第41話:運命の日③
過去回想、マフユ幼少期編です。
そんな危機的現状を証明するように、猛烈な悪意と気配が接近してくる。
研ぎ澄まされた五感で逸早くそれを察したミハルは、即座に振り返り左腕を動かした。五指で固く握った刃を、その切っ先を下方へ向け、そのまま正面へと突き出す。
次の瞬間、緑の護りを硝子のように打ち砕き、彼女の前方から巨大な腕が飛び込んできた。
『抗うな。受け入れろ』
闇の死声を伴って、突き込まれた巨腕。
その中心爪を立てた白刃の平地で受け止め、流しいなして、ミハルは狙われた最強打を未然に防ぐ。
が、全威力を削ぎ落とすなど到底叶わず、彼女が達成したのは致命傷の回避にすぎない。
元より違いすぎる力、速度、攻撃範囲。防ぎ手に回った側が、これから逃れる事など出来ないのだ。
重すぎる一撃、その直撃を逸らしたのみで、腕そのものが持つ吶喊力には逆らえず。ミハルは異形の大腕に吹き飛ばされ、背方の樹木に背中から叩き付けられた。
「かはッ!」
背を圧した衝撃、内臓を纏めて押し遣る威力。瞬間的に呼吸が止まり、両目が大きく見開かれる。
口からは酸素の抜ける音が吐き出され、数滴の赤い雫が宙へ躍った。
幾許か曲がった樹幹に背を預けたまま、ミハルはずるずると滑り落ちる。限度を越えた痛みが意識を灼き、正常な判断力を奪い取っていた。
霞む視界の中で、立ち昇る黒煙を掻き分けて現れる異形。此の世の物とは思えぬ規格外の在様へ、潜在的な恐怖が湧き起こる。
彼女の全身が震えた。それこそ幼い娘と同じ様に。
『生まれるということは、死へ進むということ。在るということは、いずれ消えるということ。世界は終わりで満ちている。全てが果てた後、悉く潰えた末日の原野こそが本来の姿なのだ』
耳に届く魔性の声。鼓膜を叩き、自我へ絡み、覚悟を苛む絶望への吹聴。
だがそれを抜きにしても、ミハルには死の可能性がいよいよ強く瞬き始めた。
口の端を伝い落ちる生温かい血液。そのささやかな熱で我に返り、彼女は両目に力を込める。
左腕を動かして、手の甲で口許の血液を拭う。然る後、両脚に意識を集中して立ち上がろうと。
最初は上手くいかなかった。しかし数度目の試みで、何とか立ち上がる事に成功する。左腕を背後の木に当て、支えにして、よろめきながらも体を起こすと、対面の遥かに巨大な異形を睨む。
『何故、戦おうとする。貴様は我に勝てん。よしんば勝てたとしても、何時かは死が貴様を殺す。必ず訪れる最期。逃げられない虚無。定められた事だ。終わりが判っているのに、何故、今を在ろうとする』
「……死ぬのが分かっているから、何もしない? 死ぬのが分かっているから、生きるのを止める? それじゃ、どうして……私達は生まれてきたの」
口の中に溜まった血を吐き捨てて、ミハルは呟く。
彼女の身は襤褸雑巾のようだが、高潔な魂は失っていない。希望も捨てていない。目的を遂げようという確かな思いが、今も彼女を衝き動かしていた。
恐るべき怪物が発す黄昏の声は、ミハルの心を降せていない。
「理由なんて、知らない。必要も、ない。例え真実がどうであっても……私達は最期の瞬間まで、生きていたい。生きてみせるわ」
木から手を離し、刃を握り直す。数度咳き込みながら、ミハルは異形を見上げた。
瞳に宿る生気は依然として輝き、表情は僅かな翳りも宿していない。
絶対的な実力差を前にしても、最後まで諦めない姿勢。それは彼女の生き様そのものを現しているようだった。
『無駄な事だ。あらゆる事物は無為。何もかもがいずれは還る。始まりなる終わりへな。諦観し、受け入れろ』
「無駄かどうかは、私達が自分で、決める。……少なくとも、私は、自分の人生に意味があったと、思うもの」
『意味だと』
「ええ、そうよ」
血を垂らしながら微笑み、ミハルは視線を動かす。その先に居たのは少女。彼女が何よりも大切に想い、育んできた愛娘だ。
母の視線に気付いた為だろうか。へたり込んだままの少女はゆっくりと首を動かし、ミハルを見た。母子の視線が空中で交わる。
「愛する人達と生きられた事。その思い出が、充実感が、私の生きてきた意味。それで、いいと思うの」
ミハルは自分と同じ色の瞳を真っ直ぐに見詰め、その生涯で一番優しい笑顔を浮かべた。
『そうか』
短く告げられた闇。それを最後に、訪れた静寂。
一拍の間。
長大な異形の尾が薙ぎ払われ、ミハルの体を叩き付けた。圧倒的な破壊力が女性の細身を容赦なく襲い、僅かな悲鳴さえ許さず押し飛ばす。
頑強な装甲殻に覆われた尾に全身を打ち付けたまま、ミハルは何本もの樹木に激突させられ、これを砕き、更に振るわれた。
痛みなどというレベルではない。もはや痛覚さえ失せ、ただ衝撃に体を浸すのみ。何も考えられない。そんな余地など存在しない程、激烈な衝動に全てを支配されていた。
長尾の移動に合わせて砕け散る樹木。それだけ見てもどれほどの力が働いているか。それをまともに受け続けるミハル。常識的に考えれば、既に生きてはいない。
十何本目かの木を圧し折り、叩き壊し、そうして漸く尾撃は止んだ。竜巻が過ぎ去った後のように、破壊し尽くされた森の中。
尾の動きが止まると同時に、これへ密着させられていたミハルの体が、ずるりと地へ落ちる。
衣服は散り散りに破れ飛び、もう殆ど意味を成さない。左腕は刃を握ったままだったが、あらぬ方向に曲がり、肘から血に濡れた骨が突き出ていた。
白く滑らかだった肌は見るも無惨に傷で覆われ、鮮血で塗れ、夥しい木片が突き刺さり、健全な部分を見出す事は出来ない。
所々の皮膚は抉れ、筋肉諸共にこそげ落ちている。剥き出しの血管や微細な神経が外へ飛び出し、気味悪く風に揺れた。




