分どころか、かなり嬉しかった。
顔には出しすぎないようにしたつもりだ。たぶん、少しは出た。父上の前でその結果を話すことになったのは、それから間もなくのことだった。執務室には、俺だけではなく、牧場から試行の実務を知る者も来ていた。机の上には、試行の概要と、牧場側でまとめた意見が置かれている。
父上は先に文書へ目を通し、それから俺を見た。
「レオン。お前自身はどう考えている」
「続けたいです」
答えは決まっていた。
「改名した馬で、役に立つところを実際に見られました。前の記録と新しい記録で名前が違っても、同じ番号なら同じ馬だとすぐ確認できます」
「それまで追えなかったのか」
「いいえ。旧名や父母などを見れば追えました。ただ、同じ馬だと確かめる手間は減りました」
父上はそこで俺から視線を外し、牧場の者へ向けた。
「追加の仕事は」
「ございます」
返事ははっきりしていた。
「基本台帳を作り、維持する分が増えます。各記録へ番号を書く作業も加わります。慣れれば小さいものですが、なくなる仕事ではありません」
「その負担を加えても、残す価値があると?」
「今の試行では、残す価値があると考えております。ただし、牧場全体へ一度に広げれば初めの作業が大きくなります」
父上はもう一度文書へ目を落とした。俺は黙って待った。自分の考えたものが便利だった、と俺が言うのは簡単だ。でも、毎日書く側が仕事だけ増えたと思っているなら、それは成功とは言いにくい。
少なくとも今回、そうではなかった。書くことは増えた。そのうえで、残す価値があると言ってもらえた。父上が紙を置いた。
「よいだろう」
短い言葉だった。
「今回の試行は、続ける価値があると判断する。ゾンネンフェルトの中で、無理のない範囲から対象を広げよ。一度に全てを変える必要はない。現場で処理できるところから段階的に進める」
胸の奥が一気に熱くなった。
「はい、父上」
「レオン」
「はい」
「広げた後も、追加の仕事が増えすぎていないかは見ること。始めた時より不便になれば、やり方を変える必要がある」
「分かりました」
父上は牧場の者へ、拡大する順番と必要な準備は現場で無理のない案を作るように告げた。具体的にどこから増やすかは、ここで俺が決めることではない。王宮厩舎や軍へ広げる話でもない。
それでいい。
嬉しさはまだ胸の奥に残っていた。たぶん、顔にも少し出ていた。
牧場の者が一礼して部屋を出た。扉が閉じても、父上はすぐには次の書類へ手を伸ばさなかった。
「レオン」
「はい」
父上は机の上の報告書へ一度目を落とし、もう一度俺を見た。
「よくやった」
不意を突かれて、一瞬返事が遅れた。
「……ありがとうございます」
「そんなに嬉しいか」
「はい」
自分でも驚くくらい、すぐに答えていた。父上は短く息を吐き、椅子の背へ少し体を預けた。さっきまで牧場の者と話していた時より、声が少しだけやわらかい。
「そうか。なら、よかった」
胸の奥の熱が、また少し増えた。
父上はそこでようやく次の書類を手に取った。俺の試行がうまくいったからといって、今日の政務がそこで終わるわけではない。
「今日はもうよい」
「はい」
一礼して、執務室を出た。扉が閉まる直前、父上の声が次の案件について何か尋ねるのが聞こえた。




