第13話
10歳の誕生日が近いと言われても、自分ではあまり実感がない。
朝、鏡の前に立っても、昨日より急に背が伸びているわけではない。けれど、去年の上着はもう袖が短いし、馬に乗れば鐙の長さも以前とは違う。机の上に積まれる本は厚くなり、先生たちが俺に求める答えも、少しずつ「覚えています」だけでは済まなくなってきた。
そういう細かいものを集めると、10年近く生きてきたことを改めて実感する。
朝食の席では、マティが食べ終わる前から今日の予定を気にしていた。
「先に文字のお勉強があるの。終わったら庭へ行っていい?」
以前なら俺が何をするのかを聞いて、そのままついて来たがることのほうが多かった。今もこちらの予定を気にすることはある。それでも、もう自分の一日がある。
「昼までに終わるかしら?」と母上が聞いた。
「たぶん。先生が長くしなければ」
マティは答えながら母上の顔を見た。母上は何も言わなかった。
あれはたぶん、長くなる日もある。
その隣では、ハインが小さく切られたパンを指で押しながら、果物の皿を見ていた。
「赤いの」
「先にそれを食べなさい」
母上がパンを示す。
「赤いの、あと?」
「あとです」
ハインはしばらく果物とパンを見比べてから、渋々パンを口へ入れた。
交渉成立らしい。
俺の中ではまだ赤ん坊の印象が強い弟も、とっくに泣くか笑うかだけの生き物ではなくなっている。言葉が増えた分だけ要求も分かりやすくなった。便利になったのか面倒が増えたのかは、微妙なところだ。
父上は食事の途中で、思い出したように俺へ顔を向けた。
「そういえば、前にお前が見に行った市場の件だが」
「市場?」
「火事の時に逃げる側は練習をしているのか、と聞いただろう」
「ああ」
そういえば、最初の市場見学のときに、そんなことがあった気がする。
王都の市場を見学した時、火を消す側の話を聞いていて何となく気になったのだ。前世なら避難する側も訓練するのが普通だったから、こちらでもやっているのかと聞いた。
「1区画だけだが、実際に試したそうだ」
「本当にやったんですか?」
「やったらしい。通路を空けるのはうまくいったが、人を集める場所が消火の邪魔になったり、御者のいない荷車が動かなかったりしたそうだ」
「なるほど」
御者がいない。
言われてみれば当たり前なのに、そこまでは考えていなかった。
やっぱり実際にやると、そういうのが出るんだな。
「もう1度やるそうだ」
「次はうまくいくといいですね」
「ああ」
父上はそれだけ言うと、自分の皿へ戻った。
俺もパンをちぎる。
思いつきで聞いたことが、本当に誰かの仕事になったらしい。
大げさな成果でも何でもない。市場の1区画で試しただけだ。
それでも、少し嬉しかった。
実際の火事の時に役立つなら、なおさらいい。
その話はそこで終わった。
食事が済むころには、ハインが約束どおり赤い果物を手に入れていた。
***
午前の勉強は、自分の部屋での復習に当てられていた。
ルーカスが机の上を整えてから部屋を出ていき、俺は椅子に座る。
今日やること自体は決まっている。今まで習った地理と法の復習。それに書き取り。後で魔法の練習もある。
最初のうちは普通に進めていた。
字を書き、読み返し、覚えている内容を確かめる。
けれど、朝から何度も「もうすぐ10歳」という言葉を聞いたせいか、途中で別のことが気になった。
10年。
正確にはまだ届いていないが、だいたい10年だ。
この世界へ生まれ直してから、それだけの時間が経った。
前世では35年生きた。
今の俺の頭の中には、前世35年分の記憶と、こちらで10年近く生きて覚えたものが一緒に入っている。
そのわりに、ちゃんと整理したことはなかった気がする。
必要な時に思い出す。
分からないことがあれば習う。
前世と違うものを見れば比べる。
それで今まで困らなかった。
でも、もう少し自分が何を知っていて、何を知らないのか考えてみてもいい頃かもしれない。
書きかけの文字から手を離した。
頭の中で整理してみる。
ここはファルケンマルク王国で、俺はその国の王子。王家の本領は東西に分かれ、西部旧領はヘルヴァルト神聖帝国の中に入り込むような位置にある。そして帝国には他の諸侯や都市がいて、それぞれ権利を持っている。
王だからといって、領内を全部好きにできるわけではない。領内にも勿論貴族がいて領地を持ち、特に西部に関しては帝国法の兼ね合いもある。さらには婚姻関係や過去の権利や約束などの積み重なり。
初めてスウェーデンに本社を構える会社の歴史シミュレーションゲームをやったときのことを思い出した。覚えることや考えることが多すぎて、とてつもなく大変だった。だけどあれはゲームのためにわかりやすくなっていたんだということを、今になって心底実感する。
国外に関しても最近授業で触れるようになってきた。
南から南東にはヴァルデンハイム神聖国。ファルケンマルクより明らかに大きく、いくつもの地域を抱えている。そして、ここしばらくヘルヴァルト神聖帝国の皇帝はこの国の王家から選ばれている。
東から南東にはレシア共和国がある。穀物や河川交通の話で名前を聞くことが多いし、さらに東の大国ヴェリスラヴ帝国との間でも重要な位置にある。ヴェリスラヴ帝国はここ100年ほどで国力を高めて大国化していったらしい。
西にはフロレーヌ王国。いわゆるこの辺りの覇権国家だ。ファルケンマルクの東部から見れば遠くても、西部旧領から見れば東部より近くフロレーヌ王国の方が近く、影響を受けている部分もある。
北西の海上にはウェストリア王国がある。海上交通や交易の話で名前が出る国だ。どうやら世界中の国との交易を行っているらしい。
こうして並べると、やっぱり似ている。国の位置も、政治の形も、文化の雰囲気も、見覚えがある。それでも知っている知識と比べると色々と差異を感じる。
何より違うのが魔法があることだ。
前世で知っている歴史はヒントにはなるだろうが、頼り過ぎるとマズイだろう。
あくまで別の世界の過去だ。
次に、暮らし。
多くの国民は農民である。農民が国民という意識を持っているかはおいといて。
村があり、畑があり、農業を営んでいる人が多い。ヨアヒム先生の話と聞くと、どうやら自由農民もいる一方で、中世的な農奴もそれなりいそうだ。
また交通関係は、魔法があると知ったときは色々夢想したが、夢は夢だった。
もちろん魔法の恩恵はあるが、輸送手段の中心は馬車や船であり、魔法があるからより早くより大容量にとはなっていなかった。
情報伝達スピードも距離によっては半年以上の遅延もあるらしい。
前世の感覚で考えると、恐ろしく遅い。
でも、こちらではそれが普通だ。
地図だって同じだ。
前世なら指先で広げれば、知らない町の細い道まで出てきた。
こちらの地図は、何のために作ったかで中身が違う。
国全体を見る地図。
土地の境界を見る地図。
軍が街道や橋を確認する地図。
また古かったり間違っていたりすることもある。
最初は単純に不便だと思ったが、今はそこまで含めて地図なのだと分かっている。
前世の便利さは、地図1枚取っても相当な量の人と金と手間の上に乗っていたんだろう。
使うだけなら一瞬だったけど。
教育も違う。
俺には先生がいる。
ほぼ毎日のように、歴史、地理、法、語学、宗教、魔法、馬術、軍事と、いろいろ習っている。
それが普通だと思ったら大間違いだ。
貴族の家で学ぶ者もいれば、教会や町で文字に触れる者もいる。商売や仕事の中で必要な読み書きや計算を身につける人もいる。
王家の子どもは祈りや礼拝、季節の宗教行事にも普通に参加する。教会はそういう儀礼だけでなく、人や土地の記録や教育にも関わっている。
前世なら、同じ年齢の子どもがだいたい同じ時期に学校へ行き、同じような教科書を開いていた。
あれも、こちらへ持ってくれば便利そうだ。
読み書きができる人間が増えれば、できることは多い。
でも、全国の子どもを明日から学校へ行かせよう、で済む話ではない。
教師はどこから出す。
本は誰が作る。
村からどこへ通う。
家の仕事はどうする。
金は誰が払う。
考え始めると、急に現実が押し寄せてくる。
前世で生徒に「学校なんてなくなればいいのに」と言われたことは何度もある。
作る側を想像すると、少しだけ気持ちが分かった。
いや、なくなったら困るんだけど。
魔法については、もっと分かりやすい。
これは前世にはなかった。
だから、現地の人間から習うしかない。
ヘレーネ先生のほうが俺よりはるかに詳しいし、長年使ってきた魔術師や職人には俺の知らない経験が山ほどある。
一方で、前世の知識が使えないわけでもない。
熱や力、流れ、圧力、身体について、前世なら学校で習うようなことが、こちらでは同じ形に整理されていない場合がある。
測る、条件を揃える、比べる、結果を残す。そういう考え方も使えるかもしれない。
今あるものを、別の見方で使えることはありそうだ。
軍も似ている。
銃もある。
大砲もある。
隊列も号令もある。
その辺だけ見れば、前世で教えた歴史と似ている。
でも、魔法がある。
防御魔法があり、攻撃魔法があり、身体を強化する使い方もある。
しかも、兵を動かすには武器だけ見ていればいいわけではない。
命令や指揮官、食料、道、橋、天気、疲労。この前ゲオルク先生から習っただけでも、考えることは思っていたよりずっと多かった。
強い武器を1つ作れば勝てる、みたいな話なら分かりやすいのに。
現実の軍隊はそう都合よくできていない。
前世の軍事史を知っているから、どんな方向へ発展していくかはかなり想像できる。
後発式の銃をつくることが出来たら、かなり優位に立てるのか?もっともボルトアクションの銃の形は分かっても、その原理は知らないから無理そうな気はするが。
それでも実際には魔法があるから、作れたとしてもどうなるかはわからないが。
そういえば、この世界にきてから、気合いを入れて魔法とともに頑張ったのものとして馬術がある。
馬術もこちらで完全に覚えたものだ。
前世では競馬を見る側だったので、馬に乗れるわけではなかった。
競馬好きが転生したら乗馬も上手い、なんて都合のいい話はなかった。
でも、競馬について知っていることは多い。
競走そのものだけでなく、馬を生産する側でも聞きかじった知識はある。
どうやらこちらにも馬の競走はあるらしい。
だったら、もっとちゃんとやったら面白い。
外国の馬まで集めて走らせたら、もっと面白いそう。
ウェストリア、フロレーヌ、ヴァルデンハイム、ファルケンマルク。それぞれの馬を同じ場所で走らせたら、どれが勝つか。
これは国家の威信を懸けたレースとして出来るようになった楽しそうだ。というか、俺が見たい。賭けたい。脳汁だしたい。
よし。競馬はやろう。小規模でも良いから、いつか安定してレースを開催出来るようにしよう。そして、俺が配合まで決めた自家生産馬が歴史に名を残せるようにしよう。なんらんら三大始祖じゃなくて、この世界では一大始祖にしてしまおうか。夢だけは広がるな。
頭の中を整理しているつもりだったのに、競馬だけ棚から飛び出してきた。
そういえば、こんな感じで、思考や感情・行動が目の前の楽しそうなものに引っぱられることが減ってきた気がする。
前世の俺と今世の肉体が一致し始めたのかな?それでも、まだまだ、大人っぽい子どもって感じではあるんだが。
前世ではしがない教員だった俺が、今世では王子という立場になった。
やれることも多いだろう。
便利にできるなら、便利にしたい。
強くできるなら、強くしたい。
面白くできるなら、面白くしたい。
俺なら上手くできる、と少し思ってる俺がいる。
もちろん、父上に頼めば何でもできるわけではない。王になっても何でも出来るわけでないだろう。
それでも、見られるものも、会える人間も、将来持つことになる権限も、普通ではない。
だったら、それを使ってみたい。
義務だから、だけではない。
せっかくこんな世界に来たのだから、何かやってみたい。
歴史を知っている人間が歴史の中へ放り込まれて、ただ眺めて終わるのも、少しもったいない。
そこまで考えてから、さすがに気が早いと思った。
俺はまだ王ですらない。
10歳にもなっていない。
今のところできるのは、勉強することと、質問することと、少し試してみることくらいだ。
十分だろう。少しずつ出来ることも増えてくる。
机の上の課題へ目を戻した。
さっきまでより、書きかけの文字が少しだけ現実的に見えた。
地理も法も、ただ覚えるだけのものではない。
今後何かやろうとした時、知らなければ困る。
そう思うと勉強にも気合いが入る。……と、きれいに言えれば格好いいのだが。
一回切れた集中力はそう簡単には戻らなかった。
それでも、駄々をこねる感情を抑えて、続きを始めた。
どれくらい時間が経ったのか分からなくなったころ、扉が開いた。
「殿下」
ルーカスだった。
「昼食のご用意ができています」
「もうそんな時間?」
「はい。だいぶ頑張っておられましたので少し声をかけるのを遅くいたしました」
もっと早く声をかけてくれればよかったのに。
机から顔を上げる。
確かに腹が減っていた。
何が出るんだろう。
パンに肉、魚、スープ。こちらの食事にも慣れたし、嫌いではない。
むしろ美味いものは多い。
ただ、そういえば。
久しぶりに白い飯も食いたい。
米、この世界のどこかにはあるんだろうか。
外国のこともこれから色々調べるつもりだ。
機会があったら、探してみるか。




