第00話
「そこ、今のうちに直しておけ。地図と年表を別々に覚えるから混ざるんだ」
教室の後ろから小さく「あ」と声が上がった。
黒板の脇に投影した地図には、地中海沿岸といくつかの都市名、それから色分けした勢力圏が出ている。さっき回収した小テストでは、戦争の順番と相手を取り違えている答案が何枚かあった。
「名前が似てるから仕方ない、で済ませてもいいけど、それだと次も間違える。どこで、誰と誰がぶつかったのかまで一緒に見た方が早い。年号はそのあとでいい」
前の方でノートを取り直す音が増えた一方、窓際では一人が頬杖をついたまま視線を漂わせている。こちらと目が合うと、慌てて教科書へ顔を落とした。
聞いていなかったな、今。
まあ、全員が世界史を好きになるとは思っていない。こちらだって学生時代、興味の薄い科目まで毎時間目を輝かせていたわけではない。ただし、試験前になって「ここ分かりません」と持ってこられたとき、今日と同じ説明をもう一度するのは少し腹が立つ。
「じゃあ、この地図は写真に撮っていい。あとで配信もするけど、撮るなら今。はい、30秒」
一斉にスマートフォンを出しかけた何人かへ、「学校の端末で」と言い直すと、笑いが起きた。
チャイムが鳴り、号令が終わると教室の空気が一気にほどけた。椅子を引く音と話し声が重なり、次の授業の教員が廊下の向こうから歩いてくる。
教材をまとめて教卓を離れようとしたところで、さっき小テストを見直していた生徒がプリントを持って近づいてきた。
「先生、これ、結局どっちが先ですか」
指された欄を見る。
「こっち。というか、順番だけで覚えるとまた逆になるぞ。ほら、教科書のこの地図」
生徒の教科書を開き、ページの端を指で押さえた。
「この勢力がここまで出てきたあとに、こっちとぶつかる。だから流れで見れば逆にはなりにくい」
「ああ、なるほど」
質問しに来たときより、顔が少し明るくなる。
「今の『なるほど』を明日まで覚えてれば満点だな」
「たぶん無理です」
「そこは努力しろよ」
笑って逃げるように席へ戻っていく背中を見送り、教室を出た。
こういう瞬間は嫌いではない。何をどう言い換えても相手の顔に疑問符が残ると引っかかるし、説明が通れば単純に気分がいい。
職員室へ戻ると、机の上には午前中に積んだプリントと、途中まで作った次の授業のスライドがそのまま残っていた。隣では別の教員が提出物を仕分けし、その向こうでは印刷機の紙詰まりについて誰かが文句を言っている。
椅子へ座り、冷めたコーヒーを一口飲んで、すぐに後悔した。
「まずい」
独り言に、近くから「でしょうね」とだけ返ってくる。
時刻を確認し、明日の小テストを印刷して、スライドの誤字を直す。質問に来ると言っていた生徒を少し待ったが、実際に聞かれたのは授業内容より来週の範囲だった。
そんなものだ。
印刷機から温かい紙の束を回収し、机の端へ揃える。最後に校内の連絡を確認してからPCを閉じた。
廊下には部活動を行っていた生後がまだ残っている。階段を下りる途中、体育館の方からボールの弾む音が聞こえた。
帰宅して最初にスマホで確認したのは、週末の出走予定だった。
鞄を置き、上着を脱ぎながら競馬アプリを開く。登録馬の一覧から気になっていた名前を見つけ、そのまま前走映像まで遡った。
結果は知っている。見たいのは着順より、そこまでの走りだった。
道中は中団。直線へ向く前に外へ出したぶんだけ余計に走っている。それでも最後まで脚色は落ちなかった。
「やっぱり、もう少し長くてもいいだろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
次走で距離が延びるなら面白い。ただ、枠も相手も馬場もまだ分からない。別の馬まで見始めると終わらなくなるので、腹が鳴ったところで画面を閉じた。
食事を済ませ、流しへ食器を置く。
自宅の一角にあるパワーラックが目に入った。今日はやる日だった。
一瞬だけ見なかったことにしようかと思ったが、結局着替えた。35にもなると、仕事から帰って身体を動かすのが毎回楽しいわけではない。それでも、前より少し上がれば嬉しいし、数字が落ちれば普通に悔しい。
最後のセットを終え、記録だけ入力してシャワーを浴びる。
髪を乾かしたあと、PCで途中の歴史シミュレーションゲームを少しだけ開いた。
昨夜立てた予定は、開始して数分で崩れた。同盟相手が勝手に別の戦争へ首を突っ込んだせいで、こちらの計画まで巻き込まれている。
「おい」
画面の向こうへ文句を言っても仕方がない。
外交画面を眺めてしばらく考えたが、平日の夜に立て直しまで始めると寝る時間がなくなる。セーブして閉じた。
机の脇に置いたスマートフォンでアラームを確認する。いつもの時間だった。
朝一番の授業がある。
水を飲んで寝るか。
立ち上がったところで、足元が妙に遠くなった。
立ちくらみかと思い、机へ手を伸ばす。
指先がうまく触れない。
「……なんだ?」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
視界の端から色が抜けていく。机に手をついたつもりだったが、身体を支えられた感触がない。
何かがおかしい。
そう思ったところで、意識が途切れた。




