第42話:運命の日④
過去回想、マフユ幼少期編です。
誰がどう見ても致命傷だ。どれだけ高度な治療法を用いたとて、再生は不可能だろうという状態。
にも関わらず、ミハルは目を開けた。
削ぎ落ちた耳、潰れた鼻、片側の眼球には木の枝が突き刺さり、もはや誰なのか判別出来ないほど損壊した顔で、それでもミハルは無事な方の目を見開き、あろう事か立ち上がる。
「おおおおおおぉぉォォォォッ!」
喉にも異常があるのだろう、獣のような、それよりも酷い雄叫びを上げて、彼女は駆け出す。
外神黄泉比良坂の長尾へと飛び乗り、外殻を踏んでその上を走った。
腹部を抜け、胴を越え、背を直走り、遂に異形の頭部へと至る。
己の命の全てを使い霊子力を練り、精神のみで強制的に肉体を使役。僅か数秒の最期の活動へ全てを懸け、ミハルは千載一遇の反撃へと移ったのだ。
『腐っても当代最高格の精霊使いか。この期に及んで尚強き命の輝き。醜いな。そして愚かしい』
襲撃者の存在に気付いた異形の首を蹴って、ミハルは跳躍する。
もはや崩れるばかりの体を意志力だけで繋ぎ止め、折れた左腕で刀剣を握り。鋭利な刃先を下に向け、己が直下、其処に見える魔神の瞳へ落下した。
一気に狭まるミハルと異形の距離。鍛え抜かれた白刃が、今正に真紅の瞳を穿たんとする。
『だが美しい』
襲い掛かるミハルの姿を注視する三眼。その瞳孔が狭まり、刹那、真紅の閃光が彼女の体を貫いた。
血の色に似た太い針が、人の腕程もある巨大な物が、ミハルの胴体へ中心から突き刺さっている。
続け様、同じ太針が次々と彼女を撃ち、痛み抜いた体へ減り込んだ。
針が貫通する度、ミハルの体は幾許か浮き上がり、結局は魔神へ届かない。
そして最後の針が胸部へ深々と達した時、再び長尾が振るわれ彼女の体を叩き打つ。
この一撃を受けて、ミハルは大怪異の正面へ飛び、うつ伏せに大地へ激突。彼女が全身全霊を傾けた必死の行動は、あえなく失敗に終わる。
大地へ落ちたミハルの前には丁度、命懸けで護ろうとした愛娘が居た。
少女は凄惨な有様の母親を、じっと見ている。
「かあ、さま?」
それまで呆然自失としていた少女の口が動き、母を呼んだ。
凪いだ湖面のように感情の消えていた瞳に生気が戻り、意識の復帰が成された事を教える。その瞳へ今は、元の姿と大きく掛け離れた、醜悪な人型が映る。
けれど少女の目に怯えや恐怖はない。どんな姿になっても実の親。互いに愛し愛された半身のようなもの。それが誰であるかを苦も無く見抜き、ゆっくりと手を伸ばす。
「……マ、フ……」
しわがれた声で、切れ切れに、ミハルもまた娘を呼んだ。
最後の力を振り絞り、中指と小指の無くなった左腕を、懸命に伸ばす。
血と傷だらけの腕が、幼くか細い少女の手へ近付いていく。
「あ、い――」
震える腕同士が、その指先が、もう後少しで触れ合うという瞬間。
真横から豪風が抜け、ミハルの姿が消えた。
正確には彼女の腰から上、上半身が。
「え……かあさま?」
何が起こったのか判らない少女は、手を伸ばす姿勢のまま、母の腰椎断面を凝視していた。
赤く染まった肉の内より鮮血が噴き、相対者の幼い顔へ容赦なく飛びかかる。
大量の血が少女の髪を、顔を万遍なく濡らし、頭から赤く染め上げていく。
「や、いやぁ」
噴き付けてくるモノに気付いて、少女は力ない悲鳴を上げながら両手を前に突き出し、左右へ振った。
なんとか自分を襲う液体を防ごうとしているのだが、生温かい血液が手に掛かるばかりか、手の間を抜けて尚も飛んでくるのだから意味がない。
だがそれも束の間。少し経つと噴射する血の量と勢いは失墜し、程無く少女へはもう届かなくなる。
そこでやっと体を汚すものから解放され、幼子は消えた母を求めて顔を上げた。
そして見る。山の様に聳える巨大な闇を。果てしないおぞましさを具えた、終焉の顕現を。
少女は言葉を失い動きを止め、そして一点のみに焦点を合わせる。恐ろしい異形の手の中に、消えた母が居た。腰の付け根からもぎ取られた、痛ましい姿の母が。
「かあさま!」
少女は零れる涙を拭って、力の限りに母を呼ぶ。
だが返事はない。
彼女の声が届いていないのか、それとも返す気力が残っていないのか。
『心地良かろう。全てのものはいずれ其処へ至る。永遠の安楽。無限の安息。それが正しい姿なのだから。さぁ、幸いの地へ行こうぞ』
異形の大口が開く。奈落の底を思わせる闇の奥、その上へ翳された怪異の巨腕。
腕が緩やかに傾き、其処へ乗せられていたミハルが、落ちていく。兇悪な魔性の口内へと。
「あ、あ……」
震えながら見上げる少女。彼女の口から零れるのは、言葉にならない声。
藍色の双眸が映す母の最期は、巨大な異形に喰われるというものだった。
魔神の口が閉じ、牙がぶつかり合う音が響く。噛み砕いているのだ。口内に降った者を。原形留めぬ程に引き潰し、千切り裂き、粉々に砕いて、頭蓋を内臓を、全て揃って掻き損じ、嚥下する。
優しかった母、温かかった母。大好きだった母が今、怪物に食い殺されている。その事実が、少女を戦慄させた。
圧倒的な存在によって齎された死。その無情さ、絶対さ。それは今、自分の目の前にある。すぐ傍に。
少女は動けなかった。何も考えられなかった。ただ怯え、震え、涙を流し、異形を見上げるだけ。
外神黄泉比良坂は尚も口を動かし、口内の存在を徹底的に破壊する。死を噛み締め、深く存分に味わうべく。
肉と血の味が全体に広がった頃、異形は首を下げ、何かを吐き出した。それは少女の目の前に落ちて、動きを止める。
折れた刀の柄と、碧緑の宝石を頂いた指輪だった。
『終わりは全てに平等だ』
魔神は少女を見下ろして、ミハルの死臭で満ちた吐息を吐きつける。
その瞬間、少女は失禁した。自身の意思とは無関係に小水を垂れ流し、同時に全身を硬直させる。
異形の三眼を見詰めたまま、彫像のように固まって動けない。
『嘆くことはない、輝ける者の名残よ。いずれは同じ地平へ至るのだ。一切がな』
闇色の声が少女を打ち据え、発生源である口部は限界まで裂けた。
母を飲み込んだ深淵が眼前へ覗いた時、彼女の世界は暗転する。
幼いマフユは照明のスイッチが切られたように、意識を失った。




