第39話:運命の日①
過去回想、マフユ幼少期編です。
黒く、重く、巨大な悪意が其処には在る。
夜でないのに闇は濃く、天を包む暗色の翳りは、降る筈の陽光を遮っていた。
空気を隅々まで満たす瘴気。低く響く呻き声のような風音を受け、林立する木々が恐ろしげに枝葉を揺らす。
生気を欠いた邪気と暗気が大地を滑り、広大な森の一点へ、此の世ならざる不浄の領域を形成した。
立ち入る事も、逃れる事も出来ない閉じた世界。その中では命こそが異端であり、死こそが最も敬われるのだという事を、囚われ人は身を以って知る事となる。
各所が破れ、血の滲むブラウスとロングスカートを纏うミハルは、沈痛な面持ちで視線を彷徨わせた。
藍色の双眸が動き捉えたもの、それは地に転がる二つの骸。
一つは黒く炭化し、原形留めぬ程に崩れてしまった物体。
もう一つは、その近くに落ちている。上顎から下が一切欠如した鷲の頭部だ。両の瞳は白濁し、とうに映す色はない。
双方共、ミハルが最後まで契約を保つ精霊だった。幾多の戦地を駆け抜けた、掛け替えのない仲間達。その成れの果て。笑うことも、語り合うことも二度とない。
ミハルの頬を、一筋の涙が伝う。
幾つもの思い出を共に築き、困難も苦しみも喜びも楽しさも分かち合ってきた、友の死に。彼等を救えなかった自らの無力さに。全ての記憶を色褪せた過去のものへとなさしめた、現実の無情さに。
ミハルは嗚咽なく、はらはらと涙を流し続けた。
そのまま奥歯を噛み、視線を正面にて上向ける。絶える事のない涙で頬を濡らしたまま、目へと強い力を込めて睨み見た。
己等の前に立ち塞がり、あらゆる夢を希望を奪い去っていく、強大無比なる外敵を。
周囲を閉ざす闇の中心に、それは聳えている。
人の身を数倍する、山城と見紛う程の巨体。鈍い銀光と毒々しい濃紫によって輝く外殻で覆われた、長大なる体躯。蛇とも、龍とも、百足ともつかない異容。
装甲殻の下から覗く赤熱色の筋肉は重厚で、極限まで張り詰めている。息遣いと共に蠕動を繰り返し、力強く脈を打つ。
腹体の側面から多数の脚が生え出し、切っ先鋭い爪を以って大地を咬む。
上体に具わる屈強な両腕は手甲の如き甲殻に包まれ、長く昏い四爪を光らせた。
長く伸びた尾は無数の間接を刻み、それそのものが一個の生命であるように、悠然とのたうっている。
それらの頂点、最も高きに位置付く頭部は堅牢な甲殻で覆われた異形。天を突かんと双角が伸び、真紅に染まった眼球が額と面に三つが輝く。
際限なく裂けた口部から居並ぶ烈牙が剥き出され、歯牙より滴る唾液が大地を穢した。
忌むべき脅威、雄々しき怪異。そのおぞましさ、禍々しさは、神々しくさえある。
この世界に息衝くどんな生物とも違う、まったく異なる形質の魔性。同族の存在しない唯一種。死哭と暗黒を伴う絶対悪。現と彼岸の狭間に根付き、黄昏の底でまどろみ沈む、ぬばたまの王。
意義や意思さえ霞む久遠の彼方に語られた、忘らるる其の名は『外神黄泉比良坂』。
それが今、彼女の前に在る。
ミハルは巨大すぎる異形の前に決然と立つが、その身は既に満身創痍。
泥と煤、血で汚れた体は随所が傷付き、焼け焦げており、失われた筋肉も少なくない。右腕は肩口から引き千切れ、爛れた断面より折れ砕けた骨が無惨に覗く。
左手に握られるのは一振りの太刀。彼女が正面の敵へ対するたった一つの武器。血肉が付着し薄汚れた白刃は、本来の輝きを喪くして久しい。
体力も霊子力も限界まで擦り減らし、立っている事さえ苦痛に等しい状態だった。
今のミハルは、死の直前で踏み止まっているようなもの。激しく磨耗した居姿から、それを知る事など容易。
それでも彼女は膝を屈さない。残酷に散らされた友の死へ涙しながら、だからとて決意の光を失わぬ瞳で、敵へ叛意の目を向ける。
両脚でしっかりと大地を踏み、愛刀を強く握り。戦う意志を、抗う覚悟を燃やし続けた。
これは勝敗の明らかな闘争だ。命の残り火僅かな女性と、然したる傷を負うでなく充全な余力を残した魔物では、決着など知れたもの。
大きな力となる精霊も死に果てた今、万に一つも勝ち目はない。それは彼女自身が一番良く分かっていた。しかし、退こうという思考は皆無。
理由はミハルの後方にある。彼女の背後より幾らか先で、へたり込み、震えている少女が一人。まだ10歳にも満たない幼子が、茫然と魔性を見詰めていた。
寒さの為か、恐怖の為か、全身を小刻みに揺らして、同じ場所から動かない。動けない。
ミハルは愛娘を護る形で立っている。自分の身がどれだけ傷付こうとも、我が子だけは無事でいさそうと。生命の零れ落ちる体を引き摺って、死に掴まれた魂を奮い起こし。
何処にも逃げ場は無かった。娘を連れてこの場を離れようとも、異形が張り巡らす閉じた領域からは抜け出せない。
外界との接点を完全に断たれた閉鎖空間。悪虐の徒が生み出した不可侵圏。いかに力を振るおうと、けして毀れぬ絶対的な死の牢獄。この中では生きたエネルギーである精霊さえも、命絶えたとて自然には還れない。
逃れる術は只一つ。全ての元凶たる魔性の主、外神黄泉比良坂を倒す以外にない。
故にミハルは決めた。愛する娘を救う為、その未来を護る為、己の命を賭して最悪の敵を倒そうと。
どれ程に可能性が低くとも、諦める事無く挑み続ける。戦いの結果、然して長くもない人生へ終止符を打つ事になろうとも。
揺るがぬ本気へ全身を浸し、ミハルは隻腕にて構えを取った。




