ピッツバーグ、ペンスルヴェイニア…8
IS-70に乗り換え、人工的な直線で東西に切られた州境を超えて、二人は黙ったままウエスト・ヴァージニア州に入った。太陽はなかなか沈まなかった。西へと向かっていたからだ。
二十分ほどで足早に同州を通過し、北からぐるっと回ってきたオハイオ川との五十八マイルぶりの再会を喜ぶ暇もなく、中洲のようなウィーリング・アイランドを通過してオハイオ州に入ったのだが、橋梁の愛好家ならばここで二人に苦言を呈することだろう。かつて吊橋としては世界最長の支間長を誇った『ウィーリング・サスペンション・ブリッジ』及び、今は亡き『ブリッジポート・ブリッジ』の両橋を気に掛けることなく、二人が通り過ぎてしまったからだ。
しかし、二人は黙り続けていた。橋梁のことなど頭にないかのように。
空は橙色から紫色へとフェーズを移し、役目を終えた橋梁が発破解体され、当たり前のように崩落するときの哀しさと美しさに想いを馳せるべきタイミングで、エルの腹のあたりからぐうっという音がした。しばらくの沈黙のあと、ウインドシールドの向こうを眺めながら、ビリーが指摘した。
「腹、減ったんじゃないのか」
「減ってない」鼻をひくりと動かしてから、エルは否定した。
「今、腹、鳴ったろ」横目でちらりとエルを見てから、ビリーは再度事実を指摘した。
「鳴ってない」再度否定してから、エルは唇を内側に丸め込んだ。
ビリーは眉を上げてもう一度横目でエルの後頭部を眺め、視線を前方に戻してから、呟くように言った。
「そうかい」
車は時速七〇マイルでさらに西へと走ったが、IS-70を走り続けるという二人の無神経な選択に、誠実な橋梁の愛好家――たとえばあなたのような――ならば苛立ちを禁じ得ないだろう。なぜUS-40に乗り換えなかったのか。なぜ『ブレイン・ヒルズ・ブリッジ』の優美なS字をその目に焼き付けようとせず、美しきレンガ敷きの橋面を足の裏で捉え、石造りの高欄の触覚を掌や頬に覚え込ませようとしないのか。仮に先々の旅程の都合により立ち寄ることができないとしても、せめて近くを通過だけでもしたいと願うのが、人間としての自然な情というものではないか。
そんなあなたの正当な苛立ちに気づくことなく、二人は走り続け、黙り続けた。
小ぶりながらも美しいレンガ造りの町並みと、給水塔の愛好家ならばいくらか気に掛けるであろうマルティ・コラム型及びスフェロイド型の二基並んだエレヴェイティッド・ウォーター・タンクを――そのシルエットの曲線美を観賞すべき絶好の時間帯は過ぎてしまっていたにせよ――有するセン・クレアスヴィルを通過する頃に、今度はビリーの腹が鳴った。エルは微かに片頬を上げ、言った。
「もし、あなたが――」
上手く声が出なかったので、軽く咳払いをしてから言い直した。
「もし、あなたがお腹が空いたんだったら、ディナーに付き合ってもいいけど」
ビリーは横目でエルを眺め、ウインドシールドの向こうの進行方向に目を戻し、すうっと息を吸って、力強い声で言った。
「いや、俺は空いてねぇな。あと三日はなにも喰わずにいられるぜ」
エルの唇の端がぴくぴくと動いたが、冷淡な口調を保ったまま言った。
「そう」
それから口をごにょごにょと動かして、付け加えた。
「――あたしは二週間は大丈夫そう」
おやおや、と眉を上げて、ビリーは頷いた。
「そうかい」
蒼く染まりゆく夏の宵の空の下を、さらに西へと走った。二人が通過したウィルズ・タウンシップの地に、ふた夏ぶんの夢と追憶といくばくかの負債を残して存在することをやめた『パラダイス・レイク』という名のアミューズメント・パークがあったことを知る者は、存外少なくはないのかもしれないが、どちらかというと廃墟の愛好家ないし幽霊の愛好家にとっては、ここから八十マイルほど北北西に離れた地に眠る『チプワ・レイク・アミューズメント・パーク』の赤く錆びて木々と一体化した観覧車、力尽きて地に伏せたサルタサウルスの死骨といった趣のタンブル・バグの残骸といった風景の方が、いくらか馴染み深いものなのかもしれない。
話を八十マイルほど南南東に戻せば、二人が『ソルト・フォーク・Sブリッジ』に気づかなかったことはご容赦いただきたい。あなたのような相当の、むしろ偏執的とさえ呼べる橋梁の愛好家でなければその存在を知ることさえないような、橋長五十五フィートの小柄で慎ましい橋なのだから。
ゼインズヴィルの街が近づいてきた頃にもう一度、控えめに、しかし確かに、エルの腹が鳴った。ビリーはエルをちらりと見て、頭をうしろに倒し、目を上に上げ、首を何度か揺らして、ほうっと息をつき、顔を戻し、まだ充分に残っているフュエル・ゲージを確かめる振りをしたあと、舌打ちをし、空々しい声で言った。
「クソ、なんてこった、ガスが切れてきちまったぜ。人間の腹はなかなか減らねぇみてぇだが、シェヴィ(こいつ)の腹はそうもいかねぇ。仕方ねぇ。次の出口で降りるさ」
ビリーは言葉通りに次の出口でインターステイツを降り、青い案内板のGASとFOODの文字を確認して南に向かい、ほどなくして小さなガス・ステイションに着いて車を駐めた。ガスを入れることもなく、ビリーはなにも言わずに併設のコンヴィニエンス・ストアに入っていき、エルもなにも言わずにビリーについていき、カウンターでそれぞれに十二インチのピッツァをオーダーし、ガソリンの匂いのする店内のテーブルに向かい合って座り、競い合うようにがつがつと、人間の燃料を貪った。
自分のピッツァが半円より小さくなったところで、エルはなにも言わずにビリーの一切れに手を伸ばしてひょいと口に運び、しばらくもぐもぐと噛んでから、悪くないかも、という風に何度か頷いた。ビリーもなにも言わずにエルの一切れをつまみ、同じように噛み砕き、お前のもまぁまぁ悪くねぇ、という風にもぐもぐと頷いた。
一切れぶん早く食べ終わったのはエルの方だった。エルは上品に口を拭ったあと、ビリーを眺め、勝ち誇ったように片頬でにやりと笑った。ビリーはエルをじろりと見て、それから目を伏せ、参ったぜ、というように首を振り、最後の一切れを口に運んだ。




