鎖は永遠に続かない
◇
圧倒的な光の津波が、物理的な破壊を一切伴わずに世界を駆け抜けた。
王都アルカディアは、まだ夜明け前だった。
凍てつく空は暗く、通りのガス灯が橙色の光を石畳に投げかけている。その眠れる街並みの中で――唐突に、全ての契約書を保管する金庫や引き出しが一斉に光を放った。
街角のパン屋の主人が、驚いて二階の窓から顔を出した。まだ暗い通り沿いの家々の窓から、契約書の放つ光が連鎖的に漏れ出している。音のない花火のように、金と銀が混じり合った柔らかくも力強い光が、王都中の建物を内側から静かに照らし出していた。
南部の小さな港町エストリアでは、夜明け前に出港の準備をしていた漁師たちの手元で、使い古された漁業権契約の羊皮紙が一斉に光を放った。ミリアの故郷の海もまた、金銀の星明かりのような反射で美しく輝いた。
そして遠く離れた帝国との共同管轄地域でも、国境警備隊の詰所にある条約の原本が光を放っていた。はるか帝国本土の執務室で、徹夜で書類仕事に追われていたルシアの手元にある帝国の写しも、全く同じタイミングで金と銀の光を放った。静かな光が、彼女の冷徹な銀灰色の髪に、温かな金銀の影を踊らせた。
世界中のありとあらゆる契約魔法が、三つの新原則に照らして、今この瞬間に――『更新』されたのだ。
◇
遺跡の最深部。
《始原の契約石》からゆっくりと両手を離したレイヴンは、極度の疲労と情報処理のオーバードーズで、しばらくの間、一歩も動くことができなかった。
手のひらには、まだ世界中の契約の脈動の感触が焼き付いている。何百万という人間の喜び、苦しみ、希望、絶望。全てが一瞬で流れ込み、一瞬で去っていった。自分の手で世界のあり方を書き換えたという物理的な感触が、両手を熱く痺れさせている。
「……お前は、本当に奇妙な人間だな」
純白の光を纏ったエオスが、呆れたような、しかしどこか弾んだ声で言った。
「これで四度目だ」
「数えるな。精霊の威厳が台無しだ」
レイヴンは、ゆっくりと遺跡の冷たい石壁に背中をもたせかけた。服越しに伝わる千年前の石の冷たさが、オーバーヒートした脳髄にひどく心地よかった。
「あ、あの……エオスさん」
ミリアが、恐る恐る口を開いた。
「これから、どうされるんですか? ここに、遺跡に残るんですか?」
エオスの純白の光が、戸惑うように柔らかく揺れた。
「……この暗がりに残る理由は、もう何一つない。アルケスの結界は解かれ、私はこの法則の檻から解放された。私は今から……世界中のどこへでも行ける」
「千年ぶりの、本当の自由ですね!」
「……嗚呼。だが……少し、怖いな」
エオスが呟いたその意外すぎる弱音に、ダリウスがふんと太い鼻を鳴らした。
「絶対的な自由の精霊が、自由が『怖い』とはな。傑作だ」
「千年間、語りかける相手もいない石壁の箱庭で過ごした者にとっては、無限の選択肢がある外の広い世界は、酷く恐ろしいものなのだよ。不自由の檻に守られていれば、迷う必要すらないからな。……お前たち頑健な人間には、一生分からない感覚だろうが」
「……分かりますよ」
その時、リーネがひどく静かで、澄んだ声で言った。
全員の視線が、小柄な少女局員に集まる。
「私も、そうでしたから。ヘルムート伯爵家の絶対的な奴隷契約から突然外に出されたとき……自由って、すごく怖かったんです」
リーネは、自分の両手を見た。
「誰の命令も受けない。何を食べるかも、どこに行くかも、全部自分で決めなきゃいけない。……理不尽な鎖は死ぬほど重くて憎かったけど、外れた瞬間は体が軽すぎて、足元がふわふわして、どこかに飛んでいって消えてしまいそうで……怖かった」
エオスの光が、驚いたように小さく明滅し、そして……リーネの言葉を咀嚼するように、ほんのわずかに暖かく明るくなった。
「……人間にも、絶対の孤独と不自由を知る者がいるのか」
「いますよ。世の中にはいろんな人がいます。……もし良かったら、しばらくの間、うちの管理局の近くにいませんか」
リーネは、かつての自分に手を差し伸べてくれた局長のように、エオスに向かって小さく微笑んだ。
「王都を案内しますよ。焼き栗の美味しい屋台もあるんです」
自由の精霊は、その人間の少女からの不器用な提案に、音もなく、光を柔らかく波打たせるだけの『笑い』を返した。
「……真剣に、考えておこう」
◇
◇
遺跡の外に足を踏み出すと、夜が完全に明けていた。
澄み切った冬の朝日が、荒涼とした平原を黄金色に染め上げている。そして、遠くの山並みまで見渡せる抜けるような青空に、巨大な虹がかかっていた。
七色ではない。赤も青も、その全てを超過した白金色と純白の光までが混じり合った、神話のような『精霊の虹』。それは、千年の呪いが解け、二つの神格が再び調和したことの物理的な証明だった。
ミリアが、大きく深呼吸をした。
冷たく澄んだ冬の空気が肺を満たし、吐く息が真っ白な霧になって消える。
「……世界が。本当に、変わった気がします」
「変わりました。……しかし、我々管理局にとっての血を吐くような『変化』は、むしろこれからです」
感慨に浸る間もなく、ダリウスが容赦なく分厚い手帳を開き、万年筆を走らせ始めた。
「三つの新原則が大本に組み込まれたことで、全国の既存契約の自動精査がすでに完了している。自由意思なき契約や、生存権を脅かす永久拘束は即時無効化された。……つまり、現在進行形で前代未聞の大混乱が起きているということだ。不正な奴隷契約や搾取的労働契約が自動で弾け飛び、法的に『解放』された人間が、一晩で数万人単位で発生している」
ダリウスの声は、戦場を駆ける将軍のように低く鋭かった。
「喜んでいるばかりでは人間は死ぬぞ。彼らの緊急の受け皿が必要だ。当面の住居、食料の配給、そして新しい仕事の斡旋。一部の商業取引にも致命的なエラーが出ているはずだ。経済システムが止まれば、結局一番先に飢えるのは弱者だ」
「リーネさん。本局の記録庫の状況は」とレイヴンが問う。
「紙の二重記録は正常に機能しています。過去の正当な所有権の証明は可能です。ですので混乱のドミノ倒しはギリギリで食い止められるはずですが……」
リーネは、懐から赤い付箋がびっしりと貼られた業務ノートを引き出した。
「すでに、地方の管理事務所から本局宛てへの緊急問い合わせが、魔力通信をパンクさせる勢いで殺到し始めています」
「優先度は、何よりも弱者保護だ」ダリウスが素早く指示を飛ばす。「解放された奴隷、不当な搾取から逃れた農民、不正契約の被害者たちへの救済拠点の設置。各地の支局に、緊急権限での予算執行を指示してくれ」
「了解です。その指示なら――三時間前に、全エリアに向けて発令済みです」
レイヴンとダリウスは、同時に目を見開いてノートを抱える小柄な少女局員を見た。
三時間前。それはまさに先ほど、レイヴンが《始原の契約石》に触れて血の涙を流しながら新原則を書き込んでいた、その真っ最中の時間帯だ。
「リーネさん……いつの間に」
「局長が石に書き込みを始められた瞬間から、成功を前提にして指示書をしたためていました」
リーネは、真っ直ぐにレイヴンの青い瞳を見返した。
「もし失敗したら、後で私が越権行為で始末書を書けばいいだけです。……でも、もし成功した時に、対応が三時間遅れたら。たったその三時間のタイムラグのせいで、路地裏で凍えて死ぬ人が出てしまいます」
ダリウスが、何か厳しい小言を言いかけて――ふっと、厳つい口元を緩めて口を閉じた。
代わりに、熊のような分厚い大きな手で、リーネの頭をぽん、と少し乱暴に叩いた。
「……いい調査員に育ったな、お前」
「……っ」
リーネの目が、瞬時に赤く潤んだ。
最高の上司からの不器用な最大の賛辞に、しかし彼女は決して声を震わせず、誇り高くノートを胸に抱き直した。
◇
アルカディア王国契約管理局、王都本局。
戻るなり、彼らを待っていたのは地獄のような紙の暴風雨だった。
レイヴンの堅牢なマホガニーのデスクには、各地への緊急通達の原稿、各地方自治体からの被害報告書、そして何が起きているのか説明しろという王宮からの矢の様な照会文書が、文字通り山のように積まれている。
万年筆のインクが尽き、すぐに二本目に手を伸ばす。局長室の窓からは、もうすっかり高く昇った冬の朝日が差し込み、殺伐としたデスクの上の書類の山を無駄に神々しい金色に染めていた。
レイヴンは、全管理局員に向けた公式な緊急通達を書き上げる。
『――本日未明、契約魔法の根幹システムに三つの新原則が追加された。自由意思の不可侵、契約解除の自由、そして人間による制度改定の権利。全ての既存契約は、この原則に照らして現在自動的に更新されている。不適格な拘束契約の魔法的無効化に伴う混乱の鎮圧と、何よりも解放された急患たる弱者たちの保護を最優先事項とせよ――』
猛烈な勢いで万年筆を走らせながら、レイヴンはふと窓の遠く外へと視線を投げた。
まだうっすらと、天空に精霊の虹の残滓がかかっている。千年の長きにわたる神学的な争いが終わりを告げ、確かに、人間のための新しい時代が始まった。
しかし、新しい手作りの時代には、新しい底知れぬ問題が待っている。
水面下に潜ったままの「星辰の契約団」の残党たちの思惑。契約魔法のシステム変更がもたらすであろう、隣国・帝国との絶妙な力の均衡への致命的な影響。
そして何より――あの「ヴェルナーの手帳」に書き残されていた「プリマ」という単語の真の意味。
ヴェルナーは、二十年以上前の帝国への官費留学時代に、アルケスでさえ帝国に隠蔽していたはずの《始原の契約石》の存在と、そのシステム改変の可能性に、自力で辿り着いていたのだ。
彼には、また改めて拘置所で対面で話を聞き出す必要がある。
レイヴンが、「局長。緊急の来客です」
「……この非常時に、今日は一切の面会を受けていませんよ」
「それが――」
リーネの顔が、見たことがないほどに蒼白だった。
この小柄な少女局員がここまで動揺することは、本当に珍しい。エルヴィラ教授の狂気の秘密を暴いた時も、神話のプリマ・ラピスの光に包まれた時も、決して冷静さを失わなかったリーネが、あからさまに息を乱している。
「……身元不明の若い女性が、管理局の受付に来ました。局長にどうしても会いたいと。お名前は――」
リーネが、一度強く息を呑み、祈るように告げた。
「『イリス・アルヴァレス』と、名乗っておられます」
世界が、完全に止まった。
レイヴンの手の中で、マホガニーのデスクに万年筆が音を立てて転がり落ちた。
黒いインクの染みが書きかけの通達の紙に大きくこぼれ広がったが、レイヴンはそれに全く気づかなかった。肺から一瞬で空気が奪われ、心臓が凍りついたように動かない。
「……妹、ですか」
レイヴンの声が――この五年間の管理局長としての激務の中で、初めて、明確に震えて裏返った。
ヴェルナーが長年裏で追いかけていた、アルヴァレス家の隠された記録。
あの暗く冷たい拘置所の面会室で、死刑囚ヴェルナーが『お前には、生きている妹がいる』と告げた時の低い声。ヴェルナーの暗号ノートの片隅に書かれていた『イリス』というたった数文字の文字列。
……全ての点と点が結びつき、今、一人の生身の女性の姿をとって、この管理局の受付に立っている。
「リーネさん。すぐ、すぐに通してください」
「……局長。顔色が酷いです。大丈夫ですか?」
「分からない。何も分からない。だが……会わなければならない」
ふと見ると、ミリアがいつの間にか局長室の入口の前に立っていた。
彼女はレイヴンの顔を見て――何も聞かず、何も言わず、ただ素早くレイヴンの『左側』に立った。いつもの、絶対的な信頼を置く立ち位置。直後、廊下から戻ってきた巨大なダリウスが無言で『右側』に立ち、腕を組んだ。
重い木製の扉が開いた。
入ってきたのは、レイヴンと同じ色素の薄い黒髪を持つ、二十代前半の女性だった。
背は低く、ひどく痩せ細っていて、着ている服は清潔だが何年も着古されたものだった。しかし、その顔の中の『目』だけが、異常なほどに強かった。
レイヴンと全く同じ色の、暗く、底知れぬ夜の海のような青い瞳。
「……あなたが、レイヴン・アルヴァレス?」
声のトーンはどこか平坦で落ち着いていたが、血の気のない唇が隠しきれずにわずかに震えていた。
「はい。……あなたは、イリス、ですか」
「……はい。お兄さん……ですか」
途方もなく重い沈黙が流れた。
窓から差し込む午後の日差しが、局長室の床に、二人の間を隔てるような金色の直線を引いていた。
レイヴンが最後に妹の姿を見たのは、彼女がまだ七歳の時だった。両親が理不尽な契約の罠で命を絶たれた後、遠い親戚に引き取られ……そのまま完全に消息が途絶えた。
レイヴンは、心のどこかで探すことを後回しにしていたのだ。『法』の勉強に逃げ込み、冷酷な官僚として振る舞うことで、本当は妹の悲惨な現実を知る『勇気』がなかった自分の弱さを隠し続けていた。
「……どこに、いたのですか。ずっと」
「……長い話になります」
イリスの暗い青の瞳に、不意に大粒の涙が浮かび上がって光った。
しかし、その涙は決して頬を流れ落ちなかった。……レイヴンと、同じだった。決定的なアルヴァレス兄妹の血。死ぬほど泣きたいのに、泣くことができない呪い。
「今日の未明……世界を揺るがした、あの契約魔法の大変動で。私を縛っていた絶対の契約が、突然焼き切れて消えたんです。……十年間ぶりに、初めて『自由』になれました。そして……自分に兄がいたことを、ようやく思い出したんです」
「……契約に……縛られていた?」
「はい。十年間。『ここから逃げたい』『助けてほしい』と考えることすら魔法で禁じられていました。人間の意思そのものを底から奪い去る、最悪の隷属契約です。自分が本当は誰だったのかも少しずつ靄がかかって……兄の存在すら、思い出せなくなっていた」
イリスが、震える手で色褪せた袖をまくり上げた。
その細い手首には、おぞましい『契約の痕跡』がくっきりと残っていた。かつてそこにあった魔法印が、文字通り内側から高熱で『焼き切られた』跡。生々しい火傷のように、ケロイド状になって白く浮き上がっている。
レイヴンの両目が、限界まで見開かれた。
今日。ほんの数時間前。自分が地獄の苦しみに耐えながらプリマ・ラピスに刻み込んだ、あの『第一の原則』。――自由意思なき強制契約の、魔法的な絶対無効化。
世界中で何万人という人間を救ったであろうあの果てしない『数字』の中に。
たった一人の、自分の血を分けた大切な妹が、含まれていたのだ。
自分が今日、法を変えたことで……結果的に、自分の妹の思考と記憶に巣食っていた最悪の鎖を、叩き壊して焼き切った。
「…………っ」
レイヴンの喉の奥から、言葉にならない、嗚咽のような獣の呻きが漏れた。
「……そこのソファに、座ってください。話を聞かせてください。……時間はいくらでもありますから、ゆっくりで、いいですから」
レイヴンの声は、もう震えていなかった。
しかし、デスクの下に隠された両手は、死ぬほど固く握りしめられ、手のひらに食い込んだ爪から真っ赤な血が滴り落ちていた。
ミリアが、音を立てずに素早く、来客用の温かいお茶を運んできた。
白いカップから、ふわりと湯気が立ち上る。いつもの、彼女がいれる紅茶。甘すぎず、渋すぎない、優しい日常の温度。このごく普通の一杯が、局長の今にも崩れ落ちそうな精神を必死に支える『錨』になろうとしていた。
リーネが、記録用の分厚いノートを静かに開いて準備した。
ページの隅にはいつもの几帳面な色分け付箋が見えるが、そのノートを握るリーネの小さな手が、細かく震え続けている。絶対的な奴隷契約から今日まさに解放されたばかりのイリスの姿は、同じく契約の被害者であったリーネにとって、痛いほど重なる鏡のような存在なのだ。
そしてダリウスが、局長室の重い扉を静かに閉め、その戸口に背をもたれて腕を組んだ。
それは、単なる副局長としての形ばかりの護衛の姿勢ではない。招かれざる外敵を一切寄せ付けない、一族の長が家族を守るための、絶対零度の威圧の姿勢だった。
チームが。局の仲間たちが、レイヴンの背中を全力で支えるように立っていた。
局長室の窓の外で、世界を革命した精霊の虹がゆっくりと薄れていく。
しかし、冬の青空には新しい光の粒子が残っている。金と銀の中間色。
特定の誰かだけを優遇するものではない、法のもとに生きる全ての人間のための、優しく厳格な光。
それは、新しい時代を生き抜く彼らを祝福するように、王都アルカディアの上に降り注いでいた。
第四章、了。
物語は、最終章へ。
(第40話/第四章 了)
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本話の適用条文
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・古代契約法第1〜3条 ── プリマ・ラピスへの書き込みにより全契約魔法が更新
・※新原則の即時効果 ── 自由意思なき奴隷契約の自動無効化による被害者の解放劇
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