第68話:狂える黒牙⑤
「させ、ない!」
苦しげに喉を鳴らし、マフユは敵の猛牙へ臆せず挑む。右腕をそのまま押し出し、防波堤として異形の接近を辛うじて阻んだ。
居並ぶ牙と唾液に塗れた口は、少女の右腕へぶつかった所で閉じられる。烈歯がブレザーの袖を引き裂き、上下から細腕を挟み込んだ。そこから顎の力で押さえ込み、牙の先端が一斉に表層へと突き立ち進む。
しかし完全には閉じきらないでいる。牙の群も最初の数段を沈むが、それ以上動かなくなった。
それもその筈。彼女の右腕は生身でないのだから。傑出した技術力を誇るマッドサイエンティスト、ドクター・アラハバキが手ずから作製した最新鋭の高性能義手である。強度も機能も凡百のそれとは訳が違う。
いかな異形の力でも、おいそれと噛み砕くことは不可能なのだ。
精霊の力を借り、数多くの戦闘経験を積み、ナノマシンで肉体を強化して尚これである。今まで戦ってきたどんな魔物や怪異より、眼前の異形は手強い。
こんな存在を創り出した大元は、いったい何者なのか。ただ奪い、散るしかない命を創る狙いはなにか。この途方もない虚無感に触れ、マフユの中に芽生えていた疑念が輪郭を持ち始めた。
漆黒の顎が腕を食み、容赦なく軋ませる。力任せに圧し掛かられる下で、彼女は幼少時の記憶を思い起こしていた。
望んでそうしたのではなく、敵から感じる何か得体の知れない感覚が、深く埋没した記憶の残滓を震わせてのこと。
ゆっくりと浮き上がる過去の断片は、けれど全身を目まぐるしく襲う痛覚に邪魔されて復帰をしない。痛みの奔流に蝕まれる体と頭の奥底で、ふと持ち上げられた記憶は数度だけ瞬き、また静かに沈殿する。
ただ一つ、言い知れぬ不快感を喚起して、少女の内心を掻きむしった後に。
「オオオオォォッ!」
マフユは目を見開き、腹の底から咆え上げた。
内なる憎悪、焼け付く敵意、悪夢の苦さ、幾多の負念が異形の邪気に重なり、突発的に激情が奔騰する。
自由な左手が痛みを押して動かされ、開いた手中に闇が集う。少女の意識が精霊を導き、死魂の保有者を再び武器の形で顕現させる。
次いで現れたのはハンドガン。前後に長いグリップと、重量感を伴う無骨な外観を持つ黒い銃。
全長270mm、全高150mm、口径は.50AE。最強のハンドガンとの呼び声高いデザートイーグルを、忠実に再現した姿である。
「この距離なら外さない」
直上の異形を睨み、マフユは左手を一気に伸ばした。掴まれる大型拳銃の銃口を、漆黒の顎元へと押し付ける。
その後は躊躇なく、トリガーを引いた。内部機構がこれへ連動し、精巧な射出機関が稼動する。内部で生成された死魂の弾丸が撃ち出され、反動で遊底は後退。
轟音が耳を劈き、夜気を震撼させた時、放たれた一弾はあらゆる障害を粉壊した。
死弾は高速で真上へと飛び、異形の顎を一撃で貫通する。更に口腔を破砕して頭中に躍り込み、進路上の全生体組織を多段的に食い千切る。遂には脳髄をも叩き壊し、神経統合部を圧壊すると、頭蓋を打ち砕いて頭頂部から外界へ抜けていった。
圧倒的な力で叩き壊された頭骨が四散し、脳漿と髄膜が微細な肉片と絡まって弾け飛ぶ。怪物の頭は粉微塵に砕け散り、右腕に掛かっていた力も断ち切れた。
頭部の残骸が黒い飛沫となって降り注ぐ中、マフユは勝ち得た戦に酔うでなく目を眇める。
まるで勝利の実感がない。これは無数に分化し蠢き回る混沌の一つにすぎず、枝葉を討ち果たしたというだけだからか。狂猛な異形を一体始末したとて、全体からすれば解決でもなんでもない。
そもそも今夜彼女が赴いたのは、異形の傍にならばその支配者が居ると踏んだからである。マフユにとってこの戦いは前哨戦にもならず、本当の目的には程遠い。
「今のままじゃ、本当の戦いには勝てないわね」
誰にともなく呟いて、マフユは漆黒の下から這い出した。手中の霊銃は役目を終えて姿を消す。
飛び散った異形の残片や黒液は既に消滅を始め、少女を汚しているのは自分の血ばかり。
依然として落ち着かない痛みに顔を顰め、それでも彼女は我が身を引き摺り立ち上がろうと試みる。
その時だった。
頭部を失い絶命した筈の異形が再び動き、巨大な左腕を勢い良く突き込んできた。
「避けて!」
「ッ!?」
驚愕に目を瞠るマフユ。痛傷の影響で体の動きは鈍い。
彼女の反応よりも、巨腕の到達は早かった。
異常なまでに膨張した腕が少女の胴を殴り、伸びた爪が腹部を裂く。精霊使いの矮躯は一撃の下に貫かれ、そのまま力任せに路面へと叩き付けられる。
凄まじい腕力が背中から激突した路材を損壊させ、マフユの体を沈み込ませた。
とてつもない衝撃が満身を襲い、少女の口から大量の血反吐が零れる。赤黒い鮮血を吐く最中、全身の傷口からも一斉に血が噴き散った。
「マフユちゃん!」
「おやおや我が主君、生きてますか?」
「この化け物ヤロー! 頭吹っ飛ばされてまだ動くか!」
砕けた道路に落とし込まれ、そこからまた押し付けられるアフユへ、精霊達の声が届く。
身動きが取れず激痛に晒される中、それでも少女は敵を見ていた。
視界に映るその巨体へ炎が生まれ、体表面を覆って焦がし始める。炎の精霊シュウカが独自で攻撃を始めたためだ。
加えて突風が吹き込み、見えない刃で異形の体に幾つもの裂傷が刻まれた。チアキの放った風刃が逆巻き、漆黒の肉体を各所で切り裂く。
最後に闇色の触手が虚空から生え出し、マフユを襲う異形の腕に巻き付いた。筋肉質な豪腕を締め上げ、強制的に後退させていく。
しばらくして怪物の爪は少女の体から抜け、全身に掛かっていた圧迫感からも解放される。
炎に風、そして死の力が多段に働き、契約精霊の助力が主をなんとか自由にした。




