第59話:胎動②
脚をもつれさせ、壁に何度もぶつかりながら、彼は当て所もなく路地を進む。
完全な酩酊状態にあり、まっとうな思考能力は働かない。
そんな情けのない有様で目的なく奥へ奥へと狭道を行く途中、彼は何か液体のようなものを踏んだ。
「うぎぎぎ、靴を買い替えたばっかりだってのに」
回る視界に眠る頭で、漠然と水溜りだろうと思い、忌々しげに歯軋りする。
次の瞬間。彼の全身から重力の枷が消え、落とし穴へ落ちるように深く沈んだ。
突然、何か生温かいものに包まれた感覚が生まれる。
嘔吐物を鼻先に突きつけられたような強烈な臭気が、彼の意識を幾許か覚醒させた。
焦点が合わされた時、彼が見たのは闇。微妙に赤茶けた、錆の浮いたような闇だ。
違和感よりも嫌悪感が強く喚起され、彼は反射的に身を捩った。
だが動けない。
手足には確かに意思が伝わり、動かそうとしているのが分かる。けれど目には見えない強い力で抑え込まれたが如く、まったく動けなかった。
急速に焦燥が募り、彼は危機感から低く呻く。
と、何処からともなく声が聞こえてきた。異様なまでに冷淡で、起伏がなく、人間味が微塵も感じられない女の声が。
「汝は今より我が洗礼を受け、我が力の一端となる。思うままに破壊を紡ぐがいい」
重厚な響きと同時に彼を包む世界が、途方もなく赤茶けた闇が、緩やかに蠕動し始めた。
臓物を思わせる肉感的な動きで、視界の全て、それ以外、悉くが震え動き出す。
そして闇はのたうちながら彼へと迫り、開かれた口の中に容赦なく潜り込んできた。
強引に口腔を押し開き、喉を滑り、器官を擦って、内側深くへ。次から次、途切れる様子もなく、延々と、彼の中に流れ続ける。
闇は耳の中にも侵入を始めた。鼻からも入り込んでくる。それどころか全身の穴という穴からじわじわと染み込み、彼の肉体と精神と意識の全てを満たし上げた。
堪え切れない怖気に発狂するよりも先、彼の自我は消える。電灯のスイッチを切ったような、唐突な簡潔さで。
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路地裏の一角に忽然と蟠る奇妙な闇。それは外套に包まれた女の影だ。
人を取り込み、蝕み、傀儡と化す、不浄なる母体への路。
程無くして、影より成る闇が内側から盛り上がる。次には盛大に弾け、中から歪な怪物が飛び出してきた。
異様に長い手足には鋭利な爪が伸び、漆黒の外皮がぬらぬらと光っている。
体躯は細いが筋肉質で、張り詰めた四肢には尋常でない力が漲る。
深く裂けた口内に粘液へ塗れた牙が並び、真紅の双眸が左右別々に忙しなく動き回る。
横へ張り出し、更に後方へ長く伸びたような奇怪な頭部は、既存のどんな生物とも類似点が見られない。
「全ての滅びは誕生の必然。存分に己が力を揮え」
女の平淡な声を受け、異形は喉まで届く長い舌を垂らし、徐に膝を曲げた。
体を低く沈め、僅かに力を溜めると、一気に伸び上がり跳躍する。
不気味な体は高く上方へと昇り、中途で壁面を蹴って跳んでいく。
一瞬で女の前から怪物は去った。されど彼女には自らの手駒が何処へ向かい、何をするかは容易に分かる。
アレが求めるのは破壊。一切の感情を差し挟まず、意味も意義も見出さない、純然たる殺戮。目に付く全てを襲い、殺し、壊し、潰す。それのみに特化した滅びの化身。
彼女の領域に捕われ、侵蝕された生物は知性や感情・思考能力の一切を喪失する。
流し込まれた不浄の力は対象の肉体を強引に拡張増強させ、その果てに恐るべき異形へと変質させるのだ。
こうして生まれた怪物は全てを失い、その代わりに強大な戦闘能力を持った闘争本能と破壊衝動の塊と化す。
異形は喜々として駆けるだろう。街の喧騒、人々の熱気、生命の煌き、それらに惹かれて向かい飛び、其処で全てを奪う。
己の全生命力を消費し尽くし、肉体が自壊するまで。
「終極への到達こそが理。何人も抗うことは許されぬ。受け入れろ」
超然と呟いて、黒套の女は静かに歩き出した。
先の見えない宵の深奥へ向け、溶け込む様に去って行く。
その姿が消え入る瞬間。深いフードの下で暗黒を捉える瞳が、真紅の虹彩を閃かせる。




