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第40話:運命の日②

過去回想、マフユ幼少期編です。

『脆い』


 闇気を焦がす邪悪な声が、大気をはなはだしく染め上げる。

 抑揚に乏しく、活力に欠け、重々しく狂おしい、魂を圧する威声。

 たった一言。その一言に尋常ならざる重圧があり、聞く者の耳を潰しかねない悪意が潜む。


『脆いな』


 人の声ではない。そうである筈がない。

 声帯を通したものとは思えない、闇から捻り出したような音。黒く濁った、邪気の対流が等しい響き。

 外神黄泉比良坂げしんよもつひらさか。その口から溢れ出る、死色に塗れた悪夢の呟き。

 異形の口腔が上下している。口内からは生々しい咀嚼音が漏れ、何かを執拗に噛み砕いている事が知れた。

 魔神の口から、はみ出すなにか。目を凝らし見れば、それは人の腕。肘から先の左腕だ。赤黒く染まり、それ自体は動かぬまま貪られている。


『精霊も、使い手も、脆弱なものだ。ことわりの前では等しく無力。所詮は取るに足らぬ』


 異形の言葉に合わせ、外部へ晒し出ていた腕が落ちた。

 肘から先を失った腕は怪物の足元へ。次いで、銀色の髪が一束、同じ様に口の中から零れていく。

 さらさらと宙を滑り、腕の上へと降りかかる。ミハルと契約する、精霊の一部だった。


『そうだろう、均衡の守護者よ』


 三つの紅眼を鈍く輝かせ、異形がミハルを見た。

 血のように紅い三眼に、疲弊と死相の色濃く浮いた女性の顔が映る。端整な容貌は生来の張りを失って衰え、色艶も悪い。しかし強い決意の色が、彼女の凛々しさを数倍へ引き立てていた。

 その凄愴せいそうな表情は美しい。掻き消える寸前の灯が如き、煌きに因り。


『貴様はもはや不要だ、精霊の使い手よ。強すぎる明星の輝きは、濃く翳る星光と変わらぬ』


 魔神が上体を曲げ、ミハルへと頭部を近付ける。

 彼女の顔を覗き込む様にして、口角を裂いた。わらったのだろうか。

 陰惨な暗気が周囲へ流れ、ミハルの全身をにわかに震わす。


『無駄な事は止めておけ。死は必然。滅は理。崩壊からは何者も逃れられん。終焉は全てへ平等に降り注ぐ。絶命こそは定め。死滅こそは幸い』


 低く薄ら寒い声音ながら、高尚とした物言い。達観した視野により、全てを見透かしたような言葉。

 その一言ずつに強固な重みと説得力を備え、それでいて正当性を廃した苦言。

 生者を否定し、死を賛美する魔性の語。拝聴者の希望をむしり取るような、暗澹あんたんたる魔力がそこにあった。

 けれどミハルは動じない。面前へ迫った三眼を睨み付け、じりじりと間合いを測る。

 己の寿命が尽き掛けている今の彼女には、元より生へのこだわりはない。今はただ、愛娘を救う事だけを考え、最後の瞬間まで命を燃やすのみ。

 無論、その果てに見るは勝利である。頭でなく、心でそれを信じ、ミハルは次手への繋ぎを始めんとする。


『全ては定められた法理から逸脱出来ぬ。存在するということは、消失すると同義』


 謳いながら、魔神は再び上体を起こす。

 そして大顎を開き、獰猛な牙を見せた。

 暗黒に閉ざされた洞穴のような口腔。その奥で一瞬、赤い物が揺らめく。


『いざ、約束された刻へ』


 直後、異形の口から爆炎が吐き出された。

 凄まじい熱量と範囲を持った、爆発と同等の火炎地獄。黒を含む赤き熱波が雲のように溢れ、瞬時に樹木を飲み込んで焼き尽くす。

 回避不可能な爆熱が異形の眼下全てを覆い、地を捲り上げ、激しく焦がしながら満たし上げた。

 ミハルとその娘もまた例外になく。迫る大爆に二人は容易く捕まり、獄炎の内側へ消え去ろうとする。


「緑壁の覆いは盾への契り。対する偉業へ抗う鎧。護りたまえよ、我等が御子を!」


 枯渇した霊子力を自らの命で代替し、ミハルは熱雲の急来を前に祝詞のりとを紡ぐ。

 練り上げられた霊子の動き、それが集って輝きと化した。周囲へ浮き上がる緑の光は半球状のドームを作り、ミハルと少女を一緒に包む。

 淡い優光の中でミハルは見た。自分達へ襲い掛かってくる灼熱の炎を。

 防御法陣が間に合わねば、彼女達など難なく消し炭となっていたところ。


「くっ……うぅ」


 守護の鉄壁が、周囲を余さず焼き打つ炎から二人を護る最中。

 ミハルは眩暈に襲われ、よろめいた後に片膝を突いた。


「うぁ、はぁはぁ……あぐ」


 低く呻くミハルの額には脂汗が滲み、口の中へ鉄の味が広がる。

 全身の体温が随時失われ、視界もぼやけて焦点が定まらない。外神黄泉比良坂との戦いで負った傷の一つ一つが、深刻に彼女を蝕んでいた。

 自分の命が尽きるのは、予想以上に早いかもしれない。そんな事を朦朧とする頭で思いながら、それでもミハルは歯を食い縛り、すぐに立ち上がる。

 倒れる訳にはいかなかった。誰の為でもない。最愛の娘、マフユの為に。

 ただその一念が、彼女の命を更に燃え上がらせる。とっくに限界を越えている体に無理矢理活力を与え、覚束無おぼつかない足取りながら前へと進ませた。

 そんな母の後ろ姿を、少女は茫洋とした瞳で追っている。

 目の前で繰り広げられた惨劇、巨大にすぎる異形の恐怖、それらが幼女の思考を半ば停止状態にしていた。

 もしも意識をシャットダウンしなければ、マフユのか弱い精神はとっくに崩壊していただろう。


「マフユ、お母さんが必ず護ってあげるからね」


 大地へ尻餅をつく姿で呆然としている娘を見遣り、ミハルは優しく語り掛けた。

 藍の双眸へ母性に満ちた温かな光を浮かべ、幼い我が子に慈しみの眼差しを注ぎ。

 本当は触れ、撫でてあげたいが、張り詰めた緊張感の中でははばかられる。

 予断を許さぬ状況の中で、彼女に出来たのは精々が声を掛けてあげる程度。

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