第38話:母との思い出
過去回想、マフユ幼少期編です。
茂る枝葉が陽光を遮り、淡い光芒で大気を照らす。
背の高い樹木が何処までも広がる其処は、都市部を外れた辺境の一つ。雄々しい巨木が並び立つ静かな森。
鳥の声や羽ばたく音が時折聞こえ、小動物が木々の根元を駆け回る。それ以外には何もない。
人波が作り出す喧騒とは無縁の領域だった。
「マフユ。マフユ~。何処に居るの、マフユ?」
柔らかな光の射す森を、マカベ・ミハルは歩いていく。背に掛かる桃色の髪を風に乗せ、淑やか且つ洗練された無駄のない所作で。
美しい女性だった。優美に整った容貌は優しげで、温和な表情が人となりを理解させる。
年の頃は30歳ほど。しなやかだが華奢な体へ、飾り気の無いブラウスと紺色のロングスカートを身に付けている。
若々しく張りのある肌は白皙。澄んだ双眸は藍色。繊細な手の左薬指には、小さな碧緑の宝石を頂いた指輪が光る。
ミハルは周囲を見回しながら、更に森を奥へと進んでいった。
彼女を迎え入れる森は静謐。生気に満ち、穏やかで寛大。大いなる懐深さを感じさせる、母のような森。
伸び立つ樹木は陽を隔てて影を生むが、それはけして暗く重いものではない。生命の息吹を感じさせる温かな陰りだ。
人気のない閉じた森を、彼女は粛々と進む。全てを見知っている気安さで、己が家の庭を歩くような足取りで。
「マフユ、出ていらっしゃい」
大きくは無いけれど、良く通る声でミハルは呼ぶ。声は空気へ溶けて掻き、森の果てへと流れていった。
程無く、彼女の前方に見える木陰が揺れる。落ちた黒の薄闇が震え、小さな足音がそれへ続いた。
変化に気付いたミハルは歩を止め、正面を注視して耳を澄ます。
と、太く立派な樹幹の脇を抜け、5歳あまりの少女が姿を現した。
滑らかな桃色の髪と、藍色の瞳を持つ、ピンクのジャンパースカートを着ている小さな娘。
ミハルとよく似た顔は幼く、可愛らしい頬へ半乾きの泥粒が付いている。
「かあさま!」
少女はミハルの姿を見付けるや、あどけない顔へ満面の笑みを浮かべた。
そのまま小さな体で走り出し、正面に立つ母の元へ駆け寄っていく。
少女が傍まで来る間に、ミハルは膝を曲げて身を屈め、幼子と同じ視線に顔を持っていった。
僅かに息を弾ませた少女が、すぐ目の前にやって来たのは丁度その時だ。
「マフユ、何処に行っていたの?」
端整な顔に優しい笑みを浮かべて、ミハルは小首を傾げてみせる。
小さな子へ訊ねるその姿は堂に入ったもので、たおやかな仕草に温もりを添えていた。
「きょうは、かあさまの、おたんじょうび、だから、おはなを、つんできたの」
変わらぬ笑顔で応える少女は、胸の前に抱いていた色彩豊かな花の束を、両手で母親へと差し出した。
良い香りのする可憐な花々が、枝々の合間を縫って斜に降る陽光へ照らされる。
幻想的な煌きを花弁に灯し、微風を受けて花束が僅かに揺れた。
ミハルは少女の小さな手からこれを受け取り、花の一つ一つを微笑みながら見詰めていく。
その後、やんわりとした暖笑を我が子に向けて、可愛らしい顔へと片手を伸ばした。
「とても綺麗だわ。有り難うね、マフユ」
心の底から嬉しそうに笑いかけ、ミハルは服の袖で少女の頬を優しく拭う。
森の奥で花を摘んでいる時に付いたのだろう。泥粒はこれを以って綺麗に拭き取られた。
対する少女はくすぐったそうにしながら、それ以上に嬉しそうな笑みを面上へ満たす。
「でも、一番のプレゼントは貴女よ。お母さんは、マフユが傍に居てくれるのが一番嬉しいの」
尚も優しく微笑みながら、ミハルは少女の額へ自分の額を押し当てた。
目を瞑り、詠う様に囁く。額から感じる母の体温に安らぎを覚え、少女は一際華やかな笑みを作る。
「私の可愛いマフユ。愛しい子」
ミハルは少女から額を離すと、今度は両手を広げて、小さな体を包み込むように抱き締めた。
両腕を娘の背へ回し、自分の側へと引き寄せるべく力を込める。愛娘が痛がらないよう、絶妙な力加減でだ。
慈母の面差しで少女を抱き、惜しみない愛情を注ぐ彼女の姿は、さながら聖母の如く。
「うん。わたしも、かあさまが、だいすき!」
愛する母に抱かれる心地良さへ頬を緩め、少女もまた元気良く返事をした。
率直に告げられた想いは、ミハルの目元を更に優しく緩ませる。
そうして大事そうに宝物を抱える両腕へ、より多くの温かな力を加味させた。
曖昧な光のみ訪れる森では、暗さ故にその光量を眩しく感じる。小さな輝きが枝葉に当たり、ゆらゆらと揺れる天幕の中、抱き合う母と娘の姿は神秘的とさえ言えた。
雄大な森が育む絆、母子の情は何物以上の強さを見せて、佇む両者へ幸福の色合いを馴染ませる。
安穏とした家族の繋がりが美しく栄える一時に、今は全てが染まっているよう。
「さあ、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
我が子抱く手を緩め、ミハルは静かに立ち上がった。幼い娘は地に踵をつけると、快活な笑みで大きく頷く。
そうして二人は隣に並んで手を繋ぐ。互いの顔を見て笑い合うと、来た道を戻るように歩き始めた。
「マフユは今晩、何が食べたいの?」
「えっと、うんとね、ハンバーグ!」
「そう。だったら、帰ってから一緒に作りましょうね」
「うん!」
静かな森に二人分の足音が響き、軽快な笑い声が染み渡る。
互いを己以上に大切と想い、失うまいと握られた二つの手。絡まる指と交換される温もりで、双者の心は強く結ばれていた。
その一瞬一瞬を噛み締めるように、愛でて護り行く母子の姿は木々の合間を渡っていく。
仲睦まじやかな母と娘は、至福の名残を道程に薫らせて、森の始まりへと向かっていった。




