第01話
熱いのか、寒いのか、最初はそれすら分からなかった。
何かに全身を押しつぶされるような窮屈さが消えたと思った次の瞬間、肌という肌へ空気がまとわりついた。ぬるい場所から急に引きずり出されたように、触れるものすべてが強い。頬に当たる空気、背中を支える手、どこかで揺れる明るさ。何ひとつはっきり見えていないのに、目の奥だけが眩しさを訴えていた。
息をしよう、と考えるより早く胸が勝手に動いた。
空気が入る。
苦しい。
肺の奥まで一気に広げられたような感覚に驚いて、何か言おうとした。
待て。
そう声に出したつもりだった。
実際に出たのは、自分でも耳障りなほど高く、意味のない泣き声だった。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
もう一度、言葉を作ろうとする。舌を動かし、喉を使って、せめて一音だけでも意図した音にしようとした。
できない。
舌が大きすぎるのか、口が小さすぎるのか、それ以前に顎の動かし方からして思い通りにならなかった。
結果はまた泣き声だった。
しかも今度は、最初より勢いがついた。
違う。泣きたいわけじゃない。
そう考えているのに声は止まらない。胸がせわしなく上下し、喉が震え、顔の筋肉まで勝手に引きつる。止めようと意識するほど呼吸が乱れ、その呼吸に引っ張られるように次の声が出る。
混乱する頭の外側で、いくつもの声が重なった。
人が話している。
それは分かる。
近いところから女らしい高めの声が聞こえ、その向こうから別の声が返る。声の高低や近さは拾えるのに、どこからどこまでが一つの言葉なのかさえ分からない。
外国語を突然浴びせられたときとも少し違う。
知らない外国語なら、単語の切れ目らしいものを探したり、知っている音に似ていないか考えたりできる。今はそれ以前だった。耳へ入ってくる音を追うだけで精一杯で、意味へ結びつけるところまで頭が回らない。
何だ、これは。
考えようとして、また身体が割り込んできた。
背中を柔らかいものが擦る。次に、肩から足先まで覆うように布が回された。肌へ直接触れていた空気が減り、それだけで泣き声が少し途切れた。
誰かの手が身体を持ち上げている。
持ち上げられている――その事実を理解するまで、妙に時間がかかった。
視界の中で明るい面と暗い影が上下し、自分の身体が横へ傾く。反射的に姿勢を戻そうとして、首へ力を入れた。
頭がついてこない。
がくりと傾きかけ、すぐに大きな手に支えられた。
ぞっとした。
首を支えられない。
まったく動かないわけではない。動かそうという意思はある。だが、成人の身体なら意識する必要すらなかった動作が成立しない。
肩も腕も同じだった。
腕を上げようとすると、思った方向とは違うところへ小さく跳ねる。指を握ろうとしても、何本動いたのかさえよく分からない。脚も、腰も、腹も、自分のものなのに位置が曖昧だった。
酔っているとか、痺れているとか、そういう不自由さではない。
身体の使い方そのものが違う。
その一方で、頭の中には知っていることが残っていた。
息をすることも、人の声も、布というものも分かる。こんな状況を異常だと判断できる程度には、35年分の記憶がそのままある。
35年。
そこへ思考が触れた瞬間、ついさっきまでの自分が急に近くなった。
学校で授業をした。
冷めたコーヒーを飲んだ。
家へ帰って競馬を見て、身体を動かして、ゲームを途中で切り上げた。
朝一番の授業があるから寝ようとして、それから――。
立ち上がったところで足元が遠くなった。
机へ手を伸ばした。
そこまで覚えている。
少なくとも、首を支えてもらわなければ頭も保てない身体ではなかった。歩けたし、話せたし、手を伸ばした先のものを掴むこともできた。
それが当たり前だった。
だから今の状態には、まだ現実感がなかった。
夢。
一瞬、その可能性へ飛びついた。
夢なら目を覚ませばいい。
けれど、頬に触れる布のざらつきも、肌を撫でる冷えも、肺へ空気が入るたびに感じる抵抗も、嫌になるほど生々しい。
しかも、考え続けること自体が難しかった。
思考はできる。
記憶もある。
それなのに、少し長く一つのことを追おうとすると、身体の感覚が前へ出てくる。
寒い。
眩しい。
喉が苦しい。
腹の奥から何か不快なものが迫ってくる。
考えている途中で、何度も別の感覚へ引きずられる。
不快感の正体を探ろうとしたところで、身体がまた持ち上げられた。
今度は前より慎重な動きだった。
布越しの背中へ腕が入り、頭の後ろを手のひらが支える。位置が変わり、視界いっぱいに暗いものが近づいた。
髪だ、と少し遅れて分かった。
濃い色の髪。
その向こうに顔らしいものがある。
近いのに、細部が見えない。
目を凝らそうとしても焦点が定まらず、輪郭は水の向こうにあるようにぼやけていた。額や頬、鼻らしい高低は分かる。目の色どころか、こちらをどこまで見ているのかさえ判然としない。
女だった。
たぶん、さっきから近くで聞こえていた声の一つだ。
柔らかな声が降ってきた。
何か言っている。
その流れの中で、同じ短い音だけが何度か繰り返された。
レオン。
それが一つの言葉なのか、何を指しているのか、そのときの俺には分からなかった。今度はかなり近いのに、やはり話の意味は分からない。同じような調子で何度か話しかけられていることと、その声が自分へ向けられているらしいことだけは分かった。
返事をしようとして、また失敗した。
泣き声にもならない、息の混じった妙な音が喉から漏れる。
女の声が少し変わった。
笑ったのだと思う。
からかわれた、と腹を立てるより先に、頬へ指先が触れた。ほんの一度、輪郭を確かめるように撫でられる。
知らない女だ。
顔に覚えはない。
声にも覚えがない。
何を言っているのかすら分からない。
そんな相手に抱かれているのだから、落ち着かなくて当然のはずだった。
ところが、身体は逆だった。
肩から背中に入っていた力が、勝手に抜けていく。
呼吸が少しゆっくりになる。さっきまでうるさいほど主張していた寒さが薄れ、代わりに胸元から伝わる熱へ意識が引かれた。
知らない相手だぞ。
そう思っている。
なのに、身体はその腕の中を嫌がっていない。
むしろ離れるより、このままの方が楽だと感じている。
その食い違いが気持ち悪かった。
女が少し身体を動かすと、胸元の熱が離れかけた。
その瞬間、今度は別の不快感が強くなった。
腹の奥が空っぽになったような、落ち着かない感覚だった。
何だ。
考えるより先に、口が勝手に動いた。
唇が開き、顔がわずかに横を向こうとする。首は相変わらず頼りなく、頭を支える手に助けられながら、それでも口だけが何かを探すように動いた。
自分でやったつもりはない。
女の腕の中へ戻ると、その動きがさらに強くなった。
そこでようやく見当がついた。
空腹。
まさか。
そう思った直後、腹が空いたと認識したこと自体が引き金になったみたいに、他のことを考える余地が急に狭くなった。
何が起きたのか。
ここはどこなのか。
この女は誰なのか。
さっきまで大問題だった疑問が、腹を満たしたいという欲求に押し退けられていく。
腹が立つほど単純だった。
35年生きた記憶がある。
それでも今の身体は、そんなものに構わず空腹を訴えてくる。
周囲でまた声が交わされた。
女が姿勢を変え、身体を抱く角度がゆっくり変わる。
次に起きたことは、考えるより先に身体が理解した。
口元へ触れたものに、唇が吸いついた。
驚いて止めようとした。
止まらない。
舌と顎が勝手に動き、温かなものが口へ入り、それを飲み込む。
反射だった。
自分で選んだ動作ではない。
それなのに、飲み込むたびに腹の奥の切迫感が少しずつ消えていく。
屈辱だ、と言い切るには、楽になる感覚が強すぎた。
頭の方では何一つ状況に追いついていないのに、身体だけがやるべきことを知っている。
何だ、この身体は。
さっきまで避けていた考えが、もう避けにくくなっていた。
首が据わらない。
手足がまともに動かない。
言葉を出せない。
視界はひどくぼやけている。
抱き上げられるほど身体が小さい。
空腹になると泣き、口元へ触れたものに反射で吸いつく。
乳児。
その言葉が浮かんだ。
いや、もっと小さいのかもしれない。
布の隙間へ注意を向けると、胸元の近くに丸まった小さなものが見えた。
手だ。
自分の手。
指は短く、ほとんど握り込むように曲がっている。開こうと意識してみたが、一本ずつ動かすどころか、腕ごと妙な方向へ揺れただけだった。
生まれて、それほど経っていない。
そう考えるのが一番自然だった。
転生。
その言葉も、当然浮かんだ。
物語の中なら珍しくもない。
だが、自分のこととして考えると、あまりにも馬鹿げている。
意識が途切れるまでは35歳の身体だった。
次に気づいたら、どう見ても生まれたばかりの乳児らしい身体になっている。
それを何と呼べばいいのか。
答えを出そうとしたところで、飲み込む動作に意識を持っていかれた。
呼吸のタイミングがずれる。
少し焦る。
すぐ近くで女の声が続いた。
意味は分からない。
けれど急かしている感じではなかった。
背中を支える手も、慌ててはいない。
しばらくすると空腹は薄れた。
同時に、猛烈な疲労が出てきた。
瞼が重い。
目を開けているだけで疲れる。
冗談じゃない。
この状況で眠れるか。
せめて周囲だけでも確かめたい。ここがどこなのか。何人いるのか。危険な場所なのか。
そう考えて目を開こうとしたが、意志に反して瞼は半分ほどしか上がらなかった。
見えるものも相変わらず曖昧だった。
女の顔が近い。
濃い髪のかたまり。
その向こうには、明るい四角らしいものがいくつか並んでいる。
窓だろうか。
少し視線をずらすと、別の場所に揺れる明るさがあった。橙色らしい塊が一定ではなく動き、近くを誰かが通るたび影が伸びたり縮んだりする。
炎だろう。
部屋の中では、布の擦れる音、床を踏む靴音、木か何かが置かれる鈍い音が続いていた。遠くで扉が軋み、少し冷たい空気が入ってくる。誰かがすぐ動き、扉は閉じられた。
一人は寝台のそばで何かを畳んでいるように見える。別の人影は器のようなものを運び、炎の近くでも誰かが動いていた。
少なくとも、見慣れた病院ではなかった。
白い照明も、均一な壁も、電子機器の音もない。
だからといって、ここがどこなのかは分からない。
女がまた何か言った。
近くの誰かが短く返す。
そのやり取りのあと、女の腕が少し緩んだ。
身体を離される。
そう感じた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
嫌だ。
考えるより早かった。
自分でも驚いた。
離れたくない理由など、頭では一つも思いつかない。
相手が誰かすら知らない。
それなのに、腕が緩むだけで落ち着かなくなり、ぬくもりが戻るとまた力が抜ける。
さっきよりはっきりしていた。
頭では知らない女だと思っているのに、身体の方はそう扱っていない。
そのずれはやはり気持ちが悪かった。
同時に、無視もできなかった。
もし本当に生まれたばかりなら。
もし今が、文字どおり出生直後なら。
自分を抱いているこの女は――。
女がわずかに姿勢を変えた。
近くの人影がすぐに手を伸ばし、背中へ厚い布か枕のようなものを足す。女は何か言い、相手が返す。その声には少し笑いが混じった。
疲れている。
顔の細部が見えなくても、それくらいは分かった。
こちらを抱く腕も、ときどきわずかに震える。
自分が生まれたばかりだという考えと、その疲労が頭の中で結びついた。
母親。
そう考えるのが、一番自然に思えた。
それでも、そう呼ぶ感覚はまるでなかった。
当然だ。
こちらには35年分の記憶があり、その中にこの女はいない。
知らない相手をいきなり母親だと思えるわけがない。
けれど、女の指が頬に触れると身体はまた静かになった。
その事実だけは、どうにも否定できなかった。
やがて、抱き直された拍子に布の端から片手が外へ出た。
さっき見えたのと同じ、小さく丸まった手だった。
動け。
今度は意識して、指を開こうとした。
全部が一緒にむずむず動いただけだった。
もう一度試す。
親指だけを意識したつもりが、手首ごと妙な向きへ曲がる。
腹が立つ。
そこへ横から別の指が触れた。
布を直していた誰かの手らしい。
掌に軽く触れただけだった。
その瞬間、自分の指が勝手に閉じた。
握った。
いや、握らされた。
意志より速く指が相手の指へ巻きつき、離そうとしてもすぐには開かない。
触れた相手が小さく声を上げた。
抱いている女も、息を漏らすように笑った。
こちらとしては笑い事ではない。
口だけではなく、手まで自分より身体の方が使い方を知っている。
乳児という推測を否定する気は、もうかなり失せていた。
やがて指は自然に緩んだ。
布の中へ手が戻され、腕ごと胸元へ収められる。
手足をまとめて包まれるなど、大人の感覚なら窮屈でしかない。
なのに今は、その方が楽だった。
勝手に動く腕が止まり、身体の輪郭が少し分かりやすくなる。
それもまた、納得しにくい感覚だった。
周囲では作業が続いている。
女は抱いたままだが、何度か別の人が腕の下へ手を添えたり、背後のものを直したりしていた。本人がまだ休まなければならない状態らしいことは、言葉が分からなくても見て取れた。
なら、やはり。
考えが母親という言葉へ戻る。
確かめる方法はない。
質問もできない。
試しに、女へ向けてもう一度声を作ろうとした。
今度は泣かず、短い音だけを出すつもりで喉へ力を入れる。
出たのは、かすれた息と頼りない声だった。
女はすぐに顔を寄せ、何かを尋ねるような調子で声をかけてきた。
違う。
質問したいのはこっちだ。
そう思っても、伝える方法がない。
言葉が分からない以前に、発話そのものが成立していない。
しばらくは聞くしかない。
そう考えた。
けれど、その「聞く」ことさえ簡単ではなかった。
眠い。
さっきよりさらに強い。
意識の端から暗くなるように集中が崩れていく。
まだ寝るな。
せめて周囲の声に規則性がないか聞いておきたい。
何度も繰り返される音があるかもしれない。
自分へ向けて使われる音があれば、いずれ意味を探れるかもしれない。
耳を澄ませようとした。
だが、声はやはり音の塊だった。
一つの発話を覚えておこうとしても、終わるころには最初の方が抜けている。
信じられないほど集中できない。
苛立っても、その苛立ちさえ長く続かなかった。女の胸元から伝わる規則的な振動に意識が引かれ、布越しの熱に気を取られ、気づけば何を考えていたのか曖昧になる。
これでは何も分からない。
そのとき、扉が開いた。
さっきまでと違い、近くにいる人たちの反応が揃った。
動いていた人影が一度そちらへ注意を向け、誰かが短く声を発する。
足音が近づいてきた。
一歩ごとの間隔が広い。
低い声が聞こえた。
何を言っているのかは分からない。
ただ、その声がすると、女が顔を向けた。
ぼやけた視界でも、表情が少し変わったのは分かった。
口元が緩んだように見えた。
低い声がまた続き、女も返す。
二人のやり取りには、周囲の人々との会話とは違う近さがあった。
大きな影が視界へ入る。
立っている大人は、今の自分から見ると誰でも異様に大きい。
男らしいその影が屈み、ようやく顔らしい輪郭が近くなった。
髪は女より明るく見えた。
声は近くで聞くとさらに低い。
男はしばらくこちらを見ていた。
それから、何か言った。
その中に、さっき女が何度か使っていた短い音が混じった。
レオン。
意味は分からない。
声が少し揺れた。
笑ったのかもしれない。
女が短く返し、こちらを抱く腕がわずかに動く。
二人が同時に自分を見ている。
それだけは分かった。
もし女が母親なら。
当然、その先も考えた。
父親。
こちらも、そう考えるのが一番自然だった。
だが、それ以上のことを考える余裕はなかった。
身体が小さく震えた。
寒いというより、疲労が限界に近いらしい。
布が整えられ、男の手が離れ、女の腕が身体を少し深く包む。
低い声と柔らかな声が頭上で交わされる。
意味は分からない。
誰なのかも知らない。
それでも、女の腕の中へ収まると身体はまた力を抜いた。
頭ではまだ知らない相手だと思っている。
身体は違う。
そこがどうしても噛み合わない。
気持ち悪い。
けれど、さっきより怖くはなかった。
その理由を考えようとしたところで、瞼が落ちた。
まだ聞きたい。
見たい。
せめて何か一つ覚えておきたい。
そう思ってもう一度だけ目を開ける。
ぼやけた顔が近くにある。
濃い髪。
その向こうに、大きな男の影。
さらに遠くでは、人影が動き、炎らしい明かりが揺れている。
世界は、自分が何も分からないままでも勝手に動いていた。
何が起きた。
ここはどこだ。
考えはまだ残っている。
けれど、それを追う力がもう続かなかった。
女の腕が少し揺れる。
身体はその動きに合わせて、また勝手に力を抜く。
最後までそのことに納得できないまま、意識が沈んだ。




