第12話
8歳になって、まだ1か月も経っていない。
7歳のあいだも、それまでの生活は止まらなかった。ヨアヒム先生の授業を受け、ヘレーネ先生から魔法を習い、オットー先生との馬術も続いた。コンラートとは何度も顔を合わせ、そのたびにどちらが先にできるかを気にすることがあった。フェリクスやマティアスと一緒に勉強したり、身体を動かしたりする日もあった。
その日の朝は、訓練場へ向かう前に母上たちと朝食を取った。父上はもう執務へ出ていて、母上の向かいではマティがパンをちぎっている。ハインは自分の前の皿より、隣に置かれた俺のもののほうが気になるらしく、何度か手を伸ばしてきた。
「ハイン、それはぼくの」
皿を少し遠ざけると、今度は俺の顔を見て手を伸ばす。何が欲しいのか分からない。
「そちらのほうがおいしそうに見えるのかもしれないわね」
母上がハインの前へ同じパンを置いた。ハインはそちらを掴んだので、少なくとも俺の朝食そのものに恨みがあったわけではなさそうだ。
「レオン、今日は馬?」
マティが聞いた。
「今日は馬じゃないよ」
「じゃあ魔法?」
「それも違う。今日から軍事の授業」
マティはパンを持ったまま首を傾げた。
「ぐんじって、兵隊?」
「兵隊とか、戦い方とかだと思う。ぼくも今日が初めてだから、何をするかはまだ知らない」
「剣は?」
「使うかもしれないけど、今日は分からない」
「わたしも行く」
「今日はぼくの授業だよ」
「見るだけ」
「マティにはマティの予定があるでしょう」
母上に言われ、マティは少し考えるようにパンへ目を落とした。
「じゃあ、帰ったら教えて」
「剣じゃなくても?」
「兵隊も」
「分かった」
マティは、何でも俺の予定を聞き、自分もついて行こうとする。可愛らしいと思うけど、たまに面倒くさく感じてしまうこともある。さすがに、トイレにまでついてこようとするのは困る。
ハインは、まだ会話には加わらないが、自分の手でパンを掴み、気に入らなければ別の皿へ手を伸ばす。こちらもなかなかのきかん坊だ。もっともこの頃の子どもはこんなものかもしれないが。
そのハインが今度は器を押した。縁が卓の端へ近づく前に母上が片手で止める。
「ハイン」
名前を呼ばれた本人は、何事もなかったようにパンを口へ運んだ。
俺は自分の器を少しだけ中央へ寄せた。さっきまでハインの手から逃がしていたのに、今度は落とされないように近づける。朝食だけでも、なかなか大変だ。
食事を終えるころには、ルーカスが迎えに来る時刻になっていた。今日から俺の予定に加わるのは、軍事だ。
王宮の外郭へ出ていくと、先に声が聞こえた。短い声が1つ飛ぶ。少し遅れて、土を踏む音がまとまって返る。次の声。足音。さらに声。
もしかしたら古い映画で見た怒鳴り散らす軍曹みたいなのも見れるかもしれない。少しワクワクしたが、実際にはそんな人物はどこにもいなかった。
訓練場では20人ほどの男たちが列を作っていた。離れた場所にも別の集団がいる。こちらは歩いて向きを変え、向こうでは盾を構えていた。土を盛った低い壁の先には、射撃用らしい板が並んでいる。俺が来たから始まった訓練ではないらしい。
「殿下」
低い声に振り向いた。灰褐色の短い髪に、横に広い肩。立っているときの身体が妙に動かない人だった。
「ゲオルク・ブレンナーです。本日から軍事をお教えします」
「よろしくお願いします、先生」
俺が頭を下げると、ゲオルク先生も短く礼を返した。
剣を持たされるのだろうか、と少しだけ考えていた。だが、先生は武器の置かれたほうへは行かず、訓練中の兵が見える位置で止まった。
「この授業は殿下を兵士として鍛えるための授業ではありません。殿下が兵より強く剣を振れても、それだけで軍は動かない。将来、軍を出すか、どれだけ動かすか、誰に預けるかを決める立場に立つなら、軍が何をできるのかを知らなければなりません」
そこで先生は訓練場へ顔を向けた。
「まず、兵がどう戦うのかを見てください」
10人あまりの兵が2列に並んだ。訓練担当らしい男が短い号令を出す。前列が少し腰を落とし、次の号令で後列の兵が腕を前へ向ける。
何が飛んだのかは目では分からなかった。だが、離れた板で乾いた音が続き、木片が散る。板の下の土も1か所跳ねた。
「今、後ろの列だけが撃ちましたね」
「はい」
「なぜだと思いますか」
前列も同じ方向を向いている。撃てないわけではないはずだ。
「前の人に当てないためですか」
「それも理由の1つです。この訓練では、前の列に正面を守らせ、後ろの列に射撃させています。全員が同時に撃てば攻撃する人数は増えますが、そのあいだ正面を守る者が減る。逆に全員が守れば、こちらから攻撃できません。役目を分け、必要なら交代させます」
次の号令で前列の兵が盾を構え、後列はその隙間から前を見た。
「それに、射撃には通り道があります。途中に味方がいれば邪魔になりますし、壁や土塁があればそこへ当たる。距離が伸びれば威力も精度も落ちます」
なるほど。
前世の銃や弓とは仕組みが違っても、撃つ相手との間に味方を置けば困るのは同じらしい。
前列が盾を構えると、向こう側の小集団がこちらへ腕を上げた。
「攻撃側は訓練用に弱めています」
攻撃そのものは目に見えない。それでも、前列の兵が反応した直後に足元の土が跳ねたり、盾が乾いた音を立てたりする。ある兵の周囲で続けて土が弾けると、その兵は片手を動かしたあと、次には盾を少し持ち上げた。
「今のは、防御魔法ですか」
「はい。飛んでくる攻撃魔力を崩したり、逸らしたり、弱めたりしています。熟練した兵は、目で見るのとは別に攻撃の方向を読む訓練もします」
「それでも盾を使うんですね」
「魔力にも集中にも限りがあります。攻撃の方向を読み、それを処理するだけでも力を使う。1方向から1つ来るのと、左右からいくつも来るのでも違います。撃つにも守るにも、同じ本人の力を使います」
「守ってばかりいたら、撃てなくなる」
「そういうことです」
兵たちが盾を下ろす。号令が変わると、今度は列を崩さず斜めに移動し始めた。
1人なら右へ行きたければ右へ行けばいい。10人あまりになると、内側と外側では必要な歩幅が違う。誰かが遅れれば穴ができ、詰めれば隣の邪魔になる。
「射撃だけなら、もっと広く散らばったほうが当たりにくくないですか」
「敵が正面から射撃だけしてくれるなら、それも使えます」
ゲオルク先生は訓練場の端へ目を向けた。数人が馬を動かしている。
「ですが、敵はそうしてくれません。騎兵が来ることもある。歩兵が接近することも、側面や背後へ回ることもある。散らばれば攻撃を受けにくくなる場面はありますが、互いに助けにくくなり、短い号令でまとめて動かすのも難しくなる」
先生は低い土塁を示した。
「逆に集まりすぎれば、射線が重なり、攻撃も集まり、動きにくくなる。地形にも入りにくくなります。だから、いつも同じ形で戦うのではなく、敵と地形と役目に合わせて形を変えます」
前世の近世ヨーロッパの戦列が頭に浮かんだ。火器を持った歩兵が横に並び、号令で射撃する。武器の性質と戦い方に合わせて、隊列や教練も変わっていった。
目の前の兵も列を作り、号令に従って同じ方向へ攻撃する。似ているが、全部が全部同じというわけではないだろう。こちらでは歩兵自身が魔法を撃ち、魔法でも守る。
そのとき、訓練場の端で兵が長い筒の付いた武器を台から持ち上げるのが見えた。横には小さな容器や道具が並んでいる。
見覚えがある形だった。
「先生。銃もあるのですね」
ゲオルク先生が、武器ではなく俺のほうを見た。
「よくご存じですね。ヨアヒム殿の授業でもう習いましたか」
しまった。
習っていない。
前世の記憶と照らし合わせて考えていたら口が滑ってしまった。前ほど肉体年齢に引っぱられることは多くはないが、まだまだ意識しないと感情や行動を制御しきれない。
「そうですね、少し話を聞いたことがあります」
うん。そういうことにしておこう。
先生はもう一度火薬銃へ目を向けた。
「なるほど。あれも軍で使います」
「でも、さっきの人たちは持っていませんでした」
「正規歩兵の主要な遠距離攻撃は魔法です。魔法なら火薬や弾を1発ごとに使わず、同じ兵が射撃と防御を切り替えることもできる。ただし、威力も精度も使える回数も人によって違います」
先生は銃を扱っている兵を示した。
「火薬銃は逆です。武器と火薬と弾がきちんとしていれば、本人の魔力量に左右されにくい。魔法射撃が不得手な者にも使わせやすい。一方で、撃てば装填が必要で、火薬と弾を運び続けなければなりません。ですから、同じ遠距離攻撃でも使いどころが違います」
「どっちかが強いから、もう片方はいらないわけじゃない」
「はい。大砲なら、さらに役目が変わります。人が1人で出す魔法では壊しにくいものを、大きな弾と火薬で壊すために使える」
前世の歴史では、火器が軍隊の形そのものを変えていった。こちらでは、そこへ魔法が最初から混ざっている。銃がある、大砲がある、隊列があるというだけで、前世のどこかの時代へそのまま当てはめるのは危なそうだった。
訓練担当の号令がまた飛んだ。
兵たちは止まり、向きを変え、列を組み直す。
俺には、その短い言葉の意味がまだ分からない。
「先生。あれだけで、どうしてみんな同じように動けるんですか」
ゲオルク先生は近くにいた訓練担当者を呼んだ。
「殿下へ、今使った号令を2つだけ教えてくれ」
「はっ」
男は俺たちの前で、さっき使った停止と前進の号令をもう一度言い、それぞれの意味を説明した。言葉そのものは短い。その一言を聞いた兵が、いつ歩き始め、いつ止まり、誰を基準にするかまで普段の訓練で覚えているらしい。
「毎回そこまで説明しないんですか」
「毎回説明していては、動き終わるころには敵がこちらへ参ります」
訓練担当者の返事に、思わず兵たちの列を見る。
10人あまりへ1人ずつ「あなたは3歩右へ、あなたは2歩前へ」と説明していたら、確かに戦争どころではない。
「殿下もやってみますか」
ゲオルク先生が言った。
「ぼくが号令を?」
「今教わった2つだけです。まず少人数で試してみましょう」
訓練担当者が8人を列から外した。俺から数歩離れたところで、兵たちは横に並ぶ。
さっきまで見ていたときとは違う。8人全員が俺を見ている。
「では、前進の号令を」
教わった言葉をそのまま言う。
8人が同時に歩き出した。
分かっていたはずなのに、少し驚いた。
俺は8人へ歩幅も順番も教えていない。誰から歩けとも言っていない。それでも、ほとんど同時に動く。
「止めてください」
今度は停止の号令を出す。
足音がまとまって止まった。
少し面白い。
もう一度前進させ、今度はさっきより短いところで止めてみた。やはり同じように動く。
ゲオルク先生が言った。
「誰を見て動くかも、どの言葉で何をするかもを平時に訓練をしておくから、戦場では短い命令で済みます」
8人が元の位置へ戻る。
先生は次に、少し離れた土塁を示した。
「では、もう1つ見てください。あの8人を土塁の後ろへ移し、標的へ射撃できるようにしたいとします」
今度も俺に号令させるのかと思ったが、先生は訓練担当者へ向いた。
「土塁を使って、標的へ射撃できる位置へ。前後を交代できるように」
「はっ」
そこから先は、俺にはまだ分からない号令が続いた。8人が動き、4人が先に土塁へ寄り、残りがその後ろへ入る。前の4人も一直線に肩を並べるのではなく、土塁と標的の位置に合わせて少しずれていた。
訓練担当者が射撃を許可する。前の4人が撃ち、板が立て続けに鳴る。続く号令で前後が入れ替わり、残りの4人が射撃した。
「今の命令を、殿下が兵士に対して出す必要はありません。殿下の役割は今の私が行ったように、目標や目的を考え、指揮官に伝えることになります」
「でも、途中の人が兵士に伝える指示を間違えたらどうするの?」
「まず、そうならないように指揮官を選び、教育します。それでも間違いは起きます。そのときは、途中の指揮官だけを責めれば済むとは限りません。上からの命令が曖昧だったのかもしれないし、伝わる途中で意味が変わったのかもしれない。戦場では、雨で声が届かないことも、道が泥で使えないことも、兵が疲れて予定どおり動けないこともあります」
前世で戦争を教えるとき、地図の上では矢印1本で軍が動いた。北へ進む。川を渡る。敵の側面へ回る。教科書に書けば数文字で済む。
でも、実際には人が歩き、命令を受け、道を通り、疲れる。この世界なら、そのうえ魔力的な要素まである。
訓練担当者が8人を通常の訓練へ戻してよいか確認し、ゲオルク先生が許可した。短い号令で8人が土塁から離れ、元の集団へ戻っていく。
入れ替わるように別の組が盾を持って前へ出た。離れたところでは騎兵が速度を上げ始めている。
「戻りましょう、殿下」
ゲオルク先生が歩き出した。俺もその横につく。
背後で別の号令が響き、次の集団が一斉に動き始めた。




