第77話:月下戦火③
斬傷と体液の漏出を経ても、異形が止まることはなかった。
負わされたダメージを意に介さず、片足を軸として、素早く体を反転させる。
軸足が路面へ減り込む。体重を乗せて回ると、直下に放射状の亀裂が走った。
間髪入れぬ敵の対応へ、着地したばかりのマフユも動く。
折っていた膝を伸ばし、音無く立ち上がるや、白衣を翻して振り返る。
荒々しい怪物の転換行とは違い、静かでしなやかな体運びだった。抜風を想起させる、洗練された無駄のない動き。握られる剛剣の刃先が路上に淡く火花を引き、半弧を描く身へ従い桃髪が揺れる。
上からの月光、正面からの炎光、二種の光に照らされるマフユの姿は静謐だ。清らかな巫女装束の画もあるだろう、異形と相対する勇猛さとは対照的に神秘性を伴っている。
怪物の赤い複眼と、マフユの藍瞳は、両者が向き合う事で再びかち合った。
お互いが排除の意識を漲らせ、色褪せない闘争心は次の行動を迅速に導く。
先に動いたのは漆黒の異形。肘を曲げ、腰を捻り、左腕を引き絞る。短い時間で力を溜め、五指五爪を水平に揃えると、貫き手の形で突き出してきた。
腰を振り戻して腕を伸ばし、蓄えたエネルギーを一気に解き放った刺突。風を裂き、闇を掻き、驚異的な速度でマフユへと襲い掛かる。
軌道の終着は少女の体、その中心部だ。肉体を確実に貫き、主要な臓器を突き壊し、骨格を抉って血管を断ち、若い命を奪い取るべく黒腕は駆ける。
迫り来る異形の腕、情け容赦ない必殺の一撃を、マフユは瞳に映していた。
あれをまともに受ければ、いかに霊衣を着ていても耐え切ることが出来ないだろうと、冷静に分析する。
風の加護を受けた機動力には自信があるものの、敵のリーチはこちらの回避能力を上回る。横へ跳んでも、後ろへ退いても、現在の距離関係から鑑みて相手の攻撃範囲から逃れる事は出来ない。
刹那の時間にそこまで思考を巡らせて、彼女は自らの取るべき道を決めた。
その結果、マフユは黒の異形へ向かって走る。自分から敵の攻撃へ突っ込んでいく。全身で濃い闇の中を滑り、向かい来る魔手との距離を急速に縮めた。
少女の表情は真剣そのもの。鋭い目付きは怪物の腕を直視に捉え、瞬きもしない。その面持ちから自棄を起こした訳でも、恐怖に駆られて突っ走った訳でもないと知れる。確かな勝算を踏んだ、計画的疾走だった。
「私は負けない。勝負!」
「それでは行くとしましょうか」
「ぽめ!」
どちらにとっても重要となる致命的な一歩を踏んだ直後、マフユの一声が喝された。
良く通る鈴声が、大きくもないのに夜気へ響く。
外殻に覆われた異腕は相手の接近により、当初の予定よりも早く少女へ到達した。
本来、対象の薄い胸を穿つ筈だった鋭刃同様の貫き手は、縮まった間合いの分、襲撃地点が上方となる。即ちマフユの顔を狙う位置取りだ。直撃を受ければ、これこそ致死の一撃となる。
にも拘らず、彼女は脅えも恐れも抱いていない。氷のような沈着さで、顔面目掛けて飛び込んできた爪指を凝視。
それが今まさに端整な顔へ触れようという瞬間、マフユは首を傾け、寸前で刺突を躱した。
突然横へ外れた的を、速度の乗る攻手は追う事が出来ない。軌道も変えられず、引き戻す事も出来ず、進むままに傾斜しながら正面を走る。
襲撃点が逸れた事で必殺の徒手は生命を奪えず、代わりに少女の頬を浅く裂いた。紙一重の差で黒い爪は滑らかな頬肉を切り、断裂部から鮮血が垂れる。
走り抜けた腕が起こした風圧で、傷から浮いた血の雫は宙空へ舞い、後方へと流れ去った。
最初の位置で回避を試みても、速度を使い伸びきった腕では再度の追撃は免れない。だからこそ攻撃段階の諸手へ自ら向かい、即座に対応出来ない状態で凌ぐ。近付けば襲撃ポイントもずれ、頭部ならば体より的が小さく、それだけ避けるのは容易。
マフユはこれらを素早く頭の中で組み立て、息継ぐ間もなく実行に移した。
ただ我武者羅に突っ込むのではなく、常に状況を把握し、状態を探り、最善の攻め方、守り方を考えながら戦う。それが毎夜の戦闘経験で培ったスタイルだ。成人もまだの若者ながら、卓越したセンスと反射神経、計略をすぐさま実践する行動力と大胆さは目を瞠るものがある。
頬に生まれた灼熱感を無視して、マフユは更に一歩を踏んだ。
痛みに顔を顰める事も、目論見が成功した事に対する達成感も今は必要ない。終始一貫して冷たく強かな戦士の表情である。双眸には倒すべき敵の姿を捉えたまま、それ以外の何物も映す余地は皆無。
完全に相手の懐へと潜り込んだ少女は、怪物の反応よりも速く腕を振るった。
握られた剛剣を両腕ごと、上面目掛け扇状に薙ぐ。月光と猛火の二色光を受けて輝く刃は、虚空を走って突き出された怪物の左腕を襲う。
「その腕を貰う」
マフユはしっかりとした口調で、端的に告げた。
攻撃対象を失い限界まで伸びきった二の腕へ刀身が接し、持ち主の腕動に誘われて食い込む。
分厚い刃は抵抗なく黒殻を断ち、その内面に収められた筋肉と神経線維をまとめて寸断。少女の宣言通りに、中途から斬り落とした。
巨剣が侵入部の反対側、左腕の外縁より抜ける。それと合わせて異形の黒腕は二分され、肉体から離された上膊下が夜空へと跳んだ。
斬り飛ばされた左腕。見惚れる程に綺麗な断面からは黒い体液が噴出する。
対して空中へ投げ出された腕は、地上へ落ちていく途中でその全てが黒霧に変じ、文字通り霧消した。小さな欠片さえ残さず、全てが完全に消え失せる。




