第15話
12歳になってから、もう何か月かたった。
その間も馬術の時間は変わらず続いている。乗る馬は1頭ではないし、その日の目的によって先生が選ぶ馬も変わる。それでも、自由に選んでいいと言われたとき、俺がゴルデネ・ライゼを選ぶ回数はかなり多かった。
今日もそうだった。
「よし。もう一度いきましょう」
オットー先生の声を聞きながら手綱を整えると、ゴルデネが耳を動かした。
こいつは素直という言葉だけで片づけるには、少し面倒なところがある。こちらの指示を分かっていないわけではない。むしろ分かっているくせに、雑に扱うと途端に嫌そうな反応をする。
最初の頃は、そのあたりが扱いにくかった。
今はそれも含めて好きだ。
脚を入れる。ゴルデネが前へ出た。
見た目だけなら、王宮厩舎にはもっと立派な馬がいる。大きさでも、毛並みでも、見栄えでも、上はいる。
でも、乗っていると気持ちがいい。
長く動かしたあとでも、こいつは崩れにくい。こちらが変なことをしなければ、最後まで仕事を続けてくれる。しかも一息入れたあとの戻りが早い。
馬術の訓練が終わる頃には、俺の方が先に疲れていることもある。
それは少し悔しい。
今日はそこまでではなかったが、馬場を何度か回ったあと、俺は額の汗を袖で拭った。ゴルデネは息を弾ませている。それでも、少し歩かせているうちに呼吸が落ち着いてきた。
先生が横から様子を見る。
「今日はここまでにしましょう」
「はい」
馬を止めて降りる。地面へ足をついた瞬間、思ったより腿が重かった。
ゴルデネの首筋を軽く叩く。
「おまえ、やっぱり元気だな」
当然、返事はない。
代わりに首が少し動いたので、邪魔だったらしい。
厩舎へ戻りながら、ふと気になった。
「先生」
「はい」
「ゴルデネの父馬と母馬って、どんな馬だったんですか?」
先生がゴルデネを見た。
「父と母ですか」
「はい。前にも少し聞いた気がするんですけど、ちゃんと知りたくなって」
先生はすぐには答えなかった。
知らない、という顔ではない。頭の中から必要なものを探しているような間だった。
「血統そのものなら、牧場の台帳を見るのが一番確実でしょう。私もこの馬について王宮へ来てからのことなら分かりますが、若馬の頃まで全部覚えているわけではありません」
「牧場って、ゾンネンフェルトですか?」
「ええ。ゴルデネはそこで育っています」
それは知っている。
4歳の頃、俺はまだ若かったこいつを王室牧場で見ている。当時は当然、乗れるような年齢ではなかった。今では王宮厩舎にいて、俺を背に乗せて走っている。
考えてみると、その間を俺はほとんど知らない。
「若い頃のことも残ってるんですか?」
「何もかも、というわけではありません。ただ、繁殖の記録もありますし、育成中の日誌もあります。いつこちらへ移ったかも分かるはずです」
「兄弟も?」
「父と母をたどれば分かるでしょう」
そこまで聞いたところで、急に面白くなった。
父と母が分かる。
同じ父の馬も、同じ母の馬も分かるかもしれない。
そいつらがどんな馬だったのかも気になる。
速いのか。丈夫なのか。気が荒いのか。ゴルデネみたいに少し面倒なのか。
いや、競走をしているわけではないから、速いかどうかの記録が都合よく並んでいるわけではないだろう。それでも乗用馬としてどうだったか、軍へ行ったならそこでどう使われたか、繁殖用に残ったなら何か理由があったのか。
知りたい。
普通に知りたい。
「先生、その台帳、見せてもらえますか?」
オットー先生は少しだけ眉を上げた。
「王宮厩舎にはありませんよ」
「あ」
そうだった。
今、自分でゾンネンフェルトと言ったばかりだ。
「牧場へ行けば、ですね」
「ええ」
厩舎を出る前にルーカスを見つけ、予定を聞いた。
「ゾンネンフェルトへ行ける日、ありますか?」
「急ぎですか」
「急ぎじゃない。ゴルデネの昔の記録を見たいだけ」
ルーカスは一瞬だけ俺を見て、それから持っていた予定を確かめた。
「では、数日後なら時間を取れます」
「そこにしてください」
「承知しました」
決まってしまえば、あとは待つだけだった。
待つだけなのだが、その数日の間に何度かゴルデネを見るたび、妙に気になった。
おまえの母親、どんな馬なんだ。
同じ母から生まれた馬はいるのか。
いたら今どこにいる。
本人は何も教えてくれない。
馬なので当然だ。
数日後、俺はゾンネンフェルト王室牧場にいた。
幼い頃にも来た場所だが、今日は馬を見ること自体が目的ではない。案内された先で、牧場の職員にゴルデネ・ライゼのことを調べたいと伝えると、まず繁殖台帳が出てきた。
分厚い帳面だった。
「この頃に生まれた馬なら、こちらです」
職員が台帳を開く。
俺が名前を告げると、指が行を追っていった。少しして止まる。
「ああ、ありました。こちらです、殿下」
覗き込む。
名前がある。
父馬と母馬の欄がある。出生した時期、性別、毛色、それから見分けるための特徴も書かれていた。
「ちゃんと残ってる」
思わず口にすると、職員が少し不思議そうな顔をした。
「繁殖の記録ですから」
「ですよね」
考えてみれば当たり前だ。
誰と誰の間に生まれた馬か分からなければ、繁殖の管理にならない。
記録はかなりきちんとしていた。少なくとも、俺が最初になんとなく想像していたような、古参の職員が全部頭で覚えていて帳簿はほとんどない、みたいな状態ではない。
むしろ逆だった。
見たいものがある。
そして、見つかる。
これは楽しい。
父馬の欄から別の頁をたどり、母馬の欄からまた別の記録を見る。同じ母馬から生まれた別の馬も見つかった。
「この馬は、その後どうなりました?」
俺が指した行を、職員が見る。
「育成中のことでしたら、日誌を見ましょう」
別の帳面が出てきた。
今度は1頭ごとの記録ではない。厩舎と時期ごとに、そのとき起きたことが書かれている。
「この馬の頁、というのはないんですね」
「はい。日々の飼養や体調、馴致の様子を残すものですので。同じ厩舎の馬は一緒に記しています」
なるほど。
それならこの形の方が仕事はしやすそうだ。
朝から何頭も見ている人間が、1頭ずつ別冊を開いて、そのたびに書き分けるのは面倒だろう。厩舎で今日何があったかを残すなら、時期ごとにまとまっている方が自然だ。
職員は出生時期からだいたいの場所を絞り、頁をめくっていった。
俺も横から名前を探す。
一度見つけると、前後も読みたくなる。
ゴルデネの若い頃については、賢いが少し扱いに癖があることや、成長の早い馬ではなかったことが、日誌のあちこちから見えてきた。大きな一文で「この馬はこういう馬です」と書いてあるわけではない。同じ時期の他の馬と一緒に、短い記録が積み重なっている。
「ああ、やっぱり昔からちょっと面倒だったんだ」
口にしたら、職員が咳払いをした。
王家の馬について王子が面倒と言うのは、たぶん反応に困る。
「悪い意味じゃないです。今もそうなので」
さらに困らせた気がする。
まあいい。
日誌をもう少し追う。
子どもの頃に見たゴルデネと、今乗っているゴルデネの間が、少しずつ埋まっていく。
これは面白い。
ただ、この馬がどう育ったのか知りたい。
それだけなのに、一つ分かると次が気になる。
同じ母から生まれた馬はどうだった。
父が同じなら、似たところはあるのか。
若い頃に丈夫だった馬は、大人になっても丈夫なのか。
逆に、若い頃は目立たなかったのに後から良くなる馬はどのくらいいる。
こういうのは危ない。
見始めると終わらない。
前世でも競馬は、走っている馬だけ見ていれば済むものではなかった。父が気になり、母が気になり、その兄弟が気になり、同じ組み合わせから生まれた馬まで気になってくる。血統の名前を眺めているだけで時間が消える人間の気持ちは、よく分かる。
今は名前だけではない。
目の前に、本当にその馬たちが育った記録がある。
楽しくないわけがない。
「殿下、こちらの馬でしたら、その後は別の厩舎へ移っています」
職員の声で、少し意識が戻った。
俺が追っていた近縁馬の1頭だった。
「どこへ?」
「まず育成場所が変わっています。そこから先は、引渡しの記録を見た方が早いでしょう」
また帳面が変わった。
今度は移管と引渡しの記録だった。
どの馬を、いつ、どこへ出したか。
さっきまでの日誌を閉じ、引渡し簿を開く。
問題は、先ほどの日誌や台帳などと同じ順番に並んでいるわけではないことだった。
当然といえば当然だ。
繁殖台帳は生まれた馬を管理するためのものだ。日誌はその時期、その厩舎で何があったかを残す。引渡し簿は外へ出す馬を管理する。
目的が違う。
だから並び方も、必要な情報も違う。
職員は慣れているので早かった。
生まれた時期を見て、育成期間を確かめ、だいたい移る頃を見当づける。名前だけで決めず、性別や毛色、特徴も照らす。
「これですね」
言われて、俺もさっきの台帳へ戻った。
名前。性別。毛色。生まれた時期。父母。
見比べる。
確かに同じ馬だ。
ただ、俺一人ならもう少し時間がかかっていたと思う。
「毎回こうやって探すんですか?」
「必要なら、です。牧場の中なら、どの馬か分からなくなることはそうありません。名前だけではなく、親や毛色、生まれた年も見ますので」
「でも、帳簿が変わると探し直す」
「用途が違いますから。ただ、慣れてきますと、おおよそのページは分かりますので、早く見つかるようになりますね」
職員はそう言ってから、引渡し簿の行を指した。
「この馬は軍へ渡っています。牧場側の記録は、ここまでですね」
「軍へ行った後は?」
「軍が管理する記録に載っていると思います」
終わった。
いや、終わってはいない。
馬の生涯は続いている。
牧場の仕事としては、ここで一区切りなだけだ。
「軍で、ちゃんと使えたかどうかは分からないんですか?」
「戻された馬や、繁殖のためにこちらへ来た馬なら、その時に分かることもあります。ですが、軍で使われている間のことは軍の記録を見た方が確かです」
それもそうだ。
軍には軍の仕事がある。何に使ったか、どんな状態だったか、そこで必要な記録を取るだろう。
王室牧場が、外へ出した馬を全部ずっと追い続ける必要はない。
ないのだが。
俺は知りたい。
「じゃあ、この馬の続きは、ここにはない?」
「はい」
うーん。
目の前にここまであるのに。
父母が分かる。生まれた時期が分かる。育成中の様子が分かる。どこへ行ったかまで分かる。
なのに、その先を見たければ、次の場所へ行かなければならない。
なんとも焦らされる。
「ゴルデネも同じですか?」
「ゴルデネ・ライゼは王宮厩舎へ出ていますから、その後はそちらです」
「それなら見られますね」
よし。
1頭は追える。
軍へ行った方は今すぐ無理でも、ゴルデネなら帰れば続きがある。
そう思うと、今度は別の近縁馬が気になった。
繁殖台帳へ戻る。
「殿下、まだご覧になりますか?」
「はい」
即答した。
職員が少しだけ笑いそうな顔をしたが、何も言わず頁を押さえてくれた。
次の馬は、さっきとは別の時期に生まれていた。
同じ母でも父が違う。
それだけでまた気になる。
どっちに似たんだろう。
いや、馬を見ないまま帳面だけで想像しても仕方がない。それでも気になるものは気になる。
繁殖台帳から日誌へ移る。
日誌から引渡し簿へ移る。
今度は王宮厩舎へ渡った馬だった。
「これ、ぼくは見たことありますか?」
「現在も王宮にいるかどうかは、こちらでは分かりません」
「ああ、そっか」
またそこで切れる。
牧場から見れば、王宮へ引き渡したところまで。今どう扱われているかは、オットー先生たちの仕事だ。
俺は手元の控えを見た。
父母も、若い頃も、近縁馬も見つかった。けれど行き先が変われば、続きの記録も別の場所へ移る。
面倒なんだけど、面白い。
ここまで残っているからこそ、余計に続きを見たくなる。
「殿下?」
職員に呼ばれ、顔を上げた。
「すみません。ちょっと考えてました」
「次はどの馬をお調べになりますか」
「あ、ええと……」
危ない。
このまま行くと、母方だけでなく父方まで全部たどり始める。
それは本当に終わらない。
「いったんゴルデネに戻ります」
「承知しました」
自制した。
かなり偉いと思う。
その後、ゴルデネ自身の引渡しまでを確認した。
繁殖台帳から育成の日誌へ、そこから引渡し簿へ。王宮厩舎へ移ったところで、牧場側の記録は終わる。
今のゴルデネにつながる続きは、王宮にある。
数日後ではなく、その日のうちに全部確認できればよかったのだが、持ってきてもいない王宮厩舎の帳簿を牧場で見られるわけがない。
必要なことを控えて、牧場を出た。
王宮へ戻ってから、次の馬術の時間にオットー先生へ聞いた。
「先生、この馬、知ってますか?」
俺が控えに書いたゴルデネの近縁馬の情報を見せる。
先生はすぐに答えず、目を通した。
「名前には覚えがあります。牧場から来た時期と、こちらで受けた記録を合わせれば同じ馬が分かるはずです」
また合わせるのか。
先生と一緒に王宮厩舎側の記録を確かめることになった。
こちらは当然、王宮で使う馬のための記録だった。
どの馬がいつ入ってきたか。現在の飼養や使用に必要なこと。牧場の繁殖台帳と同じ内容を、同じ順序で写しているわけではない。
必要ないからだ。
そのかわり、王宮へ来てからのことはこちらの方が詳しい。
牧場で見た引渡しの時期と、王宮側で受けた時期を合わせる。名前を見る。性別や毛色、特徴も確かめる。
「この馬ですね」
先生が示した記録を見て、ようやくつながった。
「やっぱり同じ馬だ」
「ええ」
分かれば気持ちがいい。
牧場と王宮の記録を突き合わせて、ようやく1頭がつながった。
しかも、こいつは王宮へ来たから追いやすかった。軍へ行った方は、まだ先が見えていない。
「先生、軍へ渡った馬だったら、やっぱり軍の記録を見るしかないですよね」
「その後を知りたいなら、そうなるでしょう」
「ですよね」
先生は俺の控えを見た。
「ずいぶん調べましたね」
「面白くて」
「ゴルデネのことを調べていたのでは?」
「最初は」
先生が黙った。
言いたいことは分かる。
俺も分かっている。
ゴルデネ1頭の父母を知りたかっただけなのに、いつの間にか近縁馬の行き先まで追っている。
でも仕方がない。
血統を見たら、その先が気になる。
「ゴルデネと似た馬がいるのか知りたかったんです」
「それで軍まで?」
「軍まで」
先生はしばらく俺を見ていたが、やがて記録へ視線を戻した。
「現在使っている馬のことなら、私もかなり答えられます。ですが、牧場にいた頃のことや、軍へ渡った馬のその後までとなるとわからないですね」
「はい」
「知りたいのでしたら、それぞれ調べるしかありませんね」
やはりそうなる。
不便だ。
ただ、それぞれの帳簿は、それぞれの仕事には合っている。全部を1つの帳面へ詰め込んだら、今度は日々使う人間が困るかもしれない。
だから、1冊にまとめればいいという話でもない。
俺が知りたいのは、ある1頭がどこで生まれて、どう育ち、どこへ行って、その後どうなったかだ。そこから父母や近縁馬へ横に広げたい。
完全に競馬好きの見方である。
牧場の人たちにそんな追い方をする必要はないと言われたら、その通りとしか言えない。
それでも、追えたら面白い。
若い頃は目立たなかった馬が、成長してからどうなったのか。
丈夫な親から生まれた馬が本当に丈夫なのか。
同じ母から生まれた馬でも父が違えばどう変わるのか。
もちろん、数頭見ただけで何か分かった気になるのは危ない。馬には1頭ごとの差があるし、育て方も使われ方も違う。
だからこそ、もっと見たい。
1頭や2頭ではなく、何頭も。
何年分も。
……まずいな。
考えれば考えるほど、時間を吸われるやつだ。
「殿下」
ルーカスの声がした。
振り向くと、少し離れたところに立っていた。
「そろそろ次の予定があります」
「もう?」
「もう、です」
手元の記録を見る。
まだ見たい。
さっき確認した馬の王宮での扱いも、もう少し追えば分かる。そこから別の近縁馬へ戻ってもいい。軍へ行った馬について、どこへ聞けばいいかだけでも確かめたい。
いくらでも続けられる。
だからこそ、今やめないと本当に遅れる。
「分かった」
控えをまとめ、先生に記録を返した。
歩き出してから、もう一度だけ振り返る。
ゴルデネの父母も、若い頃の様子も、近縁馬も、かなり分かった。
もっと簡単にたどれたら、たぶん相当面白い。
どうやればいいのかは、まだ分からない。
今はそれより、ゴルデネに乗りたい。
親戚の記録ばかり見ていたら、本人の顔を見たくなった。
次の馬術の日、空いていたらまたゴルデネに乗ろう。




