第58話:胎動①
どこまでも広がる宵闇の空に、重く厚い黒雲が立ち込めている。星々の瞬きは遮られ、見上げる先の天光は視界の端にも映らない。
ただゆっくりと流れる雲の切れ間から、時折に満円の月が覗くのみ。
巨大に輝き、淡く降り注ぐ月光の煌きに洗われ、眼下の街並みが浮き立って見える。高く聳え立つ高層ビルの群、その足下に広がる遠大な道路、人と車両の波、溢れ返る人工の光。膨大な数の人々が息衝く都市は、夜がどれだけ更けようと眠る気配がない。
常に生者の対流が網の目のような本道を渡り、静まらない喧騒が地上を覆い尽くしている。その中には明るい賑わいもあり、激しい怒号もあり、哀色に暮れる悲観もあった。人の数だけ感情が躍り、接点の嵩に比して騒動がある。
それは昔から変わらない世界の営み。利便の果てに成長した都市へ根付く、まるで予定調和のように約束された平安だった。日々変動を繰り返しながら、決定的に不変の日常。
高きビルの頂から、これを見下ろす者が独り。頭から足先までを漆黒の外套で覆い、露出面積は殆どない。けれどしなやかな体のラインと、胸郭に具わる豊かな膨らみは、それが女性である事を教えている。
目深に下ろされたフードの内、僅かに覗く貌は優麗。しかしそこへ魂の律動を見ることは出来ず、酷く無機的だった。
喜びも哀しみも、憤りや楽しみも僅かにさえ浮いていない。元からそんなものは欠片もないというように、透徹した冷たさのみが宿っている。
黒覆の奥から世界を見下ろす女の目。膨大な生命の息衝きを茫洋と見遣る瞳は空虚で、感情の色がまったくなかった。
ただ全身から凍て付いた威圧感のみを放射し、恐ろしくも厳かな存在として佇立するばかり。
「人世の営みとは、かくも華美たものだ。等しく無為だというに」
感慨もなく、感嘆もなく、女は抑揚ない声を零した。張りも揺らぎも読み取れない、無情の声音である。
目に映る光景へ対し、思っただけを口にした。凡そ人ではありえないほど欠落的な声調は、吹き抜ける夜風よりも遥かに冷たい。
「無意味なこと。いずれは滅ぶ定めにある。全ては壊れ風化する。渺々《びょうびょう》たる黄昏こそが世の本質。何故、生命は次を繋ぐ?」
誰に向けるでもない問いが、夜気に流れて果て失せる。
応える者のない解を、女もまた待つ気はない。黒套の主は悠然と一歩を踏み出し、屋上の縁から外へと向かう。
進んだ先に足場はなく、ただ虚空が横たわるのみ。女の動きは、身投げ以外の何物でもない。
けれど黒い痩身が遠い大地へ吸い寄せられるより早く、その背から巨大な翼が現れた。
夜の闇を超えて昏い色、真の黒へ塗り潰された巨翼。鳥のそれと同じ羽毛の一つ一つには、無数の血管が蔓延り脈動する。おぞましさを湛えた悪夢の羽だ。
大翼を羽ばたかせ、女は都市の闇溜まりへと舞っていく。風を揺す振る一つの音が弾けた後、不可思議な神々しさと底知れぬ邪悪さを混在させる姿は消えていた。
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「ハゲ部長のバカヤロー! 大勢の前で、あんなに罵倒しやがって! コンチクショウめー!」
彼には運がなかった。
仕事で失敗し、職場の仲間達の前で上司から散々にどやされてしまった。
けして取り返しのつかないミスではなかったのだ。ただタイミングが悪かった。
妻の浮気が発覚しイラつきが臨界に達していた部長が、その捌け口も同然に彼の失点をあげつらったのである。
このミスがあと一日早かったなら、叱責はあれでも皆の前で吊るし上げのような目には遭わなかっただろう。
「ミケコもだー! 他に好きな男が出来たから別れます、だとー! 俺の心を弄びやがってー!」
彼の運のなさは更に続いた。
1年半付き合ってきた彼女にフラれてしまった。
欲しがる物は可能な限り買ってやり、行きたがる場所へデートに出かけ、思いを深め合ってきた筈なのに。
とんでもなく急に別の男の元へと去っていったのだ。あまりにも簡単で素気なく、彼への未練など一切ない様子で。
「これが飲まずにいられるかー! チクショウチクショウチクショー!」
悲しき不運に畳みかけられ、深酒をしてしまった。
正体なく酔っ払い、自分がどう歩いているかも判然としないような状態で、迷い込んでしまったのは路地の一つ。
光に溢れる都市の表通りに反して、狭苦しく汚らしい路地裏は別世界のようだ。




