第10話
ハインは、身体の大きさに似合わない声で泣く。
朝食のあと、母上の部屋へ顔を出したときもそうだった。寝台ではなく、窓辺の椅子に座った母上の腕の中で、弟は顔を赤くして泣いていた。まだ生まれてから何週間も経っていない。髪も薄く、手のひらは俺の親指ほどしかないのに、声だけは部屋の端までよく届く。
「ハイン、おなかすいたの?」
マティが母上の膝に手をかけて、背伸びをする。
「さあ、どうかしら」
母上はそう言いながら、慣れた手つきでハインを抱き直した。泣いている本人より、のぞき込もうとするマティのほうが落ち着きがない。
俺は少し離れたところから弟の顔を見た。
家族が5人になった。
その事実はもう数週間前からそこにあるのに、ときどき妙な感じがする。父上と母上と俺とマティ。それでひとまとまりだった部屋に、当たり前のようにもう1人いる。しかも今は、自分で寝返りすらできない小ささで。
ハインが1度大きく息を吸い、さらに大きな声で泣いた。
マティがびくっと肩を上げた。
「元気ね」
母上が笑う。
「うるさい」
「マティも、このくらいのころはよく泣いていたのよ」
「わたし、こんなに?」
「ええ」
マティは不服そうにハインを見た。本人に反論する能力がないのをいいことに、しばらく黙って睨んでいる。
俺は笑いそうになったところで、扉のそばに立っていたルーカスと目が合った。
そろそろ時間らしい。
「母上、行ってきます」
「ええ。気をつけて。先生のお話をよく聞くのよ」
「はい」
「わたしも行く」
すぐにマティが言った。
「今日は兄上のお勉強です」
母上が穏やかに止めると、マティは今度は俺を見た。
「なに見るの?」
「市場と、職人のいるところと、川」
「おみやげは?」
勉強の内容ではなく、そっちだった。
「買っていいって言われたら」
俺が答えると、後ろのルーカスは何も言わなかった。
「じゃあ、あまいの」
「分かった」
約束した途端、母上の腕の中でハインが泣き止んだ。
俺たちの会話を聞いて納得したわけではないだろう。目もまだどこを見ているのか分からない。それでも静かになった弟を見てから、俺は部屋を出た。
今日の目的地は、俺が6年以上暮らしている王都だった。
なのに、まともに見に行くのは初めてだった。
*
今日の外出は、ヨアヒム先生の授業の一環だった。
とはいえ、王宮の外へ出るのに俺とヨアヒム先生とルーカスだけ、というわけにはいかない。
先任の近侍が1人。護衛が数人。王都側からも案内を兼ねた実務者がついた。市場の中へ馬車ごと入る場所と歩く場所も、あらかじめ決められているらしい。
無警護でふらりと街へ出て、気の向くまま露店をのぞくような散歩ではない。
そこは仕方がない。
俺は王子で、まだ6歳だ。
王宮から馬車で離れるにつれ、窓の外の景色が変わっていった。
高い塀と広い庭が減り、建物が道へ近づく。人の数が増える。荷車と騎馬と歩く人間が同じ道を使い、建物の1階には大きく扉を開けた店が並ぶ。2階の窓から布が垂れ、通りを横切るように看板が突き出している場所もあった。
地図で見れば、王都は1つの印だった。
ヴァイスブルク。レーデン川が通り、王宮があり、道が他の土地へ延びている。
紙の上では、それで分かった気になれる。
でも窓の外には、地図には書かれていなかったものが多すぎた。
馬の蹄の音。車輪が石を噛む音。誰かを呼ぶ声。どこかで金属を叩く音。焼いたパンの匂いの直後に、馬と泥の匂いが来る。建物の間を抜ける風に、煙と香辛料らしい刺激が混じる。
一度に入ってくるものが多くて、どれを見ればいいのか迷う。
向こうから来た荷車の御者がこちらの馬車に気づいて道を寄せた。その横を、大きな籠を背負った女が早足で通り抜ける。店先では少年が箱を積み直し、そのすぐ近くで年配の男が客と値段をやり合っていた。
「殿下」
向かいに座ったヨアヒム先生が声をかけた。
「今日は、王都で人が何をして、物がどう動いているのかを見てください。市場だけでなく、工房と河岸まで見れば、つながってくるものもあるでしょう」
「人も物も多すぎて、どこを見ればいいか分かりません」
「では、まず目についたものからで結構です。気になったことは、その場で聞いてください」
「はい」
それならできそうだった。
やがて馬車が速度を落とした。
市場の端で降りると、音が急に近くなった。
窓越しではなくなっただけなのに、人の声が身体にぶつかってくるようだった。
護衛が周囲へ目を配り、先任の近侍が俺の少し前に立つ。ルーカスはすぐ横ではなく、必要なら手が届くくらいの位置についていた。先生の隣には、今日の案内をする王都の役人がいる。
役人が話し始めようとしたところへ、2人の荷役が木箱を担いで横切った。
片方が俺たちに気づいて頭を下げ、道を空けると、2人はそのまま箱を運んでいった。
市場の中では、穀物を量る店、野菜を積んだ露店、肉を扱う店、布や糸を並べた店、鍋や刃物を置く店が、きれいに種類ごと分かれているわけではなかった。似た商売が固まった場所もあるが、その間に食べ物を売る露店が入り、荷車が止まり、客が立ち話をしている。
大きな秤の皿へ袋を載せている男がいる。女主人らしい人が帳面を見ながら何かを指示し、若い使用人が奥から樽を転がしてくる。別の店では、客が布を広げ、日の光に透かすようにして色を見ていた。
「ここで売る人は、みんな自分で作ってるの?」
俺は先生に聞いた。
「いいえ」
先生はすぐ答えた。
「自分で作った物を売る者もいますが、別の土地や別の職人から仕入れて売る者もいます。詳しい区別は、こちらの方に伺ったほうがよいでしょう」
役人が頷いた。
「同じ品でも売り方はさまざまでございます。店を構える者、定まった場所に露店を出す者、決められた日にだけ来る者もおります」
「場所は勝手に決めるの?」
「勝手には決められません。通行を塞がぬこと、隣の商いに必要以上の迷惑をかけぬこと、そのほか扱う品によって守るべき決まりもございます」
役人は足元を示した。
よく見ると、石畳の端に色の違う石が並んでいる場所がある。露店の荷物が、その線を大きく越えないよう置かれていた。
俺が気づいたのを見て、役人は続けた。
「人が増えれば、物もはみ出しますので。毎日きれいに守られるわけではございませんが」
その直後、少し先で男の声が飛んだ。
「そこ、車輪が出てるぞ!」
積み荷を下ろしていた荷車が、通りへ斜めに止まっていたらしい。御者が慌てて馬を引き、荷役が車輪の横から木箱をどける。
役人はそちらを見て、ため息というほどでもない息を吐いた。
毎日きれいに、というのは本当に無理なのだろう。
人が働いている場所は、図面みたいにはならない。
市場を歩くうち、俺は何度も立ち止まりかけた。
焼き菓子を並べている店には、マティへの約束を思い出したし、細い金属線を束にして売っている店では何に使うのか気になった。見たことのない形の根菜もあった。鳥を籠に入れて売っているところでは、鳴き声が人の会話に負けないくらいうるさかった。
けれど、いちばん目を取られるのは物より人だった。
客が去った瞬間に顔つきを変えて次の客へ声をかける店主。何度も往復して荷を運ぶ使用人。主人に叱られながら縄を結び直す少年。重い袋を肩へ載せる前に、2人で呼吸を合わせる男たち。
みんな、自分が次に何をするか知っている。
俺にはただの混雑に見えるのに、その中で仕事が進んでいた。
「先生」
「はい」
「毎日こんなに人がいるの?」
先生は役人を見る。
「日によります」
役人が答えた。
「入る荷の多い日、遠方から商人が来る日、祭日の前などはさらに混みます。雨が強ければ減りますし、季節でも変わります」
「もっと増えるんだ……」
今でも十分多い。
俺が通りの先を見ていると、道の脇に大きな水桶がいくつか置かれているのに気づいた。飲み水を売るためのものではなさそうだ。近くには、屋根の下へ掛けられた小さめの桶も並んでいる。
「これは?」
「火の備えでございます」
役人は答えた。
「市場は火を使う店もございますし、布や木箱、藁など燃えやすい物も多うございます。井戸と貯水槽に加え、すぐ使える水を置く場所を決めております」
その言葉で、さっきから見えていたものが少しつながった。
店と店の近さ。張り出した庇。荷車。木箱。布。油を扱っていそうな樽。食べ物を焼いている火。
「火が出たら、どうするの?」
俺が聞くと、役人は市場の端にある高めの建物を指した。
「見張りが見つければ合図を出します。夜なら夜警もおります。鐘と呼び声で知らせ、近くの者が水を出し、担当の者が人員と道具を動かします。魔法を使える者は、近くの水を動かしたり、燃え移りそうな場所を冷やしたりもします。火の勢いによっては、燃え広がらぬよう建物の一部を崩すこともございます」
「建物を壊すの?」
「火を止めるために、やむを得ぬ場合には」
俺はもう1度市場を見た。
火元の店だけ消せば済むとは限らない。これだけ建物が近ければ、風があればなおさらだろう。
役人は続けた。
「消防を担う者や夜警、それぞれの組合では、桶やポンプの扱い、持ち場への集まり方なども訓練しております」
「訓練するんだ」
「はい。火が出てから初めて道具を触るわけにはまいりませんので」
水もある。見張りもいる。合図もある。火を消す側は、前もって練習している。
それなら――と考えたところで、横から大きな荷車が来た。
護衛に促されて、俺たちは道の端へ寄った。
荷車は樽を積んでいた。車輪が石の継ぎ目を越えるたび、樽を縛った縄が軋む。前にいた人たちも左右へ避け、露店の主人は突き出していた籠を足元へ引き戻した。
荷車が通り過ぎるまで、それなりに時間がかかった。
俺は後ろ姿を見送った。
「火事のときも、こういう荷車はいるの?」
「いることはあるでしょう」
役人が答える。
「火の近くなら、まず退かせます」
「店の人はどこへ逃げるの?」
「火から離れます。担当の者が危険な場所へ入らぬよう声をかけます」
「みんなで練習はしないの?」
役人が少し黙った。
「みんな、と申しますと?」
「店の人とか、荷車の人とか。鐘が鳴ったら、荷物をどけて、こっちへ逃げるって。実際に歩くの」
言ってから、最近の自分の稽古を思い出した。
魔法も馬術も、説明を聞いただけではできなかった。やってみれば手や身体の使い方を間違えるし、できたと思っても次には崩れる。
火事のときだけ、逃げる側は本番でいきなりうまく動けるのだろうか。
だから、火を消す側が練習するなら、逃げる側も1度は実際に動くものだと思った。
役人は通りを見ながら考えていた。
「消防の担当や夜警が、火災時の手順を確かめることはございます。組合でも、持ち場や道具の確認はいたします」
「うん」
「ですが……この市場の店主、使用人、客、荷車まで含めて、合図から通りを空け、避難するところまで実際に通す、ということでございましたら」
役人は先生へ視線を向けた。
先生もすぐには答えず、俺たちが歩いてきた通りを見返した。
「一般に行っているわけではない、ということですか」
「少なくとも、私の知る限りでは」
役人は答えた。
「店ごとに火を出したときの役目を決めているところはございます。近隣同士で水を回す相談もしております。ただ、商いを止め、荷車も置いて、火災時の人の流れをそのまま試すとなれば、別の話でございます」
「できないの?」
俺が聞く。
「できない、とまでは申しません」
役人は少し考えてから答えた。
「市場全体でとなれば大仕事です。事情を知らぬ客もおりますし、荷の出入りを止めれば商人にも影響が出ます」
それはそうだ。
市場には店主だけでなく、買い物に来た人間もいるし、荷物を届けたらすぐ去る御者もいる。船から荷を受け取って別の通りへ行く者もいるだろう。
全員を同じように動かすのは簡単ではない。
「でも」
先生が言った。
役人がそちらを見る。
「市場全体でなくとも、1区画ならどうでしょう」
先生は俺ではなく、役人へ向けて話していた。
「消防を担う方々の訓練に合わせ、店先の荷をどこへ寄せるか、荷車をどちらへ動かすか、人をどこへ逃がすか。実際に1度通してみれば、机の上では分からないことが見えるかもしれません」
役人はすぐに賛成しなかった。
通りの幅を見て、店先を見て、さっき荷車が通った方向を見た。
それから、今度は少し離れた井戸のほうを見る。
「……実施するなら、商いの薄い刻を選ぶ必要がございます。火災合図そのものを使うなら、周囲へ事前に知らせねば混乱いたします。集合場所も、ただ広い場所を指定すればよいわけではありませんな。消防の者が通る道と重なれば逆効果です」
次々に問題が出てくる。
俺は口を挟まなかった。
でも役人の表情は、断る人のものではなくなっていた。
「担当の者と、市場の組合へ話してみましょう」
やがて役人は言った。
「1区画だけなら、試す意味はあるかもしれません。店先と荷車を実際に動かし、避難方向と集合位置、それから連絡が通るかを確かめる。やってみれば、かえって今の手順で十分なところも分かるでしょう」
先生が頷いた。
「それが分かることにも価値があります」
「はい」
「承知いたしました。まず担当の者と市場の組合へ話してみます」
役人が再び歩き出したので、俺たちもその後に続いた。
少し先の店からいい匂いがしてきた。
俺はそちらを見た。
ルーカスが気づく。
「殿下。マティ様へのお土産でしたら、帰りまで傷みにくい物がよろしいかと」
「うん」
結局、焼き菓子を一包み買うことになった。
もちろん俺が直接財布を持っているわけではない。ルーカスが先任の近侍へ確認し、店の者とやり取りしている横で、俺は並んだ菓子を見た。
俺が受け取ると、店主は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
俺も言った。
*
市場を抜けて職人工房の多い通りへ入ると、音の種類が変わった。
売る声が減り、叩く音、削る音、鋸の音が増える。
建物の前まで材料が積まれ、開け放した扉の奥に作業台が見える。木屑の匂いがするところもあれば、熱い鉄と炭の匂いがするところもあった。
金属を扱う工房では、炉の火が赤く燃えていた。
親方らしい男が礼をし、見習いが火の具合を見ている横で、別の職人が赤く熱した金属を火床から取り出した。
叩くたびに火の粉が散る。
俺は護衛に言われるまでもなく少し下がった。
「近づきすぎないでください」
それでもルーカスが言った。
「分かってる」
職人が長い金属を台へ移したとき、端がわずかに傾いた。
隣にいた男が片手をかざす。
ほんの短いあいだ、重そうな金属の動きが鈍った。止まったというより、落ちようとする力を誰かが横から支えたように見えた。その間に別の職人が下へ当て物を入れる。
すぐに手は下ろされた。
「いまの、魔法?」
俺が聞くと、親方が頷いた。
「はい、殿下。長く支えるほどのものではございませんが、手を挟まずに済みます」
「ずっと浮かせないの?」
「長く支えられる者をわざわざ呼ぶより、台と道具を使うほうが早うございます」
親方は当然のように答えた。
なるほど。
魔法があっても、炉も、掴む道具も、打つ槌も必要だ。その中で、魔法を使ったほうが安全なところだけ使っている。
隣では見習いが親方に叱られていた。
「そこじゃない、先にこっちを揃えろ」
「はい!」
魔法より、そちらの声のほうがよほど大きい。
木工の工房では、同じ形に削った部材が何本も壁へ立てかけられていた。職人が寸法を当たり前のように確かめ、合わないものは横へよけている。
布を染める作業場の近くでは、大桶から湯気が上がっていた。職人の1人が桶の縁へ手をかざすと、弱くなっていた湯気がまたゆっくり立ち始める。
「温度を保っているのですか」
俺が聞くと、案内の役人が頷いた。
「はい。火だけで細かく合わせるより、必要なところを少し補うほうが扱いやすい場合がございます」
鍛冶場とは使い方が違う。
「殿下、次は河岸へ向かいます」
先生に呼ばれて、俺は作業場の奥を見るのをやめた。
「はい」
工房を出たところで、遠くから鐘が鳴った。
役人が何気なくそちらへ目を向けたが、足は止めなかった。
*
レーデン川は、地図で見たときよりずっと広かった。
当然といえば当然だ。
地図では線1本だった。
実物は、水の色も流れもある。風もある。岸には船が寄り、倉庫が並び、その間を人と荷物が動いている。
市場とは違う意味で、ここも騒がしかった。
綱を引く掛け声。木と木がぶつかる音。水が船腹へ当たる音。荷を数える声。川鳥の声まで混じる。
湿った水の匂いに、縄と木材と荷の匂いが重なっていた。
「ここから入った荷は、全部市場へ行くの?」
「いいえ」
先生が答え、また役人へ譲った。
「倉庫へ入れる物、そのまま別の場所へ送る物、注文した商人や工房へ運ぶ物もございます」
役人は河岸の一角を示す。
「荷を確認し、行き先ごとに分け、必要なものは記録します。あちらでは船から降ろした樽の数を確かめております」
見ると、机の前に立つ男が帳面へ何かを書き、その横で別の者が樽に付いた印を確認していた。
少し離れたところでは、滑車を使って大きな荷を持ち上げている。
太い綱を何人かで引き、吊られた荷がゆっくり船から離れる。岸側の男が声を張り上げると、綱を持つ人間の動きがそろった。
荷が岸へ移る途中、1度大きく揺れた。
「止めろ!」
声が飛ぶ。
綱を持つ1人が吊り荷へ手を向けると、揺れが一瞬だけ鈍った。その間にすぐ横の2人が綱へ手をかけ、監督の掛け声に合わせて引く。荷はゆっくり落ち着いていった。
「いまのも魔法?」
「はい。大きく運ぶのは滑車と綱で、危ないところだけ補います」
案内の役人が答えた。
「上手だね」
俺が言うと、近くにいた河岸の監督らしい男が少し胸を張った。
「毎日扱っておりますので」
短い答えだった。
それ以上説明しなくても、目の前で分かる。
毎日やっている人間の動きだった。
俺たちは邪魔にならない場所からしばらく荷揚げを見た。
小麦らしい袋。樽。木箱。束ねた木材。中身の分からない包み。
運ばれてきた物は倉庫へ入り、別の荷車へ載り、またどこかへ行く。
朝、市場で見た品々の一部も、こういう場所を通ってきたのだろう。
そう考えると、別々に見ていた景色がつながった。
川に船が着く。
人が荷を下ろす。
誰かが数える。
誰かが運ぶ。
工房で材料になったり、市場に並んだり、家で食べられたりする。
その間には、俺の知らない仕事がいくつもある。
「王都って、忙しいね」
気づくと、そんな言葉が出ていた。
「何を見て、そう思いましたか」
ヨアヒム先生が聞く。
「市場も工房も川も、ずっと物と人が動いてる。別々だと思ってたけど、つながってる」
「ええ。それが今日、見ていただきたかったことの1つです」
川風が吹いて、髪が目にかかった。
ルーカスが少し後ろで、買った焼き菓子の包みを確認している。河岸の湿気で駄目にならないよう気にしているらしい。
「大丈夫?」
俺が聞く。
「今のところは」
「マティに怒られる?」
「私が、でしょうか」
「持ってるのルーカスだから」
「殿下がお選びになった品でございます」
「でも持ってるのはルーカス」
ルーカスは一瞬だけ黙った。
「では、無事にお持ち帰りできるよう、より慎重に扱います」
真面目な答えだった。
朝から見たものが多すぎて、少し疲れていた。足もそうだが、頭のほうが疲れている。
先生がそれに気づいたのか、帰る前に川沿いの少し静かな場所で休むことになった。
腰を下ろし、水を飲む。
護衛は休んでいるようには見えず、周囲を見ていた。役人は先任の近侍と何か話している。
俺は川を眺めた。
向こう岸にも建物がある。
船がゆっくり上流へ進んでいく。
しばらく川を見ているうちに、朝から頭へ入り続けていた音や匂いが、ようやく少し落ち着いてきた。
「殿下、そろそろ戻りましょう」
先生が言った。
「はい」
俺は立ち上がった。
帰りの馬車では、行きより外を眺める時間が長かった。
同じ道を通っているはずなのに、見えるものが少し違う。荷車を見ると、積んでいる物がどこから来て、どこへ行く途中なのかが気になった。
王宮の塀が近づいたころには、窓の外の音はだいぶ遠くなっていた。
*
戻ると、マティは本当に焼き菓子を待っていた。
「おそい」
最初の言葉がそれだった。
「勉強だったから」
「おみやげ」
「分かってる」
ルーカスから包みを受け取って渡すと、マティの機嫌はすぐ直った。
母上の部屋では、ハインが眠っていた。
朝の泣き声が嘘みたいに静かで、胸が小さく上下している。
「何を見てきたの?」
母上に聞かれて、俺は少し考えた。
市場も見た。工房も見た。川も見た。
火事の話もした。
でも、1つだけ選ぶのは難しい。
「人が、いっぱい働いてた」
結局、そう答えた。
母上は一瞬だけ目を丸くした。
「そう」
「うん。すごくいっぱい」
マティはもう菓子の包みを開けることに夢中で、俺の話を半分も聞いていない。
ハインも寝たままだ。
椅子へ座ると、焼いたパンの匂いと、槌の音と、川風と、荷を引く男たちの掛け声が、まだ頭の中に残っていた。




