第93話:市長の俯瞰
市庁舎内に設けられている自身の執務室から、ケガン・ジュウザブロウは都市の街並みを見下ろしていた。
テラスへ続く大窓の前に立ち、昼日中の賑わいを静かに眺める。その面差しは穏やかで、細められた目の下、口元に刻まれているのは小さな笑み。
十分に年老いているが、だからこそ染み出る円熟の清々しさ、温かみのある顔だった。
「――以上が、昨夜の異形襲撃に於ける犠牲者となります」
黒と金糸で編み上げられた上等なローブの背へ、執務机の方から声が掛かる。
部屋の中程には、クリップボードを手にした若い秘書官が立っていた。
彼がファイルを捲りながら行った報告に、ケガン市長は背を向けたままで応じる。
「防衛要員の被害は無視できぬレベルか」
「はい。人員の補充を進めたいところですが、どこも人手が足りていないのが実情でして」
いつの間にか先刻までの笑みを消し、ケガン市長は鋭い眼光を双眸に宿す。
隙のない、厳格な為政者の顔が窓に映っていた。
「都市治安部隊はまだなんとか都合もつきますが、退魔組織の側はいかんともし難く」
「元来が稀有な才能保持者で成り立っているものだからな。訓練すれば誰でも間に合うという役でもない」
老市長は窓の外へ視線を注いだまま、やや重い息を短く吐く。
「市民への直接的被害が大幅に減ったことが、不幸中の幸いでしょうか」
「敵は今、こちらの戦力を削ぎ落すことへ注力しておる。この段で叩いておきたいところだが、そう簡単にはいかんな」
「異形との戦闘による単純な死傷者のみならず、一定数の行方不明者も出ております。彼らは戦いの混乱で黒幕に捕われたものと推察され、新たな尖兵に変えられてしまう可能性が高く。こちらの戦力は減り続け、逆に敵側は拡充していく。悪循環ですね」
「一夜のみ武威とはいえ、一般人ですら攻勢に特化した怪物に変えるのだ。戦の心得を持つ勇士となれば兇悪な魔性に転じるは道理。新たなに現れた竜骨鬼は、まさに彼らの成れの果てであろう」
ケガン市長の静かな声に、秘書官は全身へ緊張を帯びた。
口の中が急速に乾き、冷や汗が頬を伝う。
それまで確認されてきた異形群ですら難敵であるのに、それをも上回る怪魔の存在は恐怖でしかない。
「敵は神出鬼没にこちらの戦力拠点を襲撃しています。やはり邪魔になるものを優先して潰す狙いでしょうか」
「抵抗する余力を奪いきっておかねば、無辜の民を制圧しようとする度に妨害が入るからな。思いがけない横槍によって腹を突かれないよう、着実に一つずつ要点を墜とす心算とみえる。慎重にして的確、本能のまま暴れる魔物とは違う厄介さだ」
言い送った直後、ケガン市長は窓の外にギラつく強眼を射込んだ。
老いて尚衰えぬ生命力と不屈の気概が両瞳に燃える。
「だが、これは好機でもある。向こうの狙いが読めている分、迎撃を展開しやすい。今までは無秩序に起こる市民被害へ対応するため、戦力を遊撃性重視で散開配置していた。突発的に発生する現場への早期到着を企図した機動力偏重の布陣。速度にこそ秀でるが守りは薄い。しかし狙いがこちらにあると絞れているなら」
「自由機動を捨てて守備前提に再編する、ですね。昨夜までは敵動が掴み切れず遅れを取りましたが、攻撃の指向性が明確と断定できるなら即応専心も可能となります」
「そういうことだ。人員を小規模単位で散らしていることが、各個撃破の憂き目を導いた。戦力を集中させ防衛陣の強化に当てることで、反撃能力の大幅な底上げが図れる。何処に居るかも知れない敵を追うのではなく、襲い来るものを迎え撃つ構えとせよ。優先度の低い拠点は敢えて放棄し、その分の人員を特定地に集中させ防備を厚くしていくがよい」
「かしこまりました」
秘書官は姿勢を正し、市長の背へ生真面目な声を送った。
先の動揺は既に治まり、有能な補佐役としての顔を取り戻している。
「要地の選定並びに編成概要は任せる。資金と物資は『8人委員会』が供出する旨、退魔組織各派へ伝えておきたまえ。本来ならば代表者間で協議すべき案件だが、緊急性を鑑み我々が決定権を行使させてもらう。せめても彼等の負担を減らし、フットワークを軽くさせねばな」
「逼迫した状況であることは皆一様に理解しているでしょう。いたずらな損耗を抑えることの重要さは共通認識かと」
「この期に及んで派閥争いや足の引っ張り合いはしたくないものだ。まずは守りに徹し時間を稼ぐ。この間に大勝負を見越し、調整をしていかねばならん。敵側に焦れるという感性があるかは知れんが、多少なりとも精彩を欠いてくれれば尚やりやすい」
「武装教会派の要人スメラギ・フオウ氏より提供された黒幕の情報。『終わり』に関しての対策も必要になります」
新たなファイルを捲り、秘書官は報告書の羅列を目で追った。
ケガン市長は後ろ手を組み、窓の前に立ったまま耳を傾けている。
「そちらに関しては既に手を打ってある。充分な成果も見込めるだろう」
「この短時間でそのような? 流石です閣下」
「スメラギ神父からの情報は決定的な一押しになった。彼の善戦と生還がなければ対抗策を詰め切れなかったろう。……今の敵が既知戦力以外を標的にするかは怪しいが、念のため病院の警備も抜かりなくな」
「心得ております」
「最後の準備が整い次第、マカベ・マフユ君に対『終わり』戦術を開示する。今事件の解決には精霊使いの力が不可欠だ。これは私の領分。そちらのことは任せたぞ」
「はっ、直ちに取り掛かります!」
踵を打ち鳴らし、90度角に礼を決め、秘書官は即座に踵を返した。
その後は足早に絨毯の上を進み、執務室と内外を隔てる扉へ到達。振り返って再度一礼してから、扉を開けて退出していく。
秘書官が去り、部屋にはケガン市長が独り残された。
彼は老いた顔を窓の外へ向けたまま、そっと息を吐き出す。
「短期間で、か。違うな。私は150年も前から対抗策を探し、練ってきた」
高所から望む都市の遠景は、老人の心に不変の熱意を滾らせていた。
鋭利な両瞳には叡智と覚意が冷煌を放ち、懐古の情が濃厚な燻りを抱く。
「『終わり』……奴が戻ってきたぞ。ナツメよ、これで私達の借りを返してやれそうだ。お前の血筋が幕を引くかもしれんとは、これも因縁よな」
此処ではない何処か、今ではない何時か、そこには居ない誰かへと、ケガン市長は独語を送った。
芯の通るその声はしわがれてこそいるが、並々ならぬ覇気と闘志に満ち溢れている。
退く事を知らぬ男の強靭な意志は、聞く者なき空に融けていく。




